第62話:最悪のケース
アルカンシェルの前は露店がずらりと並び、相変わらずの活気が溢れていた。
兵舎に居た頃には聞かなかった喧噪の声が、シュルト達が一歩一歩と近づく度大きくなっていく。
(懐かしい、ここは何も変わっていないな)
高い空から降り注ぐ陽光を手で防ぎ、シュルトは古い砦の前に並ぶ露店を見渡した。
少しだけ変わっているとすれば、どの露店の上にも大きな傘や革張りの屋根が付いた事ぐらいだろうか。
前はシートが敷いてあっただけで、商品も売り子も陽に晒されていた。当然、スコールが降ればびしょぬれになって店を畳んでいたのだ。
きっと、誰かが屋根を付けたの見て、我も我もと皆が真似て取り入れていったのだろう。
その光景が容易に想像できて、シュルトは思わず口元に笑みを浮かべた。
しかし、アーシェルは別の感想を抱いたようだ。
「……なにこれ邪魔」
そう言って頬を膨らませ「通れない」と嘆いた。
露店の隙間とレーベのサイズと見比べ、真っ直ぐ突き進む事が無理と判断したらしい。
「シュルト、アルマを探してて」
アーシェルはそう言い捨てるや、露店街を離れて行った。迂回してアルカンシェルを目指すらしい。
砂漠でも歩くように一歩一歩気だるく歩いて行く彼女の後ろを、レーベが嬉々として付いていく。キョロキョロと周囲の匂いをかぎ回り、まるで懐かしい雰囲気を楽しんでいるのかのようだった。
「しかし……よくもあれだけ懐いたものだな。」
仲良く歩いていく後ろ姿を見て、シュルトは思わず呟いた。
イモシシが人に懐くなどあまり聞いた事が無い。
レーベが特別なのか、アーシェルにそう言う才能があったのか。
「あいつだけは、まったく何を考えてるか想像できん」
シュルトは肩をすくめると、アーシェルに言われた通り露店の中からアルマを捜す。
ナバルが言うには、お嬢は今頃どこからの露店に攻め込んでいるだろうとの事だからだ。
ぐるりとアルカンシェルの前の広場を見渡した。
と、外れに小さな橋を見つけ思わず顔を歪める。
それは、かつてシュルト自身が傷を入れて壊したはずの橋だった。
「そうか、直したのか……」
随分とあっけなく直されてしまった気がした。
いや、直っただけではない。以前よりも大きく、丈夫に生まれ変わっている。
支柱だけの無惨な姿を自分に重ね、空の橋だと例えた事を思い出して苦笑を漏らした。
(お前は変わったんだな。俺は随分と遠回りして、結局、何も変わらなかった。相変わらず、空っぽのまま――)
そこでシュルトは小さく首を振った。
変わると決めた――いや、自分には変わる義務がある。
母と姉が命をかけて願ったのだ。
こんな空っぽのままではいられない。
「シュルト! こっちこっち!」
弾んだ声に目を向けると、露店の立ち並ぶ一角からアルマが大きく手を振っていた。
その周りには5、6人の男女が居たが、シュルトを見るや浮かべていた笑顔を一様に引っ込める。
帰って来るな、迷惑だ――そう言わんばかりの表情だ。
(気にするな、いつもの事だ)
一瞬足を止めかけたシュルトは、そう言い聞かせて近づいていく。
当然、その周りの生徒たちの不快な顔色が濃くなった。
改めて自分が非国民だと思い知らされると同時に、ほんとに良いのだろうかと迷いが生まれる。
このまま行けば、必ずアルマに迷惑をかける事になるだろう。
しかし、周りの重い雰囲気をアルマはあっけなく一蹴してしまった。
「シュルト、ナイスタイミング! ちょうど相談したい事があったの! 今からいい?」
空から金貨でも降って来たようなように、ぴょんぴょんと飛び跳ねて嬉しさを現すその姿に、周りの生徒はすっかり毒気を抜かれる。
そんな周囲の生徒達に、アルマはごめんと両手をあわせた。
「みんな、さっきの件はまた後でね。急がないでしょ?」
「え? あ、うん、まあ別に急ではいないが……」
「ありがと! じゃ、また後でね! シュルト、こっち来て!」
アルマは慌ただしく挨拶を済ませると、急ぎ足でシュルトに近寄り、その腕を引っ掴んで露店をすり抜けて行った。
腕に触れたアルマの小さな体温が、どうしようもなくシュルトを戸惑わせる。
「シュルト、体の方はもう大丈夫なの?」
前を向いたまま尋ねるアルマに、動揺を隠した声で大丈夫だと伝える。
正直に言えば体が重く、完調とは遠い状態だったが、その事を伝える気は髪の毛程もなかった。
「良かった。アーシェルも一緒に来たの?」
今度は振り返って尋ねたので、シュルトは指差して答える。
アルカンシェルの裏手にアーシェルとレーベが小さく見えた。
砦脇にあるがっしりとした木に、レーベを繋ごうとしているらしいが、気ままなイモシシはロープを嫌がって首を振っている。
悪戦苦闘している光景を見て、アルマは柔らかく微笑んだ。
「本当に二人とも、帰ってきたんだ……おかえり、シュルト」
笑顔が不意打ちのようにシュルトに向けられ、息が止まる。
表情を隠すように頷き目をそらすと、必死で言葉を探した。
「そ、それよりナバルから聞いたぞ。レディンが戻ってきてないそうだが」
「そうなんですよっ!」
「うおっ」
突然、カンナが二人の間に割り入ったのだ。
ご丁寧にアルマの手をシュルトの腕から引っぺがしつつ、しかし顔だけは切迫した表情を浮かべている。
「もう3日も経ってるのに戻って来ないんですよ! 学院の様子なんて1日あれば調べられるはずです。ですよね?」
「あ、ああ」
勢いに押される形でシュルトは頷いた。
しかし、確かに1日調べれば雰囲気くらいは掴めるだろう。
帰って来ないのは何かに深入りするなどして、帰れない状況に陥ってしまった可能性もある。
いや、いらぬ事に首を突っ込まざるを得ないあのお人好しなら、十分にその可能性はあるだろう。
「と言う訳で、カンナはもう行きますね。シュルトさんにアルちゃんを任せるのは甚だ不本意ではあるんですが……血涙を飲んでお願いしますね」
「まさか、お前一人で学院に行ってレディンを探して来るつもりなのか?」
「当たり前じゃないですか。カンナが行かなくて誰がレディンさんを探しに行くんですか!」
胸を張って答えたカンナに、シュルトはため息まじりに忠告した。
「悪い事は言わん、お前一人で行くのは止めておけ。最悪、戦争を巻き起こすぞ」
「なっ――何て失礼極まりないことを。カンナはそんな下手はしません!
第一あなたはレディンさんを見殺しにするつもりですかっ! この冷血男!」
「そうじゃない。俺もお前と一緒に学院へ行くと言ってるんだ」
「……はい?」
きょとんとしたカンナの横で、アルマもやはり驚いたように目を丸くした。
「シュルトも行くの? だって、まだ体調が――」
「大丈夫と言っただろう。それに、戦いに行く訳じゃない。念のために手を打っておくだけだ」
そう、レディンがいないと言ってもたかが三日なのである。学院までの移動時間を考えれば少し遅い程度に過ぎない。
ナバルの言っていた通り、心配のし過ぎと考える方が当然なのだろう。
「……でも、珍しいですね。シュルトさんがレディンさんを助けたいだなんて。もっと薄情かと思ってましたけど」
「レディンには借りを作り過ぎたからな。いい加減、あいつに頭が上がらないのはうんざりだ。それに……」
「それに?」
カンナがいぶかしげな顔で聞き返したが、シュルトは何でも無いと手を振ってごまかした。
(それに、あいつは俺のルームメイトだからな)
思わずそんな事を口に出そうとしていた自分に、随分と毒されたものだと苦笑を浮かべた。
真っ赤な部屋の中、男が3人赤い絨毯の上に座っている。
いや、その中でひときわ体の大きな男――オグは床に膝を付き、じっと黙してうつむいていた。
その顔を覗き込むようにしていたリーベルは、小さく頷いて笑みを浮かべる。
「嘘は付いていないようだな。報告ご苦労様」
オグは一瞬苛立ちを顔に見せたが、何も言わずに立ち上あがるとそのまま真っ赤なテントを後にした。
ざくっざくっと砂を蹴るように走り去る音が遠くなる。
残された部屋には、薄笑いを浮かべ続けるリーベルと、部屋の隅の方でまずそうに茶をすすっているマティリアの二人。
「おやおや、マティリア。少しは喜んだらどうだ? 君の好きな貧民と非国民がまた組んだらしいじゃないか」
「喜べ、ですって?」
マティリアはティーカップを少し乱暴にソーサーに置いた。
「よくもそんな事を言えたモノですね。黒船が現れたお陰で今や誰も彼もが疑心暗鬼、入ってくる情報といえば不穏なものばかりじゃないですか。
ほとんど無くなりかけていた窃盗や傷害も、今では聞かない日がないと言うのに、喜べですか」
「その程度の理由で犯罪が増えるなんて、君たちのレベルの問題だろう?」
リーベルがやれやれと首を振ったのを見て、マティリアは声を荒げそうになり、喉元でそれを飲み込む。
きっとリーベルはこちらの反応すら楽しんでいるに違いないのだ。
マティリアの冷たい視線を受けて、リーベルはニヤリと笑った。
「そうそう、マティリア君。その犯罪率の上昇だが、一番多くなってる地区が黒船の影響が最も少ない学院と言うのは、少し興味深い現象だと思わないか?」
「……別にそうは思いません。伝え聞いた噂には尾ひれが付くものです。学院でより大きな騒ぎになったとして不思議はありませんよ」
「どうかな? 事の真因は別にあると思うんだが」
リーベルはマティリアの顔色をじっと覗き込みながら、言葉を続ける。
「アグリフ=ラーゼ、彼は確かに人を信用させ、誘導する力がある。話術も巧みで、彼に任せておけば安心だ、そう思い込ませるカリスマがある。しかし、」
リーベルはマティリアの置いたカップを指で小さく弾くと、キンと固い音がテントの中に響いて消えた。
「彼は少し自己防衛に過ぎたかな。良くも悪くも独裁者の資質がある。彼のような人間が中心になった組織は、とても危険だよ」
「……言っておきますが、彼は貿易商の息子で貴族とは毛色が違いますからね。むしろ彼は特殊な生活環境であの性格を――」
「ああ、心配しなくていいよ。別に彼一人で君たちを判断したりはしないさ。
だが、彼は貴族達の心理を良く掴んでいる。役職や制度に安心しきって、ただ権利を堅守しようとする寄生虫のような性質をね。
おっと、ようやく来たようだな」
リーベルがテントの外に向かって入れと言うと、いつの間にやって来ていたのかテントの中に1人の学生が入ってきた。
大人しそうな女、一見するとただの生徒にしか見えない。
しかし、この砂地で足音すらさせずに近づいたのだ。ただの生徒のはずが無い。
おそらくリーベルト同じくシュバート国の者ではない——監視者の一人だろう。
「ご下命を頂きに参上仕りました」
女はリーベルの前に這いつくばるように頭を下げる。
「そんなにかしこまるなって言ってるだろう。普通に話しかけてくれていいよ」
「いえ、そう言う訳には」
「ったく、相変わらず君達は融通が利かないね。まあいい、ちょっとお願いがあるんだけど」
何なりと――下を向いたままそう言った言った彼女へ、リーベルは近くにお使いでも頼むように命じた。
「めぼしい畑をありったけ焼き払って欲しいんだよ。無論、人の生死は問わないから」
オークの森の中、カンナとシュルトは小走りで学院に向かっていた。
木に付いた目印を頼りに早足で歩き続け、行程は至って順調だった――が出発してから会話がまるでない。
楽しもうと言う気は毛頭無いにしろ、カンナはそれがいささか不満だった。
「止まれ」
ようやく発したシュルトの言葉は、そんな押し殺した声だった。
シュルトの視線の先をたどりカンナは、木陰に隠れ気配を断つ。
「人? それも3……4人ですか。こんな森中の裏道にまで見張りがいるなんて」
シュルトも別の木陰に隠れて、厄介そうに顔をしかめた。
「武器まで持っている。明らかに見張りだな。ここにまでいるとなると警戒されていたか……くそっ、最悪のケースだ」
「最悪のケース?」
そうだとシュルトは頷いて、露店で購入したばかりの木刀を腰紐から抜く。
「誰かが救出に来る可能性があるから、ここにまで見張りを置いた。
つまり、レディンはアグリフに捕まったと考えて間違いないだろう」
「捕まった……」
カンナはアグリフの冷酷な笑みを思い出し、頭から血の気が引いた。
彼はレディンを捕まえて、一体どうするだろうか?
まず、間違いなく情報を聞き出すため拷問に近い事くらいはやるだろう。
そして、用済みになった後のレディンを、どうして生かしておく必要があるだろうか?
震える手が、勝手に刀の柄に伸びる。
「落ち着け、カンナ」
いつの間に近づいたのだろうか、シュルトの手が刀に伸びた手を掴んだ。
予想外に温かいその手に、カンナは止めていた息を吐く。
「いいか、何があったとしても怒りに任せて行動するな。そうすれば、アルマが悲しむ」
「アルちゃんが……」
そうだと頷き、シュルトはまるで自分に言い聞かせるようにささやいた。
「出来る限り殺すな。殺せば攻め込む口実をアグリフに与える事になる。そうすれば、喜ぶのは奴らだ」
「……分かりました。でも、ここを抜けなきゃ学院には行けませんよね。どうするんですか?」
「気付かれないように通り抜けられたらベストだ」
「見つかったらどうするんですか?」
シュルトは簡単に言ってくれたが、この静かな森の中では幾ら気配を断っても見つかる可能性が高い。
まして、相手は4人もいるのだ。
「見つかったら見張り全員を気絶させて時間を稼ぐ。できるか?」
カンナはゆっくりと頷いた。気絶させるのはあまりやった事が無いが、恐らく問題ないだろう。
それより、これからは時間との戦いになるだろう。
全員うまく気絶させたとしても稼げるのは数時間だけ、その間にレディンを見付け、救出し、アルカンシェルに戻る――そんなにうまく行くのだろうか?
頭では成功できるイメージがまるで湧いてこない。
とても悔しい事だが、この憎らしい程に冷静な非国民だけが、今は頼りの綱だった。
「見張りは4人、見つかった時は味方に合図を出される前に片をつける。だが、まずは見つからない事に集中しろ」
カンナがもう一度頷くと、シュルトはようやく手を離し、微笑んだ。
「大丈夫だ。あいつはまだ生きてる。あいつに毒気を抜かれない奴なんて、想像できるか?」
そうですねと笑ってしまい、カンナは悔しいと唇を噛む。
アルマが彼に惹かれた理由が、痛い程に分かってしまったからだ。
「どうした? 大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。カンナはこう見えても気配を断つプロだったんですよ」
「そうだったな……では、行くぞ」
シュルトは遠く微かに見える見張りの様子を覗きこむ。
「3、2、1――」
二人は一糸乱れる事無く、走り出した。