おねショタに関する考察と我が熱意
おねショタ……この甘美な響き。なぜこのジャンルが常に一定層の支持を受けるのかを考察しつつ、独断と偏見にまみれて熱烈におねショタへの思い入れを記述する。
おねショタがフェチとして確立される要因は二つ挙げられる。大別してそれはつまり、「母性」と「性欲」である。
1:母性について
まず母性に関して結論から言えば、母性とは暖かく自らを包み込み、全てを肯定し、愛し、守ってくれるものである。我々は母胎から生まれ出でたその瞬間より、特に男子であらば顕著に、この母性を求め続けることとなる。
そもそも、なぜ母という存在が父と比較しても格別の無償の愛を我が子に注ぐのか。それについては様々な意見・考察が既に存在しているだろうがしかし、母の愛そのものを否定することなど誰にだろうとできるものか。我が身を大なり小なり傷めて産んだ、ある意味では我が身の一部。筆者には想像もつかない事象ではあるが、一つの生命体からもう一つの生命体が産まれ落ちるとは、稚拙な表現で申し訳ないがきっととてつもないことなのだ。
よって今回は、母の愛は確かに存在することを大前提とし、それに通ずる親愛の情を享受側の視点から「母性」と呼称する。異論があろうとする。
さて、その母性は男女共々に享受するものであるが、前述した通り、男性にとっての母性とは、女性が感じるそれとは少し捉え方が違う。
男とは人間社会全般において殊更に強く、逞しく、頼れることを求められ続けられている。しかしそれは理想であって、男の多く(あるいは殆ど)が弱音を吐露し、甘え、守られたいと感じている。当然だ、男子とて弱き人間である。今日の男子の有り様は、言うなれば生物的な筋肉量の差によってのみ築かれた軽薄で、しかし堅固な社会通念の下で成り立っているに過ぎない。これがもしカマキリやアンコウのように男女間の体格差が逆転し、戦闘行動によるヒエラルキーすらも逆転したのならば、あるいは男子はこのような通念から脱することもあったのかもしれない。
しかし実際の所、男とは原始より闘争の中心にあり、か弱き女子供から頼られる立場にあり続けた。もはや女性が男性を顎で使うことも存分にあり得る社会であろうとも、その通念は未だ根強く残り続けている。そんな「男らしさ」に捕らわれ疲弊している男性は、男らしくある自分を捨てられる、癒してくれるものを求め欲しているのだ。
そこで、そんな男達の欲求に見事当てはまるのが、前述の通りの特性を持つ母性である。もちろんそれ以外の癒しによって欲求を満たす者も多いであろうがしかし、母性にはそれだけが持ち得る特別性、言い換えれば強みと言えるものがある。それは、大多数の人間が幼い内にその身に受ける最初の愛、あるいは庇護であるという事。幼い頃から現在に至るまでの「愛されている」「守られている」と実感できた経験から(鮮明な記憶の有る無しに関わらず)その時に得た心の充足を求めて、体が成熟した後になっても母性を欲するという事は十分に有り得る。
さて、ここで確認しておきたいのは「母性を求める=肉親である実母を求める」というわけでは必ずしもない、という事。この辺りを勘違いして「俺はマザコンなんかじゃない」と主張する、言葉を額面通り受け取る能無しのうえ母の愛すら素直に享受できないロクデナシの人型廃棄物は回れ右して崖から落ちて死ね。複雑な事情がある場合はごめん。
話を戻すが、今回取り上げる母性は享受側の視点によるものであるので、冒頭に述べた通りの性質を享受する者が感じられた時点で、相手が母でなかろうと女性でなかろうと、究極的に言えば同一の生命体でなくとも「母性」は確かに存在できるのである。要するに、愛され守られ慈しまれた実感があるかどうか。この一事に尽きるのである。
2:性欲について
二つ目の要因の「性欲」であるが、これは言わずもがな生物としての根幹にあるものであり、世の男性の睾丸がオタマジャクシ生産ラインをストップさせない限り、切っても切り離せぬ相棒である。棒なだけに。切り離せぬ。
さて、この性欲に関しては前述の母性のように細々とした説明を果たす必要もないが、実のところこの性欲というもの、母性との相性が非常に良い。と言うのも、1で述べた通り母性とは最初に経験する無償の愛であるが、それと同時に最初の女性経験でもある。これが意味するところは非常に大きく、交際や結婚といった女性との深い繋がりを持つ上での相手選びにも、母のような性質を持つ女性を選ぶ傾向が見られる男性は多い。そういった男性の母はきっと母性に溢れる素晴らしい人間であったのだろう、その記憶から女性の理想像が出来上がっていくことは何らおかしいことではない。男を慈しみ、愛し、守り、時に叱ってくれる女性。好きにならないわけなくない?
ここで一つ注意が必要なのだが、母性と性欲は相性が良くとも、母性の象徴とすら言える実母そのものと性欲との相性はすこぶる悪い。読者諸氏も最初に母性を感じさせる母という存在を、性的対象として捉えることはあまりあるまい。少なくとも思春期特有の心身のアンバランスな時期にでもいない限りは、社会常識や遺伝子学的見地から近親相姦は忌避すべきものだと理解できているのが一般的である。
ならば母性を感じさせてなおかつ近親者でない存在が居るとする。好きにならないわけなくない?
ここまでくればもうお分かりだろう。そう、お姉さんである。おねショタのおねに当たる部分である。お姉さんとは言うがつまり、年上の年若い女性全般を一般的用法としては指す。
なぜお姉さんなのか。母とは当然年上であり、幼少期の子どもと比較すれば体格的に勝っていることが多い。この体格差というものは、おねショタに内包されている母性を際立たせる点で非常に重要である。物理的な質量差によって男が頼られる立場にあったように、母と子にもこの法則は成り立つのだ。子どもを守るように、あやすように優しく抱き留める大人の女性の姿など感動すら覚える。それは置いておくが、この体格差を実現させ尚且つ性的対象となり得る存在と言えば、やはりお姉さんなのだ。確かにロリだろうと母性を持つことは可能だが、ロリがショタを甘やかしたところで、絵面からして結局「ロリショタ」という別ジャンルになってしまうわけだ。それはそれで美味しいが。
さて、母性に性欲というスパイスを注げばお姉さんに行き着くのは至極当然であるが、このバランスが母性に振れればそれはママショタ、おばショタ等のジャンルへと変容するというわけだが、詳しくはまた別の機会としよう。
3:なぜショタである必要があるのか
ここまで生産性の欠片も無い文章を延々読み連ねられた方なら説明するまでもないだろうが、全ては母性を存分に受け取るためである。確かに成人後であろうと母性は享受できるが、正直なところ社会通念という毒素に犯された腐れ脳味噌では、成人男性が女性に甘やかされ守られている絵面は見るに耐えない。そこで甘やかされ守られるのが自然である子どもにその対象を置換すれば、なんということだ。心が豊かになるじゃないか。
それ以外にも理由はある。例えば2でも述べたが、体格差を実現させるため、というのも一つ。
また、子どもとは汚れを知らぬ存在である。というよりそうあってほしい、という勝手極まる大人心によって、子どもは過剰に美化賛美される傾向にあるように思えるが、これに突っ込むと長くなるので端折る。だが少なくとも子どもは人生経験や勉強時間の不足は否めないため、「モノを知らない」という表現はできるだろう。それが大事であるのだ。ここで言うところの「モノ」とは人類が連綿と築き上げてきた知識の粋というわけではない。悲しいかな、人とは生きれば生きるほど世俗にまみれ、知れば知るほど疲れ果てる。そんな過剰な情報に溢れる成長を、時に人は「汚れる」などと表現することもあるのだ。ならば成長と共に知る「モノ」とはつまり「汚れ」とも言えよう。そういった成長を汚れと感じる者、また老いという現実からの逃避を望む者も、このおねショタというジャンルに適性があると言えよう。おねショタは汚れ無きかつての自分をそこに投影し、その自分の影法師が慈しまれている状況を楽しむことができるのだから。
あと純粋に子どもって可愛いよね。唐突に文章が崩れたがそれほど大事であるのだ。性に対する初々しさを忘れ猿のように腰を振ることしか頭にない成人男性など、前述した成長を汚れと感じる者からすればウ●コとゲ●を混ぜた腸液カクテルと同義だ。多分に過言かもしれないがとにかく同傾向だ。
そこで前述の通りに置換だ。可愛いお姉さん×可愛い小年=とっても可愛いヤッター! という黄金の方程式が出来上がっているじゃないか。これはもう宇宙の真理であるとすら言えるのでは?
4:結論
要するにおねショタとは母性を欲する心と性欲を同時に満たす事が可能なジャンルであり、最も重要な点はそこに母性があるかどうかである。母性無きおねショタなど、そんなものは単なるお姉さん型の肉塊と少年型の肉塊の醜穢極まる魂無きストリップショーである。故に私は強烈なショタおねアンチである――ショタおねとは、本来受けであるショタが攻めに転ずるゲロ以下のインポテンツ展開、関係性全般を指す――が、これも長くなるので別の機会に語ることにする。
おねショタはそんな生ゴミに沸く蛆以下のクソ虫とは比較すらもおこがましい領域、聖域にあるのだ。
母性、性欲、これらを混ぜ合わせた上でたどり着く健全にして唯一無二、絶対普遍の王道楽土――それこそがおねショタである。
反論・文句・罵詈・恫喝等ございましたらかかってこいよこの野郎。
あとおすすめのおねショタ作品ご存知でしたら教えてくださいお願いします。