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ほほえみ――4

(どうしようかしらね)

 セレンは呼吸を押し殺し、慎重に辺りに目を配った。

 辺りはしんと静まり返っている。夜にしかない独特の静寂だ――それでも、この沈黙は異様だと彼女は思う。

(――森って、“にぎやか”なものなんだけどね……)

 否。正しく言うなら、森という場所に耳障りな音は存在しない。まして風もなく動物もいなければ、そもそも音という音がない世界にも思える。

 だが、あくまで“そう思える”だけで――

 長く旅人をしてきたセレンは、各地の森に足を踏み入れるたび感じてきた。森が刻む自然の鼓動――を。

 森も生きている。そんなことを思わせるリズムを。

 それは多分、聴覚が感じ取るものではないのだろう。それでも、セレンはそれを“にぎやか”と思う。

 なのに。

(この森は)

 鼓動が、ない。

 死んでいるのとはまた違う。まるで獣の来襲に怯えて息をひそめる小動物のような、心もとない空気――

 ――腕の中で、くぐもったうめき声が聞こえた。

 セレンははっと視線を下ろした。

 彼女が片腕で抱き寄せるようにしていた幼い少年は、今にも泣きそうな顔をして震えている。

 声を出すなというセレンの言いつけを一途に守り、少年は――ノエフは必死に口をつぐんでいた。だが、きつく結んだその唇の端から、今にもこぼれそうな強い不安が見えた。

 セレンはゆっくりと、自分の呼吸を落ちつけた。

 密着している今、彼女の鼓動はノエフに聞こえている。「大丈夫」と伝える方法は何も言葉ばかりじゃない。

 しっかりと抱き寄せ直し、少年の髪を撫でた。

 そして、再び視線を周囲へと戻した。――早くこの森から出なければ。


 ******


 セレンがいなくなった。

 カミルからそう告げられて、シグリィは動揺することもなく一言答える。

「そうか」

 そして何気なく自分の右肩を服の上から擦った。

 ――朱雀の《印》に反応がない。

 セレンと同じように利き腕の肩、もしくは上腕に存在するのが朱雀の《印》。非常に共鳴性の高い性質を持つそれは、近場で発揮される同じ朱雀の術には敏感だ。

(反応がない。つまり今のところセレンは力を使っていない。ということは)

「セレンがノエフの行先と目的に気づいたとは思えないが――」

 肩ごしにルーヴェたち親子を見やりながら、カミルにしか聞こえないように声は低く保つ。――今の状態で行方不明者が増えたなどという情報は、軽々しく伝えられない。

「だが、セレンは勘がいい。特に理由もなくノエフの行先にたどり着いてしまった可能性もあるな」

 ノエフとは別件の可能性もゼロではないが、とりあえず二人が同じ理由でいなくなった場合を考えることにする。

 シグリィはカミルに視線を戻し、

「セレンは今のところ、大きな力を行使していない。交戦中ではなさそうだ……もし悪漢に攫われたのなら、彼女なら即ふっ飛ばすだろう」

「ノエフ君が人質のような状態の可能性は――」

「……ないではないが、下手に出て助け出すための小細工を弄するよりも、実力行使に出るのが彼女だと思う」

 的確と言えば的確なシグリィの言葉に、カミルは硬かった表情をようやく苦笑に変える。しかしそれも一瞬。

「では、相手が玄武なのでは?」

「それが一番厄介だな」

 うん、とひとつうなずきを返す。

 一番厄介でありながら、一番可能性が高い。

 ここは北方、玄武神の加護の地だ。

 玄武の力と朱雀の力は非常に相性が悪い。己の想像したものをこの世の現実に重ね、発現させるのが朱雀の力であり――かたや玄武は、現実にあるものすべてを無に帰す力だ。玄武がもっとも得意とする結界とは、ありとあらゆる力を“無”にするための境界線である。

 朱雀と玄武が対峙したときは。

 朱雀の力は、圧倒的に分が悪い。

 だが、シグリィはカミルを宥めるように、落ち着き払った眼差しを送る。

「セレンは強い。たやすく倒されることはまずないだろう。セレンがノエフを見つけたとして……すぐに戻ってこないとなれば、交戦中でもない以上、そうだな、一番ありえるのは逃亡中というあたりか――」

 道に迷うような女ではない。

 危ないときに、何かしらの信号を送ることを忘れるような素人でもない。

 つまり彼女が思い通りに行動できない“何か”があるのだ。敵か、それとも――

 シグリィは軽く目を閉じ、感覚を空気へと忍ばせる。広く、できるだけ広く、感じ取るために。

(……まだ、最悪の事態にはなっていない、と思う。死臭は感じない――)

 背後から、ルーヴェたちの不安そうな視線を感じる。

 シグリィは振り返り、よく通る声で言った。

「これから彼と私とでノエフの捜索に行ってきます。皆さんは家に。何があるか分からないので、自分を護ってください」

「これ以上大人しく待ってろっていうのか!?」

 たまらずルーヴェが声を上げる。しかしシグリィはそれを、視線ひとつで黙らせた。

 ――彼らには悪いが、彼らは戦士ではない。玄武の力は強力だが、それを満足に扱える者は一握りしかいない。

「必ず」

 一家に我慢を強いるその償いに、シグリィは強い約束を口の端にのせる。

「必ず連れて帰ってきますから」

「………」

 一家は言葉を失くしていた。

 数日前にやってきたばかりの旅人に、末弟の命を預けるのは最善なのかと、彼らの目にためらいの影が差す。

 そんな中で――

 真っ先に決然と顔を上げたのは、ルーヴェだった。

「――お前らも、気をつけろよ……!」

 シグリィはこくりとうなずいた。

 ――こんなとき、微笑って返せたらいいだろうに。そんなことを思いながら。

 

 

*****


 

 北方ではよく“神隠し”という言葉が使われるという。

(おとぎ話でよくあるっていうわよね)

 要するに、ある日突然人が消える――というような類だ。

 しょせんおとぎ話。されどおとぎ話。

 親が子を諭すために使う寓話は、その陰に“真実”をはらむ。

(――つまりこういう現象も、神隠しってわけね!)

 気合一閃、詠唱なしにセレンは力を放った。杖の先端からほとばしった閃光は一直線にある一点を目指し――

 そして、突然消滅した。

 あーもう。心の中で彼女は苦虫を噛み潰したような顔をする。

(だから苦手なのよねー玄武の力って! こうも全部無効化されるとやんなっちゃうわ)

 森から出ることができない。

 規模を考えれば、出るために苦労するような森ではなかったのに。

(ご丁寧に無限ループの術までかかってるみたいね。もうどれくらい経ったのかしら……)

 空を見上げても、木々の合間に見えるわずかな夜空には星ひとつない。時間が分からない。

(時間が経っているなら経っているで、きっと助けがくるだろうけどね)

 自分の姿が見えなければ、カミルが必ず少年に報せに行くだろう。

 シグリィの手を煩わせるのは本意ではないが、そんなことも言っていられない。

 ――今、自分に調べられることは調べておかなくては。

(力を使えば無効化される……どうやらどこに向けて放っても。四方八方、っていうか森全体が玄武の力場になってる……)

 何もやみくもに力を使っていたわけではないのだ。どこかにひびはないかと探っていたのだが、今のところわずかな隙も見当たらない。

 だが、同時にもうひとつ分かったこともある。

(反撃は、一切ない)

 セレンはノエフをもう一度片腕の中に抱き直し、すうと息を吸った。

「――夜よ、愛し子とともに眠れ!」

 澄んだ声に空気が震える。

 瞬きをする間に、辺り一体が急に昼間になったかのような明るさを帯びる。一時的に照度を上げる術――よくカミルに『詠唱内容の意味が分かりづらい』とつっこまれるが――だ。

 だがそれも一瞬のこと。

 もう一度瞬きする間に、森は再び闇に沈んだ。

「―――」

 セレンは身を固くしたノエフを抱いたまま、樹の陰で身構える。森に“囚われて”以来、彼女もノエフも一切口を利いていない。状況が分からず敵が見えない以上、できる限り気配は消しておこうとのセレンの考えだったのだが。

 空気がしんと静まり返る。

 引きずりこまれたら気が狂いそうなほどの“無音”。

 ――反応はなかった。

 北の大地に這う冷気だけが、彼女の肌を刺している。

 ひとしきり森の様子をうかがってから、セレンはノエフを抱く腕から力を抜いた。

「声を出しても大丈夫みたいね」

 少年の体を解放し、その頭を優しく撫でてやる。「窮屈な思いさせてごめんね、ノエフくん」

「――だいじょうぶ」

 少年は案外素直にこくんとうなずいた。どうやらセレンに護られていた――引っ張り回されていた――この小一時間の間に、多少の冷静さを取り戻したようだ。

 うつむきがちに視線を地面に落すノエフの姿を、セレンは改めて見つめた。

「怪我はない? 痛いところは?」

 尋ねながら少年の体のあちこちに軽く触れて確認する。同時に視線以外の感覚で、森の空気の異変も確認する――やはり、声を出しても何もない。

 その時、セレンはふとノエフが手に握りしめているものに気がついた。

「なあに? それ」

「……っ。あの、」

 ノエフは慌てて何かを言いかけた。

 だがその目はきょろきょろと流れ、結局再び黙ってしまう。

 言いづらいことなのか。

 セレンは小首をかしげる。少年の小さな手からはみだしているものは明らかに、緑色の植物――もっと端的に言えば、雑草にも見える草だ。

 そんなものをいまだに手に掴んだまま捨てようとしない。となれば、おそらくは。

「その草を採りにこんな森へ一人で来たの?」

 ノエフはびくっと肩を揺らした。

 罰が悪そうに視線をそらした。どうやら間違いなさそうだ――セレンは軽く笑ってみせる。

「いーのよ、怒らないわ。それはお父さんとお母さんの役目だもの。でも、その草が何なのかは教えてくれる?」

 この森が最初からこんな異常な森だったとは思えない。

 そんな危険な場所が村の近くにあったなら、おそらくセレンたちの主たる少年が、さっさと気づいていただろうから。村人たちだって近づくなと言っただろう。

 ――森が変貌したきっかけは何だったのか。

 今この森に、セレンとノエフ以外の人間は――生物も――いない。ノエフはセレンより先にこの森へ来て、そのまま森から出られずに右往左往していたのだ。となれば、ノエフの行動をよく知る必要がある。

 セレンがそう説明すると、ノエフは少しの間逡巡したようだ。掌を開いて細長い草の数本を見下ろす。

 似たような雑草はどこにでもあるが、よく見るとその草の葉脈は特徴的だった。中央辺りに楕円が出来ているのだ。

「この森――」

 やがてノエフは顔を上げ、訴えるような声で言った。

「“妖精が棲んでる”って言われてるんだ」

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