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うたごえ―2

「私のお父さんもね――」

 もう一度こちらの前まで戻ってきて、少女は優しい声で続けた。

「私の歌を『上手だ』とは言ってくれた。だけどね、近くに住んでる女の子に歌の好きな子がいてね、その子のことはもっと褒めてたの。『あの子の歌は最高だ』って」

 私は――と、少し声をひそめるようにして、

「実はその子の歌、下手だって思ってて。何であの子が私より褒められるのーって、ずっと不満に思ってて。ある日ついそれをお父さんに言っちゃった」

 たくさん怒られました。

 少女は屈託のない笑顔で、そう言った。

「『あの子をよく見ろ! あんなに楽しそうに歌っているだろう!』って。それで私も、その子の歌い方をもっとよく見るようになった。そしたら分かったの――歌ってて楽しいって気持ちを、あの子全身で表してた。声、だけじゃなくて……」

 碧い瞳がこちらを見て、反応をうかがうような光をおびる。

 カミルはうなずいた。

 嬉しそうに、言葉が続いた。

「だからね、私はやっぱり悔しくなったのよ! 私だって歌ってて楽しい! 楽しいって気持ちでは絶対負けないから……!」

 両手を広げて、空に向かって声を放ち――

「それからは、その子に負けないように……歌ってきたんだ」

 それはまるで、夜空に囁くような響きの声。

「お父さんも、ようやく『お前も分かってきたな』って、言ってくれたんだよ……」

「当然ですよ」

 カミルは微笑んだ。「私にさえ分かりましたから……あなたが、歌を好きなことが」

「ほんと?」

「本当です」

 えへへ、と少女は照れ笑った。そして、人差し指を立てて片目をつぶる。

「じゃあさ、お兄さんの大好きなその人は、歌うの好きかなあ?」

「大好きでしょうね」

 即答した。ごく自然に。

 あの女は……自分の好きなものを好きだと表現することを、当たり前のようにできる女だから。

 うんうん、と少女はうなずく。そして、言った。

「お兄さんは、ごーかくだねっ」

 ご褒美に歌ってあげる――と。


 始まる旋律は甘い響き。

 空に、景色に広げるための声ではなく、誰かに届けたい気持ち。

 恋の歌だ――


 胸がつまるような気がするのは、少女の情感ゆえだろうか。

 おそらく……それだけではない。

(――他人の気持ちさえ、歌えるのか……この子は)

 冗談のようなことを思いつき、けれど多分そうなのだろうとカミルは認めた。本当かどうかは関係ない。自分がそう思うからそれでいいのだろう。


 余韻が闇にまぎれ、青年の心の中に消えたとき、その言葉は自然と紡がれていた。

「ありがとう……」


 少女は、華やかに笑った。

 彼女の世界は、美しい音で埋めつくされているに違いないと彼は思う。

 ただ、ひとつだけ気がかりなのは……

「お父さんは?」

 ――伝染病だという父の傍に、いたはずの娘。

 しかしこの娘には、多少色白で痩せてはいても、病の気配はない。

「うん」

 少女はうなずいた。「これから帰る。お父さんの傍に」

「そうですか」

 安心してうなずき返そうとして――ふと、少女の視線に気づき、カミルは顔をくもらせた。

 星の光のように輝いていた碧い瞳が、たしかにかげっている。

 寂しそうに。

「もうお別れだね。もっといたかったな」

「――あなたの家に行きますよ。私の仲間もつれて」

「だめだよ、伝染病なんだから」

 来ちゃだめ――繰り返す少女の声は、却って寂しさにあふれていた。苦しそうなほどに。

「ありがと、ね。私……もう長い間、人に歌、聴いてもらって、なかったから……」

 褒めてくれて嬉しかった。

 そして少女は小さく、手を振る。


 ――さよなら。


「―――」

 あれほど心惹かれる声で告げられた言葉は、あまりに悲しいもので。

 たっと身を翻し、逃げるように去っていく後姿に、思わず青年は叫んだ。

「また会えるはずだ――どうして!」

 自分の言葉の滑稽さも、もはやどうでもいい。十も歳は下に違いなく、お互い名前さえ名乗らなかった相手に。

 後姿は足を止めなかった。

 小さかったその影が、やがて闇にまぎれて消えた。

「………」

 やるせない思いが心に残る。少女の歌声の余韻のように深く染み渡り、消えない何か。

 青年は空を仰いだ。

 静か過ぎる星の輝きに、少女の屈託ない笑顔が重なって見えた。



「夜中に誰と会ってたんだ?」

 快晴の朝。起きるなり主が言った言葉に、カミルは腰からはずそうとしていた剣の鞘をガランと取り落とした。

 まだ十代半ばにも満たない若すぎる少年シグリィは、不思議そうに旅のつれを見る。

「何でそんなに動揺するんだ?」

「いや――あの」

「え~……なぁにぃ~……」

 もぞもぞと、少年の横で眠っていた長い黒髪の女が、ねぼけまなこで顔をあげる。

「カミル……あいびきしてたの~……?」

 眠そうにしばたかれる、碧い瞳。あいびき、あいびき、となぜか繰り返して言い、そして突然目が覚めたらしい。ばっと起き上がり、

「――逢引! うわ、夜中に私たちに隠れて逢引!? カミルってば隅におっけなーい! でもこんなところで誰と会ってたのよ!?」

「勝手に逢引と決めないでください!」

 カミルは引きつって怒鳴った。――よりによってこの女にそう言われるのは最悪だ。

 けれどこういう話題だと、却って喜ぶのが目の前の女――セレンという人間なのである。

(分かっていないんだ、この人は……っ)

「夜中にお前が結界内から出た気配がしたから、目が覚めたんだ」

 少年が手ぐしで適当に髪をとかしながら、事もなげに言う。「そうしたら、お前の声が聞こえていたから」

「………」

 カミルはごまかせないことを悟った。

 あの少女と話していた場所は、ここからそれなりに離れていたのだが――この少年の感覚は常人をはるかに超えている。耳がよすぎるのである。隠すのは諦めて、「聞いていらっしゃったならお分かりでしょう……」と疲れた声で言った。

 今さら一晩の徹夜くらいで疲れはしないが――今朝はなにやら、気分が重い。

 いや、と少年は首をかしげた。

「相手の声が聞こえなかった。お前が何言ってるのかもいまいち聞こえなかったし……まさか独り言言ってるわけでもないだろうと思ったから」

「……? そんなはずは――」

「お前は声の通りがいいからな。普通の人間よりは聞こえやすいと思う。けっこう遠い場所にいたんだろう? 相手の声が聞こえないのは、まあ仕方ないんだが」

 少しつまらなかった、と少年は真顔で言う。

「ほんと、相手の声が聞こえなきゃつまんないですよねっ」

 セレンまでうんうんと同意している。

 しかし、今は二人に怒っている場合ではなかった。

(――そんなバカな)

 あの少女の声の通りのよさは、何より自分が知っている。自分の声が聞こえて、あの娘の声が少しも聞こえないなどということは――

「シグリィ様」

 カミルは少年に向き直った。真顔で、「行きたいところがあるのですが」と切り出す。

「うん? どこだ」

「――先日の町で聞いた、伝染病にかかって町を離れた親子……その移り住んだ家がこの近くにあるはずなんです。それをさがしたいと」

 少年も女も、「なぜ?」とは訊いてこなかった。

「ああ、それ私も気になってたの」

 私も行きたいです、とセレンが少年に顔を向ける。

 少年は虚空を見やってから、

「まあ、結界をうまく調節しながらなら近づくこともできるか」

「申し訳ありません。私が足でさがしますから――」

「必要ない。私の力で多分見つかる」

 あらゆる能力をその体に秘めた少年は、しかしな、と困ったように眉根を寄せた。

「……この近くにあるのか? 感じられる範囲に、人間の気配はないように思うんだが」

「………」

 青年の胸の奥の重苦しい不安が、いっそう大きくなった。


 少女の走り去った方向をさがせば、小屋はたしかにそこにあった。

 とても人の住む場所とは思えないほったて小屋……

 三人は中に足を踏み入れる。

 そして、親子の姿を見た……


 はずれてほしい予想ほど、当たってしまうものだということぐらい知っている。

 ――けれど、この現実は残酷だ。


「父親は死後、一週間近く……というところ、か……」

 ぼろぼろのシーツを、ベッドらしきものの上に横たわる骸にかけなおし、少年が静かにつぶやく。

「そして、娘は……」

 見つめる先――

 父の眠るベッドに、よりかかるようにして。


 あの歌姫が、永い眠りについていた。


 やせほそったその姿は、カミルの記憶にある小さな少女より、さらに小さく見えた。

「伝染ったんだろうな。この子は……亡くなったばかりだろう。一日経ったか、二日経ったかぐらい……か」

「―――」

 ならば……

 昨夜の少女は……

 ――ぱら、と紙をめくる音がする。

 振り向くと、いつの間にかセレンが、部屋の隅にあった粗造りのテーブルの上の冊子めくっていた。

 その指先が震えている。

 近づいても、うつむいた女の表情は、流れる長い黒髪が隠してしまって見えない。

 カミルは冊子に視線を落とした。ぶ厚い、紙の束……

 かすれたインクで丁寧に書かれた、かわいらしい文字の列。

 ――あの子の日記だ。


『今日、お父さんが眠ってしまいました。

 もう、目を覚ましてくれないみたいです。』


 セレンのページをめくる指が、そこで止まっていた。


『私は最期まで、歌いました』

『お父さんは最期に、初めて本当に私の歌を褒めてくれました……。』


 ――お前も分かってきたな。

 父がそう言ってくれたと、嬉しそうに話していた少女。


 お父さんありがとう――と、書かれた文字がゆがんでいる。

 紙が一部分だけ、小さくたわんでいた。――濡れた痕跡。


『私もきっともうすぐお父さんの傍に行くの。

 だけどもう、誰も私の歌をきいてくれない。』


 ――私の歌を、誰かきいてください――


 テーブルの上に乗せた拳に、痛いほど力がこもった。

 どうして気づいてやれなかった?

 いや、ひょっとしたら分かっていたのだろうか……自分は。

(気づいていたところで……)

 自分に何ができたというのだろう?


「カミル」

 ベッドのほうで、親子の亡骸を見ていた少年が呼ぶ。

 振り向けなかった。返事もできなかった。しかし少年は、続けて呼んだ。

「カミル。……見てみろ」

「………」

 セレンが顔をあげ、目元をぬぐってから無言で青年の腕を引く。二人は少年のもとへと歩み寄った。

 少年が、娘の亡骸の右腕を、そっと動かす。

 そこに、一枚紙があった。ずっと手にしていたのだろうか。よれよれになってしまっているそれに書かれていた文章は……

「あ……これ、シレジアの歌だわ」

 セレンがつぶやいた。

 それはあの夜に、少女が歌っていた詩だった。カミルの心が引き寄せられた、あの――

 紙に隠れるようにして、ペンもあった。

 シレジアの美しい詩が綴られた紙の端に、ほとんどかすれて見えないような字で、短い走り書き……


『歌、きいてもらえた。ほめてくれた。やさしい人だった。嬉しかった。』


 ――おもいが届くといいね、おにいさん――


「………」

 青年は指先で、そっとその文面をなぞった。

 耳の奥で、ずっと涼やかな歌声が聴こえている。


 ――これは奇跡だ。


「羨ましい」

 とセレンがつぶやいた。「ねえ、カミルはこの子の歌……聴いたんでしょ? いいな。聴きたかった……」

 私も、と少年が微笑する。

 青年はそっと笑った。

 ――秘密の夜。

 最高の歌声。


 月光の下、鈴のような声で楽しげに笑う少女の姿が、いつまでも心から消えなかった。


【END】

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