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第56話:後悔の涙

 船着場は騒然となって事の成り行きを見守っていた。

 二度目の轟音が響き渡った後、脱出船からは黒い煙がもうもうと立ち上っている。どこからか出火してしまったのだ。

 煙でよく見えないが、時折垣間見える帆が巨大な虫に食われるように小さくなっていく。


「お、おい! 船が沈んでるぞ!」


 船着場から誰かがそう叫ぶと、詰め掛けていた生徒達の悲鳴と怒号はいっそう激しさを増した。

 希望の光であった脱出船、それが突然襲ってきた謎の黒船に襲われて沈もうとしている。いや、それ以上にあそこには大切な時間を共有していた仲間達が100人も乗っているのだ。この状況で取り乱さない方がどうかしていた。

 しかし、アルマは身動きはおろか、声すら上げられないで呆然としていた。

 目の前の光景が信じられなくて、声を出した瞬間に現実だと認めてしまいそうで、ただ立ち尽くすことしかできなかったのだ。

 アルマがようやく我に返ったのは、聞き覚えのある声が背後から飛んできた時だった。


「どいてくれっ! 頼む、前に行かせてくれっ!」


 首だけで後ろを振り返ると、ザイルが必死になって人ごみを掻き分けていた。歯を食いしばり、蒼白になった顔で船着場の端にたどり付くや、何かを掴もうとするように船に向かって精一杯手を伸ばす。


「クレアアアアアアッ!!」


 体の全てを絞り出すような叫び声が響き渡った――が、すぐに無数の波の音にまぎれて消えてしまう。

 どれだけ頑張っても無駄だろう。声も、手も、こんな場所から届くわけがない――そんな酷く冷たい考えがアルマの頭に浮かんできた。

 だが、次に彼がした行動にアルマは思わず息を飲んだ。

 ザイルはぐっとかがみこむと、何の躊躇(ちゅうちょ)も無く海へと飛び込んだのだ。


「ク――レアッ! プハッ、今――行くからっ――なっ――ゴボッ」


 海に入るや、ザイルは手足をばたつかせて前へ前へと必死に泳ぎはじめる。

 しかし、少し進んだところでピタリと止まってしまい、飲み込んだ水を吐き出しながら苦しそうにあがきだした。


「お、おい、あいつ溺れてるぞ!」

「バカが! 泳げないのに飛び込んだのか!」


 周りにいた人々もザイルの異変に気付き、何とか救助しようと船を繋いでいたロープを投げる。

 だが、ザイルはロープを掴もうとすらしない。

 溺れてロープの存在に気付いていないのか、それを掴んだら引き戻されると分かっているからなのか。

 しかたなく泳ぎの達者な者が飛び込んで引き上げる事にしたようで、ザイルは後ろから抱えられながら、ぐったりと船着場に引き上げられていった。

 しかし、それでもザイルは沈みかけた船へと懸命に手を伸ばし続ける。


「どうして、そんなに必死に――」


 そう呟いた瞬間、アルマはブルリと体を震わせた。


「決まってるじゃない。これであきらめたら、もう、二度と……」


 アルマは顔を上げた。そして、もうもうと黒煙を上げながら海面に消えてゆく船を、はじめてしっかりと見た。

 船はやはり遠くにあった。上手く距離感が掴めないが、ここから走っていけたとしても相当の時間がかかるだろう。

 まして、泳ぐとしたら時間はもっとかかる。しかも、海には波の他に潮の流れがあり、泳ぎが達者な者でも思うように進めないと聞いていた。


(――迷ってる暇なんか、ないんだ)


 アルマがギュッと胸を掴んだ時、とうとう海上から脱出船が完全に消えた。

 広い海には唯一、謎の黒船が白煙を上げながら悠々と東へ去っていく姿しか見えない。どこを探してもシュルトの乗っていた船は見当たらないのだ。

 頭の奥が氷のように冷え、胸の奥だけが急き立てるように熱く鼓動を繰り返す。


「……私が、行かなきゃ」


 アルマはふらりと一歩踏み出すと、つま先が船着場の板の上から出た。その下にあるのは、ねっとりと(うごめ)く底知れぬ海。

 迷うな――息を吸い込んで身をぐっとかがめた瞬間、後ろから肩を強く掴まれた。

 振り返ると、珍しく怒った顔のレディンがそこにいた。


「アルマさん、何をするつもりですか?」

「……」

「アルマさんは泳げるんですか? あなたの住んでいたノイン領は深い内陸地のはずです。泳いだ事なんてないんでしょう?」

「は、離してよ! 私、行かなきゃ」

「離しません! さっきザイルさんがどうなったか見てたでしょう? 回りに迷惑をかけるだけです! しっかりしてくださいっ!」


 レディンに怒鳴られ、張り詰めた気持ちが一瞬だけ緩んでしまった。

 視界がゆがみ、崩れ落ちそうになった体を、レディンの腕を掴むことで辛うじて耐える。


「だ、だって、あそこにいるのよ? シュルトも、アーシェルも、他のみんなも、きっとあそこで助けを待って――」

「ええ、その通りです。だからこそ、時間を無駄にしちゃ駄目じゃないですか」


 さっきと打って変わって優しくなだめる様な口調に、アルマは少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た。

 そうだ、失敗している時間など無い。

 次、どう動くかで船に乗っていた100人の命を左右してしまうのだから。


(でも、いったいどうすればいいの……)


 アルマは目をギュッと閉じて、懸命に考えをめぐらす――が、焦りばかりが募って考えがまとまらない。

 焦っちゃだめだ、冷静にならなくては。

 その時、目蓋の裏に無愛想な顔が映し出される。


(シュルトなら、どうするかな……)


 きっと彼なら顔色ひとつ変えず状況を判断し、どんな不可能なことも可能に代えてしまうはずだ。

 いつものように、使える物を最大限に使って――


「そうだっ! 他にも小船が何艘(なんせき)か あったはずよ! 試作として造った小船を漁に使ってるって、昨日誰が言ってたもの!」


 それを聞いたレディンはにっこりと笑って頷いた。

 なんでこんな事も思いつかなかったのだろう、アルマは空回りしていた自分を悔やみながら体をくるりと(ひるがえ)し、混乱して右往左往する生徒達の方へ向けた。

 そう、ここにいる人はみんな仲間なのに、なんで自分ひとりでやろうとしていたのだろうか。

 アルマはその体いっぱいに潮風を吸い込んだ。


「みんな聞いてっ!」





 船着場から少し離れた場所にある古い納屋、その中でマティリアは情報屋の穏やかな仮面を脱ぎ、その端麗な顔を歪ませてリーベルの胸倉を掴んでいた。

 しかし、一方のリーベルは口元に薄笑いを浮かべたまま、動揺している素振りすらない。


「おいおいマティリア、こんな狭い納屋に連れ込んで、いったい俺をどうするつもりだい?」

「ふざけないでください!」


 マティリアはリーベルの胸倉を掴んだまま、怒りに任せて納屋の壁に押し付ける。

 しかし、リーベルは表情を崩すことなく、やれやれと肩をすくめた。


「そんな大声を出すなよ。誰かに聞かれて困るのは君達だぞ?」


 そんな事は、分かっていた。

 ここが港はずれの納屋とは言え、誰かに聞かれる可能性がある以上、大声を出すのは危険だ。

 しかし、マティリアはこみ上げて来る怒りを抑えられそうになかった。


「何なんですか、あれはっ!」

「……黒い船の事かい? 残念ながら機密事項だよ。君がいくら知りたがりだからって教えられない事もあって――」

「そんな事は聞いていません。この仕打ちはいったいどういうことかと聞いているんです」


 軽い物言いに、マティリアはさらに柳眉を逆立てて胸倉を掴む両手に力をこめる。


「勘違い、するなよ」


 リーベルは唇の端をわずかに上げると、マティリアの細腕にトントンと人差し指を当てた。

 離せ、と言っているのだろう。

 マティリアは怒りを吐息に変えて吐き出すと、ゆっくりとリーベルの襟首から手を離した。


「……ったく、乱暴だな。服が伸びたじゃないか」

「このっ」


 めまいすら覚えるような怒りがマティリアを襲った。

 壁の向こうにある海を指差し、リーベルに向かって怒りを吐き出す。


「あそこで今、人が死んでいるんです! それなのにあなたと言う人はっ――」

「だから、勘違いするな」


 マティリアの唇にスッと指を当てて言葉を封じ、リーベルはことさら無機質に言葉を連ねる。


「教官の退場後、いかなる理由があっても脱出を認めない。たとえ、武力をもってしてもこれを阻止する――この決定を受け入れたのは他ならぬ君らだ」

「し、しかし」

「俺だってやりたくて命じたわけじゃない。だが、これはルールだ。義務なんだよ。いちいち対応しなきゃいけないこっちの身にもなってくれ」


 その言葉に反論しかけて、マティリアは喉元で飲み込んだ。

 今回の件、非があるとすればおそらく学院を整備した者達であろう。脱出が禁じられているのに船を造れる建物を残しておくなんて、愚の骨頂としか言いようがなかった。おそらく釘が無ければ大型船は造れないと考えたのだろうが、その浅はかさの結果がこれだ。

 しかし、だからと言って目の前で同胞を殺された怒りは抑えようがない。しかも、あの中にはシュルトがいたのだ。たったひとり、自分が適わないと認めた人間が、こんな理不尽に殺されたのだ。

 黙ったまま睨みつけるマティリアに、リーベルは肩をすくめると「そうそう」と手を打った。


「今回の件で死んだ人数はカウントから除外されるから心配は――」

「黙れ」


 その声にリーベルは初めて一歩後ずさる。

 マティリアは納屋の壁にもたれかかると、うつむいたまま怒気をゆっくりと吐き出した。


「……それ以上、何か言えば、あなたを殺します」





 ザイルは濡れた服を乾かそうともせず、船着場の上で救出に出た小船が戻るのを苛々しながら待っていた。


「くそっ……まだかよ……くそっ……」


 できる事なら船に乗ってクレアを探したかった。

 いや、最初はそう願い出たのだ。それを止めたのがアルマで無かったら、きっと意地になって騒ぎ立てて救出を遅らせてしまったに違いない。

 小船に二人乗れば、だれか一人を乗せられなくなる――歯を食いしばってそう言ったアルマの言葉をザイルは何度も畝の中で繰り返す。そうでもしないと不安が際限なく膨らんで、立つことすらできなくなるだろう。


「おーい、戻ってきたぞ!」


 その声に、ザイルは船着場から身を乗り出すようにして目を凝らした。

 やってくるのは二艘の小船。出て行ったのは三艘だから、あとの一艘はまだ付近を捜索しているのだろう。


(……クレア、頼む)


 普段祈った事の無いザイルだが、自分ではどうしようもない事は祈らざるを得ない。

 藻でも絡み付いているのかと思うほどゆっくりとやってきた小船の上を、ザイルは船着き場から覗き込む。

 そこには7、8名の生徒がぐったりと横たわっていた。しかし、そのどれもが男だ。

 もう一艘も覗き込むと、女生徒はいたもののクレアの姿はどこにも無かった

 ザイルは船を動かしていた男に詰め寄る。


「も、もう一艘は? 確か小船は三艘だったよな?」

「ああ、もう一艘はまだ沈んだ辺りを探してる……けどな、お前の探してる奴は甲板か船内、どっちにいた?」


 臆病なクレアが甲板にあがっていたとは考えにくい、おそらく船内で震えていのだろうと、ザイルは顔を強ばらせながら答える。


「たぶん甲板には出てないと思うけど、それがどうかしたのか?」

「そうか……なら、あきらめたほうがいい」

「なっ!」


 ザイルは思わずつかみ掛かりそうになって、かろうじて堪える。


「この助かった奴らはみんな甲板にいて助かったらしい。なんでも甲板は火の海で、船内にいた奴らは逃げる事もできずに船と一緒に海の底に飲み込まれた。たぶん、もう……」

 

 ザイルはガクリと膝を着いて頭を抱えた。


「俺のせいだ……俺が、一緒に行かなかったから」


 何故だ、何故、クレアが死ななくてはいけない?

 ずっと兄弟に怯え、夜の闇に怯え、全ての人に怯えていただけの人生しか送っていないと言うのに。

 これからは、ただ二人で生きてさえいればと願っていただけなのに。どうして、それすら適わなかったのか。

 答えは分かっている。

 自分が選択を誤ったのだ。よかれと思って自分勝手な答えを押し付け、その結果、彼女を殺してしまったのだ。


「ごめん、な……クレア……ごめん……」


 かすれる声で、ザイルは何度も海に向かって詫び続ける。


「ザイルッ!」


 そんな彼の背中に、誰かが呼びかけた。

 その声でザイルは弾かれたように立ち上がり、そして振り返った。

 真っ赤な髪、ぜいぜいと呼吸を繰り返して真っ赤になった頬、それは彼女が生きている何よりの証拠だ。


「クレアッ!!」


 ザイルは信じられないと呟きながら駆け出し、初めからそうであったように抱き合った。


「どうして、どうして、クレア……」

「ごめんなさい。ザイルが乗らないって知ったら、私だけ乗るなんて出来なくて」


 安堵が、嬉しさがとどまる事無く溢れ、涙になってこぼれ落ちる。

 ザイルは腕の中にあるぬくもりを何度も何度も確認し、もう離すまいと誓う。

 一緒に生きていられる奇跡を、絶対に手放すような事はしない。

 一番大事なことを二度と見失ってなるものかと心深くに刻み付け、ゆっくりと目を開いた。


「……あ」


 クレアの肩越しに、船着き場でじっと海を見つめ続けるアルマとレディンの後姿が見えた。


(ごめんな、アルマ)


 今の彼女にはどんな励ましの言葉も意味がない。

 かける言葉など何もないのだと、ザイルには痛いほど分かっていたのだ。





「ケホッ……こっち、だ」


 波を飲み込みながらシュルトは口にボートに向かって懸命に叫び、手を振り続ける。

 その甲斐あってか、ボートはゆっくりとこちらに近づいてきた。


「アーシェル、大丈夫か」


 片手で抱きかかえているアーシェルからは相変わらず返事がない。船から落下した衝撃で気を失ったままなのだ。下手に暴れられるよりマシではあるものの、彼女の顔を海面に着けないように保ち続けたせいで、体力を相当消費してしまった。


(だが、なんとかもったな……)


 手が届きそうな距離に小舟が近づいた時だった。


「待て!」


 低い怒鳴り声と同時にヅィーガーがボートの縁から顔を覗かせ、手を伸ばそうとした船頭の腕を掴んだ。


「こいつは非国民だ。助けてはいかん」

「し、しかし――」

「忘れたのか? こいつの父親は自分可愛さに王を裏切り、あげくの果てには公爵家の娘を盗賊に売り飛ばした大罪人だ。本来ならこいつも斬首にされるべきだったのだ。あの黒猫王の勅令さえなければな」

「ですが、ヅィーガーさん。いくらなんでも」


 船頭が苦笑を浮かべるや、ヅィーガーは一喝した。


「だまれ! こいつは船が砲撃されるより早く海に飛び込んだんだぞ! つまり、あの黒船と裏で通じていた。こいつもまた裏切り者だったのだ!」


 憎しみの目、怨嗟、罵声――分かっていた事、いつもの事だった。

 父が国家の反逆者となってから、一日たりとも途絶える事のない現実だ。

 シュルトは小さく息を吐くと、抱えていたアーシェルを船に寄せた。


「こい、つを……」

「この砂漠の民を助けろと言うのか? ふざけるな! 貴様のふてぶてしさは度し難い。貴様の愛人も貴様と同罪、裏でどう繋がっているか分かったものではない。そんな人間を船に 乗せる事などできるか! おい、船を出せ!」

「……で、ですが」

「もういい、かせっ!」


 ヅィーガーは船頭からオールを取り上げるや、それを大上段に振り上げる。


「非国民め! 地獄へ堕ちろっ!」


 怨嗟を込めた一撃が、避ける事も出来ないシュルトの額に叩きつけられた。




「ゴボッ―—」


 口に入った塩水から自分が海の中に叩き込まれたのだと知る。

 暗転していた視界がゆっくりと戻っていくと、海中に赤いもやのような物が流れていた。さっきの一撃で額を切ったらしい。

 ひどい出血だと、まるで他人事のように思った。


(俺は、ここで死ぬのか)


 死ぬのが恐ろしくはあったが、同時に頃合いなのかも知れないと思った。

 ずっと恨んでいた相手は既に死んでいた。命に代えて救おうとしていた姉も、もうどこにもいない。生きる目的はことごとくあちら側へいったのだ。いまさら自分が生きている意味などなかったのだ。それを人の恨みにすがってまで生きようとしたのが、そもそも間違っていたのかもしれない。


(でも、なんで生きようとしたんだ、俺は)


 地獄でしかないこんな世界に、何故自分はしがみつこうとしたのだろうか。

 考えようとするがゴボリと口から息がもれ、意識は一秒ごとに遠のいてゆく。

 もういい、十分だ。ここで終わりにしよう。


『ふざけんじゃないわよ! シュルトのバカ!』


 全てをあきらめた瞬間、その声は頭に響いた。

 心臓がドクンと脈を打ち、意識がよみがえる。

 そうだ、これは出航の時、潮風に乗ってかすかに聞こえたあいつの言葉だ。


(そうか、そうだったのか)


 息苦しさで朦朧とする中、笑いがこみ上げてきた。

 こんな自分でも生きたいと願ったのは、ここがあいつのいる世界だからだったのだ。

 それなのに、逃げるように彼女を遠ざけて満足していた。

 なんという矛盾に満ちて、愚かで、不器用な事を選んでいたのだろうか。


(もしあいつが、ここにいたら……)


 きっと、この状況でもまったくあきらめやしないのだろう。

 どんなに絶望的な状況でも、折れない剣のように全身全霊でぶつかり続けるのだ。

 痛くても苦しくても、それすら力に変えて最後の一瞬までその身を燃やし尽くすはずだった。

 そのくせ、周りの誰かが傷つけばあっけなく泣き出し、落ち込み、自分を責める。

 

(きっと、こんな自分が死んだとしても、あいつは……)


 気が付けば、シュルトは知らぬ間に足掻いていた。

 鉛のように重い手足を動かし、水をかき分け、酸素を求めて海面をひたすらに目指していた。


「ぷはぁっ——ゲホッ、ゲホッ」


 海面に出て息をつくや、意識が急速にクリアになっていく。

 周囲を見回すと、幸いと言うべきかヅィーガー達の乗っていたボートは既にシュルト達から離れ、一路島を目指していた。

 その他に救助の船はいないかと見回すと、波間にもがいているアーシェルが見えた。シュルトが手を離したので、海水を飲みこんで気が付いたのだろう。

 アーシェルは泳げないようで、しかもひどく錯乱している。あのままでは、すぐに沈んでしまうだろう。


「ゲホッ……くそっ」


 理由を考えるよりも早く、シュルトは鉛のように重い体を懸命に動かしてアーシェルに近づいていた。

 背後から脇に片腕を通し、沈みかけた身を最後の力をかき集めて引き上げる。


「げほっ、ごほっ……」


 引き上げられるなりアーシェルは気管支に入った水を吐き出すために何度も咳き込んだ。

 その小さな体は恐怖と海水の寒さに震え、咳の合間に歯のカチカチと鳴る音が聞こえる。

 一方のシュルト自身も額から流れた血が目に入ったので、あいている手で拭うと、その手が痙攣しているのに気づいた。


(もう、長くは保たないな)


 出血はとまらない。おまけに海水に長時間浸かっている事で体温が奪われている。

 と、その時、船の残骸であろう木片が近くを漂っているのを見つける。


「アーシェル、あれに捕まるぞ」


 言う事を聞かない体を必死で動かし、二人はどうにかして木片にしがみついた。

 幸い、木片は予想以上に大きく、シュルトとアーシェルが捕まり、体重をのせても平気なようだ。


「ねぇ、シュルト。ボクたち、流されてる」


 安堵する間もなくアーシェルが泣きそうな声でそう告げた。

 シュルトがじっと島を見つめると、確かに少しづつだが離れて行ってる。

 考えてみれば、出港時に島から離れていく潮を利用したのだから、当然といえば当然だった。


「まてよ、そうか……アーシェル、南だ。南へ進むぞ」

「でも、島の方向は西じゃ」

「潮を使う」


 この辺りの、潮の流れは頭に入っている。

 南の方に島に向かう強い潮が流れているはずだ。あれに乗る事ができれば、ひょっとすると島に漂着できるかもしれない。

 逆を言えば、このまま力つきてしまえば、この広大な海の上で途方に暮れるしかなくなるのだ。


(しかし、我ながら分の悪い賭けだな)


 潮の変わる場所まで体力が保つかどうかは分からないし、果たして潮に乗ったとして無事に島に戻れるかも分からない。

 そもそもこの木片にしがみついていられる力だって、後どのくらい保つか分からないのだ。


(それなのに、どうして俺は、こんなに足掻いているんだ……)


 最初はそう疑問に思っていたが、歯を食いしばって進み続けるうち、その理由がハッキリと分かってきた。

 会いたいのだ。

 もう会えないと思った瞬間、それが死よりも辛いと気づいてしまった。

 あの笑顔をもう一度見たい。自分を人間として扱い、笑いかけてくれたあの笑顔をもう一度だけでも見たい。

 だが、同時に怖くなってしまったのだ。

 この呪われた血で彼女を苦しめる事になっても、それでも望むことが止められない事を。

 あいつが泣く姿など見たくない、しかし、笑っていてもらいたい。

 それを願った結果が、この様だ。


(くそ、これじゃ、あいつの言う通り……俺は、ただの)


 シュルトの額からは、ひとしずくの血が涙のように頬を伝った。


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