一話 自分探し
「やめてラルゴ! リトゥスを放して!」
「こんな奴を、庇い立てする必要は無い!」
友人の少女の、悲鳴染みた叫び声が響く。それを押さえ込むように荒らげる、幼なじみである男の声も。
リトゥスは、二つの声をどこか遠くで聞いていた。
ただ一つだけ、やけにはっきりと己の耳に届いたのは――。
ぶつり。
自分の髪の毛が切り落とされる、重くこもった音だった。
「ミモザ! 君の名誉を傷つけようとした、卑怯者の髪はこの手にある! 当然の報いだ!」
幼なじみが、高々と掲げたのは淡い金の髪束。
髪の毛を引っ張られる痛みと、制限されていた動き。それから解放されたリトゥスは、自分と同じ色の髪束を、視線で追いかけた。
「お前に目をかけていた親父も、これで目が覚めるだろう! リトゥス、お前は見習うべき相手ではなく、ただの卑劣な男だとな!」
朗々とした声は、晴れた空によく響いた。
リトゥスとっては、とても残酷な色に満ちているのに、幼なじみの声はこんな時でもよく通る。
やってやったと、達成感に満ちた顔の幼なじみ、ラルゴ。
状況を目の当たりにし、声も出せず震えている少女は、ミモザ……――彼女は、リトゥスにとっては、一番仲の良い女友達になる。
事の重大さを真っ先に理解したミモザは、普段の快活な様子が嘘のように、青ざめた顔をしている。ラルゴが手にしている髪束を凝視し、唇を戦慄かせていた。
(……髪……)
痛みから解放された自分。
軽くなった頭。
ラルゴが誇らしげに掲げる金の髪束。
何度か瞬きを繰り返し、リトゥスはじわじわと現実を噛みしめた。
(僕の、髪の……)
――髪を切り落とされるのは、戦士にとって大変な屈辱。同時に、敵に対する最大の報復でもある。
それが、リトゥス達アーヴィ族の理だ。
幼なじみであるラルゴは、族長の息子。古くから続くそれを、知らないはずがない。彼は知っていて、リトゥスに対しそんな行為を、ためらいなく実行したのだ。
ざまぁみろ。
ラルゴの視線が、全ての答えを物語る。
達成感と優越感、そして喜び……後ろめたさは、欠片も見当たらない。
――理解できた瞬間、リトゥスの名は部族内で地に落ち、初恋も終わりを迎えた。
◆◆◆
髪を切られた後、ラルゴは青ざめているミモザをリトゥスから引き離すように連れて行ってしまった。
もう片方の手には、彼にとって戦利品であり名誉の証でもある、リトゥスの髪を携えて。
もちろん、己の《正当な行い》をみんなに触れ回るためだろう。
残されたリトゥスは、軽くなった頭を隠すことも出来ず、ふらふらと立ち上がり――どうやって家に戻ったかまでは、思い出せない。
ただ、気が付けば自分の部屋にいて、短くなった髪を手でいじっていた。
耳を澄ませば、階下からは両親の深刻な話し声が聞こえる。
当然だ。
リトゥス達、アーヴィ族にとって髪は命に等しい。
長い髪は、それまで一度も髪を切られたことがない、強い戦士である証し。短髪の男子は、それだけでアーヴィ族にとって嘲笑の対象だ。
だから、幼なじみであり族長の息子であるラルゴは、リトゥスの髪を狙ったのだ。
ミモザという娘に、リトゥスが乱暴しようとしている……などと、有り得ない勘違いをして。
(……本当に、有り得ない。同じ女の僕が、ミモザになにかするわけないのに)
短い自分の髪をつまみ、リトゥスは深々とため息をついた。
ただ、ミモザが転んだだけだ。そして不運にも、木の枝で足を切った。リトゥスは彼女の手当てをしようと、スカートをまくり上げ、足に触れただけ。
他意などなかった。不埒な気持ちなど、抱くはずもない。
けれど、ラルゴはそう思わなかったのだ。
現場を目撃した彼は激高し、問答無用でリトゥスに剣を向け、弁明にも耳を貸さず髪を切った。
意気揚々と掲げられた自分の髪を、リトゥスは忘れられない。
アーヴィ族において、髪を切られた男は決闘に負けた軟弱者。そんな男がいる家の名誉は、地に落ちる。
そして……――アーヴィ族において、髪の短い女は不義密通を行った姦婦を意味する。間違いを犯した者を、娘可愛さに匿う家の名誉など……語るまでもないだろう。
どちらにせよ、今の自分は家の名誉を傷つける存在でしかないのだと思い知り、リトゥスは項垂れた。
「…………」
何が悪かったのだろう。
思わず、自問してしまう。
(兄上……僕は、どこで間違えてしまったのかな?)
幼い頃、兄が死んだ。里の子供達の中で、一番ケンカが強くて、でもリトゥスのために花冠を作ってくれた優しい兄は、病でこの世を去った。
リトゥスも、もちろん悲しかった。だが、両親の嘆きはそれ以上だった。
あの時、両親を慰めたい一心で、男の格好をしたことがいけなかったのだろうか?
兄の服を着て、兄の口調を真似ていれば、リトゥス自身も寂しさや悲しさから救われたのだ。
それとも、剣の腕を磨いた事がいけなかったのだろうか?
父を喜ばせたいがため、族長に言われるがまま彼の息子と少年の格好で会い、彼の思い込みを正さなかったことだろうか?
あるいは……――その全てが、いけない事だったのか。
(兄上……僕にはもう、分らない事ばかりだよ……)
リトゥスには、もう何も分からなかった。
どれが間違いだったのか、何が正解だったのか、考えても考えても分からない。ただ、両目からはぼろぼろと涙だけが飽きもせず流れ続けた。
けれど、リトゥスの中にも一つだけ、はっきりと理解していることがある。
(……ここにいたら、いけない)
リトゥスの名誉は、今や落ちるところまで落ちた。
そんな子供を家に置いておけば、両親の名誉すら傷つける。
自分は、この家を出なくてはいけない。
でも、どうしたらいい?
どこへいけばいい?
迷うリトゥスの脳裏に、顔見知りの行商人の言葉が浮かんだ。
『王都には、凄腕の占い師がいるんですよ』
探し物は勿論、人生に迷う者には進むべき道を提示してくれるという占い師。商人は、自分もこの商売を勧められたと笑っていた。今は天職だと思っていると、誇らしげに。
『あんたも、いつか人生に迷うことがあったら、一度たずねてみるといい』
その時は、まさか自分がこんな状況に陥るとは考えてすらいなかった。
だが、ふと思い出した商人の言葉は、真っ暗闇で見えた一筋の光のようだった。
《アーヴィ族のリトゥス》として生きる道を見失った彼女は、王都に向かおうと決意する。
リトゥスは、ごしごしと涙を拭うと、すくっと立ち上がった。
階下で続く、両親の話し合い。
わざと階段をきしませおりていくと、ぴたりと二人の声が止まる。
「り、リトゥス、どうしたの?」
母が、泣きはらした目で、無理な笑顔を作った。兄を亡くした時のようだ。ここまで悲しませたことに、リトゥスは罪悪感を覚える。
「リトゥス、部屋にいなさい」
父が、険しい顔で自室に戻るように命じた。
「これから、族長が来る。ご子息がお前の髪を切った事を触れ回っているのを耳にしてな」
「…………」
「だから、部屋にいなさい。呼びに行くまで、一歩も出るんじゃない」
「族長が、何をしに来るのですか?」
「お前は、知らなくてもいい」
「…………」
あまり、いい話では無いのだろう。
父の顔は険しいままだ。
両親は、そろって顔色もさえない。
きっと、自分も似たような顔色なのだろうと、リトゥスは笑った。
娘が、こんな状況下で笑ったことで、両親はぎょっとした顔をした。
「り、リトゥス? あなた、大丈夫なの……?」
もしかしたら、気が狂ったと思われたのかもしれない。
そうではないと、リトゥスは首を横に振った。
「違います、母上。僕は正気です」
自分の事を僕と言うのは、リトゥスの昔からの癖だった。
本当に小さい頃は、自分の事を名前で呼んでいた。けれど、兄が死んでしまって、喪失感をどうにかしたくて――いつしか、兄のように、自分の事を僕と言うようになっていた。
今日に限り、父はその一人称を耳にするやいなや、ぐっと眉間に深い皺を刻んだ。
これまではずっと、特に何も言わなかった父が初めて見せた不快の表情に、リトゥスはやはり自分は最初から間違えていたのかもしれないと思った。
(僕は、兄上みたいになれなかった)
強くて、優しくて、なんでもできた、自慢の兄。
自分も女では無く男に生まれていたら、あるいは兄では無く自分が死んでいたら、きっとこんな状況には、ならなかっただろう。
死んだ兄の口調を真似、格好を真似てみても、結局リトゥスは男になりきれなかった。
上辺だけ真似たところで、どうにもならなかったのだ。
見聞を広めるためにと里から出ていた族長の息子――ラルゴが里に帰ってきた時。よろしくと屈託無く笑いかけてくれた少年に、恋をしてしまったのだから。
『――時期を見て息子には話すから、男の格好のままでいてくれ』
族長にそう言われた時、初恋の熱に浮かれていたリトゥスは一も二も無く頷いてしまった。
ただ、そばにいられると考えなしに喜んでいた。
きっと、アレも間違いだった。だって、父も母も何か言いたげな顔をしていたではないか。
(迷惑をかけてばかり……)
でも、これで終わりだと、リトゥスは自分の決断を両親に伝えた。
「父上、母上……。僕は、王都に行きます」
両親は、まず揃って言葉を失った。
そして、母は口元を抑え泣き出し、父はぶるぶる震えたかと思うと「馬鹿者!」とリトゥスを怒鳴りつけた。
「馬鹿ではありません。髪を切られた僕がいると、父上と母上まで白い目で見られてしまいます。髪が伸びるまで家に籠もっているわけにもいかないでしょう? ラルゴが、僕の髪を切ったと触れ回っているそうですから……」
恋をしていた幼なじみの名前を口に出すと、少しだけ胸が痛かった。誤魔化すように、リトゥスは笑ってみせる。
しかし父は、憎い仇の名でも聞いたかのように目をつり上げた。
「あの若造……! ノコノコ顔を見せたら、髪も首も、即刻切り落としてやる……!」
「なんですって……!? いけません、あなた……!」
母が、激高している父の腕に手を置く。
「そんな生易しい事では、嫁入り前のリトゥスを傷物にした報いには到底およびません!」
「くっ、やはりそうか……! ――安心しろ、リトゥス。お前の名誉は、父が必ず取り戻してやる。だから、何も心配せず部屋にいなさい」
「ええ、ええ、お父様にお任せしましょうリトゥス。わたしたちの可愛い娘。だから、出て行くなんて、そんな事を言わないでちょうだい?」
リトゥスは、両親の愛情に微笑んだ。
二人は、リトゥスを守ろうとしてくれている。
髪を切られた家の者を、恥として追い出す事はおかしい事では無い。むしろ、それが一族の《当たり前》だ。
しかし……。
(甘えたらだめ。僕の弱さが、こんな結果を生んだんだから、僕自身が責任を取らないと)
リトゥスは、ぐっと奥歯を噛み、こみ上げてくる感情を堪える。
優しい両親に、甘えてしまいたかった。
本当は辛いのだと泣いてしまいたかった。
だが、そうしたら、リトゥスは本当に自分の道を見失ってしまう。
ただのお荷物に成り下がるのは、とても恐ろしい事だった。
「旅に出ます。……どうか、お許し下さい」
もう一度、はっきりとリトゥスは両親に告げた。
二人は目を瞠り、顔を見合わせる。――息を詰まらせた母は、とうとう顔を覆って泣き崩れた。
父は、母の肩を抱きながら重苦しい声でリトゥスに問いかける。
「母をこんなに悲しませてでも、行くというのか」
「はい」
「……逃げるのか?」
「…………」
「逃げれば楽になると、そう思っているのか」
違いますとは、言えなかった。
もしかしたら自分は、道を見失ったのを言い訳にして、息苦しいここから逃避したいのではないかと気付いたからだ。
答えられなかったリトゥスを見て、父はため息をついた。
「……族長が来る前に、里を立て」
「あなた! どうして……!?」
止めてくれないのかと泣き縋る母をなだめた父は、まっすぐにリトゥスを見た。
「だが忘れるな、リトゥス。どこに行こうが、お前は俺の子だ。俺とカルラの、大事な娘だ」
「…………父上」
「お前が、あの若造の顔を、元の形が分からなくなる程殴りつけてやれるようになったら、戻ってこい」
泣き崩れていた母は、父の言葉を聞いて立ち上がり、リトゥスを抱きしめた。
「体に気をつけてね……。いつ帰ってきたっていいのよ。ここが、あなたの家なんだから」
「…………はい」
髪が結べるくらいに長くなる頃には、新しい道が見つかっているだろうか。
父と母に、大丈夫だと胸を張って顔を見せに来られるだろうか。
迷える者に最良の道を示してくれる、凄腕の占い師。
この言葉を希望にして、リトゥスは里を旅立った。
手探りですら進めない、真っ暗な闇の中にいるかのような自分にも、きっとすぐに明るい道が見えるのだと信じて。