第60話:一方的な条約
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。戦争が知らないうちに始まって、しかも、もう負けたなんて言われても、僕には何がなんだか」
レディンは思わず苦笑してしまった。アルマの突拍子も無い発言はいつもの事だが、今回のはずいぶん飛び切りなようだ。
なにせ、あのシュルトですら眉の間にシワを寄せている。アルマに理解できた事が分からない悔しいさが、彼の握りしめた拳に現れていた。
一方のアルマはちゃんと説明するからと、壁に寄りかかって少し得意げに話し始めた。
「さっきレディンが戦争が始まったって言ったけど、そうじゃないの。戦争は始まる前に回避されたの。交渉とか会談とか、そんなのが私達の知らない間に行われていたのよ、きっと」
この言葉に皆が驚いたが、シュルトだけはフンと不愉快そうに鼻を鳴らした。
「回避か。そう言えば聞こえはいいな。ようは俺たちの国が戦う前から全面降伏したって事だろう?」
ベッドに上半身を起こした姿勢のまま、アルマを見上げる。
「戦争経験の無いシュバート国の高官どもが黒船なり何なりを見て戦意を失い、さっさと白旗を揚げた」
「ええ、だってあんな武器とか船とか、もう反則じゃない。戦っても戦争にならないでしょ?」
まあそうだなとシュルトは苦笑を浮かべた。
「だから降伏した事までは理解できる。しかし、そう結論付けるにも裏付けが足りない。しかも、この学院が戦後処理の為の施設などと、いったいどうしてそんな事が……」
そこまで言って、シュルトは口を塞ぐように指を噛んだ。
自分が敗北宣言に近いことを言っているのだと気付いたのだろう。
人前でこんなに悔しそうな素振りを見せるのも、いつものシュルトらしくない。
何があったのだろうか――レディンはそう思いながらも、気になったことを率直にアルマに尋ねてみた。
「僕が聞いた話だと、この学院は人材を育てるためにできたと聞いてます。それはまったくの嘘だったんでしょうか?」
「もちろん嘘よ。だって、こんな学院で人材なんて確実に育つなんて無理があるでしょ?
文明を築け、なんて言ったきりルール無用だわ、教官は逃げるわ、これが最善の人材育成だって思ってるのなら、この国は本当に終わりよ」
アルマの言っている事は、生徒達の間でも盛んに話題になっていた事だった。
しかし、いくら疑ってみても人材育成以外に学院を作る理由など思い浮かばない。だからこの話題は、話題のままで止まっていたのだ。
「……ですが、仮に学院の目的が敗戦処理だとして、いったいその敗戦処理ってなんですか?」
「それは私達の国、シュバート国の事を知りたい人達がいるのよ」
アルマは立てていた指を海の方角へ向ける。
「このシュバート国が負けたって事は、勝った国がいるってことでしょ? なら、その国は私達の国をどうするのか決めなくちゃいけないじゃない」
「どうするって……支配して国を広げるんじゃないですか?」
当然のように言ったカンナにアルマは首を傾げてみせる。
「それは分からないわ。現にシュバート国も北の諸国を支配できる力を持ってたけど通商条約だけ結んで攻めようとはしなかったの。貧しい国を支配するのはお金がかかるし、大変らしいのよ」
「通商……それってなんですか?」
よくそれで入学試験に通ったわねとアルマは頭を掻き、それでもカンナに分かるような言葉を選びながら口を開く。
「簡単に言うと、つべこべ言わずに商売しなさいって言う約束よ。条約の中身によっては商業的な支配みたいな事も出来るけど、シュバート国と北の諸国とはほぼ対等の条約を結んでるの」
そう言ったアルマの顔は誇らしげで、彼女の父がシュバート国と北方諸国との外交交渉をやっていた事をレディンは思い出した。
なるほど、だから彼女は誰よりも早く、こんな推測を立てることができたのだろう。
そう思ったときだった。
「――分かった! なるほど、全てが繋がった!」
突然シュルトが叫んだ。
握った拳を掲げ、顔をほころばせて喜ぶシュルトを、皆が呆然と見つめる。
「そうかそうか、そう言う事か。くそっ、もっと早くに……」
「あの、シュルトさん?」
レディンが恐る恐る声をかけると、シュルトはハッとしたように周りを見回し、コホンと咳払いをした。
その顔は部屋に差し込み始めた夕日よりも赤くなっている。
「……なんでもない。アルマ、先を続けてくれ」
「え? う、うん」
何故かアルマまで顔を赤らめて、深呼吸を一つ挟んだ。
「さっき言ったみたいに、条約って言っても経済的に支配しちゃうようなものから、対等なのもあるのね。
どんな条約を結ぶかは、相手の文明レベルに応じて考えなきゃ行けない。
この学院はシュバート国の文明レベルを相手に伝える為の施設じゃないかなって、そう考えたの」
そう言われても、レディンはピンとこなかった。
条約を決めるだけなのに、何故そんな大掛かりで面倒くさい事をしなければならないのだろう。もっと簡単に結べるモノではないだろうか。
そう尋ねるとアルマは苦笑した。
「私達ってほとんど海外との交流が少なかったから、きっと相手だって私たちの事を何も知らないと思うの。
私達だって、どこかに知らない部族いたとして、いきなり同盟なんて結べないでしょ?
だからまず価値観だとか、常識だとか、そう言う物を把握したいのよ」
「価値観や常識……そんな事が、この学院で分かるものなんですか?」
「そう! それよ!」
アルマは笑顔をこぼすと、腰から下げている革袋からリア硬貨をひとつ取り出した。
「たとえばこれって、通貨が流通するかどうかで商売できる相手か見定めようとしてると思わない?
たぶん、あっちの国では通貨が当たり前で、これで取引できるか試してるのよ。私たちが通貨を嫌がったら商売にならないでしょ?」
「ああ、なるほど」
レディンは手を叩いた。
となると、全ての事に意味があるに違いない。
ふむと腕を組んで、考えを巡らす。
「……実は僕、神学部があるって最初に聞いた時、変だなぁって感じたんです。国の危機をどうにかしたいのに、なんで神学が必要なのかって。必要なのは神であって、学ぶ事じゃないはずだって」
「レディンらしい考えね」
「はい。でも、相手の国を知りたいと思ったら、道徳の根源になっている宗教を理解するのは必然かもしれませんね」
「でしょ? 医学部も工学部も、相手の文明レベルを知る上で必要だもの」
「……ボクらの技術力を、見られていたんだ」
アーシェルは顔に不満の色を浮かべる。知らない所でテストされていた事が不快だったようだ。
一方カンナは嬉々としてアルマに質問した。
「ねぇねぇ、軍学部はなんなんですか? ほら、これって何に意味があるんですか?」
その手には軍学部の課題である三角形のプレート、リーベデルタが握られていた。
久しぶりに見たそのプレートを前に、アルマはうっと言葉を詰まらせる。
「そう言えばそんな物もあったわね……あ、シュルト。シュルトならコレの理由って分からない?」
いきなり話を振られたシュルトだったが、あっさりと頷いて答えた。
「おそらくこの国の好戦度を見るためだ。二枚あれば十分なはずのそれを、主席を取るためだけに奪い合い、果てには殺し合うかを見ていたのだろう。損得だけで人を殺す人間と手を結びたくはないだろうからな」
「えー」
カンナはその答えに口をへの字に曲げた。他の学部と違う殺伐とした目的に不満だったらしい。
しかし、軍学部に集まる生徒と言えば、遅かれ早かれシュバート国の軍を統括する役割を担っていくだろう。
その彼らが、どのような価値観で行動を起こすのか、知っておく事は重要な事なのだろう。
と、そこまで考えたレディンはそうかと声を上げた。
「この学院が20歳までの、しかも難しい試験を用意してこの国を担う人たちばかりを集めたのは、そのためなんでしょうか?」
「でしょうね。私達がここで築き上げる文明が、これからのシュバート国の縮図。民度を計る実験場って事なんでしょうね」
民度を計る実験場、アルマの口から出たそれは彼女らしくない言葉ではあったが、この事実を端的に言うにはこれ以上ない表現だとレディンは思った。
不穏な言葉が渦巻いた後に訪れた、数呼吸分の沈黙。
その中でカンナはもじもじと指を組み合わせると、やがてアルマの袖を引っ張った。
「あのー、まだカンナ分からないんですが」
「あ、うん。何?」
アルマが微笑んで顔を傾けると、カンナはホッとしたように尋ねる。
「その相手の人たちってカンナ達の文明——というか民度でしたっけ。それをどうやってチェックしてるんですか?
一年後にやってきて、見てパッと分かる物なんですか?」
アルマは「あ」と目を見開いた。
「そうか、いくらなんでも遠くにいたら本当の情報は見えてこない。
と言う事は……近くで監視されてた?」
「近く……まさか、生徒に混じって?」
「そうよアーシェル! だって、そうならあの黒い船が、シュルト達の出航に合わせてやってきたのだって説明がつくじゃない」
なるほど、それなら出航にあわせて、あの奇妙な船がやってきた事にも理由がつく。
レディンは小さく頷いてから、しかしと苦笑を漏らした。
生徒の誰かが監視していると言うのは、アーシェルではないが誰かを疑うようで良い気がしない。
それに、監視者が分かったとして、いったいどうなるのだろうか。
そのまで考えて、レディンは煮詰まってきた頭をほぐすためにぐっと伸びをした。
「ふぅ、何か一度に色々と考える事があって疲れちゃいましたね。アーシェルもシュルトさんもまだ無理させてはいけないと思いますし、今日はこの辺にしましょうか?」
「いや、まだ肝心な事が2つ残っている」
シュルトは疲れているだろうに、気丈にも背を伸ばして皆を見渡した。
「ひとつはこの事を他言するかどうかだ。皆に知らせるのか、この5人の心に留めておくのか」
「え? 言っちゃ駄目なんですか?」
カンナが目をパチパチさせて驚いている。
レディンも言われて初めて気が付いたが、確かにこの事実が広まったら状況は一変するだろう。
どうなるかまでは具体的に想像がつかないが、少なくとも『民度を計る実験』のような物が失敗になる事は確かだ。
失敗になれば、いったい条約はどうなるか……
その問いにシュルトはこう答えた。
「この話が広まった場合、最悪の場合はシュバート国が消える可能性だってあると俺は思っている」
「消える、ですか」
「そうだ。この推論が正しければ、シュバート国の高官共はここにいる大量の生徒を犠牲にする事を承知で、この無茶な学院を造り上げた。つまり、数百名の生徒が死ぬ以上の事が起こり得たと言う事だ。
最悪の場合、俺たちの国は殲滅され、根絶やしになっていた可能性すらある」
怨恨を断つ、復讐の恐れをゼロにするには、復讐者を一人も残さない事だ。
現にシュバート国が出来る前、部族間で争っていた時代では、負けた部族全員を根絶やしにする事も珍しい事ではなかった。
つまり、シュルトはこの学院の結果如何ではそれが起こりえると思っているのだ。
学院で何が起こっているのか不安に怯えている生徒も多い。そんな人達には心底伝えたいと思ったが、リスクがあまりにも高すぎるようだ。
「やめましょう。皆に言うのは危険が過ぎます」
「えー? ナバルさん達にも秘密にするんですか?」
「ここだけの話は知れ渡る……砂漠の民の言葉」
アーシェルが指先を口に当てると、カンナはしょんぼりと頷いた。
「決まりね。まずはこの事は誰にも言わない。この5人の秘密!」
妙に嬉しそうにアルマが宣言した。
彼女の中で、この5人と言う言葉はさぞ特別な響きをもつに違いない。
皆がアルマの言葉に頷いた事を確認して、シュルトは切り出した。
「もう一つの肝心な事だが、今後俺たちはどうすべきかと言う事だ」
「そうね……でも、それが一番分からないかも。だって、どうすれば良いかなんて、監視してる人を捕まえて聞く訳にもいかないじゃない。
どうすれば私達は有利になりますか、なんて」
それはそうである。
試験の答えを教える試験管がいる訳が無い。
つまりは、試験結果は学院が終わるまで分からないと言う事だ。
「だが、仮に民度を計る実験場と言う事が正解なら、少なくとも二つ言える事がある」
シュルトはさすがに疲れてきたのか、肩で大きく息をついた。
「一年後……いや、もうあと半年後には結果が出ると言う事。そして、それまで俺たちを逃がす気は、奴らに無いと言う事だ」
あと半年、しかし、その半年は冬の半年間だ。
狩りでの獲物は少なくなり、森からも木の実は消えるだろう。
アルマは現在残っている食料と、収穫間近な畑を指折り数える。
「食料はギリギリね。あと半年、なんとか争わずに秩序を保っていたい所だけど……」
「だが、あの黒船が与えた心理的影響は計りしれない。何もしなければ暴動が起きる可能性もある。
それを、あのアグリフが何も手を打たないとも考え難い。
おそらく皆の不満をそらすため、前のようにここへ攻めてくる可能性がある」
前回の――カイツをリーダーにしてアルカンシェルに攻め込んで来た時の事だろう。
不満の矛先を外に向ける事で暴動を抑える。たしかに効果的なのかもしれないが、周囲からしたら迷惑この上ないやり方だ。
しかし、公衆の面前でアルマと手を結んだのに、あっさりと約束を破ってくるだろうか?
「うーん、まずは情報がないと、なんとも言えないわね」
アルマはお手上げと手を広げた後、よしっと手を胸の前で合わせた。
「まずは情報収集よ! レディン、悪いんだけどアグリフ達の情報を集めてもらえる? 学院の雰囲気とか、生徒達の不満とか、変な動きが無いとか」
「分かりました、やってみます」
「カンナは——―」
その時、シュルトがアルマの言葉を遮る。
「カンナ、お前はアルマの傍にいろ」
驚いたアルマをシュルトは正面から見つめ、真剣に告げた。
「アグリフが行動を起こすとすれば、真っ先に狙うのはお前だ。それを自覚しろ」
「う、うん」
「皆を守りたいと願うなら、まずはお前の身の安全を考えろ。もうお前は、一人じゃないんだ」
「……うん」
頷いた後、小さく「ありがと」と言葉を添える。
窓から入ってきた涼しい秋風が、アルマの頬を優しく撫でた。