夕暮れの姫は星影の君を恋う
茜を纏って日が沈む。
空に様々な色が溶けて、一日の終わりの足音が響く。
茜の中に色が溶ける髪を揺らして、私は足を止めずに空を見上げた。
夕日が沈む直前の僅かな時間。茜から夜空へ切り替わるその刹那だけ、彼と言葉を交わせる。
「こんばんは」
「……どうも」
たったそれだけの短い会話。これでも、言葉を返してもらえるだけ進歩したのだ。もう少しであと一言くらい交わせるようになるかもしれない。
名残惜しい気持ちを押し込めて、笑顔で会釈をしてその場を後にする。足を止める訳にはいかない。
私が足を止めれば、夜が来なくなってしまう。
淡い金の髪に夜空の瞳。すれ違うだけだったその青年が、心を染め始めたのはいつの事だっただろう。もうずっと昔の気がする。
夜空で一際輝く星影の精。彼の瞳はいつもどこか寂しそうで、それに気づいた時にはもう、彼から目が離せなくなっていた。
はあ、とため息を吐く。せめて、もっと言葉を交わせたらいいのに。夕暮れの精たるこの身では、彼と逢う事もままならない。
「おやおや、夕暮れ。辛気くさい顔をしてどうしたんだい?」
「烏」
烏は日の神の使者、日の下の精の友。私の数少ない友である。
「星影さまともっと仲良くなるにはどうしたらいいかしら……。言葉は交わせるようになったのだけれど、日に一度、刹那しか逢えないのでは思うようにいかなくて」
「言葉を交わせるようになった?なるほど確かに。ただし一言だけだけれどね。君の想いも長いが、何十年も経って一言しか交わせないとはね。人の子は早ければ一日とかからず“仲良く”なるというのに。いやはや、流石は生の永い精霊だ。実に慎重でけっこうな事だね」
「……相変わらず意地悪ね、烏。少しくらい、優しい言葉をかけてくれてもよいのではないかしら?」
「毎日毎日、何十年と同じ愚痴を聞かされれば、微笑ましさなど感じないね。意地悪でけっこう。聞いてあげるだけ優しいと思うべきではないかね?」
「……いつからこんなにトゲのある言葉を言うようになったのかしら」
「君に呆れ果てたその時からさ」
「……もう!」
これでも私なりに努力してはいるのだ。近寄りがたい空気を放つ彼に、思い切って挨拶をするようになって幾星霜。視線が交わる一瞬のために身なりを整えて、毎日明日こそは、と話しかける練習だってしている。なのに、いざ彼と逢うと胸がいっぱいになってしまって、「こんばんは」が精一杯になってしまうのだ。
はあ。もう一つため息を吐く。
「せめて何か、言葉を交わすきっかけでもあればいいのに」
呟きは風に溶けて、もどかしい気持ちを抱えて遠ざかる夜空を想った。
『烏が鳴く。夕暮れが歩く。ああ、なんて――……。』
それはいつも通りの挨拶。
「こんばんは」
「……どうも」
ああ、今日も上手く話を繋げられなかった。心の中で肩を落としながら笑顔を作ると、ぽつりと彼が呟いた。
「……今日は風が揺らぐから、足元に気をつけて」
「……!あ、ありがとうございます!ええ、気をつけます!」
念願の二言目である。この喜びを何と例えよう。
踊りだしそうな気持ちを抑えて、足を進める。視線の先に見知った姿を見つけて、思わず大きな声で話しかけてしまった。少しはしたなかったか、と反省する。
「烏、烏!聞いてちょうだいな!」
「どうしたというのかね、夕暮れ。少し騒々しいよ」
「やっと二言目が交わせたの!ああ、揺らいだ風に感謝しなくては!」
「おお、そりゃあよかった。それじゃあ、明日は一言しか交わせずとも落ち込まずにすむじゃあないか」
「……。もう少しくらい、喜びに浸らせてくれてもよいと思うの」
「自分はもう少し、君に落ち着きを持ってほしいと思うよ。明るいのは日の下の精の長所だけれど、明るいと煩いには大きな隔たりがあるからね」
「……そんなに煩かったかしら……?ごめんなさい」
「別に、いいけどね。いつもの事だしね」
「……。」
やっぱり烏は意地悪だ。
「時に夕暮れ。君は、“風が揺らぐ”という言葉の意味を知っているのかい?」
「……?そのままの意味ではないの?」
「……いや、この時期でその台詞は……。」
「烏?」
「……いや。少しは自分で考えたまえよ、もしくは他の友に訊くといい。それともまさか、自分以外に友がいない訳ではあるまいな?」
「まあ、失礼ね!日の下の精は多いのよ、友達だって沢山いるわ!ただ、私は夕暮れだから会える時間が短いだけよ!」
「そうかいそうかい、これは失敬。そういう事にしておいてあげよう」
「もう!ちゃんといると言うのに!」
……あら?何か誤魔化された気がする……?まあ、そんなに重要な事でもないのかしら。
首を傾げたのは一瞬で、すぐに絶え間無く嫌味を言ってくる烏に意識を向けた。
……烏は、私の扱いがひどいと思う。仮にも友に向かって!
憤慨する私の耳には、烏の小さな呟きは聞こえなかった。
「……哀れだね、ああ哀れだ、刹那の恋というモノは」
聞こえたとしても、意味は分からなかっただろうけれど。
明日もまた話せるといい。可能性は低いけれど、願うくらいは別にいいだろう。淡い期待を胸に、日を追って歩く。次の夕暮れが楽しみだ。
『風が揺らぐ、月が近付く。ああ、また君は――……。』
結局、二言目を交わせたのはあの一度きりで、それ以降はやっぱり一言交わすのが精一杯の日が続いている。
「はあ……。今日も一言しか話せなかった……」
ため息を吐く私に、烏は呆れたように言った。
「全く君は。少しは焦ったらどうだい?そろそろだろう」
「そろそろ?何が?」
「……君、本当に気がついていなかったのかい?日食だよ」
「日食?日食がどうかしたの?今までにも何度かあったけれど、何かあったかしら?」
「……風が揺らぐと言うのは比喩なんだよ、完全に日が隠れる日食が近付く事を指す、ね。今回はまさにそれだ」
「あら、そうなの。いつもより暗いのね。でも、すぐに終わるのでしょう?」
「ああ、すぐに終わるよ、君も一緒にね」
「……、え?」
「日の下の精は、何十年か、あるいは何百年かに起こる、完全な日食の日に代替わりするのさ。日の光が途絶えて、命が尽きてしまうからね」
「……あら、私、死ぬの?」
「いいや、人の子の言葉で言うならリセットだね。全ての記憶が洗い流され、最初のまっさらな状態に戻る。人の死とは、似ているけれど違うモノだ」
「……記憶が……。そうなの。……嫌ね、嫌だわ。けれど、避けられないのね」
「理だからね」
軽く言う烏への悪態も出てこない。……そうか、……“私”は終わるのか。今まで気がつかなかった。私が生まれた瞬間と認識している時も、その前も、私は今まで何度も記憶を無くしてきたという事。烏曰く日食はもうすぐそこだとか。本当に、鈍感にも程がある。そのせいで、彼へ想いを伝えるどころか、互いに知り合う事すらろくに出来なかった。
期限がこんなにも短いと先に知っていたのなら、もう少し勇気を出せていただろうか。
「……こんばんは」
「……どうも」
彼へ笑顔を向ける事も出来ない。もうすぐ終わりなのに、あと少し、なのに。
「……元気が無いな」
「……え、」
「……君は、いつも明るいから……。日食が、近いからか?」
「……。」
「日食によって記憶が洗われても、君が君である事は変わらない。モノの感じ方も、思考も、積み上げてきたモノは、忘れてしまっても変わらない」
「……。」
「……。すまない、変な事を言った」
「……いいえ、いいえ……。ありがとうございます」
記憶が無くなっても、私は私。その言葉は、私の中に確かに響いた。そうか、変わらないのか。ならば、悲しむ事は無い。寂しいし苦しくて、心は痛みを叫ぶけど、それでも。今この時を、悲しいものにしたくないから。
まあ、取り敢えず。
「烏、烏!聞いてちょうだいな、今日は星影さまが長文を話してくださったのよ、最長記録よ!」
「はいはいよかったね。君は能天気だね、夕暮れ」
明るく笑って、彼と交わす言葉を抱きしめよう。
『君は変わらない、何が変わってしまっても、君の笑顔は変わらない――……。』
彼が長文を話してくれてから数日。ほんの少し、彼との会話が増えた。
「こんばんは」
「……どうも」
「今日もよい月ですね」
「……ああ」
ずいぶんと進歩した。素直に喜びたいけれど、今更か、とも思ってしまう。やはり記憶が消えるというのは怖い。そこに大切な想いがあるから、尚更。
「星影さま」
明日は、日食だ。最後の逢瀬に、私は初めて彼の名を呼びかけた。
「ずっとお慕い申し上げております」
過去形にはしない。だって彼は言ったのだ。私は私、記憶を失っても変わらないと。だから、この気持ちもきっと変わらない。
何度だってきっと、貴方に恋をする。
「……君は、残酷だ」
彼の声は震えていた。頬には雫が伝っている。けれど、笑っていた。初めて見た彼の笑顔は、とてもとても優しいものだった。
「僕も好きだよ、幾星霜の時を越えても」
時が進む、日が沈む。一日の終わりを引き連れて歩く私は、色の溶け合う想いをなかなか言葉に出来ずに、泣きながら笑った。
「っ、また、明日!」
それが、“今回”の私の記憶の終わり。
――
一日が終わり、茜が降りる。夕暮れの姫が歩み寄る。
ふと合った視線は静かに反らされ、無言のまま彼女は僕の横を通りすぎる。いくら繰り返しても慣れない、胸の痛みと息苦しさ。胸元を押さえて立ち尽くしていれば、カァ、と一つ声が響いた。
「哀れだね、星影」
「……烏か」
「幾度彼女に忘れられても、彼女を想い続けるくせに。自分からは決して、彼女に近付こうとはしない。最近の人の子はそういう男を、ヘタレと呼ぶそうだよ」
「何とでも言え、彼女は記憶が無い。僕以外の誰か、それこそ自分に近い日の下の精と恋に落ちる可能性も、なきにしもあらずだ」
「意気地無し」
「その通りだよ」
遠い昔、彼女と恋をした。それから幾度も、彼女を想い、彼女に忘れられてきた。
「ほんの一瞬を重ねて育んだ恋を、世界と共に生きる精霊からすればそれこそ刹那の時で失い続ける。哀れだね、実に哀れだ」
「煩いよ」
「諦めはしないのかい?」
「それができたら、とうにしている」
何度忘れられても、忘れる事は叶わなかった。想いを捨てる事など、できやしなかったのだ。
「それで、どうする?今回も、彼女が想いを告げるまで、卑怯にも逃げるつもりかい?」
「いや、今回は賭けをしているんだ」
「賭け?」
「そう。邪険にしても想ってくれた前回のように、彼女がまた、僕に話しかけてくれるか否か。彼女が今度こそ、他の誰かと恋をしたなら、僕は彼女に何も告げずにこのまま彼女を見守り続ける。この恋が色褪せるまで」
「他者と恋するでもなく話しかけてきたら?」
「そうだね、その時は――」
――
息を大きく吸って、吐く。緊張する中、近付く人影にからからに渇いた喉を震わせた。
「こ、こんばんは!」
何年もかかってようやく発した一言。その声に、私の想い人である彼は緩く微笑んだ。二度目の笑顔である。
「……こんばんは、今夜もいい月だね」
「!そ、そうですね!」
言葉を返してもらえた。喜びに自分の目が輝いているのが分かる。けれど進む時間は喜びに浸らせてはくれない。名残惜しい気持ちを抑えてすれ違うと、柔らかな声が響いた。
「また明日」
「!はい、また明日!」
一歩足を進めた恋に頬を緩ませて、私は歩く。……あれ?
彼の笑顔は初めて見たはずなのに、どうして“二度目”と思ったのかしら。
――
『その時は、いかな僕とて腹をくくって、彼女を諦める事を諦める事にするよ』
「――まったく、どちらも一途な事だ」
黒い翼を広げて、影は空を舞う。
「いくら消されても、消えずに残る欠片がある。あと幾度か繰り返せば、彼女が覚えていられる欠片も増えるだろう」
そしていつか、理さえ越えて二人寄り添う時が来るかもしれない。
それまで彼が忘れられる事に耐えられればいいが、と呟き、いや、と首を振った。
「彼等なら大丈夫だろう」
何せ、一日にほんの刹那しか逢えない相手を、ここまで一途に想える二人なのだから。
影は笑う、静かに、密やかに。
「ああ、本当に、君達の恋路は面白い」
呟きを残して、“烏”は空へ飛び立った。
――
空が茜を映すたび、一日が終わりを告げるたび。
君を想う、貴方を想う。
星影の君は夕暮れを恋う
夕暮れの姫は星影を恋う
幾年越えても想いは君に、刹那の恋に身を焦がす。