片鱗を覗く者たち
かつて世は女神の恵沢を忘れた衆愚によって崩壊した。
羽根の悪魔は時宜を得たりと女神に牙をむいた。
波旬の囁きに哀れなる人の子は迎合して聖都を襲う。
憐れなる哉、慈愛は落日へと追いやられた。
悪しき者共の跳梁するなかで敬虔なる信徒は奮起した。
僅かに残った心ある人々は孤高なる彼らを畏敬の念を込め神の子と呼んだ。
神の子の働きにより羽根の悪魔はついに倒された。
そして世界に信仰の光が戻っていった。
女神を愛する限り我らは祝福の中にある。
戒めを守り教義に従おう。
悪魔に耳を傾けてはならない。
破滅の道を歩みたくないのであれば。
悪魔は汝の罪の化身。
それは黒騎士の姿をしている。
心が欲に飲まれた時、赤い月が魂を喰らう前夜、それは汝を闇へと誘うだろう。
石造りの町の中、薄汚れた人々を掻き分けながら青年は露店の通りを急ぐ。
振り返れば幾人かの男たちが明確な敵意の眼を光らせて青年を追っていた。
男たちに気づいた人々は小さな悲鳴を上げて道を譲る。不運にも緩慢な老人は邪険に突き飛ばされて露店へと突っ込んだ。
このままでは追いつかれる。
焦りを覚えた青年は群衆を余計に掻き分けようとするも、苛立った中年に殴られ蛆の湧く水捌けの悪い地面へ倒れ伏してしまう。しかしそこに活路はあった。
足の間を這い時折踏まれ、悪態をつかれ、転倒を誘発し、からがら露店の隙間から人込みを脱する。露店が背にしていた石造りの壁沿いに身をかがめて走り、路地裏の階段を落ちるように駆け下りた。
階段の先には建物に囲まれた小さな空間があった。この町の地理を知らない青年は袋小路かと絶望したが、すぐさま角の暗がりにある段差の先に木戸があるのを発見する。
あれが開くかは分からない。鍵がかかっているかもしれない。
しかし追っ手はまだ振りきれておらず確実に迫ってきている。躊躇している暇はなかった。
段差を降り木戸に手を伸ばす。建てつけは悪いが鍵はかかっていない。
女神よ、どうか俺に慈悲を!
「おい待て」
不意に声が聞こえた。青年は戸を開ける手を止める。中の暗がりからはひんやりとした風が漏れ、木戸を覆っていた大きな蜘蛛の巣が揺れた。
「なんだ、お前は。俺の家になんのようだ?」
怪訝そうなしわがれた声が響く。青年はゆっくりと戸から手を放し、宥めるように手のひらを向けた。
「……いるとは思わなかった。でもあんたの家に用はない。あんたにもだ。通りたいんだ」
逸る気を抑える青年に対し、声は嬉しそうにのんびりと笑った。
「ばかを言うな。お前みたいなでかい奴が通ったら俺の家は壊れちまうだろう。他を当たってくれ」
「追われているんだ!市都市自警団の奴らだ。もう後ろに迫ってきている。頼むよ、家はまた作ればいいだろう?」
「ああ、あいつらか。あいつらは困ったもんだ。俺もよく家を壊される。だがな、悪いけどこの先は納屋だぜ? 行き止まりだよ」
青年の顎から大きな汗が滴り落ちた。沈黙の束の間に荒ぶる息を整える。
「なんだって? そう、そうか。行き止まりか」
「ああ、悪い事は言わん。早く引き返したほうが……」
「ありがとう。だが」
もう遅い。
階段から足音が響き自警団の男たちが青年の姿を捉えた。
そのうちの1人が青年に近づく。
抵抗はしない。もはや抵抗は何の利も生まない。
跪き、得物を持っていないことを示す青年。
その頭に無慈悲にも棍棒が振り下ろされた。
「アデルは捕まった」
縄を編みつつ少年が呟いた。幼くも早熟な風貌の少年だった。栗色の短い巻き毛は手の動きに合わせて軽やかに揺れ、麻服を纏っていても粗末さを感じさせない気品を漂わせていた。少年は苔むした壁を背にして腰を掛け、隣に藁を置き延々と縄を編んでいた。昼前から続けていたその作業は既にある程度の長さの縄を完成させていた。
面前の広場は荷車や大きな袋を抱えた人々が行き交い程よい活気を帯びている。日陰には少年のように縄を編む者、木靴を彫る者、塵を売る者などが筵を敷き、またある者は金や食料を乞い、ある者は寝、ある者は死んでいた。
少年の隣には壮年の男が枯木の様な腕を枕にして寝転んでいる。ふけにまみれた髪、着ない方がましとも思えるぼろきれのような服。まばらに生えた髭が見苦しい男だった。深緑色の濁った瞳を半目にしたままで一見すると死体のようにも見える。
しかし間を置いて、独り言になりかけていた少年の言葉に男が面倒くさそうな声で返した。
「なんでそう思う」
「鐘が鳴ってからもうずいぶんと経つ。町のどこにいたって、もうここに来る事が出来ているはずだ」
「小金稼いだからなぁ。山羊相手に腰でも振ってんじゃねぇの」
「君と違って彼は律儀だ。時間は守る。それに少しは品性がある。……ああシラビス君、どうだったかね?」
麻布で縄の細かなほつれを拭き整え、藁の破片を吹く。そこへ近づいてきたのは取り立てて特徴もない普通の青年だった。
「リヒードさん、戻りました。色んな所で聞いてこようと思ったんです。でも、人が沢山いるところで聞いたほうが一番良いと思って、座っていたおじさんに人の沢山いる所はどこですかって聞きました。おじさんは凄い髭が伸びていて、虱を取るのが大変そうだと思いました。おじさんは、人が沢山いる所はあの路地を曲がって、暫くすると右にまた路地があって、そこだと教えてくれました。そこには人が沢山いて賑わっていて、朝には朝市をやっているそうです。そこで聞いたら、朝市で自警団が男を追いかけていたと教えてもらいました。その男って僕、思うんです。きっとアデルのことですよ」
青年の報告に少年が答える前に寝転んでいた男がため息をついた。
「捕り物か。珍しくねぇだろ。なんで奴だと思う」
「露店の人から聞いたんだ。肉を売っている人で、おじさんだった。鼻が大きくて頭は禿げていた。追われてたのは黒髪の若い男だったって言ってた」
「黒髪なんか何人もいるだろうよ……。他に特徴は聞いたのか?」
「聞いてないよ。黒髪の若い男といえば僕らの中ではアデルしかいないじゃないか」
純粋な顔で青年が返す。学のない青年には自分たちの輪と世間の境界線が分からないのだ。
「おい、こいつを使いに出したのは間違いじゃねぇの?」
「いいや間違いではないよ。私の幼い外見では質問の質が限られる。外見に似合わない質問をすれば聞き手に不信を与えるからね。そしてそれは君も同じだ。君のような浮浪者然とした者が人探しなんて不信すぎる。不信を持たれたら最後だ。小金欲しさに協会の手の者に密告する者などごまんといるだろう。アデル君がいない今、尋ね事はシラビス君が適任だと私は判断したんだが君は異論があったのかね?」
涼しげな顔で持論を繰り出す少年。男は合いの手のように首を鳴らし伸びをして、舌打ちをした。
「ごちゃごちゃうるせぇよ。で、どうすんだよ。これから」
「リヒードさん、お小遣いくれませんか?露天商のやつ、これしか持ってないって言ったら全部取りやがったんです」
同時に話しかけられ、少年は答えなかった。訝しんだ男が目を配るとリヒードは上に泳がせていた目線を戻し、目を細め何かを思案しているようだった。
「おい、聞いてるのか?」
「……ああ、聞いているとも。昼時だ。今後のことは肉でも食べながら考えよう。シラビス君、お小遣いはこの縄を売ってからだ。僅かとはいえ全部使われると流石に急な手持ちはない。いいね?」
「勿論です、リヒードさん。肉があるんですか?やった!」
ぴくりと縄づくりの手を止め少年は無邪気にはしゃぐ青年をじっと見つめる。
「シラビス君、肉を買いつつ会話をしたんじゃないのかね?金の使い方は教えたはずだが」
青年は見つめ返していた目をゆっくりと泳がせると再び眼前の少年を見据え、その顔はたちまち歪んでいった。
「さぁて、まずいぞ」
男がほくそ笑むや否や青年が大きく吠えた。遠くでお椀を手に物乞いをしていた老婆も呼応して金切り声をあげた。
「シラビス君落ち着いて。私の考え違いだ。君は金を払って情報を買った。そうだろう。そうなんだ。君は間違ってない。落ち着いて、大丈夫だ」
「やっちまったなぁ。こりゃあ充分に悪目立ちしてるぜ。場所を変えようか」
唸りながら髪を掴んでうずくまる青年を抱きしめ少年は優しく諭す。青年が座ってようやく調度良く背をさすることが出来る身長差だ。ただでさえ急に奇声をあげた青年に周囲の者が一瞥をくれているのに、幼子が青年をあやす光景は実に異質であった。
「どのみちシラビス君が他愛のない情報を金で買っている。目はつけられているだろう」
「じゃあ昨日の場所にしようぜ。お前らは先に行きな。それにしても大丈夫か?これだけの騒ぎなのにチビすけがやけに静かじゃねぇか」
「確かに。……メムリンク、寝ているのかね?」
少年の問いに答える者はいない。嫌な予感がする。自分の殻に閉じこもって独り言を繰り返す青年の首には小箱が提げられている。少年は青年を刺激しないよう慎重に蓋を開けた。
結論を察して下卑た笑みを浮かべる男に分かりきった顔で少年が呟く。
「いない」
「またかよ。世話が焼けるもんだ」
箱の中は空っぽだった。
ひび割れた煉瓦造りの家がひしめく町並み。所々にある朽ちた建物が小さな自然を作り出していた。使われなくなり倒壊した水道橋の脇には同じく古めかしい廃屋がひっそりと佇んでいる。半ば崩れかけ陽の差し込むその中に青年はいた。
青年は本を読んでいた。よく見れば腐った棚にあるものは全て本だった。
誰も読まなくなった書籍。誰も訪れなくなった場所。
紙をめくる音だけが聞こえ、そしてそれは青年にとって至福のひと時であった。
「なかなか良いところじゃない」
ふいに声が聞こえた。活発そうな少女の声だった。
悠々として時が止まったかのような空間には似つかわしくない声。
しかし青年は特に気にする素振りも見せず適当に返事をした。
読書に没頭しているからというわけではない。単純にこんな所で話しかけてくる者に関心がないのだ。
「ああ。そうだろう?羽虫がいっぱい湧くし、食うには困らないかもね」
「羽虫なんか食べないわよ。あと、ここの事じゃないわ。ここはちょっと退屈。そうじゃなくてこの都市がなかなか良いって言ってるのよ。トルドレンよりよっぽど賑わっているわ」
「トルドレンから来たのかい?」
「途中に寄ったのよ。私はもっと遠くから来たわ」
へぇ、と初めて青年は目線を上げる。しかし声の主の姿は見えない。
周囲だけではなく頭上まで見渡す青年の仕草が面白かったのか、広い天井にころころと笑い声が響いた。
「どこを見てるのよ。ここよ、ここ」
近くの釣り燭台の上にそれはいた。
小さな人間だった。手のひらよりも小さく、それは少女の姿をしていた。
青年は訝しげに眉根をひそめる。それもそのはずだった。こんなに小さな人間を青年は今まで見たことがなかったのだから。
しかもその小人はよく見ると蝶に似た半透明の羽根を生やしていた。
「恥辱の悪魔……」
思わず声を漏らす。人の形をして羽根を生やした生き物など聖書に登場する羽根の悪魔しか青年は知らない。そして恥辱の悪魔は羽根の悪魔の腹心だ。恥辱の悪魔は女性に憑りつき羽根の悪魔の為に全てを捧げさせる妖艶な女性の姿をした悪魔だという。
しかし恥辱の悪魔の羽根の有無は聖書では言及されていないはずだし、絵画でも目にしたことがない。それに目の前の小人の少女は確かに美しい容姿をしてはいたが妖艶というよりは可憐だった。
「なによ変な顔して。そんなにあたしが珍しい?まぁ珍しいか。私もね、分かるわよ。正直あたしの故郷ではあんたらみたいな大きい人なんて1人も見た事がなかったもの。だから故郷を出て最初の頃なんか大変だったわ。やれ売り飛ばそうだとか、やれ不吉の象徴だとか。そんなわけで今は声をかける人は見定めてるの」
「僕を惑わしに来たのか?」
「惑わす?なんで?なんとなくここに来たらあんたがいたから話しかけてみただけよ。あんた、なかなか頭が良さそうだと思ったのよ。あんたなら冷静に考えて私が何の害もなくてただ可愛いだけだって分かるでしょ?」
むしろ学のない者共が恥辱の悪魔を知っているとも思えない。害がないのかなんて現時点では分かりようもない。しかし青年は当初の無関心さを装って再び本に目を落とした。
「まぁね。それで僕に話しかけて、何が望みなんだい?」
「ただお話がしたかっただけよ。あんたひねくれてるわね。あんたこの都市の住民でしょ?良い所だって褒めたんだから、ありがとう可愛いねくらい言いなさいよ」
可憐で清楚な顔立ちかと思えばずいぶんと直情的な喋り方をするもんだ。あまり頭は良くないのかもしれない。青年は心の中で苦笑した。
「どうかな」
本を閉じ、傍らの机に置く。見上げると釣り燭台に少女の姿はなく、いつの間にか青年が置いた本の表題の前に座り込みまじまじと文字を眺めていた。
「どうかなって、どういう意味?」
「トルドレンよりはましってだけで、ここも良い所ではないってことさ」
すぐに捕まえられる距離だ。過去に売り飛ばされそうになったことがあるとは思えない不用心さである。しかしそれは青年がそんなことをする無頼の輩ではないと信頼している意思表示と言えるのかもしれない。実にお人よしだ。青年は呆れたが、何故か同時に優越感も感じていた。
「僕はトルドレンに行ったことがない。イーサルングから出たこともない。でもトルドレンの話は聞いている。横暴な上流階級が市井の人々を虐げている。でもそれはどこも変わらない。この都市だってそうさ」
「そうなの?あんまりそんな感じしないけど。大きい都市だからかな」
「いや。トルドレンのほうが大きい都市だよ。聖支都って言ってね。支都市の中で聖都から特別な権威を与えられている都市なんだ。だから本来なら聖都の次に栄えていなくてはならない。本来ならね」
「おかしいわね。なんで栄えてなかったのかしら?」
関心を持って言葉に耳を傾ける少女に青年は喜びを感じていた。目の前の無知な少女は木綿の布が水をよく吸うように行儀よく自分の言葉を飲み込んでいるのである。理解しているのかはともかくとして、それは愉悦だった。
「まず市政の杜撰さだ。トルドレンは無駄な建物を作らせ過ぎなんだ。隣りの水道橋を見たかい?この都市だって古びた物に手を加える余裕はないのに、あの都市は更にそれが多いんだ。なのに市長や司祭が変わるたびに大きな建物を作っている。そうすれば栄華が維持できると思っているんだ。でも実状は市民に無茶苦茶な租税を課して偽りの繁栄の中にいるだけだ。まぁそれはここも変わらないけど。でもここは他の支都市との交易の中心地になっている。リドナ、アルタミュテ、キリルデン、エシュタルデン、そして聖支都トルドレン。更には山を越えた内地のウルムウンテの窓口になっている。だから栄えている。トルドレンはここと、あとは鄙びた辺境の名もない集落としか交易できない。サザニアは遠すぎるしね」
「お金が入ってくる見込みもないのにお金がかかることをやりすぎたから、本来はここより大きい都市のくせに栄えてないってこと?」
「そう!そういうことなんだ。話を戻そう。そんなトルドレンに引けを取らないほどこの都市も良くはないんだ」
「今すごく栄えているって言ってたじゃない」
「商業はね。でも、ごらんよ」
青年が指す先は朽ちた棚だ。青年が読んでいた本はかろうじて形を保っているが、殆どは風化していた。
「学問への理解がないんだ。ここは昔は偉大な図書館だった。古い記録がいくつも残されていた。今は見る影もない。みんな目先のことしか考えていないんだよ」
「でもお金儲けって頭が良くないと出来ないんじゃない?」
「一部の人間はね。あとの人間は大いなる流れの中で決められた動きを毎日こなしているだけに過ぎない。それは昔からずっと変わらない流れだ。学問を知り、史実を知る僅かな人間の手によって大衆が飼われている」
「よく分かんないけど本って昔のことを書いているわけでしょ?それが今の何の役に立つのよ」
「君も愚かな大衆の1人かい?人の行動なんか昔から変わらない。史実の大きな動きを知れば先の流れも大まかには分かる。そういう事を教えるのが学堂だと僕は思う。なのに教師たちは毎日毎日嘘を垂れ流すだけなんだ……」
「嘘?」
はっとして青年の顔が強張った。つい言葉が過ぎた。まさかこのような廃墟にまで監視の目が光っているとは思えないが軽率なことをしてしまった。
「……大衆の1人に過ぎない者が教えを論じたところで愚者が啓蒙されることはないってことさ」
鐘の音が聞こえた。昼の終わりを告げる教会の鐘だ。
「昼休憩が終わる。僕は学堂に戻らないといけない」
「学堂って……そこに行っても嘘付かれるだけなんでしょ?」
「それでも戻らなきゃいけないんだ。僕は学徒だし、家名を汚すなって五月蠅いのがいるからね」
「ふうん、よく分かんないけど嫌な事しなきゃいけないなんて大変ね」
「君は暫くこの都市にいるのかい?商人じゃないと思うし商品ってわけでもなさそうだし……どうやってこの都市に来たのかは分からないけど、まぁ、また会えたら会わないか?」
「いいわよ!たぶん何日かいるってリヒードが言ってたわ。あ、リヒードって私の仲間なんだけど。あんたたち似てるからたぶん気が合うわよ。明日も同じ時間に来ればよいかしら?紹介してあげる!」
「それは楽しみだ。リヒードね。似てるな。僕はリュヒトー。カタリア語で真実を表す名前だ。それで、君の名前は?」
「確かに名前まで似てるわね!私はメムリンクよ。よろしくね!」
少女が無知であるが故か、よく喋りとても有意義な昼休憩となった。歩みを止めて一度振り返ると少女はまだ自分を見送って手を振っていた。少し気恥ずかしい。
学堂へ続く道のりは足が重いが、それでも明日のこの時間を思えば胸が弾む気がする。
ついつい顔がにやけるのを抑える青年が通り過ぎるのを見つめ、吟遊詩人が小さく弦楽器を鳴らした。