第49話:折れない剣
梯子を昇る途中でシュルトはふと手を止めた。
息を吐き、梯子の古びた横木に頭を付け、静かに目を閉じる。
この上にはアルマがいて、自分を待っていて、たとえどれだけ不機嫌な顔して出て行ったとしても、嫌な顔をするどころか笑顔で手を振ることだろう。
(どうしてお前は笑える。どうして皆のように俺から目をそむけようとしない)
昨夜、確かにシュルトはアルマの心の傷に言葉という刃物を鋭く突きたてたはずだった。なのに、彼女はただの一晩でそれを乗り越えてしまったのだ。
(あいつは、まるで……)
シュルトは止めていた手をゆっくりと動かし、屋上へ這い出る。
外は刺すような朝の光が満ちていて、その光の下でアルマはシュルトを見つけ、当然のように微笑みながら手を振った。
(まるで――折れない剣だ)
折れない剣、それはかつて復讐を誓ったシュルトが『そう在りたい』と心に留めた言葉だ。
折れることなき剣、なんど叩かれ斬られても何度でも打ち合い、決してあきらめず、それゆえどんな鋭い剣にも負ける事がない。
かく在るためにシュルトは全てをなげうって学び、血を吐くほどに自らを鍛錬し、どんな屈辱にも耐えてひたすらに歩んできた。その果てに、何にも揺るがされることのない自分を造り上げたと思っていたのだ。
しかし、この非力な少女と正面からぶつかった時、果たして自分は折れることなく進むことが出来るのだろうか……
シュルトは頭を振って思考を止めると、不機嫌な顔を崩さないように砦の壁際に座るアルマの方へと歩を進めた。
「シュルト、遅かったじゃない。もう来ないかと思った」
互いの顔がハッキリと見える距離になると、アルマは小さく首をかしげてそう文句を言った。その声に無理をしている気配はもう微塵も見当たらない。
「……笑顔で挨拶など冗談じゃないからな」
「残念、ちょっと楽しみだったのに。ねえ、みんな」
そこでシュルトはようやくアルマの前に座っていたいつものメンバーに気付いた。
レディンやカンナ、アーシェルの他にナバル達3人組、さらにはザイルとクレアまでがいて、シュルトの顔をチラチラと覗き見てる。
(くそっ! こんな事にすら気付けなかったのか、俺は)
心の中で自分を罵りながらシュルトは輪の一番外側に片膝を立てて座ると、冷静を装ってアルマに尋ねる。
「それでこんな場所に呼び出してなんの用だ。まさか、俺が夕べ言った事をもう忘れたわけじゃないだろうな?」
「ううん。シュルトに言われた事、私なりに頑張って考えてみたの。争いは止めたい――でも、それでみんなが危険になるのは耐えられない。そればっかりが頭の中でぐるぐる回って……すっごいすっごい考えたの」
そう言ったアルマの目は充血していて、おそらく一睡もできなかったのだろう。その苦痛を与えたのは誰かと思うと胸が引き攣れるように痛んだ。何を吹き込んだんだと言わんばかりのカンナの視線が、むしろ心地よいくらいだ。
目があった途端、カンナはぷいと顔を背けると、アルマの肩にやんわりと手を置いた。
「学院の生徒の事なんて、アルちゃん何も知らないじゃないですか。そんな人達まで気にしてたら、体が幾つあっても足りないですよ」
「うん、カンナの言ってる事が正しいんだと思う。関わらなきゃ、気にしなきゃそれで済む話だって分かってる。……でもね、どうしてもダメなの。学院にいる生徒だって手を取り合えば――ううん、少し言葉を交わすだけでも分かり合えるし、きっと友達にだってなれる。なのに、こんなつまらない事で殺しあうなんてどうしても嫌なの。それに――」
アルマはゆっくりと立ち上がり、その赤く充血した目でシュルトを見つめる。
「シュルトに言われて気付いたの。ビスキムが私のせいで死んだのなら……責任の取り方は何もしない事じゃない。この命を掛けて、これ以上の殺し合いを止める事だって、そう思ったの」
その言葉を聞いたシュルトは震えが走った。
アルマは昨夜のシュルトの言葉を乗り越えるばかりか、その傷すら自分の力にして進んでしまったのだ。
全ての敵意を、悪意ある言葉を無視してきた自分には、決して出来ない事だった。
どんな相手と打ち合っても折れない、だからこそ彼女は真に強く在れる。
自分は折れない剣などではなかった。ただ、折れるのが怖くて、正面からぶつかるのを避けていただけのハリボテなのだと思い知り、シュルトは奥歯を噛み締めた。
アルマの決心がもう梃子でも動かないと知ったナバルは、あごを撫でながら少し嫌味っぽく尋ねた。
「……で、あのアグリフとそれに対抗する過激派の仲裁を、俺たちに手伝って欲しいってのか? 」
「……うん。本当は私一人でどうにかしたいって思ったんだけど、それじゃどうしても手詰まりになっちゃうの。だから、みんなにはできる範囲で構わないから手伝いをお願いしたいなって」
「ちょ、ちょっと待て! 何かお前さんの言葉を聞いてるとだな、俺達が協力さえすればどうにかなるって、そう聞こえるんだが――」
「うん。私はそう思ってる」
即答したアルマに、ナバルは絶句した。
いや、驚いたのはシュルトも同じだ。徹底的に意見が違い、なおかつ互いを危険視している2つの集団を、いったいどうやったら和解させられると言うのだろうか。
皆が困惑する中、レディンがすっと立ちあがった。
「僕に出来る事があるなら協力します。いえ、どんな事でも構わないので協力させてください。何も出来ないのも、危険を人に押し付けるのも、僕はもう嫌なんです」
「カンナも……協力します」
レディンの言葉につられるようにカンナがゆっくりと立ち上がった。
「あの人の事は怖いです。いつも薄笑いを浮かべて、カンナから何もかも奪っていきそうで……本当はもう会いたくありません」
あの人――間違いなくアグリフのことだろう。
カンナはまだ記憶が完璧に戻っている訳ではない。おそらく、耐え切れぬ過去にだけは、まだ鍵が掛かっているのだろう。しかし、それでも犯してしまった罪が消えるわけではない。アグリフに向き合うということは、それに直面するかもしれないのだ。
しかし、カンナは顔上げてアルマを真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、アルちゃんまで奪われちゃったら――もう、カンナには、何もなくて、だから」
「ああ、もう泣かないでよ! きっと大丈夫なんだから」
アルマは歩み寄り、自分より背の高いカンナを優しく抱き包む。
その光景を見て、立ち上がったのはザイルとクレアの二人だ。
「俺もその話にのるぜ。アグリフの奴が死ぬなら問題ないが、そうじゃない可能性の方が高そうだ。それじゃクレアはずっと命を狙われる。でも、脱出する奴らを助ければ、クレアを島から逃がしてやれるかもしれないからな」
「ザイル、ありがと――私、ツヴァイ領に戻ったらお父様にお願いして助けを出してもらうわ。ラーゼ家が船を出せない場所なんてないんですもの。そして、一緒に帰りましょう。ザイル」
「クレア……」
「はいはい! ストップ! ご協力には感謝するから、その辺にしておいてね。それでナバルたちは、ちょっと難しい?」
アルマが視線を向けると、ナバルはむむむと唸り、ウルスラも浮かない顔で髪をかき上げる。
なにせ失敗すれば命が危ないのだから、これは当然の反応だろう。大して利益の出ない話しであり、まして敵だった人間を助けるのだ。そんな奇麗事になど――そうシュルトが安堵しかけた直後、男がのっそりと立ち上がった。
驚いて見上げると、それはずっと沈黙を保っていたオグだ。
「――俺も協力する。命など惜しくない」
「オグ、お前」
「いきなりどうしたんだい」
目を丸くして驚いているナバルとウルスラに、オグは申し訳なさそうに頭を下げた。
「勝手してごめん。でも俺は、やらなくちゃいけないんだ」
そこに迷っている気配はない、オグの顔にははっきりとした決意だけがあった。
ナバルは大げさに天を仰ぎ、やれやれと苦笑を浮かべながら盛大にぼやく。
「……ったくよぉ。オグが珍しくやる気を出してるってんなら、仲間として付き合わない訳にいかねえじゃねえか!」
「おや、ナバル。儲け話でもないのに、そっちこそ珍しいじゃないかい」
「なんのなんの、俺は元来ボランティア精神にあふれた男なんだよ。ちょっとは見直したか?」
「黙ってりゃ爪の先くらいは見直したんだけどね」
「黙っててもそれだけかよ!」
じゃれあいながらナバルとウルスラは立ち上がり、オグの隣に並んだ。
次々と立ち上がっていく仲間を見て、アルマは目の端に浮かんだ涙をゴシゴシとこすって頭を下げる。
「みんな、ありがとね。絶対、成功させるからね」
「――なら、その証拠を見せて」
冷たく言葉を放ったのはアーシェルだった。両膝の上にいるレーベを抱えて小さく座り、アルマを静かに睨んでいた。
「証拠?」
「そう。大丈夫だって言う証拠。じゃないとボクは、協力できない」
主の異様な雰囲気に怯えたのか、レーベが小さく身じろぎしたが、アーシェルはアルマから目を僅かたりとも離さなかった。
「ボクはいつかこの学院を出て、やるべき事がある。それが終わるまで、絶対に死にたくない。絶対に死ねないの」
珍しく饒舌なアーシェルの目には、シュルトと同じ暗い炎が揺らめいている。
やるべき事――おそらく、前に言っていた父の仇である片腕の男を殺す事だろう。
許せないのだ、その男の生が。
自分の大切な人を奪っておいて、今なおぬくぬくと生きている事が、身を焦がすほどに耐えられないのだ。
シュルトは傷でふさがれた左目を撫で、自らがまだ生きている理由を確認する。
(そうだ、ヒルゾさえ殺せるなら他には何もいらない。折れない剣かどうかなどどうでもいい。ヤツさえ殺せる剣であれば、それで十分なはずだ)
そのためにはアーシェルのように死ぬわけにはいかない。利用できるものは全て利用し、どんな手段を使ってでも果たさなければならない。
だから今は、このアルマ=ヒンメルと言う道具を利用する。自分が彼女を不幸にする存在だろうが、そんなことはどうでもいいはずだ。
「俺も、アーシェルと同じ意見だ。お前の案を聞かねば協力などできるわけがない」
シュルトとアーシェルの視線を受け、アルマは大きく頷いた。
「それもそうね。いいわ、まずは私が考えた案を話すから、二人はその上で決めて」
二人が頷くのを見てアルマは皆を座らせると、クレアに向かって尋ねた。
「まず確認したいんだけど、あなたのお兄さんって、なぜこの学院に来たの?」
「どうしてって……学院に入れば権力が手に入ると思ったから、かしら」
「だとすると、なんで権力を欲しがったんだと思う? 私から見て、アグリフの権力を求めるのと、それを守ろうとする執着心は異常だと思うの。だって、そのせいで私達を根絶やしにしようとしたでしょ。それで考えたんだけど……アグリフの目的って、生きることじゃないかなって」
その言葉に、クレア以外は一様に不思議そうな顔をしたが、彼女だけは一拍おいた後ゆっくりと頷いた。
「……そうかも知れませんわね。私と違って、才能を隠せなかった兄様は、兄弟みんなから命を狙われていましたから。身の危険にはお父様が眉をひそめるくらいに徹底してましたわ」
アルマは頷き、自分自身確認するように説明する。
「だから、3人ものガーディアンを学院に潜りこませて、さらに身を守るためには、ここでも絶対的な権力を身につけている必要がある。つまり、アグリフがこうまで徹底して危険を排除しようとしてるのは、生きるためなのよ」
「なるほどねぇ……だけど、今回はその徹底振りが裏目に出たってわけかい」
「ウルスラの言うとおりよ。でね、脱出したいって思ってる方も、この島にいたら命が危ないって思うから脱出したいわけでしょ? つまりは目的は生きたいって事で一緒なのよ」
びっと指を立てて強調したアルマに、シュルトは「だが」と言葉を挟む。
「目的は同じでも手段が違う。正義が違えば争いが起こる、これは人の常だ」
「それは違うわ。お互いの正義が干渉しちゃうから争いが起こるのよ。だから、その二つのやり方が干渉しないようにすればいいかなって、そう思ったの」
いったいどうすればそんな事ができるんだと、シュルトが視線で問いかけると、アルマはにっこりと笑って言った。
「簡単よ。離れちゃえばいいのよ。お互いが見えなくなっちゃえば、違う方法で生き残ろうとしてても関係ないでしょ」
「で、でも、アルちゃん。離れて住むにもアルカンシェルはほぼいっぱいですし、住める場所なんてもうないじゃないですか?」
「今のところはね。で、こっからが重要なんだけど、この島って昔は軍の演習場だったの知ってるよね?」
皆がまばらに頷くのを見て、アルマもうんと頷く。
「でね、演習場になんでこの砦が必要なのかって考えたの。だって変でしょ? ただの訓練だったら、こんな実践的な設備なんていらない。アグリフ達みたいに、広場があれば十分だわ」
「……模擬戦か」
「そう! さすがシュルト! たぶんね、この島の西と東に分かれて大規模な演習をやっていたのよ。この砦は模擬戦の戦略的なキーポイントっていうなら、話が繋がるでしょ。つまり、学院とは反対側の東側にきっと大人数が住めるような施設が残ってるはずじゃない?」
既にカンナやクレアなどは話についていけないと眉を寄せていたので、アルマは分かりやすく説明し直している。
その横顔からシュルトは目を逸らす。見ながら、シュルトは自分ですら気付かなかった砦の理由に気付いたアルマに劣等感を感じずにはいられなかった。
アルマは確かに知識の総量は少ない。しかし、それゆえ身近な疑問になぜを繰り返し、自分すら超える視点から現状を見る事ができたのだ。
「シュルト、どうかしたの?」
うつむいているところをアルマに声をかけられ、シュルトはハッと頭を上げる。
「い、いや。それより、その施設があるとして、どうやって探すつもりだ?」
「目星はつけてるの。たぶん、あの竜の背中にあたるあのなだらかな山の辺りで……ここからは何も見えないから、おそらく向こうの中腹辺りじゃないかなって」
アルマの仮説の通り砦を中間地点とした場合、学院との距離を考えると確かにその位置が妥当だろう。
「……確かに、その場所に施設はあるかもしれないな。だが、あったとして奴らをどうやって説得する? 利害関係がなくなったとしても、いつ危険な存在に変わるかもしれない相手を、あのアグリフがみすみす遠くへ逃がすと思うか?」
「大丈夫よ。何とかする方法があるなら、後は一押しするだけだもの。そこは、私がなんとかする」
とんと胸を叩いたアルマに、ナバルがあからさまに心配そうな声を上げる。
「な、なんとかって、いったいどうするつもりだよ?」
「私がなんとかするんだから、そんなの決まってるじゃない!」
ぐっと拳を掲げて、アルマは満面の笑みで宣言した。
「商売よ!」
茂みの中にナバルとウルスラ、ザイルとクレアの4人が息を殺し、じっと一方を見つめている。
その先をのっそりと歩いているのは、一頭の巨大なイモシシだ。アルマたちが捕らえたものに比べると一回り小さいが、武器らしい武器がザイルの持っている鉄の棒とウルスラのアイスピックのみでは、とても挑む気にはなれない。
(早くどっかに行ってくれぇ)
悲痛なナバルの祈りが効いたのか、地中を掘って何かをもぐもぐと頬張っていた巨大イモシシは、やがて満足そうに森の奥へと去っていった。
「ふぅ、びびったぁ」
生きた巨大イモシシを見たのが初めてだった4人は、恐る恐る茂みから這い出ると、恐怖で高まった鼓動を深呼吸で落ち着ける。
「しかしあんなの、よくあいつら捕まえたよな」
ザイルの呟きに、ウルスラはまったくだねと髪をかき上げて、ザイルの持っている棒を指差す。
「レディンに聞いたんだけど、その棒一本でシュルトの奴が倒しらしいよ。まったく、敵に回したくないね」
「げげ、こんなんで戦ったのかよ」
ザイルは手に持った柄だけになった槍を見つめてブルリと震える。それを見たナバルは、気持ちは分かると肩をすくめた。
おそらくこの槍も、模擬戦用に穂先の折れたものを使っていたのだろうが、殺傷能力のないこんな棒切れで、よくもあんな化け物みたいな動物を叩きのめしたものだ。
難しい顔をして押し黙ったザイルに、クレアがすねたような顔で近寄る。
「ザイル、あなたにはそんな危険な事しないで欲しいわ」
「クレア……でもな、クレア。君を守るためなら、ドラゴン相手でも俺は――」
「ストップ! 続きは後にしろ! 今は施設の探索が急務だろーが! 何のために役割分担したと思ってるんだ!」
ナバルの一喝に、手を取り合おうとしていた二人は慌てて離れる。
「わ、分かってますわ」
「お、おう。悪い」
頬を赤らめて、クレアは静かになた辺りをキョロキョロと見回す。
「それにしても……施設何て本当にあるんですの? 言われた時はなるほどと思ったんですけれど、よく考えると信じられませんわ」
「ああ、実は俺もちょっと信じられなくなってきたところだ」
ザイルも同調するが、それはナバルにしたって同じ事だ。頭で分かっても、こうも同じような森の景色ばかりが続くと疑心暗鬼に陥ってくる。
「まぁ、山の頂上から見渡せば、アルマの嬢ちゃんが正しかったのかどうかは嫌でも分かるさ。ほら、ナバル、あと少しだから気合いれな」
ウルスラに背中をぽんと叩かれ、ナバルは肩をすくめて苦笑する。アルマもすごいが、ウルスラもどんな経験をして生きたのか自分なんかよりよほど肝が据わっていた。
「そうだな。早く見つけて、帰るとしますか」
そうして、4人は山頂を目指してさらに登り始めた。
どれくらい登っただろうか、ある地点でナバルはピタリと立ち止まった。
「このあたりが頂上みたいなんだが、困ったな」
辺りをぐるりと見渡すが、そこにはうっそうと生い茂る木々があるだけだ。これでは施設がどこにあるかなど分かりようもない。
「こう木が多くちゃ、何も見えやしないじゃないかい」
「うーん、そうだな」
ナバルは注意深く辺りを観察し続け、やがてある一本の大樹に目をつけた。
「よし、こいつなら大丈夫そうだな。ザイル、木登りは得意か?」
「え? 一応得意だけど……まさか」
「そのまさかだよ」
ナバルの笑顔に、ザイルはふぅとため息をつくが、クレアに励まされるや俄然やる気を出して大樹に挑んでいく。
最初の枝まで背が届かなかったので、ナバルの肩を借りて枝を掴むと、その後はするすると登っていく。
「へえ、あいつもやるじゃないかい」
「本当だな、見直したぜ」
感心する二人を尻目に、クレアは心配そうにザイルを見つめ続ける。
「気をつけてね」
「分かってる――っと」
「おーい、何か見えるか?」
「ちょっと待てって! 次の枝が遠いんだよ――わっあわわ」
「ザイル!」
枝を掴み損ねて、片手で宙吊りになる。
見ているこっちまで腹の奥がきゅうと縮こまる想いだ。
「な、なんとかセーフ……おし、ここからなら掴めそう」
ザイルは別の枝を掴むと、そこからさらに上へと登っていく。危なっかしくはあるが、見事な身のこなしだ。鍛えれば、かなり素質を持っているんじゃないだろうか。
(なるほどな。シュルトが彼を気に入っているわけも、まんざら気まぐれだけでは無さそうだ)
ナバルは商品を見るような目でザイルを見上げ続けた。
「よし、ここからなら見えそうだ!」
やがて、ある枝に立ち上がると、ぐうっと伸びて周囲を見回す。
どうだとナバルが声をかけようとした瞬間だった。
ザイルは両目を見開いてある一点を指差すや、声の限りに叫んだ。
東に見える山の上から狼煙が上がる。
それを見たアーシェルは、レーベの背中をなでながら用意していた鍋のふたを開ける。
「レーベ、見つかったって」
気乗りしない様子で狼煙の準備を進めている主人に向かって、レーベは不思議そうに顔を上げた。
「ここにくれば、国の官吏になれる。官吏になればあの男の情報も掴める、そう思ってたのに」
狼煙用に組んだ木片や葉に、鍋の中でくすぶっていた樹皮を放り込み、息を吹きかける。
「でも、こんな変な場所、もういる必要ない」
煙が立ち始めると、アーシェルはすっと立ち上がり、遥か西を睨みつける。
その先のどこかに、憎むべき男がまだ生きているのだ。
「こんな島、早く出て行きたい……」
レーベは小さくいななき、悲しそうにつぶやいた主人の足に擦り寄った。