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第4話:リブステーキと焼き餅

 アルマは目を閉じ、静かに両手を広げた。

 息を深く吸い込むと不思議と懐かしい香りが胸一杯に広がる。これが潮の香りと言うものらしい。

 春の優しい日差しは羽毛のように柔らかく、顔を上げると目蓋(まぶた)の裏はうっすらと赤らんだ。


 目を閉じたからこそ気がつくこともある。

 たとえば、遠く、高く、海鳥達の声。

 生き物の腹のようにゆっくりと上下を繰り返す甲板。

 周囲を満たす雑踏と嬌声、そして、場を満たす脈打つような緊張感。

 その1つ1つを感じるごとにアルマの小さな鼓動は高まっていった。


(うわあ、なんか私、すごいワクワクしてる)


 こらえきれず目を開くと、目の前に広がるのは果てしない空と海。

 天を望めば蒼い空が延々と広がり、どれだけ目を凝らしても雲一つ見えない。

 沖を眺めれば蒼い海は悠久に広がり、遥かかなたで空と溶け合う。

 この蒼一面の世界は神様の究極の手抜きか、さもなくば究極の芸術に見えた。


「船長! これで終わりでさぁ!」


 荷を積んでいた水夫が高らかに叫び、船を固定していたロープはシュルシュルと音をたて岸に吸い込まれる。


 カランッ! カランッ!


 鐘の音がけたたましく鳴り渡りわたり、いよいよ出航なのだと誰もが感じた。

 鐘の音に呼応したように2本の巨大な(マスト)から何枚もの帆が一斉に広がった。三角の帆達は浜風をうまそうに食べ、真っ白な腹を一杯に膨らませる。

 ギシリと船が揺れ、ゆっくりと岸から離れた。


 アルマにとって、初めての船出だった。


 乗船した生徒達の大半は船内に入ろうともせずに甲板でひしめき、ある者は歓声を上げ、ある者は遠ざかるツヴァイ港を静かに見つめていた。

 だが、この中に唯一の知人であるシュルトの姿はどこにも見当たらない。


(でもまあ、シュルトが居たとしてもなーんにも話さないんだろうけどね)


 嫌な事を思い出し、笑顔がたちまち曇る。

 なにせシュルトは、あの古井戸から抜け出した直後から、あからさまにアルマを避けるようになったのだ。

 御者にカイツたちの悪行を切々と訴えている時も『無駄だ』とでも言いたそうな目をして、ひたすら傍観していたのだ。

 確かに御者は苦笑を浮かべただけで何の役にも立たなかったが、あの態度はないとアルマは思うのである。

 何故ならば、その後にはカイツ達と狭い馬車で過ごす長旅が待っていたからだ。

 ツヴァイ港に着くまでの無言、無言の20数時間は人生で5本の指に入る苦痛の時間だったと思う。

 唯一の救いは、あの日の夕食にシチューが出たことくらいだ。


(あれだってシュルトがしゃべってくれたら、もっと美味しく感じたのに)


 高揚していた気分が急にしぼみかけ、ハッとしたように首を振った。


「だめだめっ! 今は夢にまで見た船に乗ってるのよ。こんな貴重な時間を無駄にしちゃ悔やんでも悔やみきれないじゃない。過去にとらわれてグジグジするのは無駄以外の何物でもないのよ!」


 むふんと鼻息荒く頷きバックパックを背負いなおす。


「まずは船内探検に出発!」


 そう叫ぶと、周囲の視線をものともしないで船内に消えていった。





「あの、大丈夫ですか?」


 ベッドで薄目を開くと人のよさそうな女性が心配そうに覗き込んでいる。クルクルと癖のある短い栗色の髪から旧貴族ではない事が分かった。

 貴族かどうかをチェックする癖が付いてしまった事を自覚しつつ、アルマは口を開く。


「この微妙な揺れがダメみたいで……うぷっ」

「あの、もしよかったらこれ使って下さい」

「……これ、何?」

「ゲロゲロ袋のゲロちゃんです。今、私の住んでいたゼクス領では大人気なんですよ」


 そう言うと女性は嫌なくらいリアルな蛙の革袋をアルマの懐へ押し付けた。艶めかしい手触りがたまらない。


(よもや、こんなゲテモノのお世話になるとわ……)


 しかし、ベッドを汚すわけにはいかないので、ありがたく受け取る事にした。

 風邪もひかない頑健っぷりはアルマのひそかな自慢だったのに、たった1時間で船酔いになるとは思っても見なかった。船の探索も途中であきらめねばならず、蜂の巣のような2段ベッドに潜りこむと吐き気を我慢して寝込んでいたのだ。

 こうなると、後の船上の楽しみは食事だけだ。食欲は全く無かったが意地でも食ってやると決意していた。


「じゃあ、私は甲板に行きますね」


 栗色の髪の女はゲロちゃんを渡して満足したのか立ち去ろうとする。


「待って。夕食まで、あとどれくらいだっけ?」

「あれ、夕食はもう終りましたよ」


 手の中のゲロちゃんがグニョリと形を変えた。


(くっ、悔しくない! きっと船の上で出る食事なんてたいしたこと無いに決まってる!)


 そうは言っても食べ逃した物が何なのか、気にならない訳が無い。


「そ、そう、ちなみに、夕食は何だったの?」

「ええと、(トック)のバター焼きとマトラのポタージュと、それと、リブステーキ――」

「なんでよおおおおっ!」


 その叫びは不条理と悲痛にまみれていた。





(餅のバター焼き、マトラのポタージュ、リブステーキ……)


 ショックで酔いがすっかり冷めたアルマはベッドの中で枕をギリギリと握り締めていた。無論、頭の中を駆け巡るのは肉汁滴るリブステーキと焼き(トック)達だ。

 いつもはお腹が減っていようとどうと言う事は無い。しかし、食べられたはずの食事を、みすみす寝過ごしたとなれば話は別だ。ましてや、彼女は正真正銘の貧民なのである。


(ああああっ! 悔しくて眠れないっ!)


 ムクリと起き上がると辺りは真っ暗で、静かな寝息がいたるところから聞こえてくる。

 その中に異質な音が混じって聞こえた。


(あれ? これって――歌?)


 確かにそれは歌だった。遠くからかすかに聞こえてくる歌は、どこか故郷を思い出させる切ない旋律だ。

 アルマは枕元に置いてあったバックパックを手探りで拾い上げると、周囲を起こさないように音のする方へと歩き出す。


 美しい歌声は甲板に続いていた。

 甲板に立って辺りを見回したが夜空は生憎(あいにく)の新月で、星明りだけでは甲板の様子はほとんど見えない。ザザン、ザザンと波の散る音だけが、今なお船が進みつづけている事を教えてくれた。

 バッグからランプを取り出し、その底から火付け道具一式を取り出す。そして、慣れた手つきでカチンカチンと火をつけた。

 暖色の光が暗闇を裂く。


「あ」


 だが、光に驚いたのかピタリと歌が止んでしまう。

 慌ててランプをめぐらすと、船首の柵にもたれかかるように、その人影はあった。


(――貴族!)


 アルマは瞬時にそう思った。それほどランプの先に居た人影は貴族を体現していた。

 腰まである美しい銀色の髪、白磁のような肌、見事な配置の目鼻、長いまつ毛、どれもが華麗の一言に尽きる。しかもかなりの上背まであり、その長身を包む濃緑のツーピースドレスは(あで)やかな光沢を持っていた。


「おや、起こしてしまいましたか。申しわけありません」


 容姿や服装から明らかに女性だと思ったのだがその声は低く、女性とは一線を画していた。


「いえ、あの……ひょっとして、男の人、なんですか?」

「ええ、そうですよ。私は身も心も男ですとも」


 女装の麗人はいけしゃあしゃあと言ってのける。その様子があまりにあっけらかんとしていたので、アルマはクスリと笑ってしまった。


「あなた、私が相手でも普通に話すのね。貴族なんでしょ?」

「いえいえ、この国に貴族はもう存在していません。私はただの平民ですよ」


 平民と言う言葉がこれほど似合わない人物も初めてだ。まだ、姫だと言われたほうがしっくりくる。


「あなた、変な人ね」

「はい、よく言われます」


 その男は何故か嬉しそうに頷き「少し話しませんか?」と近場にあったベンチを指差した。

 すっかり貴族嫌いになりかけていたアルマは一瞬だけ悩んだが、目の前の男は十分に礼儀をわきまえている。それに、


「こんな暗い夜に一人歩きは寂しいものね。いいわ。でもその前に名前くらいは教えてね。私はアルマ、アルマ=ヒンメル」

「これは失礼を。私はマティリア=アスハルトと言うしがない芸人です。マティリアとお呼び下さい」


 しがない芸人が聞いてあきれる。胸に手をあて、さりげなくアルマをエスコートする仕草はどうしようもなく貴族のそれなのだ。

 ランプを手にゆっくりとベンチへ腰掛けると、マティリアもランプをはさんで座った。


「さて、アルマさんはこんな真夜中にどうしてここへ?」

「良くぞ聞いてくれたわ!」


 船酔いに始まり、夕食を寝過ごしてしまい、空腹で眠れぬ夜を過ごしている事をアルマは情緒豊かに訴えた。

 マティリアは口元に手を当てて笑うと、ポンと手を打つ。


「そうですか、それではこんな物はいかがでしょう?」


 そう言うと袖口から魔法のように林檎を取り出した。

 その真っ赤な物体を見た途端、アルマのお腹がキュルルルと歓喜の声をあげる。気恥ずかしさに林檎に負けじと赤くなった。


「あははは、その、ありがたく頂きます。でもどうして林檎なんて?」

「そうですね……実は、私はこんな学院になど来たくなかったのです。いえ、今だって気ままに芸をしている方がいいと思っています」


 学院に入ることが全てだったアルマには全く信じられない話だ。

 マティリアは少しだけ寂しそうに目を伏せる。


「ですが叔父に言われるまま、私は学院に来てしまった。せめて学院に行く前、最後の夜だけは思う存分故郷を思って歌おうと決めていたのです。そのために取っておいた夜食の林檎です」


 今まさに林檎をかじろうとしていたアルマは、ピタリとその動きを止める。


「あの、本当に貰ってよかったの?」

「もちろん、かまいませんとも」


 マティリアは手をクルリと回し、またも魔法のように赤い果実を出現させて微笑んだ。


「実はもう1つありますから」



 それから小一時間ほどアルマはマティリアと話し込んだ。いや、本来話し好きなアルマだが、この夜だけは聞き役にまわった。と言うのもマティリアがあまりに話し上手なので時を忘れて聞き入っていたのだ。

 特に彼の故郷であるアハト領の話には熱が入っていた。よほど、故郷を愛しているのだろう。


 ふと、マティリアの話が止まる。

 アルマがどうしたのかと視線を向けると、マティリアが驚いたような顔で一点を見つめていた。


「……シュルト、なぜ、そんな目で私を見るのです……私は」

「シュルト?」


 マティリアの呟きにアルマは首を巡らせる。すると、船内への入り口からこちらをジッと見ているシュルトが、確かにいた。


「あ、シュルト! こっちおいでよ!」


 呼びかけてみるが、シュルトは険しい顔をしたかと思うとすぐに背を向けて去っていった。


(うーん、本格的に嫌われちゃったかな)


 アルマは声に出さずうめく。ここまで嫌われるとなると、どうにも気になってしまうものだ。


「そう言えばマティリアもシュルトを知っているの?」

「……え? ええ、小さい頃からの知り合いです。いえ、それより、あなたがシュルトと知人と言うことの方が驚きなのですが」

「あはは、ちょっと、ね」


 笑ってごまかそうとするアルマに向かい、マティリアは目を狐のように細くして尋ねた。


「アルマさん、あなたはシュルトが何者か知っているのですか?」

「ううん、知らない。お父さんが誰なのか知ったからって、その人の事が分かるわけ無いもの……私はシュルトの事なんて、何も知らない」


 マティリアは驚いた顔を見せると一度だけ目を閉じ、髪をクシャリとかき上げるとこらえきれずに笑い出した。


「……くっくっく、なるほど、そう言うわけでしたか! いや、面白い! 人生とは何があるか分かりませんね。そうでしょう、アルマさん!」

「え? ええ、まあそう、かな?」


 遠まわしに馬鹿にされたような気がしたが、そんなアルマの心配を一切無視してマティリアは1人納得したように大きく頷く。


「アルマさんとは是非お近づきになりたいですね。そうだ、1つだけ好きな情報を差し上げましょう」

「情報?」

「ええ。実は私、芸人と情報屋の二つの顔を持っているのです。内緒ですよ」


 そう言っておどけて人差し指を口元に照る仕草は、嫌味なほど似合っていた。


「本当は情報料を頂くのがポリシーなのですが、今夜は特別サービスです。さあ、遠慮なさらずに言って下さい」


 特別サービスと言われてもアルマは困った。いきなりそんな事を言われても、すぐには出てこない。


(ええと、知りたいこと、知りたいこと……)


 悩んでいるとふと思い出した事があった。井戸に落とされる前にカイツに聴いた言葉だ。


「あの、1つ気になっていたことがあるの。私たちが行く学院、あれは何故できたの? 貴族の優秀さを示すためって本当なの?」

「学院創立の起源ですね。いいでしょう。ご依頼、確かに承りました」


 マティリアはうやうやしく一礼すると、ランプの光りに映る顔は真剣な色を帯びる。これから真実を話すのだと、その目は雄弁に語っていた。


「まずはどこから話しましょう……アルマさん、あなたはエドガー=グロスターと言う人物をご存知ですか?」

「エドガーって、あの最後の王子様のでしょ? もちろんじゃない。エドガー王子が王位を継がなかったから、求心力を失った貴族制度は崩壊したんだもの」

「はい、貴族達は最後までエドガー様を王にしようと画策しました。ですが、エドガー様はシュバート国に王は必要ないと思っていたようです。争いの根源になる事を怖れたエドガー様は、かの強大なムゥ帝国へと逃げられました」

「あの、マティリアさん、私が知りたいのは学院の由来なんだけど」


 アルマは逸れてきた話に釘を刺したが、マティリアは笑顔でやんわりと大丈夫だと告げる。


「エドガー様はムゥ帝国が我が国よりも一歩も二歩も進んでいたことにショックを受けました。その最たる物が『帝国学院』なのです」

「学院……」

「はい。そこは様々な分野のエキスパートを育て上げる、優れた機関でした。そして、エドガー様は思ったのです」


 微笑んでいたマティリアの顔が引き締まり、一転して蛇のような凄みを帯びる。


「このままでは我がシュバート国は、ムゥ帝国に飲み込まれると」


 淡々と話しているのにその声には十分過ぎる迫力があった。ゴクリとアルマの喉が鳴る。


「エドガー様は意を決するとシュバート国に戻られました。そして、知事や執政官達を説き伏せ、学院建設を認めさせたのです。つまり」


 両手を優雅に組み合わせると、アルマを安心させるように柔らかく微笑んだ。


「学院は貴族でも大衆でもなく、ただ優良な執政のため、シュバート国の繁栄のために創立されたのです」

「……よかったぁ。入学者に貴族だった人が多いから、私てっきり――」

「それは、また別の理由があるのでしょう。試験管も人の子ですから」

「それはどういう事?」


 アルマの質問は、首を小さく振って拒絶された。


「質問は1つだけです。アルマさん」


 その毅然とした微笑は、それ以上の質問を許さなかった。


「うん、分かった。ありがとね、マティリア。お陰でようやく気持ちよく眠れそうだわ」

「こちらこそ楽しい夜になりました。またご縁があることを祈っております」


 そう言うとマティリアは手を差し出し、アルマもニッコリと笑ってその手を握る。


「マティリア、あなたって良い人ね」

「はい、よく言われます」


 女装の麗人は、やはりいけしゃあしゃあと言ってのけたのだった。




 アルマは眠くなっていたのか早々に船内へと消えていった。

 ひとり星闇の中に取り残されたマティリアは、潮風に揺られながらクツクツと笑う。


「アルマ=ヒンメルですか……いやいや、学院生活も捨てたものじゃありませんね。まさか、あのシュルトがあんな目をするとは」


 両手を広げ、闇に身をゆだねるように語り掛けた。


「シュルト、あなたは気づいているのでしょうか。あなたの瞳にあったものを」


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