第42話:守りたい人
突然の侵入者にザイルの体は強張り、肺は呼吸をする事さえ忘れていた。
(にっ、逃げ場が無い)
唯一の出入り口には男が槍を持って立ち塞がっている。しかし、窓から逃げようにもここは3階だ。飛び降りるにはあまりに高過ぎた。
いや、それどころか窓へ上ろうと振り返った瞬間、侵入者は無防備なザイルの背中へ襲い掛かるだろう。木の棒にナイフを付けただけの簡素な槍だが、こんな制服など何の造作も無く貫き、そして――
「うううっ……」
死ぬかもしれない、その実感にザイルは総毛立った。
死んだ先、自分がどうなるかなどザイルには良く分からないが、しかし、たった一つだけハッキリと分かる事実がある。
クレアとはもう会えなくなる、という事だ。
(――嫌だっ! そんなの、絶対に嫌だ!)
その恐怖に押し出されるようにザイルは目を見開き、相手の隙を探った。
そう、この状況はまだ3対1なのだ。一気に襲い掛かればきっとなんとかなるはず――そう思い、じりと身をかがめた直後だった。
男の構えていた槍先が静かに動き、ザイルの心臓にピタリと照準を合わせる。
「そこのチビ、無駄な事はやめろ。このブラディッシュ様は天下に名だたるクグラ道場が高弟だ。武器があろうが無かろうが、貴様ら3人など相手にならんわ!」
そう言いながらブラディッシュと名乗った男はゆっくりとにじり寄る。その隙の無さと威圧感にザイルはドッと冷や汗をかいた。
クグラ道場と言えばザイルでも知っている。なにせ将軍まで輩出したと言うゼクス領の名門槍術道場だ。
かたやザイル達は戦闘の初心者で丸腰――これでは3人いようが5人いようが勝負にならない。怪しまれないようにとアルカンシェルに武器を全て置いてきた事が心底悔やまれた。
(なら、どうする? 大人しく降伏するか?)
しかし、降伏して命が助かるとは限らない。なにせ降伏して連れて行かれる先は、実の妹ですら殺そうとした悪魔の玉座だ。ひょっとすると死よりもつらい現実が待っているかもしれない。
なら、どうする――
考えをどうどう巡らせている間に、ブラディッシュはすぐ目の前、槍を突けば届く距離にまで近づいてしまった。
ひぃと喉の奥でかすれた悲鳴を上げたザイルを見て、ブラディッシュは唇の端を上げる。
「心配するな。貴様らが戻ったとて、どうせ同じ運命が待っているだけなのだ」
「そ、それは、どういう事だ?」
声を震わせて尋ねたザイルに、ブラディッシュはやれやれと盛大なため息を吐く。
「察しの悪い奴だな。アルカンシェルに巣食う虫けらどもは、間もなくこの島から掃討されると言っているのだよ。我々正規軍の手によってな」
「せ、正規軍?」
そうだ、と頷きブラディッシュは恍惚とした表情で告げる。
「貴様ら反抗勢力を掃討するため、今、アグリフ様の指揮において正規軍300名が軍事訓練を行っている。寄せ集めの平民など正規軍の前ではゴミクズ同然だろう」
ザイルは膝が震え出すのを止められなかった。
アルカンシェルにいる生徒はおよそ100人、さらにまともに戦える軍学部の生徒はたった20人に満たないのだ。
そんな所に300もの訓練を受けた集団が襲いかかれば、一体どうなるか――起こり得る惨劇を想像し、ザイルは首を激しく振った。
「な、なんでだよ! なんでそんな事するんだ! 俺達が何かしたのか?」
「その通りだっ! 貴様らはアグリフ様が統治されようとする中、愚かにも反逆している! この危機的状況の中で愚行極まる行為だと思わんのか? 挙句の果てに、貴様らは教官達の残した貴重な食料を独占したそうだな? これは大罪ぞ!」
「そ、それは――」
「黙れ! 秩序を乱すものには制裁あるのみっ!」
ブラディッシュの恫喝を前にザイルは口を閉じる。
だがザイルを黙らせたのは恐怖ではない、ただ一人の顔がその胸に浮かんでいたのだ。
(クレア……このままじゃ、クレアが危険だ。俺が守らなきゃ。無事のここを脱出して、みんなに危険を知らせるんだ)
そう決意すると緊張で強張っていた体から余計な力が急速に抜けていった。熱でボウッとしていた頭の中も裏返ったように冷め、意識だけが針のように細く尖っていく。
そして、この危機を脱するための材料を必死で集めだした。
「さあ、両手を頭の後ろで組め。これ以上抵抗するなら容赦なく殺すぞ」
ブラディッシュの言葉に、ザイルは「ひい」と大げさに悲鳴をあげ、頭を手で覆って顔を伏せる。そしてさりげなく左右にいるナバルとウルスラの様子を目の端で確認した。
すると、さすがと言うべきか二人は既に反撃の準備を整えていた。
ウルスラは拾ったばかりの鉄の棒を体の影へ巧みに隠し、ナバルもイモシシの毛皮の端を後ろ手でさりげなく掴んでいたのだ。
その時、ナバルと視線が交錯した――もっと注意を引け、ナバルの目がザイルにそう訴えかける。
(よし、やるぞ――クレアを守るんだ)
ザイルは覚悟を決めると、息を大きく吸い込んだ。
「ゲツ、ゲホッ! ゴホッ、ゴホホッ!」
激しく咳き込みはじめたザイルを見て、ブラディッシュは鼻で笑う。
「この状況でまだ演技の続きか? 俺を騙せると思うなと言ったはずだ。そら! 大人しく手を頭の上に組んで立てっ!」
迷いの無いブレアディッシュの態度に、ザイルの首に冷や汗が伝う。
こうなったらたとえ自分が刺されようと、一人でもここを抜けてもらうしかない。
ザイルは決死の覚悟で演技を続けた。
「ゲ、ゲホッ! ゲホッ! ゲホホツ! ゲホンッ!」
「――っ、いい加減にしろ! このっ!」
怒りに震えたブラディッシュが槍を振り上げるのを、ザイルは肌で感じた。
(し、死ぬっ――)
硬く目を閉じ、次に来る衝撃を待つ――だが、衝撃の代わりに来たのはナバルの「とりゃ!」と言う間の抜けた掛け声だ。同時にバサリと何かが広がる音が聞こえる。
「うおっ、このっ!」
ブラディッシュの困惑した声に、ザイルは目を上げた。
そこにあったのは、巨大イモシシの皮に包まれた一つの塊――ナバルがイモシシの皮を投げつけたのだ。
ブラディッシュは槍を振り絡みつくイモシシの皮を押しのけようと奮闘し、ようやく顔だけがスポンと現れた。
「きっ、貴様らあああっ!!」
その目は憤怒の色に染められ、ザイルとナバルを睨みつける。
だが、その背後では鉄の棒を振り上げたウルスラが静かに立っていたのだ。
ゴッ
鈍い音が部屋に響き、ブラディッシュの血走った目がぐりんと白目に変わった。
次いで、カランと槍が乾いた音を立てて落ち、ブラディッシュも跡を追うよう床へ崩れ落ちた。
しかし、ザイルはニコリともせず、ブラディッシュが本当に気絶しているのかと顔を叩く。
二度三度と繰り返し、それでも起きないのを確認してようやく止めていた息を吐き出した。
「――ぷはぁっ! た、助かったぁ」
危機は去ったのにザイルの心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、目には涙がじわりと競りあがった。
その肩をナバルがポンと叩いて労い、ウルスラもナバルに笑顔を向けた。
「よくやったね、ザイル。演技はまずかったけど、たいした度胸だったよ」
「あ、あはは。ありがとう、ウルスラ」
「なあに、礼を言うのはこっちさね。さ、それよりその槍を拾うんだよ」
「お、おう」
ザイルはふらふらと立ち上がると、おっかなびっくりブラディッシュの落とした槍を手にした。
木の棒とナイフが太めの麻紐で頑丈に結ばれているだけの代物だが、持ってみると意外と重い。
ザイルが槍を調べたり構えたりしているのを見て、ウルスラがため息を漏らす。
「何やってるんだい。さっさとこいつに止めを刺すんだよ」
「――――え?」
ザイルの目が点になった。
「え、じゃないよ。あたしらはここに夜まで隠れてなきゃならないんだよ。でも、こいつが起きたら何されるか分かったもんじゃないだろう? ほら、ナバルも扉を閉めるんだよ」
「お、そうだった」
ナバルは慌てて開かれていた扉を閉め、鍵を掛ける――だが、ザイルは槍を持ったまま呆然と突っ立ったままだ。
「どうしたんだい、ザイル。早くしな」
「あ、ああ、分かってるって」
ザイルは槍を両手で持つと、ぐいと引き絞る。
そして、倒れているブラディッシュの横腹目掛け、一息に突き立て――ようとして手が止まる。ザイルはまだ人を殺したことが無い。それなのにいきなり無防備な相手を殺すと言うのは、大きな抵抗があったのだ。
しかし、やらねば後でどんなトラブルの元になるか分からない。いつの日か、こいつがクレアを襲うかもしれないのだ。
(よし、やるぞ! これくらいできないで、クレアに合わせる顔が無いじゃないか……ん? クレアに合わせる顔が、無い?)
そこでザイルはしばらく悩み、おそるおそるウルスラに尋ねた。
「な、なあ。ウルスラは人を殺した男と、誰も殺してない男、どっちが好きだ?」
この質問にウルスラはこめかみをグリグリと揉みほぐし、声を震わせながら答える。
「殺すべき時に殺せる、毅然とした男だよ」
「そ、そうか――――でもさ、純粋なクレアはきっと違うと思うんだ」
ウルスラは鉄の棒を肩に担ぐと笑顔でザイルに歩み寄る。もちろん目はまったく笑っていない。
「……言ってくれるじゃない、ザイル」
その殺気に慌ててナバルが割って入った。
「まっ、まあ落ち着けよ、ウルスラ。別にこんなヤツ、殺さなくたっていいじゃねえか」
「ナバル、あんたまでそんな事言うのかい?」
驚くウルスラに、ナバルはゆっくりと頷いた。
その迷いの無い返事に、ウルスラはとりあえず話を聞こうじゃないかと腕を組む。
一方、ナバルは頭を掻き、彼には珍しく少し照れながら話し始めた。
「ええとだな、俺の親父がよく言ってたんだ。人を殺せば、そいつに囚われるってな」
「……囚われる?」
「ああ。親父は結構名の通った傭兵でな、当然人を殺して生きてきた。もちろん、殺したのは主に盗賊だとか殺されて当然の奴らなんだが、それでも奴らの声は残るらしい。耳の奥にな」
ナバルが肉親のことを言うのは珍しかった。
ウルスラも興味があるのか、瞬きもせずに聞いている。
「親父は道を歩いていても、時々怖い顔をして振り返えるんだ。誰かが後ろにいないかってな。夢でもうなされて、真夜中に起きる事もしょっちゅうだった。そういう時、奴らは俺が死ぬのを待ってるんだって頭を抱えて怯えてた」
そう語るナバルの口調は軽かったが、しかしウルスラはその言葉ですっかり気勢を削がれたようだ。
「ウルスラ、人殺しなんて大抵は割に合わないんだよ。だからさ、殺さなくて済む方法をさ、まずは考えて見ようや。な?」
その諭すようなナバルの言葉に、あのウルスラが苦笑を浮かべ小さく頷く。
やはりナバルは損得を説く商人だと、ザイルはため息をついて感心した。
「でもね、こいつを殺さないとなるとここは危険だよ。それは分かってるね?」
ウルスラはせめてものプライドからか食い下がり、それにナバルは勿論だと頷く。
「ああ、すぐに荷物を持ってここを出た方が良いな」
「でもさ、まだこんなに明るいんだぜ? こんな荷物を運んでたら、絶対に怪しまれるって」
「ザイルの言う事もそうだな。ふむ……」
ナバルは考え込み、じっと倒れているブラディッシュを見つめると、やがてポンと手を打った。
「おお! いい事思いついたぞ! ザイル、そいつの趣味の悪い服を脱がしてくれ。ウルスラはちょっと後ろ向いててくれな」
「服を? 分かったけど……」
「ちょっとお待ちよ、ナバル。いったい何をやるつもりだい?」
その問いに、ナバルは良くぞ聞いてくれましたとばかりにニヤリと笑う。
「聞いて驚け! その名も悠々自適脱出大作戦だ!」
どうだと胸を張ったナバルに、ザイルとウルスラは顔を見合わせ、どうしたものかと肩をすくめたのだった。
さわさわと揺れる深緑の中から10名ほどの制服を着た男女が、ゾロゾロと出てきた。
皆、頬や膝に擦り傷や打ち身の痕が見られ、すっかり疲労困憊の様相だ。ところどころには制服に血がこびりついているものもいる。
その中、腕に酷い擦り傷を負った一人の男が、隣にいた女子に濡れた布巾をギュッと腕に押し当ててられ、悲鳴を上げた。
「ッイテテ! 強い、強いって!」
「ご、ごめんね。私、医学部って言っても、治療なんてほとんどしたことないし」
「あ、いや、手当てしてくれてありがとな。それ貸してくれ」
男子生徒は受け取った濡れ布巾で自分で傷口を拭いた。
「ッテテ……くっそお、なんで工学部の俺が軍事訓練なんか受けなきゃいけねえんだよ。ああもう、やってらんねぇ!」
「シッ! 見回りの赤犬に聞かれたら大変よ」
「おっと、やべえ」
医学部の少女に注意された男はキョロキョロと周りを見回し、赤犬――つまりアグリフに忠誠を誓う貴族達が近くにいないかと探す。
すると遠くに小太りな貴族服を着た男が視界に入った。後ろに3等級の生徒を2人ほど従え、胸を張って偉そうに道の真ん中をこっちに向かって歩いている。
「うわ、いたよ。聞かれたかな?」
困ったような顔で尋ねる男に、少女はクスリと笑う。
「あんな遠くまで聞こえないって……それより、あれなに? ほら、あの後ろにある荷物」
「お、おい! ありゃイモシシじゃねえか?」
周囲にいた生徒も、その声を聞いてその荷物に気付く。
近づいて来ると、やはり運んでいたのは巨大な獣だ。頭を落とされた獣が二本の棒に後ろ向きにくくりつけられ、力なく揺れていた。
生徒達は色めき立つと、遠巻きに指を差しては騒ぎ出す。
「やっぱりイモシシだよ、あれ。同じ様なヤツ見たことあるもん」
「うおお、やった! 今日の夜はご馳走か?」
「もっと近くで見ようぜ!」
数名の生徒が数歩の距離に近づいた途端、先行していた小太りな貴族の男が不機嫌を顕わにした。
「見るな寄るな! これはアグリフ様に届ける品だ! お前らはさっさと帰れ!」
そう言って、ハエでも追い払うかのように手を振って追い散らす。
生徒達は自分が食べられないと分かると、こっそりと舌打ちをしながら、ある者は唾をゴクリと飲み込みながら、言われたとおり帰路につく。反抗すればどうなるか分かったものじゃないからだ。
ただ一人、医学部の少女がしきりに遠ざかって行く3人組を振り返る。
腕を擦りむいた男が、濡れ布巾を返そうと近づいても、少女はじっと去っていく3人を見つめていた。
「おい、どうした? 知り合いだったのか?」
「ううん……でも、なんかあのイモシシって変じゃなかった? なんていうか、作り物みたいって言うか」
「あはは! あんな精巧なニセモノ作って誰が得するんだよ? 遊んでる余裕なんざ、貴族の連中だってありゃしねえよ」
「それは、そうなんだけど……」
納得できないように首をかしげた少女の手を取り、男はグイと引いた。
「ほら、どうせ食えないモノの心配してもしょうがないだろ。早く配給所に行こうぜ。俺腹ペコだよ」
「クスッ、それもそうね」
こうしてその2人も、皆の後を追って走り去っていった。
もう少し注意すれば、その3人がアグリフのいる大教棟とは全く違う方向へ歩いている事に気付いたのだろうが、2人の頭の中は配給でもらえる小さなパン一切れで一杯だったのだ。
真っ赤な夕日を背負い、貴族に扮するナバルを先頭にした3人は砂浜を歩いていた。
やがて、周囲に人影がいないことを確認すると、ナバルが意気揚々と号令をかける。
「よぉし、ここまで来ればもう大丈夫だろう!」
ドサリ
号令と同時に荷物が砂浜に落とされた。
イモシシの皮の中に入っていたアタ粉の袋が飛び出し、他にもナバルの制服、そして部屋にあった毛布が顔を覗かせた。
「いやいや、絶対ばれると思ったけど、上手くいくもんだねぇ」」
「ナバル、演技最高だったよ! 嫌な奴をやらせたら右に出るものなしだね!」
「……ザイル、それ褒めてないだろ」
ナバルにギロリと睨まれ、ザイルは慌てて夕日を振り返る。
「あはは、それにしてもさ、海に沈む夕日ってこんなに綺麗なんなんだな。クレアに見せてやりたいよ」
「なに悠長なこと言ってるんだい。夕日って事はもうすぐ陽が暮れるって事だよ。真っ暗になる前に安全な場所を確保しなきゃ。ナバル、どうするんだい?」
「心配はご無用! 既に寝る場所は確保してある!」
不安そうなウルスラにナバルはドンと胸を叩き、あれを見たまえと砂浜の一点を指差す。
そこには夕日を受けてなお赤いテントが寂しそうにたっていた。
「あれって、情報屋のテントだろ? まさか、あそこに泊まるのか?」
「そうだ。聞いた話では、あそこは夜だれもいない。前にふんだくられた分、今日はタダ宿させてもらおうって訳だよ」
その言葉に、ウルスラは不安そうに眉をひそめる。
「ナバル、さっきのブラディッシュって奴が目を覚ましたら、追っ手を差し向けないかね。あんな目立つところに泊まって、本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫。なにせあの情報屋の主は公爵家のボンボンだ。公爵家のテントに無断で入れる程、肝っ玉の座った貴族なんていないって訳だよ。後は足跡を消すだけで完璧な避難所の出来上がりだ。どうだね、ウルスラ君。この見事な計画は?」
「……それ、アルマの嬢ちゃんからの案だね?」
僅かに動揺したナバルに、ウルスラはようやく微笑んだ。
「やっぱり変だと思ったよ。慎重派なあんたにしては大胆過ぎる計画だからね」
その言葉に、ナバルの頬がつい緩んでしまう。
「なにニヤニヤしてるだい。嘘がバレたんだから、少しは反省しな!」
そうは言っても仕方が無い、嘘がばれて恥ずかしいより、ウルスラが自分の事を理解しているというが、それ以上に嬉しかったのだ。
(しかし、喜んでばかりもいられないな)
なにせ、間もなく300人もの軍勢がアルカンシェルを襲うというのだ。戻っても同じ運命だと言ったブラディッシュの言葉が、頭から離れない。
果たしてその時、大事な人だけでも守ることができるのだろうか?
(親父、俺、傭兵なんてって馬鹿にしてたけど、やっぱりあんたみたいに強い事も必要なんだって、今さらながらに思うよ)
夕日を背に首を傾げるウルスラを見つめ、ナバルは少しだけ過去を悔いていた。
翌朝、ナバル達一行は朝日が昇るより早くアルカンシェルへと急いでいた。
マティリア達が戻ってくる前にテントを出発したかったというのもあるが、それよりも一刻も早く危機を知らせねばと自然に目が覚めたのだ。
しかし、アルカンシェルに着き、まず驚かされたのはナバル達の方だった。
「な、なんだこりゃあ!」
ナバルのすっとんきょうな声は、そこここで飛び交う威勢の良い声に紛れて消えた。
アルカンシェルの前に大量の露店が立ち並んでいたのだ。
砦の門から小川までの間には、木の生えていないちょっとした広場のような場所がある。そこに所狭しと人がひしめき、商品を積み上げては声を張り上げている。
「マルベリー! 真っ赤に熟れたマルベリー! 今ならひとつかみ500リアだよ!」
「今朝取れたての……焼いて食える魚はいらんかね! 安くするよ!」
「さあさあ、この見事な絵画を見たまえ。かの有名なユグラニブドゥに勝るとも劣らない陰影の妙技! これがなんと1000リアで――」
この喧騒の中では、巨大イモシシを担いでいるように見えるナバル達もそれほど目立たない。ひょっとするとナバルが貴族の服装のままでも、それほど気にされなかったかも知れないくらいだ。
3人は露店の切れ目をジグザグに歩きながら、多様な品々を物色する。
「ふむ、食料はまだ高いが、雑貨なんかは相場が崩壊してるな。むう、あの絵が1000リアとは、すごいな」
「やめな、絵なんてクソの役にも立たないよ!」
衝動買いに走ろうとするナバルをウルスラが厳しくたしなめた。
「ふん、クソの役か……じゃあ、あの海綿でも買ってやろうか? あれはお尻を拭くのに良さそうだぞ。ほら、前に痒いとか言ってただろ」
「なっ――なに聞いてるんだい! このっ! 蹴るよ!」
「いてて! もう蹴ってるじゃねえか! 親切で言ってやったのに、って痛いって!」
「おーい、ナバル暴れるなよ。もう肩が壊れそうだよ。早く中に行こうぜ」
最後尾で荷物を支えているザイルの悲鳴に、ナバルはそうだなと肩をすくめた。
蜘蛛の巣をくぐるように商品の群れの隙間を通り抜け、ようやくアルカンシェルの前へとたどり着いた。
「おお、懐かしいかな。我が愛しのアルカンシェル!」
「ナバル! 恥ずかしいから黙って入りな!」
ナバルはへいへいと適当に相槌を打ち、アルカンシェルの門をくぐると――またしても絶句した。
なんと中の通路にまでビッシリと商品と人が並んでいたのだ。
「こりゃ、需要過剰もいいとこだぞ」
「みんなギリギリまで隠してたって事だね」
「ったく、アルマの嬢ちゃんがあんなに必死になってたのにねぇ」
客引きの声を半ば無視しながら通路を奥へ進むと、中央の吹き抜けに出た。
さすがに狭い螺旋階段では商売がされていなかったが、一階の奥にある大部屋の扉は開いており、中から威勢のいい声が漏れ出ている。
と、その掛け声の中にひとつだけ聞き覚えがある声が混じってるのを、三人ともがほぼ同時に気付いた。
嫌な予感に3人は顔を見合わせる。
「今の声って、やっぱりそうだよね」
「の、覗くか?」
恐る恐る大部屋の中を覗く、と、中はやはり蜂の巣をつついたような賑わいだった。テーブルの上に商品を積み上げ、ちょっとした商店街のようになっている。
中でも騒がしいのが右脇の一画だ。
3人が目をやると真っ先に目に飛び込んだのは、テーブルでひときわ大きな声を張り上げている少女だった。
「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! ここにあるのは西の国の高級珍味、それを開店記念の超特価で販売中よ! 見なきゃ損損、買わなきゃ大損! さあ、いらっしゃいませー!」
まだ幼いとも言える体を目いっぱいに広げて呼び込みをしていたのは、やはりアルマ=ヒンメルその人だった。
「やっぱりか」
「――嬢ちゃん、ほんと元気よね」
アルマはどうやらこちらにはまだ気付いていない。一心に次々と物色している客達へそのよく通る声を振りまいていた。
アルマの周りにはその口上に乗せられた人々が足を止めており、商品を注意深く物色している。遠目から見た限りでは、売っているのはこぶし大の真っ白な塊のようだ。
「さあ、まずはちょっとだけ食べてみてよ! タダよ、タダ! 通り過ぎるなんてもったいない! あ、試食は1人1つまでね! さあそこのあなたも遠慮せずにどうぞ!」
脇にいたカンナやレディンも手伝い、てきぱきと試食品を配るや、食べた人々が驚きの顔を浮かべる。
「これは、旨いな」
「でしょでしょ? これはタケノコって言って、遠い西の国では超の付く高級品なの。味も歯ごたえも最高でしょ?」
「ああ……だが、どうせ日保ちしないだろ?」
「チッチッチ! ちゃんと保存できるように取れたてを下茹でしてあるから、後は新鮮な水に漬けるだけで10日は美味しく食べられるわ。そして値段もお手ごろ、ひとつたったの300リア! さらに今だけの開店記念、なんと2つで500リア!」
「お、おおお、それは確かに安いな。じゃあ4ついいか?」
「もちろんよ! まいどありぃ!」
あっさりと商談をまとめたアルマは頬を上気させ、零れそうなほどの笑顔を見せる。
「なんて……なんて楽しそうに商売するんだろうな、あいつは」
ナバルは半ば呆れるようにため息を吐いた。
だから、これからあの笑顔を曇らせねばならないかと思うと、少し覚悟がいる。
「ねぇ、ナバル。もう少し後で報告しないか?」
ウルスラの提案にナバルは小さく頷くと、3人はこっそり大部屋を後にした。
大部屋を出た3人は螺旋階段の脇に荷物を置き、商品が掃けるのを待つ事にする。あの様子なら長くはかかるまい。
だが、ザイルは急にそわそわし始め、やがてピョンと立ち上がる。
「ごめん、俺、クレアを探してくる!」
そう言うと、返事も待たずに飛び出していってしまった。
残されたウルスラはあご杖を付いて、ふうと肩をすくめる。
「まったく、あたしらは保護者じゃないってのに。ここんとこ、損なくじばかり引いてる気がするよ」
「ああ、でも――」
それも悪くないな。その言葉は言葉にしなくても、ウルスラには伝わったようだ。
アルマの嬉しそうな声がまた聞こえ、2人は小さく微笑んだ。