第59話:さじは投げられた
ガシッ
アルマの背に手が触れるより早く、シュルトの頭が何かにつかまれた。
何か、と言うかアルマの手である。
根っこを抜くがごとく乱暴に頭を引き離されると、アルマの平手が鋭く頬を打った。
「――え」
痛くはない。というか、頭に痛みを感じるほどの余裕がない。
アルマは呼吸を荒げ、呆けたシュルトの眼前に震える指をぶるぶると突きつけた。
「え? じゃないでしょ! 何考えてるのっ!」
「いや……あの」
「信じられない、最ッ低!」
最低――その言葉を聴いた瞬間、打たれた頬が急に痛くなった。
半ば涙目となって怒りを表すアルマを前に、シュルトは懸命に状況判断を試みる。
(いや、でも……あれ? いや、そんな)
だが、頭の中は空回りどころかまともな言葉すら浮かばない。
まさか、これ以上無い程の見事な拒絶をされるとは想定の斜め上だった。
自分を心配する彼女の態度の端々から、少なからず好意は受けていたと思ったのに――と、そこで脳裏に浮かび上がった言葉に愕然とする。
(ま、まさか、これがあの魔性の女と言うヤツなのか?)
魔性の女――数年前に読んだ処世術かなにかの本にそれは警告されていた事だ。
その本の著者いわく、その女は思わせぶりな態度で男たちにその気があるんじゃないだろうかと勘違いさせ、いとも簡単に男たちの心を奪ってしまうと。しかも、それを意図しないでやってしまう女がこの世にはいると言う。
男どもを期待と言う山の頂上から、不幸と言う崖のどん底へ次々と突き落とす恐怖の存在、それが魔性の女。
これを読んだ時、シュルトは鼻で笑った。
そんなモノは男が悪い。色欲のあまりろくな判断もせずに、妄想の塊になった馬鹿な男の当然の末路だろうと。
だがしかし、この状況は。
(つまり、要するに、その……俺の勘違いだった、と?)
その結論に達するや、頭の血が沸騰した。
穴があったら入って埋めて踏み固めて欲しい――シュルトは心の底からそう願う。
その時、目の前にあったアルマの指がずいと動き、シュルトの背後の方を指した。
「か、彼女がいる前で、なにやってるの!」
「かの……じょ?」
アルマの指差す方へ、首を回す。
ギリギリと油を差し忘れた剣のようなぎこちなさで振り返ったその先に――――アーシェルがいた。
ベッドから上半身を上げた姿勢で、遠慮どころか瞬きすらせずに事の成り行きを見ていた。
(なっ――なぜ気付かなかった!)
アルマ以外全く目に入っていなかった自分に心で罵声を浴びせながら、沸騰していた血が一気に氷点下まで下がった。
だが、一縷の希望を掛けてシュルトはおそるおそる尋ねる。
「い、いつから聞いていたんだ?」
アーシェルは何かを抱きしめるように両手を広げる。
そして、唇の両端をこれ以上ないくらいに吊り上げて、言った。
「アルマ、好きだ」
一瞬の沈黙の後、シュルトは両手で顔を覆い、悲痛の声を上げた。
「シュルトさんっ!」
シュルトの声を聞きつけ、レディンは大慌てで部屋へ飛び込んだ。
部屋には確かにシュルトがベッドで上半身を起こしていた。しかし、両手で顔を覆って沈んでいる。その前には怒ったような顔で立ち尽くしているアルマ、そして、妙に満足そうなアーシェル。
妙な雰囲気――そう感じると同時に、カンナが抜き身の刃を片手に部屋へ飛び込んできて、アルマを守るようにシュルトとの間に割って入った。
「アルちゃんに何をしたんですか?」
カンナはすごみつつ、シュルトののど元へ刃を当てる。
「ちょっと、カンナさん! いきなり何を?」
「レディンさんも聞いたでしょう? さっきの声、まるでアルちゃんにわいせつな事をして、急所を蹴り上げられたような声でした!」
「あはは。まさか、シュルトさんに限ってそんな事――」
「じゃなきゃアルちゃんがこんなに怒っているいる訳がありません! さあ、言いなさい! アルちゃんに何をしたんですか!」
「なっ――俺はただ」
何かを言おうとして、シュルトは再び両手で顔を覆って、塞ぎ込んでしまう。その態度から情報を引き出す事は無理と判断したのか、カンナは不満そうに刀を鞘に納めた。
代わりにアルマに事情を聞いているが、知らないの一点張りだ。
(これは、本当に何かあったみたいですね)
シュルトが目覚めるのをずっと心配していたはずのアルマが、こんなに怒っている。先程この部屋で何かがあったのは確かなようだ。
レディンはじっと事の成り行きを見ていたアーシェルに尋ねてみる。
「いったい何があったんですか? シュルトさんもアルマさんも心ここに在らずと言うか」
アーシェルは少し顔を傾けて考えた後、答える代わりに毛布を払ってベッドから降りた。
そして、アルマの前に行くとぺこんと頭を下げる。
「アルマ、ごめんなさい。あれ、嘘なの」
いきなり頭を下げられて、アルマはきょとんとして首を傾げる。
「えーと、嘘って?」
聞き返したアルマの耳元に口を寄せると、アーシェルはごにょごにょと何かをささやいた。
「…………はあっ!? 嘘でしょ?」
「そう、嘘。だから、忘れて」
アーシェルはもう一度小さく頭を下げると、そそくさと再びベッドに潜り込んでしまった。
一方でアルマは呆然と立ち尽くし、それからゆっくりと手を頭に当てる。
「えーと、嘘って事は、その、ちょっと待って、と言うことは…………ええええっ!?」
顔を赤くしたり青くしたりして、独り言を繰り返し始めた。
「レディンさん、アルちゃんどうしたんですか?」
「わかりませんが、きっとアルマさんも疲れが出たんですよ。なにしろ2日も徹夜したんですから」
それだけでは無いと思いながら、レディンは小さく微笑む。
あのアーシェルが頭を下げたのだ。きっと、何かが良い方向に進んでいく一歩だったのだろう。
うんうんと頷いて、サイドボードにおいてあったタオルをシュルトに渡した。
「大丈夫ですか、シュルトさん。すごい汗ですよ?」
「ああ……」
「無理しないでくださいね。海岸に打ち上げられた時は本当に死にかけていたんですから」
シュルトは顔を拭くと幾分か冷静さを取り戻したようで、ふぅとため息を漏らした。
「……また、お前に助けられたのか」
「そうですね。あ、安心して下さい。人工呼吸は僕がやりましたから」
「……」
シュルトの苦虫を噛み潰したような顔は、今までに見た事が無い程表情豊かなものだった。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ、貴様は」
「だって、大好きなアーシェルとシュルトさんが無事だったんですよ。涙が出そうな程嬉しいですよ」
「……大好き、か」
そう言うと、シュルトは深いため息を吐き、両手で顔を覆う。
「ひょっとして、気にしてるんですか? 僕と唇を合わせるのなんて、もう慣れっこでしょう?」
「うるさい、黙れ」
両手の隙間から殺気をこめた答えが返ってきた。残念ながら真剣に怒らせてしまったらしい。
困ったなと顔を上げると、カンナはアルマの肩をゆすっていた。
「アルちゃん、しっかりしてください。もうっ、アルちゃん!」
「……え? あれ、カンナ?」
「カンナ? じゃありませんよ。しっかりしてください! いったい何があったんですか?」
「何かって、それはその……」
ようやく我に返ったアルマに、皆の視線が集まった。
「えーと、あ、そうそう! そうよ、シュルト! いったい何があったの!」
強引に話を振られたシュルトは顔を引きつらせる。
「な、何の事だ?」
「ほら、シュルト達の船を襲ったあれ、遠くてよく分からなかったんだけど、あれも船だったのよね?」
その言葉にシュルトはどこかホッとしたように肩から力を抜き、小さく頷く。
「ああ、船なのは確かだろう。だが、帆も付いていないのに信じられない速度で風に関係なく自在に動いていた。それと、あの凄まじい音と破壊力をもったあの武器……」
「あれってやっぱり武器だったんだ。あの音、いったい何だったの?」
シュルトは分からないと小さく首を振った。
その時、アーシェルがベッドの中からボツリと呟いた。
「……あれは、爆発の音」
「爆発? それは、何ですか?」
レディンの聞き返した声に、皆の注目がアーシェルに集まった。
皆の視線にアーシェルは嫌そうに眉をしかめたが、毛布にくるまったままベッドの上に座って説明する。
「爆発は瞬間的に多くの物質が燃える事。ロウソクみたいに少しずつ燃えるのに比べて、一瞬だけどすごい力が発生する。それが爆発」
「ああ、小麦粉が舞ってる部屋で火をつけると家ごと吹き飛ぶと言う、あれだな?」
「さすが物騒なことばかり詳しいんですね」
カンナはシュルトに向けて冷たく言う。
まだ、アルマに何かしたのだと勘繰っているようだ。
シュルトの事なので、きっといつものように無視するだろうと思っていたが、シュルトはカンナを見て少し悲しそうな顔を見せる。
(シュルトさんが、変わった?)
悪口を言われれば悲しいのは当然だが、シュルトの心はそれすら麻痺していた様に見えた。
しかし、今、彼は痛みを受け入れ始めている。
ほんの小さな変化かもしれない。でも、きっと、意味のある事に違いない。
(だって、もう一度みんなが集まるなんて、奇跡ですよ)
レディンはこの5人がもう一度集まれた奇跡を、神に感謝した。
「たぶん、あの船は爆発を使って、石みたいな物を打ち出してたんだと思う」
「爆発を使った投石機、か」
アーシェルの説明にシュルトがふむと頷く。
しかし、 砂漠の民の中でも、特に目が良いと褒められたレディンだったが、石が飛ぶところなど見えなかった。
きっと矢とは比べ物にならない速さで打ち出されているのだろう。なにせ硬いことで有名なオーク材で造った船に、いとも簡単に穴を空けたのだ。
「風を使わずに走る船と、爆発を使った投石機……僕らの国はいつの間にそんな物を造ったんでしょうね」
「たぶん、違う」
レディンの言葉にアーシェルが首を振った。
そして、両手で何かを形作りながら、懸命に説明しようとする。
「なにか変な感じだった。ええと、あんな発明、聞いた事も無いし……うー、長い年月を経て、改良されたみたいな」
「開発されてから時間が経ってるっぽい――って事? だから、私たちの国の船じゃないって?」
アルマの補足にアーシェルは小さく頷いた。
「そう考えれば、あのでたらめな技術にも、とりあえずの説明はつくか」
シュバート国は閉鎖的な国だ。海の向こうはほとんど情報が入ってこないが、戦争が絶えない国もあると聞く。
レディンは認めたくないが、戦争は著しく技術を発展させる事は事実としてある。
「じゃあ、なんで外国の船がこんな所にいたんですか? まさか、カンナ達がここにいる間に、本当に戦争が始まっちゃったとか?」
「いや、それはないな。戦争が始まったのなら、船一隻で行動するというのは恐らくありえない」
「じゃあたまたま来たって言うんですか? なんか、知ってて待ち伏せされたみたいに、カンナは見えたんですけど」
カンナの問いに一同はすっかり考え込んでしまった。
「あああっ!」
突然、声を上げたのはアルマだった。
「ちょ、ちょっとまって、なんか凄い繋がった気がするの」
何かを確認するように指折り数え、うろうろと部屋の中を回り始める。
「うん、これなら誰も助けにこない理由も繋がるし、目的が文明なのも……ああ、そっか!」
「アルちゃん、何なんですか? 早く教えてくださいよ」
カンナの急かす声に、アルマは指折り終わって丸めた手をゆっくりと胸に当てて、頷いた。
「うん。多分ね、私達ってね……戦争に負ちゃってたのよ」
「――え?」
きょとんとする一同に、アルマは「結論から言うとね」と前置きして言った。
「この学院って、戦後処理のための実験場なのよ。たぶん」