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言の葉朽ちて、――6

 シーヴァルの高笑いは空気を何度も痙攣させた。

「私たち家族は全員でその人生をかけてお前に尽くしている! それでもお前は無視をするというんだな……!」

「無視、している、つもりでは……」

 息が苦しい。ああ、クーノを助けなくては。けれどクーノの母親が。見たこともないクーノの母親が、自分のために死んだ。

 頭の中がかき乱されているようだ。ぐらぐらする。何をしている? クーノを助けなければ。クーノを助ける? 体を満足に起こせもしない自分にそんな力があると――?

 いや、ひとつだけ方法が、

 ――自分がシーヴァルについていきさえすれば

 買いつけ屋の狂った高笑いが続く。

「おや……じ……くるし……」

 少女の小さな救いを求める声。

 ああ、でも自分は相棒と離れては仕事ができない――

「はいっ!」

 セレンの気合の入った声が放たれた。同時に、

「ぐっ!」

 シーヴァルのくぐもった悲鳴。

 シーヴァルはのどを押さえて咳き込む。父親の腕が娘から離れた。シグリィが走り、倒れそうになったクーノを抱きかかえてそのまま行き過ぎる。すれ違いざま、少年はシーヴァルの横腹に蹴りを入れていた。

 シーヴァルがその場に膝をつく。げほっげほっと激しく咳を繰り返し、狂犬のようにぎらつく瞳を暗闇で光らせる。

 それを見下ろすシグリィの視線は、熱気に水を浴びせるように冷たくもあり――また、どこか憐れむようでもあった。

「アイリスの分を……どうしてくれる……」

 シーヴァルは地面の土をつかんだ。春の若草とともにもみくちゃに男の手を汚す土を、リシェルドに向かって投げつける。

 リシェルドに届かず空中にばらまかれた土は、無言のまま地面に落ちていく。散っていく土くれ――クーノの母親の魂もまた、あんな風に散ったのだろうか?

 リシェルドはいたたまれず顔を伏せた。

 そのとき、自分を腕に抱いていた青年が鋭く囁いた。

「うつむいてはいけない――見なさい!」

 カミルの声が、はっとリシェルドの意識をよみがえらせた。リシェルドは顔を上げた。

 子供のように、何度も土をつかんではリシェルドに投げつける男の姿が見えた。――泣きながら。

 ……彼には、本気でクーノを犠牲にするつもりなどなかっただろう。きっと、そう思う。妻の死にあれほど乱心するほどなのだから。娘に対しても、きっとそうだろう。

 自分自身が命をかけるのはいい……

 けれど、それに家族を巻き込むのは嫌だった。その気持ち。

 ――自分に推し量れるだろうか?

 推し量らなくてはいけない。自分は……作家だ。

 人の感情を解いてみせる、小説家……だ。

 否。

 もし自分が小説家ではなかったとしても。

「おふくろぉ……」

 気がつけば、シグリィの腕の中でクーノも嗚咽をもらしていた。

「死んだなんて、うそだよぉ。おふくろ……」

 シグリィが優しく、両腕で後ろから抱いてやっている。その腕にすがりつき、少女はすすり泣いた。

 ――すべて、自分のせいか?

 ――ああすべて……自分のせいだ。

 どうすればいい? どうすれば……この親娘に償いができる?

 相棒の傍を離れれば何もできなくなるこの自分が。

 せめて、

 申し訳ないと思っているこの気持ちだけでも、二人に伝えることができたなら――


 その刹那、

 誰かと、心がつながった気がした。

 ――誰か?

 違う。いつもの……ぬくもり。


 言の葉の樹に異変が起こった。みずみずしい葉が、散りかけていた白い花が、一斉にうなりをあげた。すべてが枝から離れて渦巻いて、そしてシーヴァルとクーノの元へと向かっていく。

 緑と白のハーモニーは、親娘を取り巻いた。それは外から見ると、葉と花の竜巻に、彼らが取り込まれてしまったようにも見えた。

 けれどリシェルドは――シェルは感じる。

 葉と花を通じて――アノン親娘と心が通おうとしているのを。

 涙が見える。

 泣き声が聞こえる。

 悲痛な泣訴。

 胸に直接響いてくる。

 ――ああ、そうだ。叩きつけてくれ。

 この僕の心に叩きつけてくれ。

 そのカタチを知らなければ、僕には何も言えはしない。

 よろりと、カミルの腕から立ち上がった。

 自分でもそれだけの力が出せるのが不思議だった。

 けれど、自分の足で立たなくてはいけない。

 自分の足で、あそこまで行かなくてはいけない。

 ――相棒よ。

 お前が護ってくれている、親娘のところまで……


     聞こえてくる

             青龍の《印》が熱く発光して


     聞こえてくる

             これは誰の声?


     聞こえてくる

        これはリシェルドと呼ばれる青年の声か、それとも――



        聞こえる 聞こえる 聞こえる


   *


 むせかえるような緑の匂いに、クーノは、ああ、とその場にへたりこむ。

 この温かさ。なぜか長く会っていなかった母を思わせた。

 言の葉の樹は――

 想いを伝える樹。

 なぜなら言葉は、心を伝えるためにあるのだから。


  *


 緑と白の竜巻の中に閉じ込められて、シーヴァルは呆然とそのさまを見上げていた。

 一歩一歩、近づいてくる気配がする――あれはリシェルドか。

 しかしそれより前に。

 これは幻覚だろうか?


 なぜ、目の前に妻がいる?


 妻は微笑んでいた。笑えるはずがないというのに。

 ――笑っていてほしいんです

 遠くから聞こえる声は、あまりにも傲慢な言葉を紡ぐ。

 ……傲慢? どちらが?

 自分がリシェルドに無理を言い続けていたことは分かっていた。分かっていた……

 長く流していなかった涙が止まらない。

 かすむ世界の向こう側に、自分が生涯を賭けると決めていた青年の姿が見える。佇んで、ひたむきにこちらを見つめて。

 ――お前に、ひとつだけ伝えていなかったことがある。

 

 お前の話を読んだ人々が泣いて笑って、そしてそこにある世界の続きを期待する。

 それを見ているのが好きだったんだ。


  *

 

「言の葉の……」

 リシェルドはただそのさまを見つめる。

 いつも穏やかにどっしりと、傍にいてくれた優しい樹。それが初めて、これほど鮮やかに踊っている。

 それが最後の力だと、どこかで気づいていた。

(最後……)

 彼はそっと瞼を下ろす。

 ――胸の奥に、アノン親娘の声が響いている。このまま自分の中に留めておくには強すぎる心たち。

 これが最後だと言うのなら。

 せめて、あなたたちのための物語を。


「だめ……だめだ、シェル!」

 クーノの泣き声がする。「やめないで! やめなくていいから、気にしなくていいから、お願いやめないで……!」

 リシェルドはその声を聞いて、儚く微笑んだ。

「もう駄目なんだクーノ。相棒に……その力が残っていない」

 誰よりも何よりも心がつながっている。だからこそ分かる、相棒の力の衰退。

 これだけの葉が、花が散ってしまった。

 ふっと樹の方を見ると、かろうじて数枚、葉が残っている。きっとあれは相棒からのメッセージ。

 ――最後の話を書け、という伝言。

 シーヴァルとクーノを取り巻いていた緑と白の竜巻が徐々に力を失っていく。

 地に落ちたそれらは、すでに力を失っていた。

 残されるのは数枚の、みずみずしい葉、のみ。


「書くよ、僕は。あなたたちだけのための話を」

 リシェルド・パーカーは宣言した。


 ――物語を綴ろう。世界に向けてじゃない、たったひとつの家族に捧ぐ――

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