思考実験
平成31年4月22日
前文
本書は思考実験の研究結果を残すために残すものであり、論文形式で記載する。
また、本書は哲学的、宗教学的な見地を含むものであり、筆者の暇つぶし的な思考研究を書き記すものであるため、はっきりいって馬鹿馬鹿しい内容であり、稚拙なものである。
緒言
幽霊の存在は古今東西問わず、誰しもが知る存在である一方、この世に実在するかどうかは誰もわからない。
一方で、極論であるが「いるか、いないか」の二択であり、50%ずつの可能性があるというシュレディンガーの猫を引用した二つの可能性が重なりあった状態であるという考えもある。
私は本研究で、デカルトの「我思う、故に我在り」を利用し、幽霊が実在するかどうかを解き明かすとともに、人間が何であるかを考察する。
研究
幽霊とは何かを確定するにあたり、幽霊の定義を明確にする。
「死んだ者が成仏できず姿を現したもの」(wikpedia:「幽霊」参照)
だが同時に、我々はその幽霊を常に認知できるものではなく、ごく限られた人物。もしくはごく限られた瞬間のみに認知できるものであり、この存在は「存在する」と同時に「存在しない」と本書内では定義する。
存在実証思考実験
「我思う、故に我在り」より、事柄を区分分けする。
また以後は自分(甲)、他者(乙)とする。
A.甲は甲を認識し、また乙は甲を認識する。
例:人間(一般人)、幽霊
B.甲は甲を認識できないが、乙は甲を認識する。
例:幽霊。末期のアルツハイマー患者などの記憶を喪失。知的な障害などにより、自分が何者か認知できない。植物人間状態で意識がないなど、現在においても他社によって存在を認知される存在がある。
C.甲は甲を認識できない。また乙は甲を認識できない。
例:幽霊。誰も認識せず誰にも認識されない人、もしくは生命体や物。
D.甲は甲を認識するが、乙は甲を認識できない。
例:存在しない
結果
幽霊が存在することを認識できる人(乙)がいる状態が続く限り、幽霊は存在すると言える。そのためBのカテゴリにも含めることが可能である。
しかしながら、幽霊に自意識があるかどうかも不明であることから、自意識が「ある」と自意識が「ない」という事象も重複して存在するため、Aにも存在できる。
以上により、幽霊の存在が多重複した存在であることを証明する。
考察・
幽霊に意識があり、自己を認知できる状態であるならば幽霊はAにカテゴライズされる。
しかし、幽霊に自分を認知できているかどうか、というのを判断するのは現在の科学では不可能である。
だが、もしも幽霊がこの世に存在することが証明された瞬間に、幽霊は幽霊ではなくなると言える。
これは、幽霊の定義から逸脱するためである。
「死んだ者が成仏できず姿を現したもの」というのは、「死んでいる」ものの「意思」が「具現化」したものであると仮定すれば、幽霊とは宗教的にいう精神的肉体の状態であるため、これは精神生命体と再定義が可能であるためだ。
では、精神生命体と定義した場合、これは幽霊ではなくなる。
言葉遊びではあるが、幽霊という定義から逸脱した存在を幽霊とは呼称できないためである。
つまるところ、幽霊は多重複した存在であるからこそ幽霊として存在でき、何者かによってその存在を証明された瞬間に、幽霊はいなくなるというシュレディンガーの猫と同じものであると考えられる。
では、前研究のCカテゴライズである「誰も認識せず誰にも認識されない人」というのは何なのか。
人は生命が宿った瞬間に、まず母親によってその存在を認知される。
だが、全ての乙が、甲の存在を認知できなくなった瞬間に、その人は誰にも認知されない存在となる。
これがカテゴライズDであり、いくら自分の存在を認知していても、他者が認知しなければ存在しない存在となる。
故に、人間を人間たらしめるのは、乙が甲を認識した状態であると言える。
これが前研究におけるカテゴライズBであり、現在の倫理においてはデカルトの言葉は一部否定されたともいえる。
一方で、社会において故意的にDに近似した状況が生起する。
代表的な例が学校などの閉鎖空間により「無視」「シカト」などというイジメ行為である。
この行為は、行為そのものは甲を認識しているから可能であるが、この行為により甲が甲を認知することが困難になり、その結果、自分の存在証明ができなくなり自殺するのではないか。という精神哲学的仮説を立てられる。
初めから、もしくは自己の病気などにより甲が甲を認識できないのと違い、乙によって甲が甲を認識できない。もしくは存在を否定されることというのは、アイデンティティの否定であり、許されざる行為である。
幽霊は多数の乙が認識しようと躍起になるのに対し、Aのカテゴライズに存在する物を乙の意思でDのカテゴライズに組み入れようとする状態が生起することが、現代社会の根幹的問題ではないかと考える。