第9話:売れるモノと売れない笑顔
闇、闇、闇――
手の先も見えないほどの真っ暗闇だ。
カリカリカリ……
そんな中、木を擦りあわせる音だけが、延々と木霊する。
懸命に火を起こそうしているのは、砂漠の民、カサマ=レディンだ。
もしここが彼の故郷である砂漠なら、既に火が点いていた事だろう。しかし、ここは湿度の高いツェン島であり、僅かに湿った木屑からは煙すら出てこない。
「ふぅ……もう誰も、残ってませんね」
その言葉通り、周囲に人の気配は全く無い。
ほんの少し前まで、ここは火を起こそうしていた生徒達でそれなりに賑やかだった。それが、闇に吸い込まれるように1人減り、2人減り、とうとう彼だけが取り残されている。
心細さに帰りたいと思う気持ちが、ポコリと湧き上がった。
(でも、約束したじゃないですか)
そう、寡黙で心開かぬルームメイトと約束したのだ。
『シュルトさん、材料が手に入ったので故郷の料理を作ってあげますね』
出掛けに何気なく言った言葉だった。
要らぬ世話だと罵声が返ってくるかと思ったが、意外にもシュルトは迷とした顔を浮かべ、小さく、だが確かに頷いたのだ。
不本意だが頷いてやったのだと言わんばかりの顔を思い出し、自然と頬が緩む。
「さあ、僕はまだ諦めませんよ」
自分に言い聞かせ、作業を再開しようとした時――ボウとした光が目にとまった。
その暖色の灯りはダンスでも踊っているように、ユラリユラリと揺れながら、ゆっくりと近づいてくる。
次いで聞こえたのは女性の声だった。
「あらら……2棟はもう誰もいませんね」
「残念。あと1回売れたらプラスだったのになぁ」
「あ、アルちゃん。誰かいますよ。ほら、あそこ」
スッと向けられた光にレディンは目を細め、手をかざして光を遮る。
指の隙間から見えるのは、昼間に出会った二人の少女だ。
「アルマさん? それに、カンナさん?」
アルマの持っていたランプで、本当にあっけなく火は点いてしまった。これが文明の力なのだと、レディンは思い知らされた気分である。
3人は燃え盛る炎を囲んで座り、しばし話し込んだ。
「――そうですか、それは災難でしたね」
「ほんとよ! だから貴族ってだいっ嫌い!」
「でも、そんな事があったのによく商売なんてできましたね。僕ならきっと、部屋で震えていたかもしれません」
アルマは襲われた事を吐き出してスッキリしたのか、険の取れた顔で肩をすくめた。
「それはカンナのお陰ね。カンナが一緒に来てくれたから、恐がらないで商売が出来たの」
「そ、そんなっ! カンナは何もしてません」
「でも、カンナさんは剣術道場の跡取りなんですよね。僕は喧嘩はからっきしなので憧れちゃいますよ」
「そっ! そんなことはございませんっ!」
何のジェスチャーなのか両手を顔の前でグルグルと回し、腰を浮かせて力説する。
「本当にすごいのはアルちゃんです! 本当に商売が上手なんです。さっきだって3棟の男子をホイホイとその気にさせて火を買わせたのです! それはもう詐欺師みたいで――」
「人聞きの悪い事言わないでよ! もっと的確な表現があるでしょ? その、可愛い小悪魔とか」
「ああ、ごめんなさい。それです。可愛いド悪魔」
「ド悪魔ってカンナッ! なにそれ聞いたことも無いわ! ちょっとレディンもなんとか言って――レディン?」
二人の視線が、うずくまって肩を震わせるレディンに集まった。
「あはっ、あははっ――ごめんなさい、おふたりの仲が本当に良いので。あはははっ」
そんな二人が可笑しくて、そして、羨ましかったのだ。
「ところで、レディンさんは何をやっていたのでしょうか?」
そう言うとカンナはぐるりと首を巡らす。
周りにあるのは、鉄板と木桶、水差し、そして大きな麻袋だ。
「……やっぱり、料理ですか?」
「ええ、チャパティを作ろうとしてたんです」
「チャパティ?」
「ええと、剣の民で言うところの、パンですかね。美味しいですよ」
「でも、油もバターもそれからイーストだってないじゃない。そんなのでパンなんて作れるの?」
レディンは「はい」と頷いて、隅に置かれた麻袋を指差す。
「あれはアタ粉と言って、あれと水があれば何とかなるんです」
「アタ紛って、小麦を殻ごとすり潰した、歯ざわりの悪い、あれ?」
「ええ、良くご存知ですね。まさか、ここで売っているとは思わなかったので、思わず3袋も買ってしまいました。今から作るので、おふたりも是非食べていってください……と言っても、塩が無いのでちょっと味が悪いかもしれませんが」
「「っ!」」
アルマとカンナは思わず顔を見合わせた。
「レディン、塩ならあるよ! ここに!」
差し出した麻袋を覗き込んで、レディンが顔を綻ばせた。
「なんて偶然! まさに神の思し召しですね。売っていただけますか?」
「いいけど、それ、砂漠の民が言うセリフじゃないわよ。たしか『真なる砂蛇』を信じてるんでしょ?」
「ああ、そういえば言ってませんでしたか、僕は神学部の生徒なんです」
「は?」「ええっ?」
アルマとカンナは再び顔を見合わせる。
砂漠の民は、シュバート国で昔から信仰されている統一神の存在を硬く否定していた。いや、ツヴェルフ砂漠がシュバート国の領として吸収された今も、まだその伝統は根強く残っているのだ。
それなのによりによって神学部とは。
「ご両親に、反対されなかったのですか?」
「ええ、ちょっと勘当されましたが、それは良いんです。僕は僕の信じた事をやりたかったので。さぁ、それよりチャパティを作りますね。塩はおいくらですか?」
そう言って笑うレディンの顔には、後悔や苦悩は見えなかった。
「ご馳走してくれるんだもん。思う存分使っていいわ」
「わぁ、ありがとうございます」
焚き火を囲っていた石段に鉄板を置くと、レディンは大きめの木桶にアタ粉と一掴みの塩を入れ、水差しから水を少しづつ入れてこね回す。
こね回した生地は、水を加えれば加えるほど粘りが出てきた。
レディンはしっかりと生地が馴染むように何度も何度もこねる。
じっと見ていることに飽きたアルマが、思い出したように口を挟んだ。
「ねぇ、レディンはこの学院の生徒に知り合いっていない? できれば、工学部か農学部の」
「……ええ、いる事はいますが」
「やった! そのね、できたら紹介して欲しいんだけど」
その途端、レディンは酷く気まずそうな顔を浮かべた。
「ええと、仲が良い訳ではないのですが、それでもいいですか?」
「ああ、いいのいいの、欲しいのはキッカケだけだから。カンナも紹介できる知り合いはいないって言うし本当に助かるわ。明日とかでも大丈夫?」
「ええ、分かりました。明日紹介しますね……っと、生地が出来ました。後は焼くだけですよ」
練りあがったアタ粉は茶色の粘土のようで、ふっくらしたパン生地と比べるといかにも硬そうだ。
「そのまま焼くの? なんか本当に硬そうね」
「確か剣の民は、イースト菌を入れて生地を発酵させるそうですが、砂漠の民は食べ物に菌を入れるのを好みません」
「じゃあ、やっぱり固いまま食べるの?」
「いいえ、見ててください」
手の上で平たく伸ばした生地を、油も引いていない鉄板の上にベタリと置いた。そして10ほど数えると、すぐに裏返す。しかし、十分に熱せられた鉄板の温度は相当高いらしく、生地の表面にはポツポツと焦げ跡がついていた。
「こうやって両面を一気に焼くと、表面が固まって水分の逃げ道がなくなります」
「でも、それじゃカチカチに」
「なりませんよ」
そう言うと今度は生地を素手で掴み取り、直火で生地を炙る。
「レディンさん、熱くないのですか?」
「慣れですよ。時々こうやって回して、中まで焼き上げます。すると、水分が膨張して、ほら、少し脹らむでしょ?」
言われてみれば平たかったはずの生地がボコボコと脹らみ始め、小麦の焼ける香ばしい匂いがフワリと漂う。その香りは少女達に空腹だった事を嫌でも思い出させた。
2人の目は炎に濡れたように輝き、一心にボコボコと脹らむチャパティを見つめる。
「小麦の殻には栄養が豊富にあります。私たち砂漠の民にとって小麦は貴重品ですから、こうやって全部頂くわけです」
「なるほど。これならイーストも油もバターもいらないし、なにより出来上がりが早いわね」
「ええ――ほら、できましたよ。食べて見てください」
程よく焼きあがったチャパティを真ん中でちぎり、2人に渡した。
まだ熱い塊を、少女達はハフハフと口に入れる。
パリッとした食感の後に、焼けた小麦の香ばしさが口中に広がった。しかし、その中身はもっちりと柔らかいのだ。
「柔らかい……それに、小麦の匂いがすごい!」
「はい――ハフ――でも、熱いです――ハフウウ」
あっと言う間に2人とも半切れのチャパティを平らげてしまった。
「どうでした?」
「もっちりしてて凄く美味しかったです!」
「焼き立てって言うのもあるかもしれないけど、真っ白なパンより香りも食感もいいわね。何より食べたって気がするの」
「気に入ってもらえて何よりです」
「――それだけじゃないわね。材料だってアタ紛と水と塩だけだもの、コストもしっかり抑えられる……これは売れるわっ!」
「へ?」
レディンはこの時になってようやく、アルマの目が完全に燃え上がっている事に気がついたのだ。
「まさか、レディン。あなた神に仕える身でありながら、この素晴らしい料理を独り占めしようなんて思ってないわよね? ここには飢えた生徒たちが山ほどいるのよ?」
「い、いえ、そうですね。言われてみれば」
「でしょ? だったら善は急げよ。大量生産してバンバン売りましょ!」
この言葉に、押されっぱなしだったレディンはやっとの事で反論する。
「ちょ、ちょっと待ってください、儲けるんですか? 僕はタダでお分けしても――」
「何言ってるのよ!」
雷のように一喝すると、アルマは腰に手を当てて立ち上がった。
レディンの鼻先に指を突きつけ、熱を帯びた口調で訴える。
「タダで配って見なさい! それこそ、飢えた男どもが亡者の群のように押しかけて、あちこちで押すな押すなの喧嘩が始まるでしょうね。あなたはそれでもいいの?」
「い、いえ」
「でしょう? そうでしょう? だから、ちょっと迷うくらいの適正な値段って言うのは大切なの! それに儲かったお金でもっと材料を買う事だってできるでしょ? ね?」
「は――はい」
「うん、じゃあ決定ね! そうそう、あなたがアタ粉を出して、私が火と塩を出したでしょ? だから儲けは5分5分よね?」
「もう、いくらでも構いませんよ。もともと儲けなんて考えていませんから」
レディンが苦笑して承諾すると、1人取り残されたようにカンナが抗議の声を上げる。
「カンナの分は無いんですか!?」
「何言ってるの、カンナ!」
今度はカンナの鼻先に指を突きつけ、熱を帯びた口調で訴えた。
「カンナは今晩、好きなだけレディンお手製のチャパティが食べられる特権があるのよ?」
「ほ、ほんとですかっ!?」
「ほんとほんと、さぁ、頑張りましょう!」
「はいっ!」
「よーし! さあ、やるわよっ!」
アルマは拳を空にブンと突き出した。
その顔は、そのまま空を飛んで行ってしまいそうなほど、嬉しそうな笑顔だった。
「違いますよ、それだと火傷してしまいます。こうやって――」
レディンの教えに従い、カンナは真っ赤な顔でチャパティを焼く。
頑張れと心で応援しつつ、アルマはせっせと生地をこねていた。
「あれ?」
ふと気がつくと、チャパティの香ばしい匂いを嗅ぎつけたのか、数名の男生徒達が寮から出てきたのだ。
数えると、その数は5人……しかし、客にしては妙に剣呑な雰囲気だった。
彼らはニヤニヤと笑いながら近づくと、逃げられないよう3人をグルリと取り囲んだのだ。
その中の1人、背は一番低いがガッシリした強面の男が、アルマを見下ろし、ぶっきらぼうな口調で言う。
「よぉ、いい匂いだな」
アルマは努めて冷静に強面の男を見上げると、ニコリと笑って答えた。
「ええ、もうちょっと待ってね。もうすぐ焼きあがるから。本当に美味しいのよ、これ」
「いや、もういいよ、お前ら――消えな」
男はパンを捏ねていたアルマの手をグイと引き、無理やり立ち上がらせる。
「いたっ!」
様子を見守っていたレディンが慌てて立ち上がった時、さらに状況は一変していた。
カンナの刀が抜かれ、強面男の喉元に刃先がピタリと押し当てられていたのだ。いつの間に抜いたのか、レディンには全く見えなかった。
「アルちゃんに手を出すなら、えぐりますよ?」
「あっ……かっ……」
他の男達も怯んだのが、空気を通して伝わる。
しかし、その膠着した状況を開放したのは、腕を捕まれていたアルマだった。
「カンナ、もういいわ。ここは任せて」
「……いいんですか? 紅姫も、汚いけど我慢するって言ってますけど?」
「いいの。ありがと、カンナ」
スッと刀が引かれ、同時にアルマの腕も解放される。
握られていた部分を擦りながら、アルマは男に面と向き合った。
「余裕じゃねえか。言っておくが、感謝なんかしねぇぞ?」
「ええ。分かってる――ただ、あなた達に選んでもらおうと思って」
「選ぶ、だと?」
アルマは「ええ」と無表情に頷くと、燃え盛る焚き火から半分だけ燃えている薪を、一本だけ取り出した。
「学院長は言ったわよね。新たな文明を作れ、って。その意味があなた達に分かる?」
「何のことだ? そんな事が今関係あるのかよ!」
「あるわ――反対の意味を考えれば簡単よ。文明の反対、それは野蛮」
松明となった薪を片手で垂直に構え、男に突き出す。
「暴力で物を勝ち取る代償は大きいの。噂はどこからか広がり、あなた達の信用は無くなるでしょうね。そうなると物を買う事すら、普通には出来ないわ」
火に照らされてた少女の横顔は確信に満ちていて、どこか妖艶ですらあった。
「つまりね、あなた達はこれから先、何かを得るためには奪い続けなくちゃいけないの。永遠にね――ほら、野蛮人の出来上がり」
困惑の色が5人に浮かんだ。その顔に、先ほどまでの迫力は無い。
逆に迫力を増したのは――
「さあ、選びなさい。野蛮か、文明か。あなたが野蛮を取るなら私は戦うわ。そして違うのなら取りなさい。この文明の象徴を」
沈黙。薪のパチパチと爆ぜる音が、緊迫した時を刻む。
そして、強面の男は声高らかに笑った。
「くあぁっはっはっは! 確かにそうだ。こんなところで騒ぎを起こせば寮のやつらに筒抜けだ。あやうく脱落者になるとこだったぜ。譲ちゃん、俺達の負けだよ!」
そう言うと、男はアルマの手から松明を取った。
アルマは安堵の息を吐き、しかし、ニヤリと口を歪める。
「1本100リアよ。毎度ありっ!」
「ちょ、お前っ!」
「安心しなさい、5人分のチャパティをサービスでつけてあげる。文句ないでしょ?」
「ったく、なんてヤツだよ」
苦笑する男達に「あら、知らないの?」とすっとぼけたように笑うと、アルマは胸を張って名乗る。
「私はアルマ=ヒンメル。損したくなければ、覚えておきなさい!」
やがて、騒ぎを聞きつけたのか、次第に野次馬が集まり、そして野次馬達は匂いにつられ客となる。
「はい、押さないでね! 1個20リア、1人1個までよ! こらそこ、男が順番抜かさない!」
テキパキと客を捌いていくアルマを見て、カンナはため息をついた。
「なんか、アルちゃんって本当に凄いです」
「ええ、本当に」
レディンとカンナからは、もうため息しか出てこなかったのだ。
やがて、アタ紛が尽きかけた頃、レディンは一枚のチャパティを取り、立ち上がった。
「ちょっとシュルトさんのところに行きますね。アルマさん、ランプを借りてもいいですか?」
「もちろんいいわ。あと――」
アルマは商売用の笑顔を張り付かせたまま、なんでも無いように言った。
「よかったらシュルトをここに呼んで来て」
「……いいんですか。きっと、彼の事を知ってる人もいますよ? それこそ、あなたの信用は――」
その問いに、アルマは商売用でない笑顔を浮かべる。
「私、実は苦手なのよ、損得勘定ってね。レディン、あなたもそうじゃないの?」
その言葉にレディンは満面の笑みで答えたのだ。
「はい、もちろん苦手ですよ」
暗闇の中、シュルトはベッドの上で眠りもせず、ただ座っていた。
――俺にはもう、誇りも残されていない。あるのは、ただ……
「シュルトさん」
声の主はギィと扉を開き、闇を切り裂く光を連れて来た。
「ほらシュルトさん、約束のチャパティです。熱いうちに召し上がってください」
心底嬉しそうに差し出した先には、確かにいい匂いのするパンがあった。
礼を言うべきか迷ったが、その前にチャパティなる物体が手に押し付けられる。
「さぁ、食べて見てください」
レディンの言うままに口へと運ぶ。
「美味しいでしょう? アルマさんがこねて、僕が焼いたんです」
「――アルマ、だと?」
「ええ、ご存知ですよね。アルマさんはあなたに、手伝いに来て欲しいそうですよ」
「馬鹿なっ!」
シュルトはベッドから飛び起きると、レディンに詰め寄った。
「はっ! 同情か! そんなもの絶対にごめんだっ!」
しかし、答えるレディンは冷静そのものだ。
「同情? アルマさんがあなたに同情してるとでも?」
「そうだ、違うのか?」
「あなたは、馬鹿だ」
面と向かって言われた雑言に、シュルトの顔は怒りでなく、むしろ困惑に彩られる。
「彼女は賢いです。あなたが来れば、どうなるかくらい十分知っています。それでも、あなたを呼んだのです。傷つかずに哀れむだけの同情と一緒にするなんて、あなたは本気で言ってるんですか? だとしたら僕は――」
レディンは本当に悲しそうに呟いた。
「僕は、あなたを軽蔑します」
長い沈黙の後、シュルトはドサリとベッドに座る。
「……悪かった。だが、今日はいい。俺はここにいる」
「はい、でも――」
最後にレディンは笑う。
「僕は、諦めませんよ!」
その笑顔は、商売用でないアルマの笑顔と、よく似ていた。