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短編

白い人

作者: 佐々木尽左

 うまくいかないときは、何をやってもうまくいかないらしい。




 僕は、今まで目標というものを持ったことがなかった。ああ、いや、それは正確な言い方じゃないな。大きな目標を持ったことがなかったと言った方が正しい。さすがに学校へ通っていたときには毎回の試験でいい点数を取ろうと頑張ったし、大学入試もできる範囲のことはやった。更に言うと、就職活動だって自分なりに努力したからこそ、就職氷河期と呼ばれた時代に内定を勝ち取れた。

 ただ、そうやって目の前のことはがんばれるものの、先の話となるとさっぱりだった。例えば、小学生のときに、将来どんな仕事に就きたいのかという読書感想文を書こうとして書けなかったり、大学在学中に将来必要となるだろうからと友達に勧められた本をついに読まなかったり、自分のこれからの人生に必要そうに思えた資格も取っていない。

 目標というものの輪郭がぼやけると、途端にやる気がなくなってしまうのだ。良くないことだと思う。けど、どうしようもないのだ。何せやる気が出ないのだから。

 しかし世間とは案外何とかなるもので、敷かれたレールに乗って進んでいるうちは僕のような者でも何とかなる。いや、人を考えずに働くよう仕向けるように社会が作られているとしたら、むしろ何とかなるようになっているのが当然だ。でないと、僕みたいな人がわんさと谷底へと落ちてしまう。

 そういうわけで、今まで僕は何となく生きてきた。けど、その生き方は実に危険といえる。理由は簡単で、その敷かれたレールを支えている社会に変化が起きたときに、何も対応できないからだ。そうして次々に脱落していったやつから谷底へと落ちてゆく。世の中は厳しくて、一度落ちたら這い上がることはほぼ不可能だ。何と世知辛いことか。


 そうそう、何となく生きてきた僕だけど、一応結婚をしている。大学のときの後輩だ。最初は初めてできた彼女に浮かれてつきあい始めて、大学を卒業する頃には同棲してて、しばらくすると結婚した。「けじめをつける」という名の下に。

 子供がひとり生まれた頃まではよかった。でもその後、地方への単身赴任が始まる。会社の業績が悪化して解雇される従業員が増える中、どこも人手不足ということで短期間だけ助けに入るためだった。長くて一年、短くて三ヶ月では妻子を連れ回すことなどできない。

 そうして五年が過ぎた頃に、妻の浮気が発覚した。僕が発見できた理由は、予定よりも一日早く帰ることができるようになったので黙って帰宅したら、妻と間男がやってる最中だったからだ。奇しくも現場を押さえたわけである。

 このあたりのことはあんまり覚えていない。覚えていることといったら、間男がやたらとふてぶてしかったことと、妻が僕を非難し続けていたことくらいか。後の話し合いで本人が言っていたが、初めて見つかったときに、間男に居直られて何も言い返せなかったから見切りをつけたらしい。寂しいからって理由だけで浮気するのはだめだろうと言ってやったら、自分より会社を取った僕が悪いと言い返された。共働きをしていたならともかく、専業主婦をしていてそりゃないだろうと僕は思った。せめてもの慰めがあるとすれば、妻の両親が済まなさそうにしていたことくらいか。




 話の流れは終始こんな感じだったから、お互い離婚することで話を進めている。そうなると後は財産と親権の問題をどうするのかということになるわけだが、今は親権をどうするかでもめていた。お互い子供を取りあってるのだ。僕としては自分の子供だってわかってるし、今後結婚するかどうかなんてわからないから引き取りたい。一方、妻──いや、元妻か? どちらでもいいが──は、再婚する間男も一緒に育てると言ってることから、自分の手で育てたいそうだ。

 最初、妻は僕が子供を引き取ると強く主張したことに驚いていた。さすがに十年以上も付き合っていたから、僕が何となく生きているということを知っている。だから、親権もあっさり諦めるだろうと思っていたそうだ。それには僕も同意する。自分の子供とはいえ、どうしてここまでこだわっているのか僕自身も不思議だった。ただ、何となくそうしないといけない気がしたからだ。説明できないというのは、自分に対しても他人に対しても厄介なものである。

 それと、この時期に悪い知らせが更に舞い込んできた。会社から自主退職しないかという話を持ちかけられてきたのだ。これから男手一つで子供を育てようと考えていたのに、これを妻に知られると親権を取られてしまう。

 僕は、人生で生まれて初めて本気で焦りを覚えた。今までも勉強不足で試験に臨んで焦ったことはあったが、そんなのとは比較にならないくらいだ。何としても子供を引き取りたいのに、それが働き口をなくすことで不可能になってしまうという恐ろしさ。何がそんなに恐ろしいのかはっきりとわからないのに、なぜか何となく恐怖を感じてしまう。


 だから、妻を絞め殺してしまった。


 今日、妻がひとりでやって来て、何度も会うのは嫌だから、慰謝料を多めに支払うことで親権を諦めてほしいと頼んできた。けど、そんなことで諦められるわけがない。できるんだったら最初に諦めてる。

 だから平行線をたどった話の末にお互い感情的になり、ついやってしまったのだった。終わってみると馬鹿みたいない理由で手をかけてしまったと思う。これで全て終わってしまった。

 できればなかったことにしたいな、とは思うものの、さすがにそんなことができるはずもない。推理小説ならばここから完全犯罪を目指すのかもしれないが、僕にはそんな気は起きなかった。そもそもトリックを思いつけなかったし。

 警察から逃げ切る自信もなかった僕は、自首することにした。気がかりがあるとすれば子供の面倒についてだが、間男が育てるとも思えないので、妻の両親が育てるんじゃないだろうか。

 妻を殺したというのに随分と落ち着いている自分に多少驚きつつも、自首する前に十年以上書いている日記を記しておこうと思った。何を暢気にとは自分でも思うが、妻とつきあい始めたときから書いていた日記なので、別れる日の分も書いておきたかったのだ。僕の本が差し込んである本棚の中からノートをひとつ取り出すと、鉛筆と消しゴムの置いてある居間の机の前に座った。これを書き終えてから警察署に行こう。




 日記を書き終わる前から、それはそこにいた気がする。あまりにも自然過ぎて疑問にすら思えなかったせいで、いつからそこにいて、どうやってやってきたのかわからない。


 日記を書く前にはいなかったはず──本当に?

 玄関の扉は閉まっているはず──鍵は閉めていたっけ?


 振り返ってみると、見られてはいけないものの横に立っているそれは、全身が白かった。身につけている背広、今時珍しい手袋、室内なのに履いている革靴、そして髪の毛さえも。ああ、もうひとつ、脇にある大きな旅行鞄もだ。

 全てが不自然なはずなのに、不思議にも思えない。ただ何となく、そこにいるんだとしか感じない。

 「もう、書き終わりましたか?」

 やたらと渋く、そして優しい声色でその人は問いかけてきた。責めることも急かすこともない、ある意味とても機械的な印象を受ける言葉だ。

 そこにいて当然と思えるくらいの存在に、僕は肯定の意思を伝えた。

 「あなたは、妻だったものを愛していましたか?」

 「はい」

 「なぜ愛していたのですか?」

 「……」

 「あなたは、子を必要としていますか?」

 「はい」

 「なぜ必要なのですか?」

 「……」

 「あなたは、両親に何を望みますか?」

 「え、望み?」

 僕はその人からゆっくりとひとつずつ質問を受けていく。近しい人から友人、隣人に続いて会社の同僚に対する質問だった。けど、僕はその質問に対してろくに答えられない。何しろ考えたこともなかったからだ。

 人に対する質問が終わったかと思うと、今度はまるで人生論みたいな質問へと移る。

 「あなたは、今までどのように生きてきましたか?」

 「どのようにって、親に育てられて、勉強して、就職して、働いてですけど」

 「あなたは、本当はどのように生きたかったですか?」

 「どのようにって言われても……」

 「あなたは、これからどのように生きたいですか?」

 「……」

 一体何を聞きたいのかさっぱりわからない。

 普通ならこんな質問をされるとまともに答えようとはしないだろう。自分の根本に関わるようなことを質問されてるのだから恥ずかしいと思うし、場合によっては触れてほしくないから怒ることだってあるはずだ。

 それなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


 立ったままのその人から受けた質問を僕は座ったままずっと答え続けていたが、それもやがて終わる。いや、大半はろくに返答できなかったから口ごもるだけだったけど、答えられることは答えた。

 質問が終わってからは、しばらく沈黙が続いた。その人は何かを考えるように黙っていたし、僕からは話すことがなかったからだ。

 しかし、その人はあるときぼそりと呟く。

 「ふむ、あなたはなかなか白いですね」

 「……はぁ、そうですか」

 単純に事実を告げているような様子でそんなことを告げられると、僕は戸惑うしかない。一体何が白いというのだろう。

 「普通はですね、皆さん生きていらっしゃると様々な色がつくものなんですよ。ですから漂白すると周りに与える影響も大きくなるんです。でも、あなたの場合はそれがほとんどなさそうだ」

 僕はその言葉を聞いて、小馬鹿にされているというよりも、不安や寂しさを感じた。ただ、だからといってどうしたらいいのかまでは思い至らない。

 「ですから、どうです? 漂白してみますか?」

 白い手袋に促されて視線を向けた先には、静かにたたずんでいるものがある。

 このときになって、それをしたのが僕だということを思い出した。余程この人との会話に集中していたらしい。

 「漂白って、どうするんです?」

 「なかったことにするんですよ」

 「そんなことができるんですか?」

 「できますよ」

 何とも簡単な受け答えだ。本気で言っているとは思えない。でもなぜか、嘘であるようにも思えなかった。

 再び沈黙が訪れる。そして僕は考えた。

 この人の言うことは何もかもが曖昧だ。普通は一笑に付して無視するのが一番だろう。けれど、僕は既に終わった身だ。これ以上破滅することもない。そう考えると、迷う必要があるとも思えなかった。

 「それじゃ、お願いします」

 意外なほど簡単に僕はお願いした。

 「関連するものも多少漂白することになるかもしれませんが、あなたの場合でしたら問題ないでしょう」

 今までとは違って少しだけ嬉しそうな声色で、その人は僕に注意事項を述べる。そう伝えられた瞬間、僕は呆然とした顔をしていたに違いない。

 「それって、どういう……」

 「あなたの日記をご覧ください」

 僕の質問を押しのけるように伝えられた言葉に従った僕は、机の上に置いてあった日記に視線を向ける。

 そして、指を鳴らすぱちんという音がやたらと響いた。




 再び振り返ると、そこには誰もいなかった。さっきまでいた、あの……あれ? 誰がいたっけ?

 僕は首をかしげた。さっきまで誰かと話をしていたような気がしてたけど、誰もいないのに誰と話をしていたんだろう。不安になって床を見るが、もちろん何もない。僕は何となく安心した。

 そして居間の中央やや右よりに置いてある机に再度視線を向けると、一冊のノートが置いてあった。不思議に思って手に取ってみる。ぱらぱらめくってみたが全て真っ白だった。一体僕は何がしたかったんだろう。

 ふと本棚を見てみると、その一角にノートがまとめて差し込まれていた。引っ張り出してみると、結構使い込まれたやつもある。けど不思議なことに、どれも中は真っ白だった。何も使っていないノートをため込んで、僕は一体どうするつもりだったのか。

 そういえば、今は平日の真っ昼間だというのに、どうして僕は自分の家にいるのだろう。いつもなら会社に行っているはずなんだが、何かあったんだろうか? 誰かと会う約束をしていたような気もするけど、独身で友人の少ない僕に昼間から会いに来るような人はいないしなぁ。

 まぁ、思い出せないということは、それほど重要なことではないのだろう。

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