アネットとバティナ
愛してください
認めてください
それが駄目だというのなら
どうか殺して欲しいのです
死にたくはありません
見捨てられたくありません
差し伸べてもらえるのなら
それが眼差しでも刃でも良いのです
穢してください
弄んでください
できることなら知らぬ間に
私を壊して欲しいのです
消えたくはありません
あなたが愚かだと言ってくれるなら
私は自ら籠を織り
嘴と羽根を裁つでしょう
教えてください
導いてください
考えずとも済むくらい
手を取り先を歩んでください
でも勘違いするな
私はあなたを利用したいだけで
あなたを敬ってなどいないのです
嫌ってください
憎んでください
あなたに興味はないけれど
私から役目を贈りましょう
あなたが私に牙をたて肉を斬り裂くのなら
私は心で微笑んで
悲愴の仮面を被るでしょう
あなたを愛しながら
あなたから迸る血潮で杯を満たすでしょう
仕事を終え女は走った。今日の労賃は上々。最後の客に至っては予定よりも早く片付けることが出来た。割り当てられた人数はしっかり相手にしたので後の時間は自由である。だから女は急いで帰った。
薄汚れた路地を駆けると浮浪者たちも道を譲る。治安はお世辞にも良くない貧民街だが女が襲われることはない。女のはだけた肩には蹄鉄を押し当てた焼印がある。大手の娼館で働く者の印であり、つまり女はその地域を牛耳る日陰者の持ち物であるのだ。
数多の出女は個人で春を売る。縄張りを主張する者への上納金は理不尽に多く客も全員が金を払うわけではない。汚らしいまま半ば強引に襲い掛かってくる者もいるし、得体の知れない病気に侵される可能性も高い。殺されるかもしれない。
常に危険と隣り合わせだが淫売は何も持たない弱者にとって最後の生きる糧であった。
明日も知れない身ゆえか大概の女たちには責任感も焦燥感もなかった。気が乗らなければ働かなければ良いし、金を得れば気ままに散財する。宵越しの金は持たずに今の一瞬を生きる。どうせ生きていても意味はないが、工夫してまで死を選ぶのも面倒。それが女たちの死生観だ。
その中でも現在の境遇からのし上がる者もいた。毎日きちんと客を取り、上納金はしっかり治め、客に愛想を振りまいて常連にする。体に気を使い身だしなみに気を付け病気の心配もかかさない。そして小金を握らせても逃げない意志と理由がある。その様な女たちは無法者に取り立てられて持ち物となり、きちんと商売が出来る屋根付きの職場を与えられるのだ。
女もかつては辻に立っていたが、気が付けば安定してそこそこの客を取れる商品になっていた。
女には金を稼ぐ理由があった。
息を弾ませながら女は帰宅した。石壁に立てかけられた木材に雨除けを被せた簡素な小屋だった。元々は薪小屋として使われていたらしき片鱗が残っているが、使われなくなって傾いていた所を女の父親が改築して住まいにしたのだ。女が娼館で住み込むようになってからは父は1人で住んでいる。しかし女は外出許可が出ると足繁く帰宅していた。
「父ちゃん、帰ったよ!」
入口の筵をめくると内からは饐えた臭いが溢れて出てくる。中には安酒を転がし、ぼんやりと天井と見ながら自涜にふける男がいた。ふけにまみれた髪、着ない方がましとも思えるぼろきれのような服。まばらに生えた髭が見苦しい男だった。
男が女に気づく。何を言うわけでもなく女を虚ろな目で見続ける。女は無邪気に微笑みながら男に近づき労賃の入った皮袋を差出して何かを言いかけた。
だがそれは意味のある言葉になる前に終わった。
首根っこを掴まれて藁の寝床に引きづり倒される女。その上に男が覆いかぶさってきた。
男は獣のように唸り声をあげながら蠢いていたが程なくして忌々しそうに女を睨むと女の腹に拳を打ちつけた。
「ごめんなさい、急には無理です。ごめんなさい、ごめんなさい」
殴る手から腹を守りつつ女が叫ぶと男は女の頬に唾を吐き、次いで手でそれを拭い女の下腹部に手を伸ばす。
そして今一度女にのしかかった。
「綺麗にしておけよ。てめぇが汚したんだ」
暫くの後、皮袋を手にした男はふらふらと外へ繰り出して行った。
小屋には涙と涎と吐瀉物で顔を汚した女が藁の上で転がっていた。女は鼻水を啜り息を整えると漫然と起き上がり、無言で小屋の掃除を始める。あとは男が帰ってくるまでに片づけをし、鉢合わせして癇に障らぬうちに出ていくだけだ。
髪の毛を引っ張られたので頭が痛む。撫でると頭皮が熱を持ち過敏になっている。ただ痛みの中に僅かだが心地よさも感じられた。
父ちゃん、暫く来れなかったが元気そうだった。
よかった。
髪の乱れを整えつつ女は安堵していた。
そして幸せだった。
女が娼館の共同宿舎に戻ると門前で腕組みをしながら女を睨みつける女性がいた。波うつ長髪に豊満な肢体、気の強そうな顔の眉を余計に吊り上げ見るからに怒っている。
女は足を止めて苦笑いするしかなかった。彼女は自分を待ち構えていたらしい。
いつ戻るとは言っていない。門限よりはずっと早い時間だが、果たしてどれくらい待っていたのだろう。女は鼓動が速くなるのを感じた。
「バティナ……ただいま」
「中に入りな」
「う、うん」
かけた言葉に応えることもなく女性は短い言葉を発すると顎で入口を差した。気圧された女は女性に従うしかなかった。
娼婦には1人1部屋が与えられていた。広くはなく質素ではあるが充分に配慮された空間だった。バティナと呼ばれた女性は宿舎内に入ると女の手を引いて自分の部屋に向かう。そして中に入り扉を閉めると女の頬を両手で覆った。
平手で打たれると思った女は一瞬体を強張らせた。緊張する鼻孔に柑橘系の良い香りが漂う。女性のお気に入りの香水の1つで、女も好きな香りだった。
「アネット。あんた、また親父のところに行ったでしょ」
まっすぐに至近距離で目を見つめられながら問われて女は口ごもった。やはり御見通しだったのか。女性には別の都合を偽って外出してしまっていたのだ。女性は女が親元へ帰宅することを嫌っていた。正直に行先を告げてしまえば長く説得されただろう。最近は諸々の事情により帰っていなかったので女性も女の拙い嘘にすぐには気づかなかったらしい。今回はそれも含めて悔やんでいるようだった。
「行ってないよ」
女は目を逸らして答えた。明らかに偽っているとしか思えない挙動であり、当然のことながらすぐに女性に看過される。女性は頭を振った。
「そうだね。あんたはあたしに言ったね、髪飾りを買いに行くって。おかしいとは思ったけど。蚤の市は明後日だった。あんたを見送ってから気づいたよ。あんたが装飾屋に行くとも思えなかった。でも……きっと行ったんだろう。あんたとあたしは親友だ。あんたがあたしに……嘘をつくはずがない。そうよね?」
ちらりと見た女性の目は悲しみに満ちていた。罪悪感に胸が痛む。なんとか良い言葉を取り繕おう考えても口から漏れるのは意味をなさない吃音だけだ。女は観念した。
「……ごめんね。髪飾りは買ってない。……父ちゃんのところに、行った」
大きくため息をつく女性。女を離し、小さな部屋の寝台に腰かけた。
「謝らなくていいよ。あんたのことはよく知ってる。あたしを心配させたくなかったんだろう?親父なんか放っておけば良いのに。あんたが頑張って得た金だって酒に変えちまうんだ。それなのにあんたって娘は毎度凝りもしないで。ほんと馬鹿みたいに優しい娘だよ、あんたは。……おいで」
招かれて隣りへ腰かけると女性が優しく抱きしめてきた。じんわりと心に温かいものが広がっていくのを感じる。女性はいつも優しいが、父親の元から帰ってきた時が格別にその温かさに触れることが出来るのだった。
暫く無言の状態が続いていると扉が鳴らされ、部屋の主の了承も待たずに男が中へ入ってきた。
青年のまま年齢だけ重ねたような服装に大して長くもない髪を後ろで結び、横の髪は刈り込まれた髪型をしている中年だ。男はこの娼館の支配人であり都市の暗部で最も大きな勢力を束ねる者の1人だった。
「よう、御取り込み中だったか?」
「もう開けてるじゃない」
「アネットが元気がないって聞いてな。ちょっと様子を見に来たんだ」
男は扉を閉めてもたれかかり、胸の隠しから小箱を取り出し中の小袋を摘まんで噛み始めた。長居するつもりらしい。女性は抱きしめていた女を離して溜息をついた。
「毎度ながら良い耳しているわね。この娘、髪飾りを買いに行ってすりにあったみたいなのよ。私が慰めてるから大丈夫。さ、あんたは忙しいでしょ?行きなよ」
男は咀嚼音を立てながら天井を見上げている。
「すりね、了解。そういう事にしておこう。俺の縄張りで俺の女にお痛する世間知らずが未だにいるなんてな。俺の力はそんなもんってわけだ。お前らに安心して外を歩かせてやれない自分の不甲斐なさに涙が出るよ」
「あんたを恐れない奴なんてこの都市にはいないさ。でも頭がおかしい奴はいるもんだろ?今回はたまたまそんな馬鹿野郎に狙われちまった、それだけさ。あんたも泣きごと言うんだったら抱いてやろうか?隣り半分空いてるわよ」
「嬉しいお誘いだが遠慮しておくよ。今の慰めの言葉だけで元気になったぜ。嬉しいねぇ、俺は幸せもんだ。これからちょっと憂鬱なお仕事があるんだが元気一杯でこなせそうだ」
「そう、じゃあ行ってきな」
あまりの女性の素っ気なさに男は口角を上げた。男が女の様子を見に来たのは理由としては半分で、もう半分は女の今後を指示しにきたのだ。女性もそれが分かっているようで懸命に男に言わせないようにしていた。しかし男は立場上妥協するわけにはいかないのである。
「急かすなよ。察してるみてぇだが急かしたところで言わないわけにはいかないんだぜ?掟だからな。なぁアネット。お前も金を盗られて悲しいんだろうがな、盗った奴が一番悪いが盗られるほうも悪いのは分かるよな?だから言うぜ。お前は3日間謹慎な。その間に傷心も治しとけ。3日後にはきちんと店に復帰できるかお医者先生に診てもらうからな」
「レイフ、傷心は医者には治せないでしょ。今日ぐっすり眠れば大丈夫よ」
「いいかバティナ、俺はお前らの事を大切に思ってるんだぜ?例えばこうだ。お前が病気まみれの汚ねぇ野郎の気持ちいーい1人遊びにこっそり付き合ってやっていたとしても俺は聞かねえ。その上で医者にまで診せてやる。こんな思いやりのある人間がどこにいる?ここにいる。俺だ。違うか?」
「ええそうね、いつも感謝してるわよ。でも今回は医者は必要ないってば。それにお金を盗られたんだからもう罰は受けたようなもんでしょ?3日も謹慎したら店にも迷惑がかかるわ」」
「ああそうだとも!」
駆け引きが面倒になった男が少し声を荒げると女は緊張して身を強張らせた。女の腿に手を置いていた女性は敏感にそれを感じ取り再び女の肩を抱いて身元に引き寄せた。
「なぁお前らいいか?特にアネット、よく聞け。俺はあの野郎なんかいつでも始末出来るんだぜ。鼻くそ丸めて飛ばすよりもずっと簡単な事だ。でもやらない。理由は分かるだろう?俺は商売仲間を大切にする。お前らは仲間だ。俺はそう思っている。そして仲間の大切にしているものにだって俺は理解を示しているつもりだ。だからやらないんだ。だがな、同時に商売相手だって大事な存在なんだぜ?俺がお前らに客に提供して貰いたいのは安らぎと、明日も頑張るぞっていうやる気だ。病気なんてくれてやってみろ、信頼なんかすぐに真っ逆さまだ。だから!医者には必ず見せる。いいな、アネット。痒みとか異変を感じたらすぐに言えよ。言いにくいならバティナに伝言しろ。言わないと3日なんてもんじゃなくなるからな」
「病気って決まったわけじゃないだろ。前だって結局何もなかったじゃないか。休みの予定じゃなかったのに急に休みが3日も続いたら客がまた邪推してつかなくなるだろ」
「そいつは自業自得ってやつだぜバティナ。そんなに甘やかしてぇんならアネットの暫くの生活費はお前の稼ぎから分けてやりな。あと医者代もお前持ちな。いいだろ?」
「ええ、いいわよ」
「だ、駄目よ!私が悪いんだから」
本来は自分が罰を受けるはずだったのに何の関係もない女性にまで被害が及ぶことを知り女は慌てて声を上げた。そこを待ってましたとばかりにすかさず男が女の顔を指差した。
「そうだな、アネット。お前が悪い。でもお前はお前自身に罰を与えてもへっちゃらのへぇだ。言ったろ?俺はお前らが何を大切にしてるか分かるんだ。バティナに迷惑かけたくないならこれで懲りてくれ。……十何日か前にも同じこと言った気がするのは忘れておくよ」
それじゃあ邪魔したな、と男は出て行った。
女は閉められた扉と女性の顔を不安げに交互に見つめた。女性は少し笑って再び女を頭から抱きしめた。
「なんだかんだ言ってあいつも甘ちゃんだねえ」
「バティナ、ごめんなさい。でも私大丈夫だから。罰はきちんと私が受けるから」
「一文無しのくせに何言ってんの。あたしはしっかり貯めてるから、こんな時はお互い様だ」
「でも」
「申し訳ないって思うんならあいつの言った通り父親の所に行くのはもう辞めてちょうだい」
「バティナ……」
「レイフを恨んじゃ駄目だよ。あんたは事実、店に迷惑かけてる。普通そんな奴は問答無用で放り出したっていいってのにあいつは絶対に出て行けとは言わない。そう仕向けたりもしない。かといって甘やかしたりもしないで人間として対等に扱ってくれる。あんたはその恩を仇で返すのかい?」
「レイフには感謝してるよ。もちろんバティナにも。でも、父ちゃんも大事だもの。それっておかしなことかな」
「おかしいよ。逆になんで親ってだけでそんなに大切に思えるんだい?いくら親だからって子を物みたいに扱っていいはずはないよ。子供だって親の物であり続ける必要はないんだ。ねぇアネット。親がいったいあんたに何をしてくれた?ずっとあんたは奪われてばかりじゃないか。奪われて、傷ついて。きっとそのうちに取り返しのつかないことになる。あたしはあんたにそうなって欲しくないんだよ」
確かに思い起こせばずっと言いなりになって生きてきた。物心ついた頃には身の回りの世話をし、物乞いをして稼ぎを担わされ、暴力を振るわれた。欲望の捌け口にもされ現在に至るまで奪われ続けている。
しかしただ搾取されてばかりではない。当然、得ている恩恵もあるのだ。
女性の過去を深く聞いたことはない。しかし明らかに女に自分の姿を重ねているのは分かっていた。だからこそ女も女性に親近感を感じて懐いているのである。
しかし女と女性とでは決定的に違うことがあった。価値観の違いである。
女は幸せだった。
なんという幸せな境遇だろう。
駄目な自分。情けない自分。良いように扱われる自分。可哀そうな自分。
そしてそんな塵のような自分を見捨てずに世話を焼いてくれる者たちがいる。
利用している者がいる。
はたして依存しているのはどちらなのであろうか。
その関係性を思うと女は堪らなく興奮するのだった。
「わかったよ、バティナ。バティナの気持ちがすごく嬉しい。私、もう父ちゃんの所に行かないね」
女は女性を抱きしめ返し、誓った。
もちろん金が溜まればまた帰るつもりだ。
果たしてその時にはどうなるのだろう。女性はどのような顔をして、過ちを何度も繰り返してしまう憐れな自分を受け入れてくれるのだろうか。
「大好きよ、バティナ」
女は身体に熱い疼きを感じていた。