第50話:非国民と空の橋(上)
一筋の煙が木々の間から立ち上る。
間違いない、上がった狼煙は一本のみだ。
「アルちゃん、狼煙が上がりました! 一本ですよ!」
そう歓声を上げたカンナの口をアルマは大慌てで塞ぎ、息を潜めて周囲を見回す。
この時になってようやくカンナは自分のうかつさに肩を落とした。
そうだった。今はアルマと二人で学院近くの木影に隠れていた事をすっかり忘れていた。
いくら人の気配がしなくとも敵はすぐそばにいるのだ。見張りだっていつ来てもおかしくない。なにせたった二日前まで戦っていた相手の懐に飛び込んでいるのだから、こんな油断など絶対に許されないだろう。
すっかり気落ちしたカンナに、アルマが座りながらじりじりと近づいて耳元に優しくささやく。
「大丈夫、誰にも気付かれてないみたい」
「は、はい。……その、ごめんなさい」
「ううん。私も嬉しくて叫びそうだったから。それよりカンナ、一緒に来てくれてありがとね」
アルマの手が伸び、ギュッとカンナの手を握る。
その手は綿工場で長く働いていたせいだろうか、少しだけカサついて、でも小さくて、そして温かかった。
「……約束、ですから」
「約束?」
「ほら、小さな橋の上でした約束ですよ。アルちゃんの傍にいるって」
そう言って小さな手を強く握り返すと、アルマは泣き笑いのような顔を見せた。
アルマの手の温度を確かめながらカンナは胸に刻む。自分はもう大丈夫だ。過去から目を背けたりしない。過ちを血で洗うような真似は、アルマのためにも二度としないと。
ラーゼ家から道場へ贈られていた援助が切れてしまう事は確かに不安だが、暗殺などもうたくさんだ。母にも胸を張って嫌だと言おう。
それに学院を無事卒業できれば、ある程度の地位は約束されるはずだ。そうなればカンナが道場を支えていけるかもしれない。
いや、もしかするとアルマが手伝ってくれたなら、かつての活気と笑顔に溢れていた道場を蘇らせる事さえ可能ではないだろうか?
(――そうだ。いつか、アルちゃんを道場に呼ぼう)
いつか晴れた日にアルマを呼び、二人並んで縁側に座り、お茶を飲み、この島での日々を懐かしんで笑うのだ。
その光景を思い浮かべると、途方も無く魅力的な事に思えた。
何としても実現したいと、乾いた心が貪欲に求める。
この願いを適えるためには、何があっても二人で生き残らねばならない。
たとえ――他の何を犠牲にしても。
「……カンナ、ちょっと、手が痛いよ」
「あ、ごめんなさいっ」
カンナは慌てて手を離し、次いで声が大きかったかと周囲を見回した。
大丈夫、やはりこの辺りに人の気配は無いようだとカンナは胸をなでおろし、次にやるべき事を考える。
一番心配していた狼煙は既に上がった。ナバルたちが移住先を見つけたのだ。となると次はアグリフ達に交渉を仕掛けるべきなのだが、その居場所を調べに行っているシュルトがまだ帰ってこない。
昼前にここで待っていろと自信満々に出て行ったシュルトだが、陽がはっきりと傾いた今に至るまで音沙汰無しとは、いくらなんでも遅すぎる。
(だから、カンナが偵察に行くって言ったのに……)
お前では無理だと言ったシュルトの無表情な顔を思い出し、今までの良い気分があっと言う間に苛立ちに変わっていった。
「ん? カンナ、どうしたの?」
「いえ、あの……シュルトさん遅過ぎますよね。あの人、何か変な事をしてるんじゃないですか?」
そもそもカンナはシュルトを信用していなかった。
なにせあれだけ自分勝手な人間が、こんな危険な賭けに協力すると言い出した事が不可解極まりない。おそらく、何か裏があるに違いなかった。
「大丈夫よ。シュルトはすごいもの」
しかし、アルマはなんのためらいも無くそう言い切った。
いつもそうだ。この無垢な少女はあの利己的で陰気な非国民を無条件で信じてしまう。
その楽観的なまでの信頼が、どうしようもなくカンナの気に障った。
「アルちゃん、あんな人信用しちゃだめです。何を考えてるんだか分からないし……それに、あんだけ優しくしてるアルちゃんにだってすごく冷たいし」
思い出しただけでも許せし難いとカンナが頬を膨らませると同時に、アルマまでもが表情を曇らせた。
そして、深刻な顔でカンナに尋ねる。
「ねぇ、カンナ。やっぱり私って……シュルトに嫌われてるのかな?」
そのアルマの表情があまりに真剣だったので、カンナの背にゾワリと悪寒が走った。
やはりアルマは同情や慈悲の心でシュルトに接していたのではなく、対等な人間として見ていたのだ。いや、そればかりか思慕の念すら抱き始めているのかもしれない。
(あんな男を、アルちゃんが?)
アルマの太陽のような純真さが、シュルトの黒く染まった手に汚されていくような気がして、カンナは自らの二の腕をきつく掴んだ。
ひょっとするとアルマの命を一番危険に晒すのはアグリフでもヅィーガーでもなく、あの非国民なのではないだろうか?
「ア、アルちゃん、その、シュルトさんの事ですけど……」
なんと答えれば一番効果的にシュルトと距離を置くようにできるだろうかと、必死に考えながら言葉を紡ぐ。
嘘でもいい、アルマを守れるなら、嘘吐きになることくらい何でもない。
「ひょっとするとカンナ達を裏切って――」
「おい」
背後からの突然の声に、カンナは思わず刀を抜いて立ち上がる。刃の先にあったのはつまらなそうにこちらを見つめるシュルトの隻眼だった。
「あ、う……」
シュルトの視線は冷たい。話は聞こえていたはずだから怒りに満ちても良いだろうに、そこには裏切ると疑われて当然とでも言いたげな、諦めにも似た色。
「カンナ」
アルマの小さな声に我に返ると、カンナは慌てて刀を納め、動悸を沈めた。
こんなに近づかれていたのに、シュルトは足音どころか気配すら感じさせなかった。暗殺者である自分の背後を取るとは、どれだけ気配を殺して生きてきたのだろうか。
(やっぱり、アルちゃんはこんな人を信用しちゃだめなんですよ)
そんなカンナの突き刺すような視線を気にした様子もなく、シュルトは二人が隠れていた茂みの端にしゃがみこむと、地面に絵を描きながら淡々と報告を始めた。
「アグリフは大教棟を根城にして校長室に住んでいるらしい。あと、クーデター側の拠点は港よりさらに南、岩場の一画にあった」
クーデター側の拠点――そう聞いてカンナは一瞬耳を耳疑がった。しかし、この無愛想な男は本当にクーデター側のアジトまで見つけてしまったらしい。なにせ実際にその近くまで行って、実際にその様子を確認したと言うのだ。
「拠点と言っても港近くの岩場の影に武器を溜め込み、そこに数名の見張りが立っているだけの場所だ。おそらく決起する際にあの拠点へ集まり、アグリフのいる大教棟を奇襲するつもりなんだろう」
「……なんでそこまで分かるんですか? 聞いたわけじゃないんでしょう?」
疑わしげなカンナの問いを、シュルトは笑うでもなく一蹴する。
「あそこに武器を隠していた以上、わざわざ理由を聞く間でもない。あと、見張りの雰囲気も相当ピリピリして、拠点への人の出入りも不自然なほど頻繁だった。あの様子だと、行動を起こすのはおそらく今夜あたりだろうな」
「――そう」
タイムリミットは今夜、そう聞いてもアルマの呟きは「やはり」といった声音だった。おそらく彼女も今夜辺りだと予想して、だからここまで急いでいたのだろう。
となると残るはアグリフに交渉するだけだ。そして、アルマがクーデターを止める代わりに、クーデターに関わった人間を東の居住施設に移住させる許可をもらう。それが、アルマの狙いであり、願いのはずだ。
当然、アグリフとの交渉もクーデター側を説得するのも一筋縄ではいかないだろうが、迷っている暇などないとアルマは顔をキッと上げてシュルトに尋ねる。
「クーデター側の人数は今どのくらいだと思う? 200人くらいだってマティリアは言ってたけど、今はもっと増えてるはずよね?」
「だろうな。俺たちが勝ったことでアグリフの求心力はさらに弱まっているはずだ。おそらく300は下るまい……しかし、問題はそこじゃない」
シュルトは地面に描いたクーデター側の拠点の地図を指先でかき消し、初めて小さな苛立ちをしわにして目元に浮かべた。
「問題はクーデター側の奴らが、俺に短時間で見つけられるような間抜けな奴らだという事だ」
「……シュルト、それどういうこと?」
「奴らは大きくなり過ぎたんだよ。だから俺が少し調べただけで奴らの本拠地まで探り出せた。まして、あの用心深いアグリフがこの情報を知らない訳がない。つまり、ヤツはクーデター側の存在を知っていながら、さらに大きくなるよう泳がせているんだ」
このシュルトの言葉にアルマとカンナは顔を見合わせ、眉をひそめる。
「泳がせても危険が増えるだけじゃない。なんでそんなことをするの?」
「そうですよ。あの人が危険な賭けをするなんて、カンナにはちょっと考えられません」
「危険でなかったらどうなる?」
二人で食って掛かったが、シュルトは相変わらず淡々と受け止めた。
「前の戦いでカイツは味方に犠牲を出す戦い方をしていたが、あれは間違いなくアグリフからの指示だ。学院の食料をもたせるため、ヤツは出来る限り生きた人間を減らしたいはずだ。だからヤツはクーデター側に何らかの罠を仕掛けて勝てる保証を作った。その上で泳がせている。そうでなくては、この状況に 説明がつかない」
「人間を減らしたいって、そんな……」
アルマは顔を青くしたが、カンナはなるほどと内心で頷いた。
あの赤い悪魔ならそれくらい平気でやるだろう。皆で生き残るなどと言う考えが、あの男にある訳がない。殺す事と生きる事は、あの男の中で一つの物となっているのだろう。
とにかくシュルトの言っている事は十分にあり得ることで、若干悔しいが彼の分析力だけは認めざるを得ないようだ。
「アルちゃん、あの男は人殺しなんか本当になんとも思ってないんです。そう言う人間もいるんですよ。交渉なんて危険なこと、もう止めましょう」
「カンナの言う通りだ。これでクーデターを抑えてやると言う、こちらが持っていた唯一の交渉材料が消えた。この状況では話し合いにすらならん。巻き込まれる前に引き上げるぞ」
二人に強く促されたが、アルマはぐっと下唇を噛んでうつむいた。
まるで、まだそこに踏み留まるとでも言うように。
「アルちゃん……」
カンナは信じられないと首を振った。何故、見知らぬ人間相手に命まで掛けて助けようとするのか、全く理解できなかった。
大切な人間さえ守れるなら他はどうだっていいではないか。まして、敵同士が共倒れになるなら、むしろ喜ぶべき事のはずだった。
しかし、アルマは顔を上げ、ぎこちなく笑う。
「……二人とも、先にアルカンシェルに帰ってて。ここからは、一人で十分だから」
「アルちゃん!」
「お前、正気か?」
シュルトの睨むような視線にアルマはゆっくりと息を吸い込み、確認するようにもう一度「うん」と頷いた。
「だって、私は知っちゃったから。もし私がここで逃げ帰ったら沢山の人が死んじゃうって事でしょ? だったら、もう退けないじゃない。それにまだチャンスはあると思うの。それをやる前から、私はあきらめたくない」
「どうしてですか! どうしてアルちゃんが命まで懸けなきゃだめなんですか! そんなのバカげてます!」
肩を強く掴んだカンナの手の上に、アルマは優しく手を重ねた。
「カンナ、心配してくれてありがとう。でもね、」
カンナは耳を塞ごうか迷った。
きっとこの先にある言葉を聞けば、カンナは止める事が出来なくなってしまうのだ。
しかし、迷っている間にもアルマの口は開いてしまった。
「私にとってね、この学院に来る事は全てだったの。必死で、今思えば笑っちゃうくらい本当に必死になってここまで来たの。だから、いつかこの学院の事を思い出す時、この島で過ごした一年を振り返った時にね――」
アルマの手がカンナの手を掴み、そして包む。
「私は笑いたいの。カンナやシュルトと一緒に、心の底から笑いたいの」
「――っ」
同じだった。
アルマも同じ事を考え、夢見てくれていたのだ。
訳の分からない熱いものが胸の奥に広がり、頭の中まで一杯にしてしまった。
「でもね、もし今ここから逃げたら私は笑えない。作り笑いは嫌いなの、だから――」
「い、行きます!」
その言葉は、知らない間にカンナの口をついていた。
「……カンナ?」
「カンナも行きます。止めたってダメですよ。だって約束なんですから。カンナはアルちゃんとずっとずっと――」
その先の言葉を言う前に、アルマはカンナをギュッと抱きしめた。
背中に回された細い腕は少しだけ震えている。平気そうな顔をしていても、本当は怖かったのだろう。暴力から身を守る力なんかこれっぽっちもないくせに、殺し合いの只中へ飛び込むのだから怯えて当然だ。
しかし、こんなに怖れているのに、それでも進むと彼女は言った。
死以上に重いものが彼女の天秤の反対側にはあるのだ。
それが欲しいと、カンナは痛切に願った。
「……本当に行くつもりなのか」
ため息混じりにそう呟いたのはシュルトだった。
静かだったので、てっきりアルマの頑固さにあきれ、とうに帰ったとばかり思っていた。
アルマはカンナからゆっくりと離れると、シュルトに向かって小さく頷いた。
「ここで帰るのはどうしても嫌だから。その、シュルトは……」
「行くわけないだろう」
「あ、うん。そうだよね」
断然平気とばかりの笑顔でアルマは手を振った。彼女の嫌いな作り笑いを、シュルトは浮かばせたのだ。
なぜこんな男にとカンナは怒りを言葉にのせ、シュルトに向けて冷たく放った。
「なら、帰るついでにレディンさんに作戦は中止だって伝えてください。それくらいならあなたみたいな弱虫にも出来るでしょう?」
「――ああ」
精一杯の皮肉を言ったつもりだが、シュルトは顔色変えずに受け取り、思わずカンナの頬が引きつった。
まだ上手く切り返された方がましだっただろう。
「ちゃんと伝えてくださいね! アルちゃん、さっさと行きましょう!」
しかし、アルマはカンナにちょっと待ってと断り、シュルトの前に行くとその手を取り、もう一度笑顔を見せる。
「シュルト、ここまで来てくれてありがとね。お陰でとっても心強かった。気をつけて帰ってね」
作りものではない笑みにシュルトは慌てて手を引き抜ぬき、逃げるようにアルマに背を向けた。
「――別に、お前のためにやったんじゃない」
歯切れ悪く返事を返し、シュルトはそのままアルカンシェルの方へ歩き去っていった。
その背が小さくなるのをじっと見つめていたアルマの肩を、カンナはゆっくりと引く。
「アルちゃん」
呼びかけにゆっくりと振り返ったアルマは、泣きそうな顔をカンナに見せた。
「……やっぱり私、シュルトに嫌われちゃったみたい」
「そっ――」
それは違いますと言いかけ、カンナはあわてて口を閉じる。
アルマがまだこの手の事に疎くて本当に助かったと思いながら、しかし、傷ついたままにしておくこともためらわれ、カンナは重い口を開いた。
「き、嫌われてはないと思います。ただ、本当に冷たい人なんですよ、あの人は」
アルマはその言葉を聞くやキョトンとして、やがてフッと表情を崩した。
「違うよ。カンナが特別優しいんだよ」
「それは……まぁ、そうかも知れませんが、デヘヘ」
「ったく。カンナはすぐに調子に乗るんだから。さあ、行くわよ」
アルマは先立って駆け出すと、くるりと振り返って「早く」と微笑を浮かべた。
すぐに追いかけようとしたカンナだったが、しかし、その足が一瞬だけ止まる。
アルマの笑顔が少しだけ、作り物のように見えてしまったからだ。
「良く集まってくれました。自分はフィロゾフ=メンシュハイトです」
夕闇の中、色白で痩せこけた男が岩の上に立ち、集まった300に近い群衆に向かって声を上げていた。
男は超が付くほどの貴重品である眼鏡を神経質そうにくいと掛け直し、右のこぶしを振り上げる。
「皆さんはもう、ア、アグリフ=ラーゼの独裁に屈服する必要はありません」
態度とは裏腹に声はやや裏返り、緊張の色を隠せていない。おまけに場所が海辺の岩場で波の音が反響し、端にいる者にまで声が届いていないようだ。
そもそもフィロゾフは、どちらかと言うと部屋に閉じこもって研究でもしている方がお似合いの男であり、本人もそのことをよく自覚している。しかし、伯爵家と言う血筋と押しに弱い性格から、貴族の仲間達にクーデターのリーダーへ祭り上げられたのだ。
「アグリフはこの島に一年も居座ろうとするばかりか、じ、自分たちが脱出する船を造る事さえ禁じました。そして、逆らうどころか、意見を言っただけで容赦ない罰を与えています」
かつて体罰を受けた仲間達を思い出したのか、何人もの生徒達がこの言葉に顔をしかめた。その様子を見たフィロゾフはふっと肩の力が抜け、胸の中一杯に息を吸い込んだ。
「アグリフ=ラーゼはまだ学院は生きていると、この狂ったサバイバルが授業だと主張しています。ですが、そんなはずがありません! こんな狂った島で一年も生き残るなんて、どう考えても合理的ではないでしょう!」
徐々にフィロゾフの言葉に熱がこもり、集まった生徒達もなんとか中心に近づいて聞こうと押し合いへし合い、人の密度を高めていく。
初夏の熱気とこれから謀反を起こすのだという緊張感、薄闇とそこに揺れる松明の明かり、それらが相まって、場は異様な雰囲気に包まれていった。
「皆さんはこのシュバート国を背負う重要な人間です。そんな選ばれた人間が、こんな場所で無意味に死ぬ危険にさらされています。そんな事が許されると思いますか? 否! まったくの不合理であります!」
そうだそうだと黒紫色の空に生徒達の声が吸い込まれた。
フィロゾフは呼応の声に満足そうに頷き、ビシリと学院の方角へと指を突きつける。
「あなた方は試されています。この島から脱出できるかどうかを! それこそが教官たちがいなくなった真相、そう考えるのが最も合理的です! つまり、一刻も早く船を造り上げ、この忌まわしき島を抜け出した者こそが真の栄光を掴むのです!」
祭り上げられたフィロゾフだったが、大貴族の家に生まれただけあって演説の教育は体中に刷り込まれるように受けていた。
貴族達は熟知しているのである。話術の巧みさ、虚実のこじつけ方、聞く者のプライドを刺激する話の運び方は、人間関係の根回しと同じくらい権力を下支えするのだと。
そして確かに、熱を帯びて変革を語るフィロゾフの言葉は、神経をすり減らした生徒達にとって耐え難いほど魅惑的に聞こえていた。
「今夜、その最大の障害となるアグリフ=ラーゼを打ち倒し、学院をあるべき姿に戻しましょう! そのために多少の犠牲は――」
「ちょっと、どいてよ!」
唐突に苛立ち交じりの怒鳴り声が、フィロゾフの声を一蹴した。
フィロゾフは岩の上で叱られた子供のように首をすくめ、じっと聞いていた群集は顔をしかめながら騒ぎの元をジロジロと探す。
「声が大きいですって。ほら、みんな嫌いな野菜でも見るような目でこっち見てますよ」
「いいのいいの。お陰で道が開いたじゃない。っていうか、好き嫌い無くさないとレディンに愛想尽かされるからね。はい、ごめんね。ちょっと通してね!」
ほどなく、二人の女が人波を掻き分け、フィロゾフの前に臆することなく進み出てきた。
フィロゾフの脇にいた生徒達がハッと我に返り、慌てて槍の穂先を突きつけると、後ろにいた方の黒髪の女が身をかがめて剣の柄に手を掛けた。
しかし、前にいた小柄の少女が手で制すると、黒髪の女はしぶしぶながら構えを解く。
「どうもはじめまして、フィロゾフ=メンシュハイトさん」
小柄な少女が、まるで槍の穂先が見えていないとのではと思うほど、ゆっくりとフィロゾフに一礼した。
その礼は貴族とは違う、したたかな商人のような礼であり、しかも女の髪はまるで男のように短い。
間違いない。この少女は貴族ではなく、さらには裕福な家の娘ですらない――ただの平民だ。
しかし、何故そんな下賎な者が自分の前に立ち得るのだろうか?
「あなた、いったい何者ですか? ここがどこか理解しているのですか?」
フィロゾフは眼鏡を中指で押し上げると、その奥から値踏みするように少女に問いかける。
しかし、少女は微笑みすら浮かべたまま「もちろん」と頷くと、その薄い胸に手を当て、誇るように名乗った。
「私はアルマ=ヒンメル。以後、お見知りおきのほど、どうぞよろしくね」
「ヒンメル? ヒンメル家など聞いたことも……いやまてよ、アルマ、アルマ……アルマ=ヒンメルだとっ!?」
フィロゾフがその名の持ち主の思い当たると同時に、周囲からもどよめきが漏れる。
「アルマ=ヒンメルって、あれだろ? 何倍もの正規軍を蹴散らしたって言う、あの化け物」
「馬鹿な! なぜ野良猫の頭がこんなところに?」
「あんなの嘘よ。あのマティリア様をして美しいと言わしめた女狐なのよ」
「だが、噂どおり貧相な胸だぞ」
ざわめきに混じる不躾な声に、アルマの顔が目に見えて引きつっていく。
「ア、アルちゃん、落ち着いてください」
「……大丈夫よ、すごく落ち着いてるから」
「そんな事言っても目が怖いですよ。ほら、そんな小さい事で怒らなくても」
「小さいとか言うなっ!」
アルマが怒鳴った瞬間、周囲はしんと静まった。
バツが悪そうにコホンと咳払いをしたアルマは、結果オーライと口の中でつぶやいてフィロゾフに話しかける。
「ええと、本題に入る前にあなた達に伝えたい事があるんだけど、驚かないで聞いてね」
「……は、はい」
「良かった。じゃあ時間もないし、単刀直入に言うわね」
すっかり萎縮したフィロゾフににっこりと笑いかけると、アルマはできる限り穏やかな声で伝えた。
「このクーデターね、アグリフにバレてるし、罠も用意してあるみたいだから、間違いなく失敗するわよ」
更新が大変遅くなって申しわけありません。
言い訳なんてできません。本当にお待たせしましたorz