第一回 仕事
最新作の中編小説です。どうぞお楽しみ下さい
男女の睦み合う声が激しさを増すと、上下に軋む床の振動も次第に大きなものになった。
江戸の郊外。本所押上にある、庭付きの一軒家。かつてはある俳人の居宅だったのを、去年の暮れに薬種問屋の坂田屋万吉が買い取って、自らの妾宅としたのである。
忍び装束に身を包んだ次郎八が、その床下に潜んで一刻ほどが経とうとしていた。
夜。四つにはなるだろうか。視界には暗闇しかないが、昼であっても床下はこんなものだ。それに夜目が効くので、何の支障も無い。
先ほどから、万吉が女を執拗に責め立てている。それは床から伝わる振動だけでもわかった。責めながらも、
「ここは、こうするのだ。ああ、いい塩梅だよ」
などや、
「堪らないねぇ。お前は筋がいい」
と、鳥肌が立つような囀りで、女に手練手管を仕込んでいる。
(せいぜい、今のうちに愉しむ事だ)
万吉は、あと四半刻もすれば人生の幕引きを迎える。そして、その幕を下ろす為に自分はこの場所にいるのだ。
次郎八は、銭で殺しを引き受ける始末屋である。今回の仕事は、両国一帯の裏を統べる嘉穂屋宗右衛門という老爺から持ち込まれたものだ。嘉穂屋は両替商でありながら、地場のやくざや香具師、火消し・非人・芸人に至るまでを間接的に支配し、両国の首領として、江戸の暗い世界では随分と名を売っている。善人ではないが筋は通す男で、次郎八に無理な依頼を押し付ける事はない。銭払いも良く報酬も正当なので、最近では嘉穂屋の依頼しか受けてはいないほどだった。
江戸には嘉穂屋のような首領が何人もいて、時に手を組み、時に争いながら江戸の暗い世界を割拠している。彼らはやくざではないが、堅気でもない。それでいて、次郎八のような始末屋でさえ、おいそれとは触れられない存在だった。
女の声が大きくなった。違う男の名を呼んでいる。正確に聞き取れないが、万吉の名ではないのは確かだ。
別の名前が出たのは初めてだった。間男でもいるのか。諍いが始まるのかと思ったが、万吉の動きもお路の歓喜も激しいものになっていた。
女は、お路という名前だった。歳の頃は十八。顔には幼さが残り、身体も豊満とは言い難い。女として熟れるにも幾分か歳月を要するが、それでも数々の浮名を流した万吉を魅了するだけの身体は持っているのだろう。五十路を迎えた万吉が、五日と開けずに通いつめているのだ。
そのお路は、深川にある小料理屋の小女だった。働いているところを、万吉に見初められて妾になったという。その際に、飲んだっくれの父親が抱えていた借金を、万吉が肩代わりしている。それは銭で売られたと同じだと言えるが、それをお路に請求せず、むしろ月に二両の小遣いを与えているから、この万吉は善人と呼んでもいいぐらいだ。
そうした事を調べるのも、仕込みの一つだった。相手の生まれから家族構成、性格・趣味・女や男の好みまでを、じっくり丁寧に調べ上げ、極力危険を排した上で殺す。それによって、殺しを仕損じる事はぐっと少なくなるのだ。
こうした辛抱を伴う仕込みが出来るようになったのは、三十を幾つか越えた頃だった。昔は焦れて無理を犯し、江戸の八百八町を逃げ回ったのは一度や二度ではない。
「留蔵さん」
今度は、はっきりと聞こえた。次郎八の中で暗い喜びが芽生えそうになったが、すぐに頭を振った。女が原因で死んでいった男を、次郎八は三人ほど知っている。誰も凄腕だったが、一瞬の色情が命取りになったのだ。それに、女に心を奪われるような歳でもない。三十五の次郎八の心は、既に乾ききっている。
(いや、歳は関係ないな)
と、次郎八は内心で自嘲した。
今、床板を挟んで自分の上で激しく動いている万吉が、そうなのだ。今年で五十になるが、十八の小娘に入れあげて、本所押上にまで足繁く通っている。
よほどに女房が怖いのか、護衛も伴っていない。暗殺を目論む次郎八にとっては幸いな事ではあるが、どうやら女房が家中を采配していて、奉公人に夫の行状を報告させているらしい。昔から女遊びが激しい男で、そのツケを払っているのだろう。それでも、浮気を止められない。万吉の女遊びは、もはや病としか次郎八には思えなかった。
女房の妬心を恐れる小心者を、何故に始末しなければならないのか? その理由はわからないし、わかりたくもない。何より、依頼者の名前や理由を問うのは、治郎八のような始末屋には御法度だった。
ただこの万吉と共に、もう一人殺さなければいけない。柳本庄九郎という、旗本である。
仕事の説明を受けた時、流石の次郎八も難色を示した。殺しは、一件に対し一人。勿論、必要に応じて護衛を排除する事もあるが、殺す対象は一人であるのが慣例だった。それに対して、嘉穂屋は理解を示しながらも、
「無理だとは承知しておりますが、この仕事を踏めるのは次郎八さんだけなのですよ。急ぎはしませぬが、成否によっては嘉穂屋の身代が揺らぐほどでしてねぇ。腕が確かで信も置ける次郎八さん以外に、任せられる人はいないのですよ」
と、粘ってきた。いつもは無理強いをしない男だけに、意外であり緊迫感もあった。結局は、次郎八が折れた。嘉穂屋には、色々と世話になっている。今回の仕事は、恩返しというつもりで受ける事にした。
兎も角、旗本と薬種商を同時に殺さねばならない。不思議な組み合わせだけに、殺す理由に興味が湧かないわけではなかった。そして思い当たる節もあったが、その思念はすぐにかき消した。
始末屋として、自分が得るのは報酬だけでいい。後はいらない。真実も正義も必要とはしていない。銭以上のものを求めれば、待っているのは死だった。
今回の報酬は、八十両。半金の四十両は既に受け取っている。しかし、その銭の大半が、嘉穂屋から買う阿芙蓉(アヘン)に消えていた。
貰った銭の多くを、すぐに渡す。滑稽であるが、それほど阿芙蓉の毒に魅了されていた。
阿芙蓉を吸えば、心が休まる。悪い夢を見ないし、ゆっくり眠れて疲れも取れる。魂が解放される心地がするのだ。
しかし、阿芙蓉が過ぎれば稼業に支障が出る。仕事を踏んでいる時には吸わないなど、その辺りは上手く付き合っているつもりであるし、嘉穂屋も多くは売ってくれない。他から仕入れようとしても、江戸の阿芙蓉は嘉穂屋が独占しているので、手に入れようと動いただけで彼の耳に入ってしまうのだ。
治郎八の額に、じわりと汗が浮かんだ。
長雨の季節である。幸いにして雨は降ってはいないが、床下はじめじめとしていて、息苦しさもひとしおだ。それに加え、これから人を殺す緊張感である。脳裏に浮かぶのは、阿芙蓉を詰めた煙管をふかし、四肢を投げ出して転がっている自らの醜態だった。
(もう少しの辛抱だ)
と、次郎八は首の御守り袋を引き出して、一度鼻に押し付けた。特有の甘い香り。それだけで、胸がすっとなった。この中に、油紙に包んだ阿芙蓉の欠片を入れている。死ぬ前に吸うと決めている、不純物の無い上物だ。
(よし、やれる)
埃と黴臭い床下で、蚯蚓になっているのもあと四半刻もないだろう。そのうち、嬌声は途絶えて、万吉が外に出て来るはずだ。
ひとつきの間、次郎八は万吉を見張っていた。そうする事で、習慣というものがわかってくる。万吉はお路を抱いた後、そそり立った魔羅もそのままに、外に出て夜風を浴びるのだ。時には庭の隅で放尿する事もある。
そうした行動をつぶさに観察し、時期を見て仕留める。それが次郎八の流儀だった。今回の仕事では、もう一人殺さなければならないので、柳本には相棒と呼べる男をつけていた。
不意に、男女の声が獣の雄叫びのようになった。そして床板が激しく軋み、静寂が訪れた。
次郎八は蜥蜴のように素早く張って床下を這い出ると、縁側にほど近い木陰に身を隠した。
襖が開く。裸の万吉が出てきた。腹が出た、浅黒い肌を持つ男。顔にも体型にも下品さしかない。見たくもない怒張した魔羅も、濡れたままだった。
(なんという奴だ)
精を放ったというのに、まだそそり立っている。万吉の旺盛な性欲を象徴しているようで、何とも反吐が出そうだ。
万吉が周囲を見渡して、裸足で庭に降りた。いつもの壁際で放尿でもするつもりなのだろう。こちらに近付いてくる。次郎八は懐から吹矢を取り出して、息を殺した。
殺しの道具は、様々だ。これでなくてはいけないという、変なこだわりは無い。吹き矢を選んだのは、体躯の良い万吉の膂力を考えての事だ。反撃される前に、針に仕込んだ毒で動きを封じる。その為に、吹き矢を選んだ。
顔が見えるまでになった。左頬の大きな黒子。嫌悪感しかない、旺盛な精力を感じさせる顔だ。
吹き矢を構える。万吉が目の前を通り過ぎる。完全に背を向けた時、次郎八は音も無く飛び出した。
ふっと、息を放つ。万吉の背中に刺さるや、片膝をついた。痺れ薬の毒。その隙に駆け寄り、首に手を回した。左手で髷を掴み、右手を顎に当てた。持ち上げるようにして、一息で捩じる。嫌な感触が、両手に伝わった。
息を確認するまでもなかった。次郎八は首筋に残った、吹き針を抜き取ると駆けだした。塀を一息で飛び越える。外に出ると、家屋より百姓地の方が多い。
江戸とはいえ郊外にもなると、この時分には人影すら無い。次郎八は、自宅がある深川に向かって歩き出した。