第44話:交渉決裂
「ほら、赤犬達が動き出しましたよ。情報通りです」
マティリアが指差した遥か向こう、そこに小さな砂埃が舞っていた。
見張り台の奥で仮眠を取っていたリーベルは飛び起きると、台の脇まで身を乗り出し、ぐっと目を細める。
「これは……相当な強行軍だな。しかも森の中を通る最短ルートを選んだ……目的はやはり、奇襲か」
リーベルの意見にマティリアもまったくの同感だと頷いた。
大樹の上に作った見張り台から見ているとはいえ、遠く離れたこの距離からでも砂煙はハッキリと見える。ゆっくりした行軍では、とてもこうはならないはずだ。
「あの砦は堅固ですからね。閉じこもられたら厄介だと、彼らも十分に分かっているのでしょう」
「逆に言えばいくら堅固な砦も、奇襲が成功してしまえば決着は即座に着く。しかも、野良猫たちの戦力なんてほとんど無いに等しいんだろう?」
「ええ。たとえ砦にこもっても、ろくな反撃すらできないでしょう。それを見越しての戦略……なんと愚かしい」
「そうかな、これはむしろ高度な政治的措置と言えるんじゃないか?」
流麗な眉をしかめたマティリアに、リーベルは意外だと首をかしげた。
「本土からの補給は無い、救援も無い、食料は減っていく――こんな状況でも学院内で暴動が起きないのはアルカンシェルという目に見える敵がいて、皆の不満の目をアグリフがそこへ向けさせているからだと思うんだが」
「それくらい分かっています。ですがスケープゴートという政策事態が野蛮なのですよ!」
「じゃあ、他に方法でもあるのかい? マティリア君」
返事の代わりにマティリアはむっつりと黙り、顔を背ける。
その見るからに不愉快ですと言わんばかりの態度を見て、リーベルは苦笑を漏らした。
「マティリア、君が野良猫たちを気に入ってるのは知ってるし、心配なのも理解できる。だが俺と君は監視者だ。公平に、そして冷静に観察しなければならない。それは分かるな?」
「……分かってます」
「なら、そんな顔をするな。最後まで傍観者として徹しろ」
分かっていますとマティリアはため息を混じりに頷いた。
しかし、それでもこの理不尽な状況は納得いくものではない。
やるせない気持ちで見張り台の縁から外を見渡し――それに気付いた。
「あれは……煙?」
間違いない、煙だ。
一筋のどす黒い煙が、赤犬達の行軍するかなり先の位置に立ち上っていたのだ。
マティリアの視線を追ったのかリーベルもその煙を見つけ、その異質さに眉をひそめた。
「あれはただの飯炊きの煙じゃない。あの密度の濃い煙は、狼煙だな」
そうでしょうねとマティリアは小さく頷き、見張り台の縁から身を離した。
「おそらく奇襲をアルカンシェルに知らせる合図でしょう」
「しかし、偵察を出す余裕が野良猫たちにあったとは驚きだな。それに狼煙が上がっている位置……かなり学院から離れている。奇襲だけでなく、その進軍ルートまで読み切ったヤツがいるな」
感心したようなリーベルの言葉に、マティリアは唇の端を上げた。
(シュルト、あなたなんですね)
戦闘経験の無い一介の生徒がここまで出来るわけが無い。
幼いころから戦術を叩き込まれ、さらにはマティリアの専属教師から、こと戦術においては鬼才とまで言わしめたあの男なら、このくらいやってのけるだろう。
間違いない、あのシュルトが動いている。
そして奇襲を読んだ彼が、その後の手を打たない事などあるだろうか?
「……ふふ、ないですよね」
「ん? どうしたマティリア?」
振り返ったリーベルに、マティリアは薄笑いすら浮かべてゆっくりと首をふった。
「いえ、なんでもありません。ただの思い出し笑いです」
「そうか……ではそろそろ俺は行くよ」
リーベルは床に置いた袋を担ぎ、森の一点を見つめた。
その先にあるのはアルカンシェルと言う名の砦――間もなく戦場となる場所だ。
「これから起こるのは同族同士の殺し合いだ。マティリア、君がここに残りたいなら許そう」
「――いえ、行きます。たとえどんな結果になろうとも、私は見なければなりません。私は……知る事を選んだのですから」
寂しそうなマティリアの言葉にリーベルは振り返らず、ただ小さく頷いた。
合図の狼煙が上がったことで、アルカンシェルは騒然としていた。
屋上からは警鐘代わりの平鍋が打ち鳴らされ、盛んに砦内へ帰還するよう指示を飛ばしていた。それを聞いた生徒達は顔を引きつらせ、我先にと砦の中へと駆け戻る。
「慌てるな! まだ時間はあるぞ!」
「押さないでください! 落ち着いて大部屋に集まってくださいまし!」
外からナバルやクレアたちが生徒達を誘導する声が聞こえるが、混乱は続いていた。敵襲が近いことは既に皆へ知らせてあったはずだが、いざとなると冷静ではいられないのだろう。
それはアルマだって同じだ。
平然とした顔を保ってはいるが、これから戦いが始まる事を思えば不安に息が苦しくなる。ぞくぞくと大部屋に集まってくる生徒達を見て、アルマは誰にも聞かれないようため息を吐いた。
「アルちゃん!」
周囲のざわめきに負けないようカンナが大声を張り上げ、生徒の波を掻き分けてくる。
子犬のように近づいてくるカンナをみて、少しだけ心が軽くなった。
「アルちゃん、外はだいぶ落ち着いてきました。こっちは大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。まだ戻ってきてない人はあとどれくらい?」
「ええと、さっきの報告では釣りに行った5人組が戻れば全部のはずです。あ、もちろんシュルトさんとザイルさんを除いてですよ」
「分かった。じゃあ、その5人組が戻ったら急いで扉を閉めて。あと打ち合わせ通り、レディンやナバル達にも手伝ってもらって内側から土嚢を積み上げて」
「はい! 任せてください!」
カンナがことさら元気に答えたのは、たぶん元気付けてくれようとしているのだろう。
(私、そんな酷い顔してたんだ)
これではないけない、リーダーがそんなでは不安を広げるだけだ。
アルマはむりやり笑顔を作ると、遠ざかりながらこっちを見ていたカンナに手を振った。
(そうだ。不安に負けても事態は何も変わらない)
今はただシュルトを信じて、やれる事をやるのみだ。アルマはぐっと気合を入れてイスに座ると、手に持っていた紙を膝の上に広げる。
アーシェルが作った紙、そこにはシュルトの書いた几帳面な字がびっしりと敷き詰められていた。合図があってからどう動けばいいか事細かに書いてある、言わばシュルトからの作戦指令所だった。
「ええと、退避は無事に終わりそうでしょ。扉の補強も大丈夫だし、水も確保してる。あとは――」
「おい、姫さん」
突然呼ばれた声に目を上げると、数名の殺気だった男女がアルマを囲むように立っていた。
心臓がビクリと跳ねアルマは目だけで周りを見回す。しかし、仲間の姿は誰も見えない。
不安に顔が歪みそうになるが、辛うじて笑顔を作ってごまかした。
「な、何? 会議は全員が揃ってから始めるから、もうちょっと待ってね」
しかし、彼らにまったく待つつもりなど無かった。
その中から一人の女がアルマの眼前まで進み出て、不安そうな顔で尋ねる。
「ねえ、本当に戦うつもりなの?」
「え、ええ。そのつもりだけど――」
「なんでよ! なんで降伏しないの!」
「え?」
突然、目の前の女生徒の形相が変わり、さらにアルマに詰め寄った。
「だって、相手はすごく多いんでしょ? 勝ち目なんて無いじゃない。なんで戦おうとするの?」
「そうだ。相手だって何もこっちの命が欲しいわけじゃないだろ!」
「勝手に決めるなんて横暴だ!」
「――ちょ、ちょっと待って!」
周りの生徒達も詰め寄ってきて、その剣幕にアルマは思わず立ち上がり手で制した。
「誤解があるみたいだけど、私だって戦いたいわけじゃない。もし話し合いができるなら出来る限りするつもりよ。でも、相手はいきなり奇襲を駆けようとしたの。問答無用で殺そうと迫ってるのよ?」
「で、でも、ここに閉じこもってどうするのよ」
「そうだよ。ここにいたっていつかは負けるじゃないか!」
その憤りを抑えるように、アルマはできる限り落ち着いた声で言った。
「大丈夫、その間にシュルトが敵をなんとかするわ」
しかしその瞬間、大部屋の空気が異質なものに変わった。
アルマを囲んでいた数人だけじゃない、その後ろにいた生徒達もこの話を聞いて、敵意に似た視線を向けている。
「なんとか? なんとかですって? あの悪魔が一人で敵を皆殺しにしてくれるって言うの?」
「そ、そうじゃないけど……でも」
「ふざけるな! それができなきゃ俺たち、みんな殺されるんだぞ!」
「そうなったら、どうやって責任取るつもりだよ!」
大部屋の空気が敵意から憎悪に変わり、アルマは耐え切れず一歩下がった。
ここにいる人を戦力とは考えない――シュルトが最初そう言った時、アルマは驚くを通り越して、まだ人々を信じられないのかと哀れにすら思った。
しかし、現実はこうだ。
余裕がある時は拍手を持って受け入れていたのに、少しでも危機が迫った今では誰もが簡単に悪魔と罵る。
(でも、そんな私達を救うために、シュルトは命を賭けて戦おうとしてる)
この事実を知らなかったからではない。
シュルトはその醜さを知った上で、それでも平然と助けようとしているのだ。
(だから、せめて、それを信じている私がこんな事で負ける訳にはいかないじゃない)
アルマは脇にあったイスの上に飛び乗ると、部屋にいた全員に向かって叫んだ。
「三日よ!」
ビッと指を三本立て、呆然としている生徒達を見下ろす。
「三日以内にシュルトは決着をつけるって言ったの! だから、その間はここで耐えて! そして三日たっても戦いが続いていたら……」
イスの上でアルマは息を大きく吸い込み、声の限りに告げた。
「私の首を持って投降するなり、好きにすればいいわ!」
その言葉に、異を唱えるものは誰もいなかった。
「わあ、すごい進んでるじゃない! みんなご苦労様!」
アルマは扉の前を見るなり、両手を叩いて声を上げた。
麻袋にたっぷりと土を詰めた土嚢が、既に天井へ着くほど積み上がっていたのだ。
作業をしていたカンナがその声に振り返り、あたふたと駆け寄って不安そうな顔で尋ねる。
「アルちゃん……その、大丈夫ですか?」
さっきの宣言がここまで丸聞こえだったのだろう。
大丈夫と明るく笑ったアルマの顔を見て、いつの間にか近づいていたアーシェルが頬をぷぅと膨らませた。
「アルマは、甘い。もっと威張っていいのに」
「だめですよ、アーシェル。シュルトさんも言ってたじゃないですか、怖いのは暴動と裏切る人間が出る事だって」
「でも……」
たしなめるレディンから、アーシェルはまだ不満そうに顔を背けた。
「大丈夫よ。きっとシュルトは上手くやってくれる。だから、カンナ達はここをお願いね。絶対にここだけは誰も通さないで」
「はい! 任せてください! 裏切り者がいたらバッサリ斬っちゃいます!」
屈託なく笑ったカンナに、アルマは何と言っていいのか分からなかった。
彼女が人を斬る事など、もうあって欲しくないのに、結局こういうことを頼んでしまう自分がいる。
何か言わなくてはと迷うアルマに、しかし、時間はその余裕を与えなかった。
「おい、姫さん! 奴らが来た!」
そして、戦いは始まった。
アルマは人波を押しのけて、なんとか屋上に這い出た。
しかし屋上は階段よりもさらに酷い人ごみである。
敵をひと目見ようと集まった生徒達と、敵の多さに顔を青ざめている者達で埋め尽くされていたのだ。
「ちょっと、ここは危ないの! みんな下に降りてて! 矢が飛んできたって知らないわよ!」
そう叫びながら、アルマはなんとか屋上の端までたどり着く事に成功する。
そして、息を吐く暇も無く眼下を見下ろした。
「…………」
何も言葉が出てこなかった。
そこには何百と言う生徒達が手に簡易槍を持ち、憎しみの眼差しで見上げていたのだ。
もし、狼煙の合図がなかったら、今頃あの槍が容赦なく生徒達を突き殺したかも知れない――そう思うとお腹の辺りがぎゅうと縮み上がる。
(ダメよ。私がしっかりしないと!)
怖気づきそうになる心を叱咤し、強く手を握り、アルマは精一杯胸を張った。
敵は砦をぐるりと包囲し、アリ一匹通さないような布陣を敷いている。
もう、逃げ場など無いのだ。
アルマが覚悟を決めると、アルカンシェルの正面に一人の男が歩み出てきた。
高級そうな服に、エラのはった顔――その姿に、アルマはあっと声を上げる。
「我が名はカイツ=クライフ! 由緒あるクライフ伯爵家の人間であり、この正規軍の総指揮者である! この砦の頭首と話がしたい!」
間違いない、ノイン領でアルマを枯れ井戸に突き落したあの貴族だ。
てっきりアグリフが総指揮だと思って驚いたアルマは、『決して自分の手を汚さない』と言うクレアから聞いたアグリフの性格を思い出していた。
確かに、あれはそう言う人間なのだろう。
「どうした、返事すら出来ぬか!」
そう叫んだカイツに、アルマは精一杯の虚勢で大声を張り上げる。
「私がこのアルカンシェルのリーダー、アルマ=ヒンメルよ!」
その声に下から睨み上げていた生徒達の憎悪の視線がアルマに集まった。
しかし、怖気づくわけにはいかない。
キッと睨み返すと、カイツは唇を端を上げて高圧的な言葉を叩きつけてきた。
「貴様らに勝ち目は無い! 無駄な抵抗はやめて、大人しく門を開けろ!」
「それは出来ないわ。私達がいったい何をしたって言うの!」
「なんと! 貴様らは自分の犯している大逆にも気付かんのか!」
唾を吐き散らして叫ぶと、カイツは腰に差してあった長剣を一息に抜き放った。
そして、切っ先をアルマに向けて突き上げる。
「教官不在のこの非常時に、貴様らは勝手な行動で治安を乱したのだ! そして、そればかりかここに配備されていた食料まで独占している。これは許されざる暴挙だ! 即刻、門を開け降伏せよ!」
怒鳴り終わるや、カイツは横にいた副官にこっそりと耳打ちした。
「門を開けたとて、奴らは反省などせぬ。扉を開けたら当初の予定通り雪崩れ込み、全員殺せ」
副官は頷き、後ろに控えていた五人の伝令隊に小声で伝える。そして、伝令員たちがさらに各部隊へと伝えていく。
戦いにおいて重要なのは情報伝達だと言うカイツの持論で作られたシステムだった。
しかし、その伝令は無駄となる。
なぜなら、アルマは毅然と降伏勧告を断ったからだ。
「門は絶対に開けない! だから、降伏には応じないわ!」
勝ち目の無い戦いであり、降伏する可能性は少なくないと見積もっていたカイツは、こうまできっぱりと拒絶されるとは思っていなった。
奇襲も失敗し、交渉戦も失敗したカイツは顔を真っ赤に怒鳴り上げる。
「このクズが、なんと言う愚行か! それほど殺されたいか!」
その言葉に、アルマはかちんときた。
こんな理不尽な要求に従わなかっただけでクズ呼ばわりとは、どれだけ偉いと言うのだ。
一方的に振りかざされる暴力――こんな馬鹿げた状況に、なんで何百もの生徒たちは疑問もなく従っているのだろうか?
アルマは激しい憤りを感じ、眼下にいた生徒達に指を突きつけた。
「いい加減眼を覚ましなさい! 私達は同じ生徒でしょ? 助け合うべき時に殺しあってどうするのよ!」
「だ、黙れ! ならばこそ、お前ら野良猫どもが我々に従うべきなのだ!」
「そっちこそ黙りなさい、カイツ! 私はあんたなんかに言ってない!」
アルマは砦の壁の上に登る。
そしてその上に立つや、両手を眼下にいる生徒達に向けて一杯に広げ、力の限りに問いかけた。
「なんでこんな奴に従ってるの? 私達は一番生き残れる方法を選んだだけなのに、なんでそんな事も分からないの! その手に持ってるものが、いったい何なのか本当に分かってるの?」
僅かな動揺が、正規軍と名付けれた生徒達の間に走った。
それを見たカイツは、忌々しげに舌打ちする。
「チッ――これ以上の交渉は無意味だな」
剣を天に向けて突き上げ、そして、まるで生じた迷いを断ち切るように振り下ろした。
「突撃!」