前編 其の二
辿り着いた教室にいたのは数学の担任教師屋本だった―
二
―2月28日(土)夜10時過ぎ―
―港区芝、私立御厨中高等学校中等部3―5内―
月明かりに照らされ、窓際に立つ眼鏡で短髪の優男が、笑顔で振り向いた。
数学教師の"屋本弦吾"(28)。
彼は別段、取り立てて目立つ人柄でもなかった。
それ程顔も悪くなく、綺麗な身形をしていたが、淡々と授業をこなすだけのその姿から、印象は地味なものだった。
…その取り立てて目立たない彼と、明るい成実が?
接点が見付からなかった。
進路相談するにしてもそんな場面は見た事無いし、皆の話題にも出てこなかった…その彼が…?
屋本「遅かったねぇ 大分待ったよ」
そう言いながら、成実に視線を落とす。
成実「ちょっと時間かかっちゃった」
答えつつ屋本に上目遣いで近付く成実。
屋本「まぁ仕方ない でも、偉かったね」
成実「へへへ~ でも、これなら大丈夫でしょ?」
屋本「そうだね これならなんとかなるね」
成実「じゃあ、さっそく始めちゃおうよ」
二人の会話に付いていけない他の三人は、その状況に一気に不安になっていく。
茜「え? なる…どういうコト?? 先生が? 手伝ってくれた?人???」
真面目で冷静な茜も、この状況に混乱し、戸惑いを隠せない。
沙耶「…どうして? なんで??」
茜の戸惑いを視て沙耶も不安になり、疑問を口にする。
真美「…始めるって? 何を…?」
誰も問わなかったが、一番気になったその言葉を恐る恐る問う。
茜「そうだよ…それも…」
級に不安に駆られたのか茜の言葉が途切れる。
沙耶は不安が大きくなりすぎたのか、言葉が出ずに茜にしがみついている。
真美「どういうことなの…?」
聞けずにいる二人の代わりに真美が聞く。
最初は説教とかなにかなのか?…とも思ったが、こんな時間に電気も付けずに教室に居るとなると、考えたくもないが、何かの犯罪事やそれに関わるニュースでしか見ない物事なのかと勘繰り、想像してしまう。
屋本「ああ、そうだねぇ 皆にも説明しないと」
そう言って屋本は視線を三人の方へ向ける。
成実「それはね…」
月明かりに照らされた成実がゆっくりと振り返る。
すると、その眼は視線が左右ムチャクチャな方向を向いており、口からは舌を出し、涎を垂れ流している。
そして振り向き方も正常なものではなかった。
身体を捻る様に、それはまるで節足動物が向きを変えるかの様だった。
首から捻って腰まででこちらを向いていた。
茜「ヒッ…!」
その異様な光景に、茜はしゃくり上げる様な悲鳴を出してしまう。
沙耶「あ…あ…あ…!」
沙耶は余りの衝撃で絶句している。
真美は有り得ない事態に全身が強張り、動けず声も出せず、動悸が激しくなるのを感じていた。
成実「みんなニ…! あタシたチの手助けをシて貰ヲオと…思ッてぇえーえ…ねェ…?」
呂律が余り回らず歪な動きで振り向いた成実の様なモノはそう述べると、操り人形の様なカクカクとした動きで近付いてきた。
茜「なに言ってんの?! なる! おかしーよ!」
恐怖で震えながらもハッキリと成実に告げると、
成実?「だィじょォーおブだカラぁ…思イデづクぅりィ…だと思ッデぇ…」
成実が近付きながら述べると、右肩がゴキゴキと嫌な音と共に盛り上がり、腕が急に膨らむと、左手を茜の方に突き出した。
茜「な…?! なに…!??」
茜のその疑問の答えと言わんばかりに、成実の突き出した左腕は、グチュグチュとその中を何かが這って進む様な音と共に膨らんだ。
成実?「すグ済ムかラぁ…気持チイいよ…」
そしてそう述べると、茜に向けた成実の左手掌から、突如皮膚を突き破って巨大な百足が飛び出し、茜の口目掛けてズルズルと侵入していった。
茜「ごっ?!! おごぉぉぉぉぁああぁぁぁぁがぁぁぁぁぁ!!!」
無理矢理口から侵入され、苦しみからか嗚咽と苦痛の声を上げる。
沙耶「あっ…! あっ…! あかねちゃん…?!」
腰が引けて絞り出したその声も届けられず、沙耶は昔からの親友の苦痛を黙って視ている事しか出来ず、恐怖で尻餅を着いて後退りしてしまう。
その、想像を遙かに超えた事態に、二人は固まる事しか出来なかった。
そうこうしている間にも茜の口内に、あの大きな百足は入り込んでいった。
茜「ぐっぁ…がぁぁぁぁぁッ…げぁっ…! ぐぇああぁぁぁぁぁぁ!!!」
喉を掻き毟る様にして口から唾液をボタボタと垂らし、机や椅子にぶつかりながら右往左往するその様は、端から見ると恐怖であり、それをどうしたらいいか、見詰める事しか出来ない現状に、沙耶は混乱と不安でいっぱいとなり、涙が溢れた。
真美「なにこれ…? なにこれ…!?」
小声でそう言いながら、真美も眼の前の事態に動揺し、異常なこの状況に、気がどうにかなりそうだった。
すると、今まで悶えていた茜が、ピタリと動きを止めた。
沙耶「あかねちゃん…?」
その急に齎された異様な静けさに、何が起きたか解らず、沙耶が恐る恐る声を掛けた。
沙耶「だいじょうぶ…?」
そう言って恐る恐るゆっくり近付きながら、いつもと同じ様に袖を握ろうとした。
真美「ダメ…!」
と、恐怖で声が出ず、絞り出したその警戒の言葉を沙耶に投げた。
沙耶「え?」
沙耶がその言葉に反応すると同時に、茜の身体がぐるりと凡そ人では考えられない捻り方で顔を向けた。
茜?「サやぁ~! さヤモこっちニおいデヨぉ~!!」
その高揚感を伴った片言の言葉と共に、彼女の視線は左右ムチャクチャな方向を向いており、口元は涎で溢れていた。
沙耶「!ヒィっ!」
茜?「あァ~~~~~はははハハハははハはァーーー!!」
普段の彼女では考えられない高笑いをしながら振り向いたその身体は、無理な体勢で振り返ったのか、ギチギチと嫌な音を立てている。
そして、音を立てていた四肢の関節や胴体がぶちりと嫌な音を立てて垂れ下がった。
それと同時に負荷を掛けすぎ、千切れながらも四肢を動かし続ける。
その有り得ない、いつも冷静な彼女と違う異様な様相は、幼馴染みの沙耶の心にダメージを与えるには十分だった。
しかも眼をこらしてよく見ると、千切れた部分の内側には大小様々な百足が所狭しと動いている。
その状態に沙耶は後退りし、尻餅をつき、歯をガチガチと震わせながら目に涙を溜めて視ていた。
その視線の先には幼馴染みだった存在がこちらを向いて居る。
沙耶「やだ…! やだ…! やだ…! やだよぉ…!」
沙耶はもう気がどうにかなりそうだった。
茜?「さァヤぁ~…!」
四肢が更に千切れて伸びた、茜だった存在が、沙耶に一歩ずつ近付いていった。
だが、その沙耶の腕が急に掴まれる。
真美「っ…! 沙耶ッ…ちゃんっ! 逃げよぉっ!」
そう言われ、逃げるという選択肢が沙耶の中に生まれた。
沙耶「あ…! あ…う、うん…!」
滂沱の涙を流しながらもそう答えると、掴まれる寸前で後退り、起き上がりつつも二人で教室のドアから廊下へと、一心不乱に走り出した。
逃げ出した二人は、ただ走った―
我武者羅に―




