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第57話:非国民と消えない時間(上)

(……寒い)


 気が付くと、シュルトは冷たく深い闇の中を漂っていた。


(俺は、死んだのか?)


 分からない、自分がどこにいるのかも分からない、何も考えられない、感じるのは真っ暗で冷たい何かに包まれている感覚だけだ。

 しかし、その凍てつくような闇は何故かとても心地よかった。

 このまま自分も世界も、何もかもが消えてしまえばいい。

 消えて、無になってしまえば、きっとなにも感じなくなって――


「シュルト! 起きなさいシュルトッ!」


 突然、切羽詰った女の声が暗闇に沈んでいた意識を無理やり引き上げた。

 次いで肩を激しく揺する感触。

 触るなっ——シュルトはそう怒鳴って飛び起きたつもりだ。しかし、体は鉛のように重く、まるで言うことを聞かない。ノロノロと目蓋(まぶた)を開くがやっとだった。


「う……んっ……」


 わずかに開いた目蓋の隙間から橙色の光が差し込み、その痛みにうめき声を漏らした。

 シュルトは手の平で光を遮り、目を細めるとベッドの傍らに誰かが立っているのに気付く。

 睨むように見上げると、そこには思わぬ人の姿があった。


「か、母さま?」


 そう、それは紛れも無くシュルトの母だった。

 栗色の豊かな髪は乱れ、蒼白な顔を強張らせているものの、その美しい顔を見間違えるはずが無い。

 しかし、同時に思う。母がここにいるはずが無い、生きているはずが無いのだ。


(ああ、そうか。またこの夢か)


 シュルトはそう声に出したつもりだったが、それは再現されなかった。声だけではない、どれだけ足掻こうが指一本動かす事も、顔背け目を閉じる事さえ許されていない。

 何故なら、これは終わってしまった出来事、変わる事のない過去なのだから。

 言葉一つ、ランプの揺らめき一つであろうと変わらない。

 結末までもが何もかも決まりきった、記憶と言う名の繰り返される悪夢。


「シュルト、起きなさい! この屋敷を出るのよ!」


 母の声にシュルトは戸惑いながら窓の外を見た。

 四角く切り取られた窓の外は真っ暗で、それどころかザアザアと強い雨音がはっきりと聞こえる。


「で、でも、母様、外は雨――」

「いいから急ぎなさいっ!」


 苛立ちのこもった声を上げた母はシュルトの腕を掴み、ベッドから引きずりおろそうとする。

 シュルトは驚きのあまり母の手を乱暴に振り払う。


「か、母様、いったいどうしたんです? 大声を上げて、こんな、」


 母の取り乱すことも怒鳴ることも見たことがなかったシュルトは、驚きを通り越して恐怖に身を震わせた。

 母は美しく、穏やかで、とても軍都と呼ばれるドライ領へ嫁いできたのが間違いのような、争い事とは無縁の女性(ひと)だった。

 その母が深夜にノックもなく押し入ってきて、あろう事か「屋敷を出る」と声を荒げているのだ。


「母様、どうしたんですか、いったい何が――」

「理由を説明している時間はありません! いいから、急いで起きなさいっ!」


 そう怒鳴りながら再び伸ばされた母の手を、シュルトはまた振り払った。


(この手を取っていたら、結果は変わっていたのかもしれないのに……)


 シュルトはかつての自分に苛立ちを感じずにはいられなかった。

 なんと愚鈍で、無自覚だったのだろうか。デイルトン家に起こっていた異変を、知ろうと思えば幾らでも気付く事はできたはずなのだ。

 まずおかしいと思うべきだったのは、ヒルゾがシュルトの剣の師として連れてこられた事だろう。あの面子(メンツ)を気にする父が、唾を吐きながら歩くような下品な男を理由もなく屋敷に入れるわけがなかったのだ。

 あの辺りから父は目に見えて痩せ、苛立ちを隠そうともしなくなり、時折おかしな事を口走るようになった。

 執事も侍女もどんどん辞めていき、代わりに知らない人間が屋敷をうろつくようになり、皆が物影で話すようになっていた。


(……なのに、俺は何も見ようとせず、知ろうともしなかった。いつか元に戻るだろうと、何の努力もせずに信じきっていた)


 動けないと知りつつ、シュルトは胸を掻きむしろうと力を込める。

 未だにベッドの中で怖気づいている過去の自分に、殺意すら感じていた。

 しかし、どれだけ悔いようと、過去は絶対に変わらない。


「シュルト、お願いだから起きて! もう時間がないの!」


 母の声が震えていたのを聞き、シュルトはようやく母の顔をじっと見つめた。


「でも、母様……屋敷を出るって、いったいどこへ行くのですか?」


 何気なく尋ねたこの言葉に、母はハッとして頬に手を当てた。


「――そ、そう! アスハルト邸へ行きましょう。ほら、お爺様やマティリアを覚えるでしょう?」

「マティリア兄さま?」

「そうです。さあ、急いで」


 懐かしい従表兄弟(はとこ)の名を聴くと、シュルトはようやくベッドから降りる。

 その様子に母はようやく表情を少しだけ和らげたが、服を着替えようとしたシュルトの手を取ると、そんな暇は無いと部屋の外へと飛び出す。


――だが、全ては遅すぎた。


「いたぞっ!」


 部屋を出た直後、男達の叫び声が廊下に響いた。

 見ると真っ暗な通路の先から松明をかざした見知らぬ男達が数名、こちらを指差しては「いたぞいたぞ」とがなり立てている。

 男達は明らかに平民の身なりをした者達だ。あんな者達が夜更けに公爵の屋敷で下品な叫び声を上げるなんて——シュルトは恐れよりも憤りを感じて男達を睨みつけた。

 だが、母は何も言わずに身を翻すと、シュルトの手を引き通路の反対側へ走り出す。


「か、母様! こっちには使用人の使う階段しかありませんよ?」


 しかし、母はシュルトの声が聞こえていないかのように、真っ暗な通路を一心に突き進む。そして、普段使う事のない狭い階段へ飛び込むとひたすらに階下目指して駆け下りていく。

 足元が暗くシュルトは何度も転びそうになったが、母の腕にしがみつき、滑り落ちるように降り続けた。


「待てっ!」


 階上からは男達の怒声が降ってくる。追ってきているのだ。

 声を聞いた母はいっそう足を速め、一階にたどり着くや裏口に向かうと、シュルトの手を引いたままぶつかるように扉を押し開ける。

 そして、そこでようやく母は足を止めた。


「そ……んな」


 母はかすれた声を漏らして首を振った。目の前の光景を受け入れたくないとでも言うように。

 シュルトが母の脇から覗いた先に見たのは、雨の中に何百とうごめく松明の光だった。

 その橙色の光に照らされるのは、いずれも憤怒の色に染められた老若男女の無数の顔。

 この人たちは一体何――そう母に尋ねようとした刹那、シュルトは背後から蹴り飛ばされ、母と一緒に雨に濡れた地面へ顔から倒れこんだ。


「もう逃げられんぞ! この売国奴がっ!」


 口から泥を吐き捨てながら起き上がったシュルトが見た物は、裏口を塞ぐように立ちふさがった4、5人の男達。階上から追いかけてきた男達だろう。

 訳が分からず呆然となったシュルトの周りを、松明を持って待ち構えていた人々がぐちゃぐちゃと泥を跳ね上げながら取り囲んでいった。

 そのどの顔にも、激しい怒りと侮蔑と憎悪が浮かんでいる。


「観念しろ! 裏切り者め!」

「国を売ってまだのうのうと生きようとするなんて、何て恥知らずなの!」

「こんな奴らに今まで搾取されてたなんてなっ!」


 怒声を上げながら人々は足元から黒い石を一つ、また一つと拾い上げていく。

 あれをどうするのか、その時になってようやくシュルトは自分がこれからどうなるのか気付き、恐怖で胸が締め上げられた。

 僕はどうすれば――そう言おうとして母の顔を見上げると、そこにあったのは雨に塗れ、歪んだ顔。

 見た事も無いような絶望の白面。


「母……さま?」


 小さく呼びかけると、母は弾かれたようにシュルトを見た。

 虚ろだった瞳が震えながらシュルトを捉え、止まっていた息を少しだけ吐き、シュルトの小さな体を力の限り抱きしめる。


「かみさ……どうか…たすけ…さい」


 ブツブツと母の口から漏れる願い声はあまりに小さく、雨に紛れて神どころかシュルトにすらハッキリと届かない。

 もう逃げられないのか、そう悟ったシュルトは母の腕の中でぎゅっと目を閉じ、次の瞬間を待った。


 ゴッ


 最初の一石が投じられた。

 背を覆っている母の手に当たったと伝わった感覚から分かる。

 母は悲鳴を上げる代わりに、シュルトを押し倒す様にぬかるんだ土の上にうつ伏せに倒れた。


「神様……どうか……助けて……さい……どうか、お願い」


 無駄な祈りを繰り返す母の体を通し、ゴツ、ゴツと鈍い衝撃が響いてくる。

 シュルトは間もなく来る痛みと死が怖くて、息をすることさえ忘れて、母の体の下で必死に体を小さくしていた。

 聞こえるのは雨音と骨を打つ石の音と、母の嘆願。


「……どうか……神様」


 祈っても無駄だ。もう死ぬんだ。なんでそんなに必死に祈るの。もうやめて——そう思った時だった。


「どうか……シュルトを……神様」


 その言葉が耳に届いた時、気付いた。

 母は、もう助かろうなどと思っていない。

 憎しみを全て背負うつもりなのだ。

 シュルトが母の顔を見ようと身じろぎをすると、母はまるで赤子の頭を撫でるようにシュルトの頭を手で包むと、胸の下へと押し戻した。


「シュルト、お願い……生きて」


 ゴツゴツと命の削れていく音が、衝撃が、全て母の体を伝ってシュルトに届く。


「……生きて、幸せに、なって」


 その言葉が聞こえたのが最後だった。

 隙間をすり抜けた石がシュルトのこめかみに当たり、意識は闇の中へ落ちていった。 


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