第51話:非国民と空の橋(下)
一斉に湧き上がる嘲笑と怒声。
アルマの周りを雑音が通り過ぎ、濃い紫だった空が暗闇へと薄皮をめくるように色を落とす。
(こんな反応が来る事くらい分かってたんだけど……少しは不安になるとかしてもいいじゃない)
失笑を浮かべるフィロゾフを眺めながら首を傾げ、アルマはふと周囲を見回した。
(そうか! この人たちは考えたくないだけ、失敗した時のことなんて想像したくないんだ!)
だからアルマの言葉を大声で拒絶し、笑って頭の隅から追いやる。これだけの人数がいれば優しい幻想に浸っていられるのだ。
ならば、その幻想を壊してやるしかない。たとえ憎まれようと現実を突きつけ、そんな場所からさっさと追い出してあげる――アルマは息を吸い込み、嘲笑の渦の中心へ叩きつけた。
「あなた達、本当にバカね!」
夕闇の中で無数の視線が蠢き一斉にアルマへと集まる。それは隣にいたカンナですら、おぞましさに刀へ手が伸びるような光景だったが、アルマは大丈夫と頷きながら刀から手を離すよう合図する。
もちろん、アルマだって内心では逃げ出したいほど怖った。しかし、この視線に怖気づいてしまえば交渉は一気に崩れ去るだろう。だからアルマは自信にあふれた笑みを無理やり浮かべ、怖くないと自分に言い聞かせる。
「だってバカじゃない。どうして私がこの場所へ来る事ができたと思うの? 理由は簡単よ。あなた達は増え過ぎたの。こんなに目立って、あのアグリフが気付かないなんて本当に思ってるの?」
この言葉に何名かが不安に顔を見合わせたが、大半はフィロゾフへと目を向ける。
リーダーたる彼ならきっと的確に答えてくれるとの期待を込めた視線だ。
「イ、イオネル、自分はいったいどうすれば?」
フィロゾフが傍らにいた男へ助けを求めるや、槍を持った小柄な男は素早くフィロゾフに耳打ちする。
やがて、フィロゾフは小刻みに何度も頷き、アルマの前で仰々しく咳払いをした。
「こほん――仮にですよ、アグリフが自分達の存在を知っていたとしても計画に変更はありません。なぜなら我々は既に300を超えようとしています。もうアグリフの兵など恐れる必要はないのですよ」
「は? でもアグリフに従っている人は600人近くいるはずでしょ? ここの倍もいるのよ?」
「いいえ、問題はその内容です。アグリフに従う者は、おそらく半数は何も分からず、何も決められずにいる愚か者です。その者たちが自分たち脱出を志す勇者の存在を知ればどうするか? 当然、喜んでこちらへと逃げてくるでしょう。つまり、勝敗など既についているのですよ。これが合理的な戦術予想と言うものですが、野良猫さんにはいささか難しかったでしょうか?」
得意そうに眼鏡を中指でくいと上げたフィロゾフに、アルマは湧き上がる苛立ちを抑えきれずにいた。
彼の予想が見当違いだから腹をたてたのではない。300人の命を預かっているのに、この男にまるでその自覚がないからだ。
「だ・か・ら、アグリフは罠を仕掛けてるって言ってるでしょう!」
「ほほう。では、それはどんな罠なのですか?」
「それは……まだ分からないけど、でも――」
アルマが言いよどんだ瞬間、フィロゾフは眼鏡の奥から冷たい視線を覗かせた。
「分からないが罠だけはあるですと! なんと合理的な見解でしょうか!」
ここでフィロゾフが両手を広げると、静かに事の成り行きを見守っていた群衆は一気に沸きあがった。
歓声に気をよくしたのかフィロゾフの顔にも笑みがこぼれ、アルマへにじり寄ると教官が生徒に教えるように人差し指を立てた。
「だいたいですね、ここにいる者達は多少の危険など承知の上の事なのですよ。この程度の事で長きに渡る計画を諦めるなんて、あまりに不合理でしょう? さあ、納得したなら帰りなさい。これは自分達の問題です」
「ふっ――ふざけんじゃないわよ! 帰ってたまるもんですか!」
触れようとしたフィロゾフの手を打ち払い、アルマは声の限りに怒鳴った。
「だいたい、なんでクーデターなんて起こす必要があるのよ! あなた達が東に移住すれば、戦う必要なんてなくなる。そこでアグリフなんて気にしないで船を造ればいいじゃない!」
「それは……食料の問題がですね」
「食料? アグリフの溜め込んだ食料を当てにしているっていうの!」
「うくっ――あまり自分を怒らせない方が身のためですよ。大体、いきなりやって来た者の言葉を鵜呑みにするなんて、あまりに不合理でしょう!」
この言葉に「そうだそうだ」と声援が入り、フィロゾフはどうだとずり落ちかけた眼鏡を掛けなおす。
対するアルマはあごに指を当て、「なるほどね、分かったわ」と頷いた。
「なら移住が終わるまで私を捕虜にすればいい。そして、もし私が嘘をついていた時は――この命をあげる。それなら十分でしょう?」
あっけらかんと言い放ったアルマの言葉に、場はしんと静まり返る。
ただアルマの後ろで見守っていたカンナが、またやったとばかりに吐いたため息だけが静かに響いた。
「……何故あなたがそこまでするのですか?」
フィロゾフがまったく理解できないと眉をしかめながら問うと、アルマはさらに理解できないと首をかしげた。
「何故ですって? フィロゾフ、あなただってまだ生きたいんでしょう? やりたい事があるんでしょう? 故郷で待ってる人がいるんでしょう?」
「それは……誰だってそうに決まっていますが」
「うん、そうね。私だって故郷で母さんが待ってるもの。しかも家に一人きりで待っていて、私がいなくなったせいで収入も減っちゃって、ちゃんと食事してるのか、変な人にだまされてないか心配で……そのくせ毎晩のように夢に出ては、痩せこけた顔で私の心配ばっかりしてるの」
つい言葉に感情がこもりすぎて目頭をギュッとこすったアルマは、何を言っているのかと困惑顔のフィロゾフに顔を上げると、両手を胸に当てた。
「だから、私は絶対に死にたくない。だから、あなた達にも絶対に死んで欲しくない。待ってる人が悲しむなんて、誰であっても私は死ぬほど嫌なの。分かった?」
「しかし……イオネル、自分は何と答えたら――」
また後ろの男に相談しようとしたフィロゾフに、アルマはとうとうキレた。
「いい加減にしなさいよ! 私がわざわざこんな場所まで来て、いったい何の得があるって言うの? こっちは貴重な時間を無駄にして大損なのよ? これでも信じられないって言うの? バカなの? 死ぬの?」
「くうっ」
アルマの指が鼻先に突きつけられ、フィロゾフは魚のように口をパクパクとさせた。
「じ、自分は――」
フィロゾフが何か言おうとした時、まったく別の場所から笑い声が唐突に響き渡る。
「げははっ! 相変わらず無茶苦茶な嬢ちゃんで嬉しいぜ! げははははっ!!」
割れた陶器をかき混ぜたような耳障りな嘲笑だった。
アルマ達は慌てて笑い声へと視線を向けると、下品に制服を着崩した男が西の岩上からトーチを掲げて腹を抱えていた。その隣には両手に短剣を持ち、薄気味悪く黙って立つ長身の男もいる。
「メシャクさん! それに、シャデラクさんまで?」
「もっとよく見てみるんだな、紅の死神さんよ!」
メシャクがショーの開演でも告げるように両手を広げると、槍を持った生徒達が岩場のあちこちから現れる。
「囲まれてる……いつの間に」
アルマは必死で見回したが、岩場には僅かな隙もなくトーチを掲げる生徒が待ち構えていた。もはや逃げることすら適わない状況が出来上がっていたのだ。
これから起こる事を想像して青ざめたアルマに、顔を真っ赤にしたフィロゾフが詰め掛ける。
「アルマ=ヒンメル! やはりあなたはアグリフの手先だったのですね! イオネル! この嘘吐き女を即刻刺し殺しなさい!」
カンナが慌てて抜刀するより早く、イオネルと呼ばれた男は持っていた槍を突き出していた。
「くっ――イ、イオネル?」
イオネルの槍はフィロゾフの肩深くに突き刺さり、その傷から手を赤く染めた血を見てフィロゾフは信じられないと言葉を漏らす。
「イオネル!」
フィロゾフの再度の呼びかけに、イオネルは冷たい視線で応えた。
「なぁに、長いこと俺の家系をこき使ってくれた礼だよ。貴族なんてもう無いのに威張り腐りやがって……新たな制度に順応できなかったお前は、ここで終わるんだよ!」
「なっ――なっ――」
驚愕するフィロゾフを満足そうに見下げたイオネルは、ゆっくりと槍を振り上げる。
しかし、それが突き出される前に女の声がイオネルの動きを止めた。
「イオネル、そんな男など後にしろ! まずはアルマ=ヒンメルを討て!」
声の主はメシャクとシャデラクの少し後ろにいた。イオネルはその女と目をあわすや、舌打ちをして槍先をアルマへと向ける。
あまりの事態に呆然としていたアルマを、抜刀したカンナが背後へとかばった。
「アルちゃんはカンナの後ろにいてください!」
「カンナ、あの……」
「さっき指示を出した人はルア、アグリフがたった一人信頼してるガーディアンです。だからたぶん――」
カンナの言葉にアルマは指示を出したルアと言う女の方を見る。
すると、そのさらに背後からゆっくりと一人の男がトーチの明りに照らされた。
「……アグリフ」
灯火よりも真っ赤な髪と、薄く笑っているような目、間違いなくアグリフ=ラーゼだ。
アルマはすがるような思いで声を絞り出す。
「アグリフ! お願い、聞いて! こんな事しなくても、みんなが助かる方法が――」
しかし、アグリフはただ右の手を闇夜に向かって振り上げると、それをアルマへと振り落としながら、たった一言だけ発した。
「殺れ」
カンナは目の前のイオネルから目を離さず、周囲の状況を確認した。
トーチを持っていた生徒達が片手に槍を構え、アグリフの号令に従いゆっくりと包囲を狭めてくる。すぐに襲い掛かってこないのは、一人も逃がすつもりがないからだろう。
「火だ! 武器が燃やされたぞ!」
無数の悲鳴の中に、そんな悲痛な叫びが混じる。
カンナが目の端で確認すると、岩場の一角から赤々とした焔が天に向かって伸びていた。
異常に密集し武器もないこの状況では、一方的に殺戮されるのを待つばかりだ。
「どうしよう、カンナ……もう、止められない」
後ろからアルマの力ない声が寄りかかる。
「アグリフは襲撃を待っていたんじゃなくて、この機会を狙っていた。こんな状況じゃ、話すら聞いてもらえない。私の計画が甘かった。私のせいで、みんな――」
「アルちゃん!」
後ろでアルマが絶望に打ちひしがれている間にも、イオネルの周りに槍を持った男達が集まり、カンナへ穂先を向けていく。間違いなくアグリフに内応していた者達だ。
いったい何人いたと言うのか、あっという間に指では数えられぬ程に膨れ上がっていく。
「包囲が薄いうちに突破します。アルちゃん、しっかりついて来てください!」
カンナが手を強く引くと、アルマは力なく走り出した。
確かに今はショックだろうが、生きてさえいればまた笑う事もできるはずだと、カンナは目の前にあった槍をなぎ払い、斬ると見せかけて人ごみの中へと飛び込んだ。
囲まれたクーデター側の生徒達はすっかり戦意を失い、悲鳴を上げて逃げ惑っていた。しかし、どこにも逃げ場所などないのだから、安全そうな中心へと身を寄せるだけである。カンナはその間隙を潜り抜け、逆に外へ外へと突き進んでいく。
幸いにも、長い槍を持った裏切り者達は押し寄せる生徒の波に阻まれ、こちらへは中々進めていないようだ。
「くそっ! 邪魔だ!」
イオネルらしき男の怒声が響き、その後に悲鳴が上がった。
人ごみの中でアルマが振り返ると、数本の槍によって串刺しにされた生徒が目に飛び込んできた。
一目見れば分かる、完全に絶命していた。
とうとう、殺戮が始まったのだ。
「あ……ああ……」
「アルちゃん! しっかりしてください!」
「で、でも、カンナ。私のせいで――」
「違います! アルちゃんのせいじゃありません!」
カンナは力の限りアルマの頬を叩いたが、彼女はうな垂れるばかりだ。この調子では、突破しようにもアルマを守りきれないかもしれない。
こんな時にどう言えば彼女を奮い立たせられるのか――そもそもアルマが何故ここまで悲しむのか分からないカンナに、その言葉はどうしても見つからなかった。
(迷っていても不利になるだけ――強引に突破するしかないですね)
カンナは強引にアルマを立たせると、人ごみに体をねじ込むように進み、やっとの事で開けた場所へ抜け出す。
その途端、生暖かい風が頬を撫で、同時にひりつくような殺気が脳髄にまで飛び込んできた。
「いよう、紅い死神さん。ごきげんよう」
目の前にはメシャクが嬉しそうに短刀の上に舌を這わせ、にやにやと笑っていた。
「そっちの嬢ちゃんも久しぶりだな。今度こそ襲ってやるから、楽しみに待ってろよ」
アルマが胸元を押さえ、短い悲鳴を上げる。そしてそのまま、膝から力が抜けるように地面へうずくまってしまった。
「メシャク、今回は遊びは無しだ。すぐに殺せよ」
「分かってるって、兄者。ちょっとしたジョークだよ。げははははっ!」
メシャクの横にシャデラクまでもがゆっくりと歩いてきた。
この二人を相手にアルマを引いて逃げることなどできない。相手をするしかないようだ。
カンナはシャデラクとメシャクの後ろにいた槍を持った生徒達に目を向ける。一目見て素人だと分かる相手だ。上手く後ろの相手を誘い出して使えないかと考える。
しかしその矢先、メシャクが低く命じる。
「おい、こいつは俺達に任せろ。お前らはぎゃあぎゃあ喚いてるネズミどもを一人残らず駆除するんだ。一人残らずだぞ!」
「は、はいっ!」
槍を持った生徒達はカンナを警戒しながら横を通り抜け、その奥で逃げ惑っている生徒達を狩りに包囲を狭めていく。
その間に隙など少しもなかった。
この二人とて、幼いころから盗賊として悪行を働き、さらにラーゼ家で訓練を受けたプロの戦闘屋だ。一瞬の油断とて許してくれそうにない。
しかし、だからと言って時間をかけるわけにはいかない。時間をかければ、さらに凶悪な増援が来る恐れもあるのだ。
カンナは意を決すると先手をしかける。
「ふっ」
息をためると地を蹴り、二人の間に思い切り飛び込んだ。
ザッ
踏み込んだ勢いを乗せ、刀を横薙ぎに振るう。
シャデラクとメシャク、どちらかのバランスを崩せればと狙った初撃だ。
しかし、二人とも刀の間合いを見切り、必要最低限の動きで斬撃を避けると全く同時に反撃を仕掛ける。
左右から胴を狙った剣を、一方は下がり、もう一方は返す刀で払う。
「ふうっ――」
辛うじて避ける事ができたが、メシャクの剣がザイルの持っている長剣であったなら、無事ではすまなかったかもしれない。
2対1では流石に分が悪いようだ。
「なら、出し惜しみしている状況ではありませんね」
カンナは息をゆっくりと整えると、刀を下段に構える。
「紅姫、後は任せます」
その一言を最後に、カンナは目を閉じた。
あまりに無防備に見える構えに、メシャクは誘われているのかと怒りをあらわにする。
「なめやがって、後悔させてやるぜ!」
「待て、メシャク!」
シャデラクが止める声を無視し、メシャクはカンナの横へ滑るように迫る。
しかし、メシャクが刀の間合いに入った直後、カンナの刀が消えた。
ヒュ
風を切る僅かな音の後メシャクの腕から血が流れ、さらに短刀の刀身が地に落ち、キンと甲高い音を立てた。
「くっ、嘘だろ」
あの一瞬で剣を叩き斬り、返す刀で腕をも斬りつけたのだ。
あと少し身を引くのが遅れていたら、腕が一本なくなっていただろう。
この薄暗さの下、初撃すら見えなかったメシャクは冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。
「ヤツを侮るな。大金を叩いてラーゼ家が雇っている殺し屋だぞ」
「チッ――死神は伊達じゃない事か」
メシャクは腰から先ほど持っていた物より一回り小さなダガーを引き抜くが、これでは刀のリーチに対してあまりに不利だ。
シャデラクの双剣も、剣ごと切断するような理不尽な攻撃の前ではうかつに飛び込めない。
「苦戦しているようだな」
目を閉じたカンナを前にして攻めあぐねていると、メシャクの背後から一人の女が細身の長剣を携えて近づいてきた。
「ルアか。美味しいところを奪いに来やがったな」
「――黙れ、殺すぞ」
メシャクに冷たい一瞥を投げつけたのは、アグリフの正式なガーディアン――ルアだ。
その禍々しい剣からは血のような液体が滴り、ゆっくりとカンナに対峙する。
「ルア、お前がアグリフ様から離れるとは珍しいな」
シャデラクの言葉にルアは顔をしかめた。
「仕方ない、アグリフ様の命だ。なんとしてもアルマ=ヒンメルの命を絶て、とな」
「で、そのアグリフ様はどうしたんだよ?」
「心配ない、この辺りで最も安全な場所に避難して――っ!!」
さりげなく主人の安否を確認した刹那、ルアは目の前の敵などまったく無視して身をひるがえすや、そのまま驚愕の表情で固まった。
メシャクやシャデラクも何事かと振り返り、「あ」と声を漏らす。
「アグリフ様……」
身を切るようなルアの声に、茫然自失していたアルマもゆっくりと目線を上げる。
そして、ルアの視線の先にあった光景を、そこにいる人物を見た。
「――う、うそ」
そこには一人の男がアグリフの背後から喉元にナイフを回し、鷹のような隻眼で一帯を睥睨していたのだ。
「そこまでだ! 全員、僅かたりとも動くな!」
「……シュルト=デイルトン。非国民めが」
忌々しげにシャデラクが漏らした言葉で、アルマはやはり見間違いではないのだと震えが走った。
次いでゴシゴシと目をこすってみるが、しかし、間違いない。そこにいたのはシュルトだ。
「動くなよ、動けばこいつを殺す。俺はこいつに未練なんて欠片もないからな、せいぜい注意しろ。あと、クーデター側で武器を持ってない女は怪我をしている奴の手当を許す。ただし、ゆっくりと動け!」
小憎らしいほど悠然とした口調で的確に指示を出していく。
殺戮の狂宴は、数十名の犠牲者を出したところでその幕を閉じたのだ。
赤髪の暴君と非国民以外は、槍を振りかぶり血に酔っていた者も、逃げ惑い死を待っていた者も、今やただの傍観者へ成り果ててしまった。
いや、ただ一人、その中から舞台へと引き上げられた者がいた。
「アルマ」
シュルトの声に呼ばれ、地にへたり込んでいたアルマは慌てて起き上がり、頼りない足取りのままシュルトの方へと近づいていった。
「シュルト、どうして……」
「偵察した時、ここは身を伏せる場所が多く奇襲に最適だと気付いた。となれば、こいつの考えそうな事もすぐに分かる。そして、この地形で誰にも狙われず、流れ矢も当たらない安全な場所が一点だけあった」
つまり、シュルトはアルマと分かれた後、先回りしてここで身を潜めていたと言うのだ。
「で、でも、どうして言ってくれなかったの? ここが奇襲されるって分かっていれば――」
「分かっていれば、お前はどうした?」
答えるまでもない、絶対に食い止めようとしただろう。しかし、結局は無駄であっただろうし、最悪はアグリフ達に警戒されてシュルトの奇襲すら失敗させていたかもしれない。
アルマは自分の無力さを痛感し、唇を血が出るほどかみ締めた。
「そんな事より、こいつに話す事があるんだろう?」
シュルトがアルマの前にアグリフの体を突き出した。
このような状況である身にかかわらず、アグリフからは殺意にも似た威厳が失われていない。
アルマはそれに負けないようにぐっと胸元を掴むと、夜気を胸いっぱいに吸い込み、それを一息に吐き出した。
「……久しぶりね」
「アルマ=ヒンメル、やはり貴様は殺しておくべきだった。非国民までたらしこんで復讐とはな」
それは生きる事への執着をまだ諦めていない声だ。アルマとシュルトの隙を絶え間なくうかがっていた。
よもやシュルトに油断はないだろうが、アルマも気を許してはならない。もう、失敗は許されないのだ。
「元気そうでなによりね。でも、残念ながら今日来たのは復讐のためじゃない。ただあなたと取引がしたいの」
「取引、だと?」
アグリフの細い目の奥が、アルマの意図を読み取ろうと鈍く光る。
その底冷えするようなその視線を前に、アルマは一瞬だけ視線を逸らした。
(――怖がったら、だめ)
少しでも勇気をもらいたくて、シュルトの顔を見る。
いつものように何を考えているか分からない顔――しかし、決死の覚悟でこんな場所へ潜んでいたのだ。他の誰でもない、こんな自分のために。
凍えていた胸の奥が熱くなり、恐れよりも遥かに強い何かがアルマの背中をしっかりと支えた。
「アグリフ、あなたが脱出を禁じたのは生き残ることに集中して欲しかったから。脱出する事が頭にあると、どうしてもそっちに気が回って、食料集めもいい加減になる――そんな心配からでしょう?」
その問いにしばらく唖然としていたアグリフだが、アルマに自分を本当に殺す気がないのだと理解したのか素直に頷く。
「……脱出を禁じたのは理由はそうだ。しかし、力で押さえつけても愚かな人間は結局逃げようと考える。教官が1年をここで過ごすと断言していたにも関わらずな」
「そういった人間を排除してしまえば、残された人は必死になってここで生きる事を考える――でもね、殺すなんて恨みを残す方法じゃなくても、それは可能なの」
そう言うと、アルマは微笑んだ。
背後では怪我をした者の救護が始められており、死者も何人も出ている。
その殺伐とした光景が広がっている中、アルマの微笑みは酷く場違いで、得体の知れなさにアグリフは初めて顔をしかめた。
「どうやればって顔ね。でも、それはとても簡単な事。思想が異なる人とは離れちゃえばいい。この島の東に大きな居住できる施設があったの。脱出したい人が東へ移住すれば、足を引っ張るような事はもうないでしょ」
「……だが、食料はどうする? この島の食料は限られている。奴らがこちらの食料を襲わないという保障がどこにある?」
「そこで取引よ!」
パンと手を叩き、アルマは頭の中に渦巻く言葉を整理する。
シュルトが傍にいる。それだけで、何故こんなにも言葉が湧き上がってくるのだろう。
アルマは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「私、アルマ=ヒンメルはあなた方に――」
「アルマさぁーん!」
話の出鼻をくじくようなタイミングで、疲れきった声が場に響いた。
何事かと声の出所を探すと、北の細道から大鍋を載せた台車を必死になって押してくるレディンとオグ、二人の姿が見えた。
「レディンじゃない! いったいどうしたの?」
「どうしたって、料理を作って持って来いって言ったのはアルマさんじゃないですか!」
酷いですよと叫び返され、アルマはちらりとシュルトを見ると、その隻眼は静かにそっぽを向いた。
レディンに帰るように伝えてくれと彼に頼んでいたのだが、先回りをするためには時間が足りなかったのだろう。
仕方ないとアルマはレディンに向かって返事を返す。
「ごめんね、色々あったの! それにしても二人とも、よくこの場所が分かったわね!」
「そりゃもう探しましたよ! あと、何か悲鳴みたいなものが聞こえましたから」
レディンはふうふうと息を切らし、台車をアルマ達のいる岩場の傍に寄せた。そして、ようやく周囲を見回すと驚きに目を見開く。
「こ、これは何があったんですか」
槍を持ったまま立ち尽くしている人、怪我人に手当てをしている人、中には完全に事切れている人のそばに座り静かに泣いている者もいる。
阿鼻叫喚のその後と言う光景にレディンはしばし呆然とした。
「遅かった、のか?」
オグが悔しそうに歯噛みしながらアルマに尋ねると、アルマは申し訳なさそうに頷いた。
「ごめんね、力が足りなくて……でも、これ以上は絶対に防ぎたいの。怪我人の手当ては女の人がやってるみたいだからだから、オグとレディンは元気そうな人達にその料理を配ってあげて」
「あ、はい。任せてください。例の生臭かった魚を完璧なスープに仕上げましたから、期待してください!」
「それは楽しみね。私の分もとっておいてよ」
レディンとオグの二人は小さく頷くと、よいしょよいしょと大鍋を生徒達の固まっている方へと押していく。その奇妙なやり取りを見て、アグリフはいったい何をするのかと眉をひそめた。
「心配しないで、ただ試食してもらうだけよ」
「試食、だと?」
「まあ見てなさいって」
ますます訳が分からないと顔をしかめるアグリフは、やむを得ず事の成り行きを見守る。
生徒達が集まっている場所に移動したレディンは、さっそく台車脇に括り付けた麻袋から木の器を取り出す。それで鍋からスープをすくうと、近くにいた男に薦めた。
男は初め戸惑っていたものの、その香りが余りに魅惑的で気がつけば口をつけていた。
「う、うまい!」
その言葉に釣られるように、傍観していたクーデター側の生徒達が物欲しそうに集まってくる。
レディンは台車に詰め込んでいた袋から次々と木の器を取り出すと、集まってきた生徒達に振舞っていった。
「うおおおおっ、なんじゃこらああっ!」
「おお、こんな味のする料理は何日ぶりだ?」
スープを口にする者は皆、生き返ったように天を仰ぐ。
「……アルマ=ヒンメル。あの鍋に入っているものは、いったい何だ?」
「何って、ただのスープよ。少しだけ塩味の効いた魚のスープ」
その説明にもアグリフは納得がいかなかった。
なにせ、中には涙すら浮かべて歓喜に震える人までいるのだ。
「アグリフ、あなた達の食事って、ほとんどがパンと水ばっかりでしょう? でもね、人間の体はそれだけじゃだめなの」
「……そうか、塩か」
塩は取りすぎると毒だが、足りなくても病気になるとどこかで聞いた事がある。
塩気のないパンばかり食べていたせいで、体はいつまでも満たされない状態が続いていたのだ。
(しかし、なぜこんな事を……試食だと?)
困惑するアグリフの前では、スープがあまりに旨そうに食べられていたせいか、アグリフの部下までもが物欲しそうにアルマをチラチラと見る。
さっそくアルマが促すと、シュルトは武器を捨てることと引き換えに列に並ぶ許可を与えた。
すると、皆は競うように武器をかなぐり捨てて並びだし、スープを煽っては感嘆を漏らす。
「アグリフ、あなたの部下にもなかなか好評のようね」
「――もういい。回りくどい方法はやめろ。貴様は何がしたい? 何が望みなんだ?」
低く唸るように尋ねたアグリフに、アルマは苦笑を漏らした。
「さっきも言ったけど、脱出したい人達への移住許可が欲しいの。それと畑の警備隊をあなたに作って欲しいんだけど」
「は、畑の警備隊だと?」
アルマは真剣な顔で頷き、スープを飲んでいる人々をまぶしそうに見ながら、アグリフへ一歩近づく。
「今は夏で、ご覧の通りアルカンシェルでは十分な食料が採れてるの。でも、冬になるにつれて果物も野草も動物だって尽きてくる。絶対的な食料はやっぱり足りないのよ――だから畑が必要なの。農学部があったのは、きっとそのためよ」
それは全く正反対の考えだった。
生き残るためには人数を減らす必要があると考えていたのに、アルマの意見は、皆が生きている事が条件になってくる。
そんな理想論がまかり通るものだろうか――そう思ったが、しかし、鼻で笑うこともできなかった。
「アルカンシェルの生徒にはね、もう畑を作るようお願いしたの。でも、収穫間近になるとどうせ荒らされるからって作る人がなかなかいないのよ」
「それは当然だろう。目の前に食料があれば、誰だって奪いたくなる。こんな島で畑など、作る方がどうかしている」
「そう、畑を作るのには高い治安が必要だった……でもね、あなたならそれが可能なの。あそこまで規律がしっかりしている組織があれば、収穫まで畑を守りきる事だって絶対にできるはずよ」
「それで、畑の警備隊か……」
「うん。これはもちろん取引だから、あなた達にも相当のメリットを約束するわ」
ここでアルマはアグリフから少しだけ離れ、夜空を仰ぐと大きく息を吸い込む。
そして、料理に夢中になっていた生徒達にも聞こえるように大声で宣言した。
「私、アルマ=ヒンメルの名において、あなた達と通商条約を結ぶ事を提案します!」
この声に、クーデター側の生徒はもちろん、正規軍の生徒も何事かとアルマを凝視した。
ざわりとした空気が静まるのを待ち、アルマは言葉を続ける。
「今、アルカンシェルには十分以上の食料があるわ。ただ、日持ちできないものばかりだから、その分を売りたいの。今みたいに料理したりしてね。その代金は、これを使うわ」
そう言って、アルマは懐から千リアの硬貨を取り出し、掲げて見せた。
「なるほどな。我々が畑を護衛する報酬もそれで払うというわけか……確かに通商条約だな」
「さすがアグリフ、理解が早くて助かるわ。で、どうかしら。結んでもらえるの?」
アグリフは静かにため息をついた。
この状況で条約を結ばなければ命が危ない事はもちろんだが、料理を食べてしまった者達が反発する事は必至だ。
しかし、条約を認めるという事は負けと同意――しかも、この公衆の面前で条約を結んだ以上、それを破ればアグリフへの信頼は完全に崩れ去る。
「料理を配ったのはこのための布石か……」
「食べ物の恨みは怖いのよ。覚えておくといいわ」
アグリフの呟きに、アルマもそう小声で返した。
試食など、貧民ならではのデタラメな作戦ではある。しかし、現実に目の当たりにすると恐ろしいまでに効果的だった。
やはり、この貧民と背後にいる非国民は危険過ぎる――アグリフは最後の賭けをしかけた。
「……しかし、アルマ=ヒンメル。お前は剣を突きつけながら条約を結ばせるのか?」
アルマがここでシュルトに剣を引かせれば、その一瞬をルア達が見逃すはずがない。今なら、形勢を元に戻せるかもしれない。
しかし、アルマは一瞬だけ背後にいたシュルトの目を見て、そして口を開く。
「簡単な二択でしょ? 剣かスープ、どっちが好きかって事なんだから」
剣は引かない、そう暗に断ったのだ。
果たしてどんな気持ちでそれを言ったのか知らないが、誰かの命を預かるものとして、それは正しい答えだろう。
もはや、アグリフに残された道は他になかった。
「……分かった。条約を結ぼう」
シュルトはアグリフの腕を後ろ手に捻り上げたまま進んでいく。
向こうでは、アルマが肩の怪我だけで済んだフィロゾフとも交渉をしているようだが、あの様子なら結末まで見る必要もない。無事、交渉は成立するだろう。
周りの者が奇異の目で見つめる中、シュルトはシャデラクやメシャク、ルアのいる場所に歩を進めると、そこにカンナが倒れているのを見つける。
「カンナ……貴様らがやったのか?」
「知るかよ。知らない間にぶっ倒れてたんだ。死んじゃいねえと思うぜ」
ペッと唾を吐きながらメシャクが答えると、シュルトはそれ以上詮索をせず、ルアだけを連れて人目のつかぬ所まで歩いていった。
「……貴様、早くアグリフ様を解放しろ!」
黙ってシュルトの後をついて来たルアだったが、とうとうしびれを切らして要求する。
しかし、シュルトは怒声をそよ風のように受け流し、唇の端を上げた。
「クーデター側全員の避難が完了したらな。俺はあいつと違ってお人好しじゃないんだ……それより、お前の持っているその剣……それはヒルゾの物だな?」
「なっ! なぜお前がヒルゾを……」
ルアは目を見開いて驚いた後、やがて被りを振った。
「いや、おかしいと思っていた。この毒を受けてまだ生きているなんてな。だが、お前がヒルゾとこの剣を知っていたなら合点がいく」
「やはりヒルゾの剣か……教えろ! お前の知っている事をすべて言うんだ!」
ぐっとアグリフの喉元にナイフを押し付けると、ルアは歯噛みしたものの素直に頷いた。
「まずはヒルゾはどうした? いまどこにいる?」
「……あいつは死んだよ」
唐突に返されたその言葉は、あまりに衝撃的過ぎて、シュルトは呼吸が止まるほどに絶句した。
「聞こえなかったのか? ヒルゾは私が殺してやったんだ。もうこの世のどこにもいない」
ヒルゾがいない?
喉がひゅうひゅうとひりつき、その言葉すら出てこなかった。
しかし、まだだ。まだ確認しなければならないことがあると、シュルトは必至になって言葉を搾り出した。
「な、ならば、姉様――エステルと言う女を知らないか?」
「エステル……そうか、あれはお前の姉だったわけか。なるほど、面影はあるな」
「し、知っているのか?」
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、シュルトは思わず身を乗り出した。
しかし、ルアは何の表情を変えることなく、ただぽつりと告げる。
「あれも死んだよ」
どんと心臓が強く鳴り、その後止まったように心臓の音が意識から消え去った。
「もう6年も前になるか、脳まで秘薬にやられて眠るように死んだよ」
「死ん……だ」
ルアはシュルトの顔を見て、笑うでもなく、憎むでもなく、ただ淡々とその言葉を事実として告げた。
「死んだ。ヒルゾも、エステルも、お前の求めていた人物は皆、もうどこにもいない」
ふと、気が付けば、いつの間にかシュルトはアルカンシェルに戻っていた。
周りには、クーデターを起こそうとしていた300人強の生徒達が、複雑な顔でアルカンシェルの砦を見上げながら、さらに東へと歩を進めている。
「……ここまで来れば十分だろう」
アグリフが忌々しそうに告げ、初めて自分がまだ彼を捕らえていたことに気付いた。
手を離すと、アグリフは何も言わず、ただ黙って川沿いの道を遡り、森の奥へと消えていった。
残されたシュルトは、動くことすらできず、傍らにあった川を覗き込む。
とめどなく流れる川底には、幾つかの木切れが川底に引っかかり溜まっていた。以前、シュルトが沈めた橋の残骸だろう。
その近くには川面から突き出た木の杭が、役目も終わったと言うのに虚しく立ち続けていた。
(もう、何の意味もないというのに、なぜまだ川に逆らい立ち続ける……もう、倒れてしまえばいいものを)
シュルトは自分の潰れた左目に指を当て、かつての感情を思い出そうとする。
しかし、そこに触れても何も感じず、ただ虚しさだけが途方も無く深い闇になり、自分を引きずり落としていく。
あれだけ憎かったのに、あれだけ命を焦がして追い求めていたのに、もう何も無い。
もう、何の意味も自分には残っていないのだ。
「……空の橋、か」
そんな言葉を呟いたとき、川の向こうから人影が近づいてきた。
小柄な体で、その腕にイモシシの子供を抱えている――アーシェルだ。
近づいてくるなり、川向こうからアーシェルは突然告げた。
「この島を、出たい」
その願いにシュルトは何も答えなかったが、それでもアーシェルはポツポツと言葉を紡いでいく。
「お父さんを殺したアイツが、許せない」
「のうのうと生きてるなんて、耐えられない」
「シュルトは約束した、協力するって」
アーシェルはそう言って川にずぶずぶと入るや、スカートが濡れるのも構わず、川の中を突き進んだ。
そして、川の中からまるで助けを求めるように、シュルトへ向かい手を伸ばした。
「早くこんな島なんか出て、あいつを、あの男を――殺して」
アーシェルの空色の目にあったのは、かつて自分を生かしていたもの――熱い憎悪だ。
それが欲しい、これにすがれば、自分はまだ進むことができる。
シュルトは飢え渇いた者が水を求めるように、その手を掴んだ。
ただこの時、既に分かっていたのかもしれない。
空の橋などでは、もうどこにも行く事が適わない事を。
これにて第2部完結です。
こんな不定期更新にここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
残りあと1部、何があっても書き抜き、ご愛読してくださった方に恩返しが出来ればと思います。