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外套 [プレ/シリアス]

 満天の星空がそこにあった。

「………」

 はふ、と息を吐くと、白く染まる。

 手が冷たい。――寒いのには、強いほうだと思っていたけれど。


 セレンは空を見上げたまま、ふらふらと歩いていった。

 夜空の下を。星空の下を。


 水のせせらぎが聞こえる。

 ――この村には川がある。

 彼女の足はいつの間にか、その川岸に立っていた。


「………」


 満天の星空の下。

 水のせせらぎが聞こえる。

 耳を澄ませば、星の声さえ聞こえてきそうで。


 吐く息が白く染まって、目の前をほんの少しだけ曇らせた。


「静かな……村、ね……」


 つぶやいた。

 ふわりと、背後から外套が肩にかけられた。


「風邪を引きますよ」


 もう聞き慣れた声だ――

 一緒に旅を始めてから二年経ったろうか? 三年だったろうか。

 今夜はそんな単純な計算さえできないほど、頭がぼんやりしている。


 隣には、誰もいない。

 セレンはくすっと笑った。

「外套をかけるだけかけて……隣に来ない男って初めて見たわ」

 けれど、彼らしいと彼女は思った。

 返事はない。

 代わりに、斜め後ろにとても強い気配がする。

 その気配はおそらく魔物避けのためにわざと強くされているもので――

 彼はそこにいることで、彼女を魔物から守ろうとしている。

 今は外套に隠されたセレンの右肩。そこには、魔物を寄せる気配を持つ《印》があるから。


 こんな真夜中に宿を抜け出して。

 寒空の下を、上着さえ着ずに歩いてきて。

 ずっと星空を見上げているような女を――彼は一体どう思うのだろう。


「連れ戻そうとはしないのね」


 問いかけはまるで駆け引きのように。

 いつもの彼ならば、「風邪をひかれたら迷惑だ」と力ずくにでも引っ張っていきそうなものなのに。

 ――逡巡するような気配があった。


「……今のあなたに触れられる自信がありません」


 どういう意味だろう。

 ――そんなことは、自分が知っている。


「そう、ね……」


 外套は暖かかった。

 けれど心は――寒い星空の下に置いたまま。


 川のせせらぎが聞こえる。


「ねえ……」


 連れ戻さないまでも、消えてしまおうとしない気配に向かって、セレンは語りかける。


「よく言うわよね。大切なものは、失ってから知るって……」


「………」


「だけど私は知っていたわ。……失う前から、知っていたわ」


 かさり、と靴底が草の上でわずかに滑る音がした。自分ではなく、もうひとりの気配の。

 彼の気配の。


「分かっていたの……大切な……」


 ねえ、と彼女は囁いた。

 寒空の下で。

 ねえ、あなたはどうだったの――と。


「私は……」


 青年の静かなトーン。

 川のせせらぎと同じくらい心地よく、

 そして今は……寂しい。


「私は……大切と知っていて――捨ててきました」

「そう」


 星空がまたたく。

 月が、冷たくそこに在る。


「失いたくなかった――」


 吐く息が白い。

 一言、言葉を空気にのせるだけで、視界がくもる。


「失いたくなかった――」


 寂しいのですか、と問う声がした。

 不器用な彼らしい問いだと、思った。

 ――今、彼の吐く息は何色に染まっているのだろう?


「寂しい……そうね、寂しい……」


 そう言葉を紡いだ自分が、ひどく滑稽に思えた。

 知っているのだ。自分がそう言える理由を。

 “寂しい”なんて言葉を、口にできる理由を。


 寂しさはいつだって、ひとりのときにくるものだけれど。

 言葉にできるのはひとりのときじゃない。

 ――言葉は聞く者がいなければ、言葉にはならないから。


「この外套が悪いんだわ」


 彼女は微笑んだ。


「この外套のせいで……寂しいんだわ」


 そして外套の合わせ目を、ぎゅっとつかんで放さずに。

 そして彼女は語った。――かつてこの星空の下で。

 こんな寒い星空の下で。

 こんな冷たい月の光の下で。

 そしてせせらぎの聞こえる場所で。

 大切な人と過ごした時間があった――と。


「あのときも、寂しかった……」


 どうしてだろう? もっとも愛した人とふたりで並んで見上げた空。

 星のまたたきが、

 月の光が、

 水のせせらぎが、

 世界のすべてが、彼の心を奪っていたからだろうか?


「あなたは、私から彼を奪わない……」


 外套をそっと撫でて。


「奪わないまま……傍にいてくれるのね」


 襟を口元に寄せて、そっと口づけをした。

 その外套が誰のものか知っている。

 自分には大きすぎる……その外套が、誰のものか知っている。


「あなたが」


 声がした。


「奪わせないだけです」


 その声があまりにも寂しそうだったから、

 セレンはそっと囁いた。

「……馬鹿ね」


 奪おうにも、もう失ってしまったもの。

 否――

 永遠に心の中に残って、消えてしまわないもの。

 誰にも触れられない。誰にも触れさせない。


 それを知っている、あなたは今、けれど傍にいる。


 外套が無性にいとおしかった。

 襟首を立てれば、寒さから自分を守ってくれた。


「自分の外套を人にゆずって……あなたは今どうしているの?」


 振り向けばすぐ分かったことを、あえて問うた。

 自分よりも寒がりのくせに。

 あえて自分に、外套を渡して。


「寒くないんですよ」


 青年は応えてくる。


「少なくとも今のあなたよりは……」


「損な性格ね」


「おかげさまで」


 あなたのおかげでねじくれましたから――なんて。

 自分が不器用なことを棚にあげて。

 セレンはくすくすと笑った。笑うたびに吐く白い息が、今は不愉快じゃなく。


「あなたが風邪を引いても、看病はしないわ」


「こちらからお断りします」


「でしょうね。あなたは、私が元気に迷惑かけてるほうが好きみたいだし」


「………」


 損な性格よね、と再び笑った。


 この寒空の下。星空の下。月光の下。せせらぎの傍。

 笑える日が来るとは、思ってもみなくて。

 ああ、きっと――


「この外套のせいね」


 失ってしまった大切な。

 心の中にしまいこんで誰にも触らせない、大切な。

 その人の存在を、包み込んで暖かくしてくれる、この外套が。


「あなたの大切な人は――」


 青年の声が聞こえる。


「あの星にはならずに、永遠のあなたの心の中に――」


「………」


 星になんかならないわ、と彼女は言った。

 星になんか渡さないわと。


 愛しくて愛しくてたまらなかった人。  この寒空の下。星空の下。月光の下。せせらぎの傍。

 自分を寂しくして仕方なかった人。


「この外套とは、逆だわ」

 何もかも。何もかも逆に。

 決して自分の隣に来ない、その青年もまた。

 何もかも逆に。


 セレンは微笑んだ。


 そして、


「この外套なら――星にもなるわね!」


 ばっと外套を空へと放り投げた。


 外套がしばしの間、視界を埋め尽くす。

 星も月も何もかも隠して。


 外套がひらりと落ちて、

 そして受け止めた人物へと、セレンは振り向いた。


 そこで、困ったような顔をした青年に向かって。


「ふふっ。あなたのそんな顔って、滅多に見られない」


 微笑んだ。

 ――ほら。外套は星になって、そして自分は寂しくない。

 だってもう――ひとりじゃないから。


「あなたが風邪を引いたら、旅に支障が出るのよね」


 セレンは指先で自分の唇をつついて、


「さあ、帰りましょうか」


 青年の手にある外套を再び奪い取り、彼女は「寒っ」と身を縮めた。

「まったくもう。寒い夜に外に出るもんじゃないわね」

「……あなたが出てきたんでしょうが」

「そこを正論でつっこむような男は嫌いよ」

「あなたが風邪を引いても看病は絶対しませんよ」

 険悪な声が返ってきて、セレンは笑った。

 不器用な人だ。どこまでも、嘘が下手だから。

「手でもつないで宿に行く?」

「――子供じゃないんですよ!」

「せめて手だけでもあったかいほうがいいんじゃないの、ほらほら」

 セレンは無理やり、彼の手をつかみとった。

 冷え切った大きな手がやけに頼りなく、この歳で赤くなる彼がやけにかわいらしく、そしてむっとしながらも手を払わない彼がやけに――いとおしかった。


―Fin―

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