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うたごえ―1 [プレ/シリアス]

 歌声が聴こえる。

 誰が歌っているのだろうと、ふと気になった。――少し高い、透明な……少女の声。

 涼やかな旋律が、夜闇にすべるように広がっていく。

 空に輝く月や星にさえ、届きそうな声。

(――シレジアの歌……か)

 記憶にある詩に、カミルは胸中でつぶやいた。

 まさか大陸東方のこの地、しかも人里離れた場所で迎えた夜中に、こんな歌声を聴くことになるとは思わなかった。

 シレジアと言えば南方の島国。

 もっとも美しいと謳われた土地。

 美しい土地では、人の心も美しく育つのだろうか。シレジアには歌のうまい人間が多いと聞く。国を出て大陸を渡ったシレジア人は、大半が吟遊詩人の道を進むという。楽器よりも歌声をその力として。

 旋律だけではなく、おそらく言葉も美しいのだろう。他国の者の声よりも、ずっと柔らかく聴こえる……不思議なトーンだ。

(それにしても……こんなところで)

 足音を消しながら、わずかに声のもとへと近づく。

 ちょうど太い木に隠れる位置いた人陰が、ようやくちらりと見えた。予想通り、小柄な少女だ。

(ひとり……?)

 人里を離れれば魔物の巣窟。まして夜に無防備に歌っているなど、危険極まりない――

 けれど、カミルはなかなか声をかけられなかった。

 ――歌を遮るのがためらわれたのだ。


 伸びやかな少女の声が凛と響き渡る。

 それはまるで、この美しい静けさを持つ闇にこうこうと輝く月光と、静かな星きらめきを、そのまま旋律にしたような歌。

 それから月の位置がはっきりと移動したのが分かるほどの時間、ひとしきり歌ってから――余韻を残して、旋律は閉じた。


「ありがとう」

 ふと聞こえた鈴のような声が、自分に向けられたものだと気づくのに、かなりの時間が必要だった。

 人影がこちらを向く。月明かりに照らされた――不思議に白い頬の娘。腰まである長い黒髪……

 柔らかそうな薄水色らしき布地の服を着た少女は、カミルに向かっていたずらっぽく笑む。

「聞こえてる? あなたに言っているのよ」

「……ああ……」

 気づかれていたのか。気配を消していたつもりだったカミルは少なからず驚いた。

 ――歌に惹かれすぎて、気をぬいてしまったのかもしれない。

「あなたの、《印》の気配がとても強かったの」

 まるで心を見透かしたかのように言って、少女が笑う。

「お兄さんはとても強い“白虎”なのね」

「……気配に気づけるだけで、すごいですよ」

 カミルは苦笑する。

 この世界の人間が、その体に必ずひとつは持つ四神の《印》。カミルは白虎の《印》をその右手甲に持ち、それは魔物避けの力を持つため、野宿する夜には特に気配を強くしている。

 けれど他人の《印》の気配など、本来常人には分からないのだ。

 この娘はとても珍しい存在――

 少女が軽い足取りで歩み寄ってくる。カミルは改めて、彼女を見つめた。自分より十は歳下だろうか――十代半ばより、少し若いような気がする。カミルの主人たる少年は十三歳とかなり若いが、同じくらいだろう。

 白い肌に、結われていない長い黒髪。そして――

 青年の前に立ち、彼を見上げたその瞳の色を見て、カミルははっと息をのんだ。

 ――海の色の碧――

「ありがとう」

 少女はもう一度言った。「あなたの《印》の気配を感じたから、大丈夫だと思ってここで歌ったの」

「………」

「夜に、月光の下で、家よりは広い開けた場所に立って、歌うのが夢だったんだ」

 両手を大きく広げ、月を仰ぎ、さらにその場でくるりと回転する。

 ひらりと、スカートのすそがひらめいた。

 やがて少女はもう一度青年に向き直り、彼の目を見つめる。

 カミルは何となく目をそらした。

「……なぜ、こんなところにひとりで?」

 視線をそらされたことが不思議だったのか、少女は小首をかしげてから、

「私の家ね、ここからちょっと行ったところにある小屋なんだ」

 お父さんと二人で住んでるの――と、かげりのない声で説明する。

 カミルは思い出した。旅人である彼らは、つい昨日ある町を出たばかりだ。その町でうわさを聞いた――ある男が伝染病にかかり、一人娘とともに自ら町を出て行った、と。

 その一人娘が、とても美しい声の持ち主だったとも――

「あ、ひょっとして私たちのこと知ってる?」

 とても勘がいいらしい、少女はにっこり笑って、「お兄さんたち、旅人さん?」と訊いた。

「でなきゃ、こんな時間にこんなところにいないよね」

「……そうでしょうね」

 こんな時代に、好き好んで野宿をするような人間はいない。

 もっとも、好き好んで旅をしている人間もほとんどいないのだが。

「ひとり旅なの? 他に誰も気配しないけど――」

 きょろきょろとあたりを見渡して、少女は言う。いいえ、とカミルは首を振った。

「ここのあたりの魔物は特に厄介ですから……あとの二人は結界の中で寝ています」

「ケッカイ?」

「防御用の壁で包まれた空間を作ったんですよ」

 そんなことできるんだ! と少女は目を丸くした。

 無理もない。結界を生み出す能力は四神の中でも“玄武”の《印》を持つ者にしかなく、その人数は大陸的にも極めて少ないのだ。

 いいな、と女の子は微笑んでつぶやく。

「……ケッカイがあったら、お父さんも町にいたままでいられてたのかな」

「―――」

 碧い瞳に、星の光が映っていた。

 いたたまれなくて、カミルはそっと目を伏せる。

 ――たとえ結界の力があっても、伝染病はどうにもならない。そもそも、結界を張ってしまうと他の人間が近づけないのだ。それでは町に住む意味もないだろう。

「お父さんの……傍に、ついていなくていいんですか?」

 厄介な病を持つ父の傍にいることを、自ら選んだという娘は、カミルの言葉におかしそうに笑った。

「ヘンなのー。お兄さん、どうしてそんなに丁寧にしゃべるの?」

「……それはただの癖です。それよりも――」

「ねえねえ、私の歌どうだった?」

 きらきらと瞳を輝かせる娘に、話をそらされたことを咎めることもできず、苦笑しながらもカミルはうなずく。

「言葉になりませんよ。あんなに綺麗な歌声は聴いたことがない」

「ほんと?」

「ええ。聴くことができて幸運でした」

 少女は手を叩いて喜んだ。心底嬉しそうな笑顔だ。

 そう言えば最初から、この子はずっと笑っている――

「あれは、シレジアの歌じゃないんですか?」

 カミルは訊いた。うん、と少女はうなずいた。

「あのね、私のお父さんもお母さんもシレジアの人なの。教えてくれたんだ」

「シレジアの……」

 どうりでこの娘も、容姿が美しいはずだ。シレジア人は美の女神イリスの守護のために、見目麗しい人間が生まれやすいと言われている。

 現に、カミルの身近にいるシレジアの血筋の女も……

「おにーさん」

 ふと気づくと、少女は上目遣いでじっとこちらを見上げている。真顔だったその表情が、やがてにんまりと意地の悪い笑みになった。

「……誰のこと考えてるの?」

「………。何も考えていませんよ」

「嘘だーあ。だって最初私を見たときも、目をそらしたもんね。何かあるでしょ? あるでしょ?」

 カミルは苦々しく嘆息する。――どうしてこうも勘がいいのだ、この子は。

「ねえねえ、誰? 教えて教えて」

 しつこく迫ってくる少女の、星の光をたたえた瞳があまりにまぶしくて、隠し事はできなかった。

「……旅の連れです。彼女もシレジアの血筋なんですよ。あなたと同じ――」

 ――同じ長い黒髪に、白い肌に、海の色の……瞳。

 わお! と無邪気な子供は歓声をあげる。

「さてはさてはっ! おにーさんってばその人とらぶらぶ?」

 ――勘弁してくれ。

「そんなわけがないでしょう……」

 片手を額に当ててため息をつく。らぶらぶ? 冗談じゃない。あの女は――何も分かっちゃいない。

 とたんに、少女はしゅんと眉をさげた。

「……じゃあ、片思いさん? 寂しいね」

「………」

 カミルは微苦笑する。

 普通なら癇に障ったに違いないセリフなのに……なぜかこの娘の鈴のような声は、不愉快ではなかった。

「シレジアの人なんだ」

 ってことは、歌もきっと上手だね――と、小さな花のような少女は嬉しそうに顔をほころばせる。

 カミルは少しつまった。視線がわずかに泳いだことが、すぐにバレてしまったようだ。

「え? 違うの?」

「……シレジアの血筋というだけで、シレジアで育ってはいないですから」

 申し訳ない気分で告げる。

 かの旅の仲間である黒髪の女は、たしかに歌うことは好きらしい。ただし……まあ、詳しくは言うまい。

「音感は耳からですから……歌の多い環境にいなかったから、慣れていないだけですよ」

 何となく言い訳じみたことを言ってしまう。

 すると少女は、またもやにんまりと笑った。

「うーわー。おにーさん、その人のこと本当に好きなんだね」

「……は?」

「その人のことかばってる!」

「―――」

 そう……なるのか?

 自分の言動を振り返り、カミルは真剣に眉根を寄せた。自分は今、単に少女の期待を裏切るような答えを言うのが心苦しくて言い訳しただけで、かの女をかばっていたわけでは……

(いや……)

「悪く言いたくなかったんだね」

 まるで代弁するかのように、少女があっさりとそう言った。

 カミルは心の底から降参し、苦笑しながら両手を軽くあげた。

「参りました」

「よろしい」

 満足そうに、少し偉そうに胸を張る動作をして、少女は大仰にうなずいた。

 くるり、と踊るようにその場で身を翻す。軽い鼻歌。そのあたりをとん、とんとリズムを取るようにスキップし、「歌はね――」と歌姫はまさに歌うように語り出す。

「上手も下手もないよね。そりゃあ、職業として歌ってる人だと別かもしれないけど、それだってきっと歌いたい理由があるの。下手だからって、歌っちゃいけないことにはならないのが、歌の魅力のひとつ」

 カミルは黙って、踊る歌姫を見つめる。

「『あいつの歌は下手だ』なんて悪口言う人、私、嫌い。歌うことが好きな人にしか分からない、とっておきの気分っていうのがあるんだよ」

 足をとめ、青年を振り返りいたずらっぽく舌を出す。

「――悪口言う人には一生分からない贅沢な気分だよ。へへ、ざまあみろっ」

 カミルは少し笑った。

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