第48話:陽は沈み
陽が落ちると同時に、アルカンシェル前の広場に一つの炎が灯される。
その焔に赤く照らされながら、アルマは手に持った木のカップを精一杯掲げた。
「私たちの勝利に、乾杯!」
集まった生徒達もそれに応え、手にした器を大きく掲げる。
器の中にはクシュの実を潰した果汁がそれぞれ同じ量だけ注がれていたが、器の形は個人主義を現すように一人一人ちぐはぐだ。アルマのように太い竹を切っただけのカップもあれば、丹念に木石を削った力作もあり、中には粘土を焼いて陶器にしている者もいた。そして、言うまでも無いだろうがアーシェルが手に持っているのは、小さな鍋である。
ともかく、生徒達は乾杯が終わるやクシュの果汁を一気に飲み干し、目の前に広がる食料へと我先に群がっていった。その壮観とも阿鼻叫喚とも言える光景に、アルマは満足そうに頷く。
「いやぁ、まさか全員が参加してくれるなんてね」
この祝勝会はアルマが企画したものだが、自由奔放なアルカンシェルの生徒のことだ、まさか皆が揃ってお行儀良く参加などするわけもないと思っていたのである。
しかし、いざ陽が暮れてみると全員が集ってしまった。
戦いらしい戦いはなかったものの狭い砦に閉じ込められ、みんな精神的に追い詰められてしまっていたのだろう。羽目を外したくなるのも無理はない。そして、それだけ娯楽に飢えていたという事でもある。
「こんな状況でも、やっぱり人に娯楽って欠かせないのね……うん、何はともあれ大成功じゃない!」
アルマは賑やかな空気を全身に吸い込んで、仲間の待つ場所へと足をはずませた。
「やあ、アルマさん。お疲れ様です」
戻ってみれば革シートの上にはレディン一人しか残っていなかった。他のみんなは既に料理に向かって突撃した後らしい。
出遅れたと頬を膨らませたアルマに、レディンは柔らかな笑みを浮かべる。
「慌てなくても大丈夫ですよ。まだあんなにあるんですから」
レディンの指差した先を見れば、確かに食料は山のように並んでいた。
熟しきった赤や紫の実、棘のびっしり生えた見た事もない果実、炙られてパックリと口を開けている大粒の貝、何よりアルマの見た事もない大きな魚が何十匹も串刺しにされ、炭火でじりじりと焦げ目を作っている。
その魚を皆に切り分けているのはズィーガーだった。若干慣れない手付きではあるが、愛想笑いを浮かべているその姿が意外と似合っていて微笑ましい。
「それにしても、今日はずいぶん大漁だったみたいね。魚があんなにあるなんて」
「ええ。なんでも北の海岸沿いに魚が集まっていたみたいです。釣り好きの皆さんが大はしゃぎでしたよ。でもか……」
「ん? でも、なに?」
珍しくレディンが言いよどんだので、アルマはご馳走からくるりと振り返った。
その真っ直ぐな視線にレディンは誤魔化しきれぬと苦笑をもらし、あきらめて話の先を続ける。
「でも、よくこれだけの食料が集ったなと思ったんです。一人一品持ち寄りパーティなんて僕は初めてなんですが、その、神に仕える身でありながら恥ずかしいのですが、皆さんもっと出し惜しみするかと思っていたんです」
「なるほど、やっぱりレディンっていい人なのね」
「は? いい人……ですか?」
驚くレディンにアルマはクスリと笑って大きく頷いた。
「このパーティの醍醐味はね、いわば見栄の張り合いなの。ここで少しでも太っ腹なところを見せておけば、これから色々と有利に立つこともあるの。みんな、それを分かってるだけよ」
「ああ、なるほど。だからグループの顔にあたる人が、わざわざ給仕みたいなことをしているんですね」
レディンはぐるりと会場を見渡して小さくうなる。確かにズィーガーの他にも、有力グループのリーダーがこぞって食料を渡していた。
こうやって食料を手渡しされれば、知らぬ間に恩や親近感が生まれるだろう。したたかなアルカンシェルの生徒達は、こういうチャンスを逃さず、それぞれの発言力を強くしていたのだ。
面倒くさがりのはずのナバルが、集めたタケノコを率先して配りたがった理由を、いまさらながらに納得する。
(みんな、着実に進んでいるんですね)
それに比べ、自分は何をやっているのだろうかとレディンは肩を落とした。
先の戦いにしても、自分は何の役にも立っていない。シュルトには愛だの何だのと偉そうに説教を垂れていたくせに、結局はすべて彼の力に頼ってしまったのだ。
「……どうしたの、レディン?」
よほど難しい顔をしていたのだろう。アルマが心配そうに隣に座って覗き込んできた。
慌てて心配ないと笑みを浮かべ、手を振った。
「ああ、いえ、なんでもないんです。それより、せっかくの祝勝会なのにシュルトさんが帰ってしまって残念でしたね」
「は!?」
驚愕の表情を浮かべたアルマにレディンはしまったと口を塞ぐ。てっきりもう知っていると思ったのだが、話を逸らそうとしてとんだ失態である。
アルマは体ごと振り返り、怒りの眼差しで主役のために用意した席を睨みつけた。しかし、パーティが始まる前まではいたはずのシュルトは忽然と姿を消している。
二つ並んだイスの片方にはザイルが戦いの話を皆からせびられていた。そして、もう片方――つまりシュルトのために用意した席には、何故かクレアがにこやかに座っていたのだ。
「信じられない! あいつなんで勝手に帰ってるの!」
「お、落ち着いてください。アルマさん」
「落ち着いていられるわけないでしょ! あれだけ参加するように言ったのに!」
アルマは持っていたカップを握ったまま、ガツンと地面に叩きつける。
よほど腹に据えかねたらしいと、レディンは冷や汗を浮かべながらなだめにかかった。
「ほ、ほら、誰にだって得手不得手はありますよ。ここはシュルトさんにとって賑やか過ぎたんですよ」
「だったらなおさらよ! シュルトってば政治学部なんでしょ? 執政官目指してるんでしょ? それなら人付き合いが苦手なんて致命的じゃない! それを克服しようともしないなんて、いったい何考えてるのよ! 折角みんなと仲良くなって誤解を解けるチャンスなのに――ああもう、シュルトのばかっ!」
あまりの剣幕で捲くし立てるアルマに、レディンはじりじりと後ろに押されながらも尋ねる。
「あ、あの、もしかして、この祝勝会って、シュルトさんのために――」
「そうよ! 挨拶もしないような人達と話すなんて、こういう機会でもないと出来ないでしょ。まあ、クレアもアグリフの妹って事で結構陰口叩かれてるみたいだから、あれはあれで良いんだけど……あああ! でもやっぱりムカつくっ!」
カップを握り締めて悔しがるアルマに、レディンは小さくため息を漏らした。
シュルトもそうだが、アルマもいつだって数歩先を見て行動している。貧民であり、ろくな教育の機会も与えられていなかったはずの少女が、である。
そこで、ふと気になったレディンは思い切って聞いてみる事にした。
「アルマさん、実は前々から気になっていたのですが、アルマさんの、その……商才、みたいなものは、いったいどうやって身に着けたんですか?」
「……しょ、商才?」
アルマは目を丸くして固まった。本当に意外な質問だったらしい。
全く言葉を失ってしまったアルマに少し不躾だったかと後悔したレディンだったが、そこにタイミングよく空気を読まない明るい声が飛んできた。
「ああ! それ、カンナも知りたいです!」
見上げればカンナとアーシェルがそこにいた。手にはどっさりと食べ物を抱え、アーシェルにいたっては既に口をもぐもぐとさせている。
顔だけ振りえり目を白黒させるアルマに、カンナは屈託のない笑みを向けた。
「アルちゃんがどうしてそんなに頭がいいのか、カンナも気になってたんです。うーん、頭がいいじゃなくて、なんと言うのでしょうか、その……口が上手いと言うか、ええと、何でしたっけ」
「――交渉」
「そう! それです! さすが、アーシェルさん!」
アーシェルの言葉にコクコクと頷き、カンナは手に持っていた抱えきれないほどの食べ物をレディンの前にポンポンと置いていった。
「はい、レディンさん。いっぱい食べてくださいね」
「あははは、どうもすみません」
「いえいえ、いつもお世話になってるお礼です。どんどん取ってきますから、遠慮せずに食べてくださいね……っと、それでアルちゃん、その交渉の仕方とか、いったい誰から教わったんですか?」
ころころと表情を変えながらカンナは尋ねる。
一方のアルマはカンナが置いた木の実を一つさりげなく口に放り投げて、うーんと唸る。
「誰から教わったなんて、考えた事もなかったなぁ」
「アルマさんは確か、お母さんと二人暮らしでしたよね。やっぱりお母さんから教わったのでしょうか?」
「違うわよ、レディン。うちの母親はカンナと一緒、騙されたら全力で泣き寝入りするタイプよ」
「全力って……」
カンナがショックを受けたように革シートの上に座り込んだ。しかし、さりげなくレディンの隣に座っているあたりはさすがと言うべきか。
アルマはクスクスと笑いながら、昔の記憶をゆっくりと掘り起こしていく。
「母さんってば、うたぐり深いくせに人情に弱くてね。しょっちゅう騙されてたの。だから、気が付いた時には私がいつも横からだまされないように見張ってたってわけ。それで少しは鍛えられたのかもね」
「じゃあ、アルマの才能は、生まれつき?」
アーシェルが納得いかないと言わんばかりの顔をしたので、アルマはまたうーんと唸る。
それもまた違う気がするのだ。
「……たぶん、なんだけど、父さんのお陰かな」
「おとう、さん?」
微妙な顔をしたアーシェルにたぶんねと頷くと、アルマは彼女が抱えていた鍋から魚の切れ端を一つ摘み上げ、そのままパクリと頬張った。
「うわ、生臭っ」
肉食だったのか魚はしっかり焼いてあったにも関わらず酷く生臭く、飲み込むために鼻までつまむ必要があったほどだ。
レディンは口直しの木の実をアルマに差し出しながら、不満げな顔で魚の切り身を見下ろした。
「この魚、臭みを消せば本当に美味しくなると思うのですが、残念ですね」
「臭みを消すって、イモシシみたいに鍋にするとか?」
「ええ、きっと最高の出汁が取れるはず……ああ、話の腰を折ってすみません。確かアルマさんのお父さんは、小さい頃に亡くなられたんですよね」
木の実を頬張りながら、アルマはまあねと頷く。
「私が6歳くらいの頃だったかな。だからこれは後から母さんに教えてもらった事なんだけど、父さんは一応国の役人だったらしいの。ノイン領の北に小さい国が幾つかあるんだけど、そこと戦いをしないよう交渉するお仕事してたんだって」
「わあ、なんかお給料もよさそうですけど、それがなんでスカンピンになっちゃったんですか?」
「スカ……まぁいいわ、その通りだし」
いっそそれくらいストレートに言ってくれると清々する。
貧しい事は悪いことではない、貧しさに甘えることが悪いのだ――そう、これもたしか父から教わった言葉だった。
「さっきも言ったけど、父さんの仕事は北の小国が攻めてこないように交渉する事だったのね。でも、北の小国同士がつまんない理由で戦争してるのに耐えられなくなって、父さんってば仲裁みたいな事をはじめちゃったらしいの。お陰で北の国は争いを止めたんだけど、これって結果的に見ると敵国が強くなったって事でしょ? だから、その時の将軍様がカンカンに怒って、問答無用で罷免されちゃったってわけ」
アルマがお払い箱のジェスチャーをすると、カンナが眉をひそめた。
「酷いですね……でも、アルちゃんのお母様は、お父様を止めなかったんですか?」
「それが母さんね、その辺のことあきらめてたみたい。父さんのそう言うところに惚れたんだからしょうがないんだって。でもね、そのくせ私が面倒ごとを連れてくると信じられないくらい怒るの。理不尽だと思うでしょ?」
「それは、ええと……レディンさんは、どう思いますか?」
「アルマさんのお母さん、本当に苦労されたんですね」
「しみじみ言わないでよ!」
次いでアルマはトゲの付いた果実に挑戦するべく、硬い表皮をパカリと割る。そしてそのままトゲを持って中のオレンジ色の果肉をかじりついた。
ドロッとした感触はいただけないが、香りはノイン領でよく採れるドドリアの実を干したものによく似ている。その懐かしい匂いが、アルマの記憶をさらに掘り起こしていった。
「私ね、ものすごいお父さんっ子だったらしいの。毎晩、母さんにしかられるまでお父さんにあれやこれやと質問してね、ナゼナゼ虫ってよく言われたわ」
「なんかアルちゃんの小さい頃、すごく想像できます。でも、その話って本当に小さい頃ですよね。そんな昔の記憶なんて、まだ覚えてるんですか?」
「それがね、実はもう父さんの顔もハッキリ覚えて無いんだけどね、なんでか教えてもらった事だけは時々思い出すの。まるで言葉だけの宝箱が胸の奥にあるみたいに……って、何言ってるんだろ。変だよね」
頬をかいてはにかんだアルマに、レディンは首を大きく振る。
「いいえ、分かりますよ。僕もお父さんの顔はだんだん忘れていくんですが、それでも言葉だけはハッキリとここに残ってますから。ほら、アーシェルもそうでしょう?」
「……」
その言葉にアーシェルは急に顔を曇らせ、いきなり立ち上がると料理の入った鍋を引っつかんだ。
「アーシェル!」
レディンが手を伸ばして止めようとしたが、アーシェルは耳を貸そうともせずに夜の闇へと走り去ってしまった。
今日二度目の失言に、レディンは伸ばした手をきつく握り締めた。
「……どうも、僕は本当に無神経なんですね。未だにアーシェルの気持ちが分からないなんて」
そのため息の深さに、アルマとカンナはしばらくかける言葉が見つかなかった。
賑やかな喧騒にまぎれた痛いほど小さな沈黙――それを破ったのは、オドオドとした低い声だ。
「あの……」
呼ばれて振り返ると、そこにいたのはオグだった。
「オグじゃない。どうかしたの?」
滅多に口を開かない彼が一人で声をかけてきたことにアルマは少し驚いた。
彼はここのところ元気がなく、仲間であるナバルやウルスラも心配していたのだ。
オグは人の良さそうな顔を曇らせ、頭を掻きながら言いにくそうに切り出す。
「ええと、その……君に会いたいって人が、来てるんだ」
「私に来客? いったい誰?」
オグは浮かない顔で頷くと、苦々しげにその名を告げた。
「マティリア=アスハルト」
「やあ、アルマさん! 相変わらずお美しい!」
祝勝会の会場に入ってくるなり、マティリアは何の臆面もなく上機嫌で言ってのけた。
ただでさえ視線を集める彼がそんな事を叫べば、当然周囲の視線は一気に集まってくる。アルマはこめかみを押さえてその場にうな垂れた。
「マティリア、あんたに美しいとか言われても嫌味にしか聞こえないんだけど」
「何をおっしゃいますか。社交辞令は紳士のたしなみですよ」
「……あんた性格悪くなったでしょ?」
アルマは肩を落とし、しかし、頭の中では冷静にマティリアの端正な顔を観察する。
「で、何の用なの、マティリア?」
「もちろんアルカンシェルの勝利を祝いにきたんですよ。この度は見事な勝利、おめでとうございます」
「それはどうも……で、本題はなに? こっちの情報でも集めに来たの?」
今日はまだ学院との戦いが終わったばかり、その夜に来るとは戦いの様子を知っていて、その経過もじっと見ていたに違いない。その事実を晒してまでここに来たのだ。何の目的もないとは言わせない。
アルマの疑わしげな視線を受け、マティリアはやれやれとわざとらしく首を振った。
「そんなに構えないでください。ここのところアルカンシェルの情勢は不安定だったでしょう? きっと情報に飢えているだろうなと、こうやって営業に来ただけですよ。需要あるところに福音を、ですよ」
「ふーん、ずいぶん偏った福音ね」
「互いが幸せになれると言うのに、それを福音と呼ばず何と言いましょうか?」
「普通に商売って言えばいいのよ。素敵な言葉じゃない」
この腹の探りあいのようなやり取りに業を煮やしたのか、端の方で静観していたズィーガーがマティリアの前にずかずかと近づいてきた。そして、じろじろと値踏みするように睨みつけながら尋ねる。
「お前が噂の情報屋、マティリア=アスハルトか?」
「ええ、どのような噂か存じませんが、アスハルト家のマティリアはこの私ですとも。どのような情報をお望みでしょう」
「……ならば問う。学院の奴らが次に来るのはいつだ? 後どのくらいで、奴らはまた攻めてくる?」
「非常に残念なのですが、その情報は持っておりません」
「ハッ! なんと言う役立たずな情報屋だ。我々が知りたい情報は、それくらいだというのにな!」
短気なズィーガーはやってられんと見切りをつけるや再び魚の切り分け作業に戻っていく。しかし、口調こそ乱暴だが、たしかに皆が一番知りたかった情報はそれだっただけに、ズィーガーに同調して宴会へ戻っていく者も何名かいたようだ。
しかし、背を向ける人には目もくれず、マティリアはただアルマを見ていた。
(マティリアは、たぶん何かを伝えようとしてる……でも、それは何?)
リーベルが現れて以来、彼は本心を隠すようになった気がする。何を話すにしても、彼の顔色を伺っているような気がするのだ。そして、それはリーベルのいない今も変わらない――そう見えてしまうのは、考え過ぎなのだろうか。
マティリアの張り付いたような微笑を探るように覗き込んみ、アルマはひたすらに思考をたどっていく。
(マティリアは戦いが終わった直後に来た。つまり、私達が勝ったことで何らかの状況が変わったってこと? 考えられるのは……やっぱり学院の事よね)
おそらく食料が底を尽きかけているのだろう。しかし、まだ大丈夫なはずだ。カイツをわざわざ殺したのは、不満が爆発しないためなのだから。
それなのに、まだ問題が残っているとすれば……
「どうしました、アルマさん? 知りたい情報がないなら、私はこれで失礼しなければならないのですが」
「待って……聞きたい事はあるわ」
その言葉に、マティリアの目がすぅと細くなる。
「それは、なんでしょうか?」
「……私たちが勝って、それで得をした人を教えて欲しいの」
マティリアの口の端が左右に伸びる。
「得をした、とはどういう事でしょうか?」
「そう、例えばね……学院の中にアグリフの地位を狙っているものがいる、とか」
「そこから先は料金が発生いたします」
マティリアはアルマにわざとらしく礼をするや、そう言ってのけた。
料金が発生する――その意味するところは質問の肯定。つまりは、学院で反乱が起こると言うことである。
「料金って、いくらなの?」
「情報が非常に危険かつデリケートな情報ですので……そうですね、7万リアでどうでしょうか?」
マティリアはさらりと相当な額を要求した。
しかし、アルカンシェルで集めたお金を使えば、なんとかなる金額でもある。
こちらのやり取りをじっと見守っていた一同を見渡して、アルマは大きく息を吸った。
「みんな! 聞いてると思うけど学院で反乱が起こるかもしれないの。その情報を、今まで集めたアルカンシェルの家賃で買おうと思うけど、もしそれに不満があるなら今ここで言いなさい!」
それまでざわついていた空気が静まり、生徒達は互いに顔を見合わせる。
しかし、そこから異を唱えるものはいなかった。なにせ学院がひっくり返るかもしれない情報なのだ。誰だってその先を聞きたくなって当然である。
沈黙を守った野良猫たちを見て、マティリアは満足そうに頷く。
「どうやら商談成立のようですね。では、お話しましょう」
顔にかかっていた長い髪を大きく払うと、中央の焚き火の前に進み出る。
そこに浮かぶ優麗なシルエットに、吟遊詩人という言葉が誰の頭にも思い浮かんだ。
「学院は今、ご存知の通りアグリフ=ラーゼが実験を握り、規定の一年間を乗り切ろうと徹底した秩序を作り上げています。しかし、これに異を唱える者達が学院内にいるのです。彼らはアグリフの主権を狙うべく水面下で勢力を着実に広げており、今ではここの倍の人数にまで増えました」
それを聞いた者達がにわかにざわつく。
アルカンシェルの倍といえば、200を超える人数の組織である。
中には信じられないと失笑を漏らす生徒もいたが、その一団にマティリアは微笑すら浮かべて悠々と答えた。
「お疑いはもっともでしょう。しかし、情報屋と言う商売は一度の偽りで全てを失います。私の誇りにかけてこれは真実。なにせ、私自身もそこに誘われたのですから」
その言葉に、アルマはかつてマティリアが大テントの前で貴族達に囲まれていた事を思い出した。あの勧誘していた貴族達、彼らが今アグリフの政権を狙っているのだ。しかし、ただ政権を狙っているだけの組織に200もの人数が協力するものだろうか?
すると、まるでアルマの疑念を見抜いたように、マティリアは答えを告げた。
「この反アグリフ派とも言える組織がここまで成長したのは、明確な目的があり、皆がその目的を果たすために団結しているためでしょう。その目的とは――」
そう、ただの権勢欲が目的だとしたら、危険を冒してまで支持者が集まるわけがない。
いったい何を目的とした組織なのか、身を乗り出した聴衆をゆっくりと見渡し、マティリアは静かに遥か西方を指差した。
「一刻も早く船を造り、この学院を脱出する事です」
ドンドンドン
けたたましいノックの音に、シュルトは不機嫌を絵に描いたような顔で扉を開けた。
「シュルト!」
扉の前にいたのは、ランプを手にしたアルマの緊迫した顔だ。
どうした、と尋ねるより早く、アルマはマティリアから聞いたという話をそのままシュルトに伝えた。
そして、最後にどうしようと蒼白い顔で見上げる。
「どうしようも何も……そう言う考えの連中が出てもおかしくないだろう。むしろ、ここでの生活に順応しているこの状況こそがおかしいのだからな」
「ちがうの! このまま反乱が起これば、学院で殺し合いが始まるかもしれない。たくさんの人が死ぬかもしれないの!」
「……それがどうした。むしろ好都合だろう。敵の戦力が勝手に少なくなるのだからな」
「そ、そんな! それはそうかもしれないけど、でも――」
「でも、なんだ? お前は俺に、いったい何をして欲しいんだ?」
シュルトが声に苛立ちを含ませると、途端にアルマは肩をビクリと縮こまらせた。
後悔が針のように心に刺さり、しかし、これでいいと思う心がその針を埋もれて見えなくなるまで奥へと押し込む。
しかし、この程度でアルマは退いてはくれない。
一心にシュルトの片目を見上げて願ってきた。
「クーデターを止める方法を教えて欲しいの。シュルトなら止める方法を知ってるんじゃないかって思って、それで」
「そんなものは知らない。たとえ知っていたとしても、お前に教えるわけがない」
「なんでよ! なんでそんな冷たいことが――」
「いい加減にしろ!」
驚くアルマの顔を見ないよう目を逸らし、シュルトは言葉をナイフのように振りかざした。
「お前がやろうとしていることは全くの無駄だ。自己満足の偽善に過ぎない。たとえクーデターが回避できても、学院に食料は全く足りない状況は変わらず、その先に待ってるのは辛く醜い餓死だ。そんな事も分からないのか?」
「で、でも、諦めるには早すぎるでしょ? 食料だって、探せばみんなが冬を越せる分があるかもしれない。輸送船だって来るかもしれない。それこそ、船をみんなで造ったっていいじゃない」
「……なぜそこまでして、お前はあいつらを助けたいんだ? アグリフにいったい何をされたのか、お前はもう忘れたのか?」
「お、覚えてる、けど」
そう、アルマが忘れられるわけがない。アグリフは交渉すらせずに、アルマを危険分子として殺そうとしたのだ。
「今お前が交渉にっても、アグリフはためらいなくお前を殺すぞ。そんな相手を助けるなど、無駄どころか愚行でしかない」
アルマは首を振り、シュルトに一歩詰め寄る。
「信じられない! なんで、そんな事を平然と言うの? 私達、同じ国の人間じゃない。ついこの前まで、同じ夢をもってここに来たんじゃない。話しあえば友達にだってなれるかもしれない、そんな人たちが、殺しあうのかもしれないのよ」
「だから何だ。同じ生徒だと? 今朝、ここに来た連中はお前を殺そうとしたんだぞ。奴らを生かして、レディンやカンナが殺された時、お前は自分になんと言うつもりだ?」
「う……」
「いいか、お前は今まで幸運過ぎたんだ。いつも誰かが助けてくれるなど、そんなことは絶対にありえない。死などあっけなく目の前にやってくるんだ。守りたい人間がいるなら、そのために悪魔と呼ばれる覚悟を持て。それができないなら、もう誰にも関わるな」
そう、だから誰にもすがってはいけない。助けを求めてはいけない。
ただ強くあらねばならない。何にも頼らず、一人で立てるほどに。
だから、
「お前の愚行に付き合って死ぬなど、俺はごめんだ。そう、あのビスキムのようにな」
アルマの息を飲む音が聞こえた。
だからシュルトは迷いが生まれるよりも早く、言葉をナイフに変えていく。
「ヤツがなぜ死んだか、分かっているのか?」
ここは自分の居場所ではなかったのだ。
もう、潮時だ。むしろ遅すぎたくらいだ。
以前、出て行こうとした時、何を言われようとこの砦を出て行くべきだったのだ。
「お前の行動が、間違っていたからだ」
小さな足音がして、つい視線を少女に戻してしまった。
そこには、蒼白な顔で後ずさるアルマの姿がある。
思わず少女の名を呼んでしまいそうになり、シュルトはひたすらに胸の針を奥へ奥へと押し込んで自分を殺す。
もう一息で、全て終わるのだ。
「アルマ、お前がビスキムを殺したんだ」
アルマの目が滲んで光る。慌ててシュルトは目を逸らしたが、しかし、それは手遅れだった。
凶悪なほどハッキリと、アルマの涙が胸の奥に刻まれた後だったのだ。
タンタンタン……
アルマの足音が遠ざかり、シュルトは震える手で扉を閉めた。
体が闇に包まれる。
「これでいい。これで、俺は……」
しかし、その言葉の先は見つかなかった。
これで俺は、いったい何になれるつもりだったのだろうか。
自分すら見えない闇の中で、シュルトはただ左胸を強く強く掴んでいた。
どんな痛みにも慣れていたはずなのに、覚悟は十分にしていたはずなのに。
シュルトは耐え切れなくなり、床の上に小さくうずくまった。
どうやって眠ったかも思い出せない。
シュルトが分かるのは、自分がいつのまにかベッドで寝ていたことと、けたたましいノックの音に起こされた事だけだ。
(レディンは、いないのか……)
いつもはうっとおしいほどに近くにいるのに、こういう時ばかりいない。
舌打ちして重い体を起こすと、殺気すら込めた顔で扉を開いた。
「シュルト! 屋上に集合よ!」
そこにいたのは紛れもなく、アルマであった。
目は真っ赤で、まぶたは腫れているものの、昨夜の出来事など夢であったかのような晴れやかな顔だ。
シュルトが二の句も告げずに呆然としていると、アルマがやれやれと腰に手をあてる。
「なに寝ぼけてるの? レディンはもう屋上にいるから、シュルトも早く来るのよ。もし来なかったら――そうね」
楽しそうに思案するや、迷いのない声で高らかに宣言した。
「罰としてこれから毎朝みんなに向かってあいさつね! おはようございますって大声で言うのよ。もちろん笑顔でね。分かった?」
そう言うやアルマは扉を勢いよく閉め、足音はダンダンと階段を駆け上がっていった。
間違いない、アルマ=ヒンメルだ。
シュルトは扉の内側へ、静かに頭を打ち付けた。