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第33話:眠れぬ夜

 走り、呼吸を乱しながら、ザイルはこの状況にありったけの悪態を吐いた。


「はっ、はぁっ――くそっ! くそっ! くそおっ!」


 この状況、つまり何十人の男どもに怒声を浴びせられながら逃げている現状だ。

 ずいぶん遠くまで逃げてきたつもりだったが、追う男たちに諦める様子はまだ無い。そしてザイルの限界は確実に近づいていた。

 既に肺は引き()り、視界も空腹でぐらぐらと揺れている。


(捕まったら俺、どうなるんだ?)


 無論、この右手にある焼きチーズが取り上げられる事は確実だ。

 だが、それだけで終わるわけも無い。なにせ大人達に見捨てられた学院中の生徒達は、今や不安とそれ以上の鬱憤(うっぷん)を爆発寸前まで抱え込んでいるのだ。

 そのやり場の無い怒りがザイルと言う出口(えもの)を見つけたら、果たしてどうなるか?


「い、嫌だ。はぁっ――嫌だああっ!」


 這い上がる恐怖を悲鳴に変え、それ以上に悲鳴を上げる体を鞭打って走り続けた。


 一際(ひときわ)大きな大樹が目に止まり、ザイルは追っ手からの死角に使うため大樹の裏に回る。

 しかし、足が十分に上がらなくなっていたザイルは、木の根に爪先を引っかけてしまい、派手に転んだ。おまけに手に持った焼きチーズを潰すまいと(かば)ったせいで、太腿の右端を大樹の根に打ち付けてしまう。

 慌てて立ち上がろうとするが、右足に力が入らず、それは適わなかった。

 もうダメだ――そう呟きかけた時、大樹の根本にある真っ黒な隙間に気付いた。


(あれは……穴か?)


 ザイルは根本周囲に生えていた草を掻き分けると、それは確かに穴だった。小柄なザイルならなんとか入れる程の穴が、大樹の根元でぽっかりと口を開けていたのだ。

 奥を覗くが暗くて何も見えず、手を突っ込んでみても底には届かない。


(行ってみるか? いやいや、浅ければ意味無いし、深かったら出られなくなる。最悪、死ぬぞ)


 ザイルが逡巡する間に大樹の向こうからは足音が急速に近づいていた。

 迷っている暇は無いのだ。


(どっちにしてもか……ええい、どうにでもなれっ!)


 ザイルは意を決すると、半ばやけくそで足から穴に潜り込んだ。


(おひょおおっ!?)


 着地まで一瞬の間があり、悲鳴をかろうじて喉元で飲み込む。

 穴の中は暗く、目が慣れていないせいか何も見えない。感じるのは石だらけのゴツゴツとした地面だけだ。

 空いている左手を横に伸ばすと、石とは違う硬く柔らかい何かに触れた。これはおそらく、この上に居を構えている大樹の根だろう。

 根を掴んで立ち上がり、上を見上げた。


(あそこが入ってきた場所か……意外と深かったか)


 ザイルが背伸びをすれば、なんとか出口に届くほど高さだ。

 壁沿いにぐるりと撫でて回ると、中は意外と広い。人が3,4人は入れそうだ。壁は少し湿った柔らかな土と石、そして残る大部分を大樹の根が占めていた。

  どうやってこんな穴が出来たかは分からないが、とにかくとんでもない僥倖(ぎょうこう)だ。


「くそっ! 見失った!」


 突如、上から大声が降ってきた。

 ここがばれたのかとザイルは首をすくめたが、声は確かに見失ったと言った。

 悪運はまだ朽ちていないようだ。


「あいつ、どこ行きやがった!」

「まさか消えたとか?」

「そんな訳あるか! あの野郎、死角に紛れて逃げてるんだよ。これだからチビはうっとおしいんだ」

「散れ! 散って追いかけるぞ!」


 口々に吠え立てる怒声の下で、ザイルは根のように息を潜めて待った。

 やがて男達は、乱暴に足を踏み鳴らし消えていく。


(ふぅ、助かったか……でも、もう学院には戻れねえな)


 安堵のため息は、途中から落胆へと質量を変える。


(これだけの代償払って、冷えた焼きチーズ1本なんてな)


 ザイルは苦笑しながら、それでも右手に大切に抱えていた焼きチーズを、ひと口かじり取った。


「うっ?」


 それは記憶にあった屋台の焼きチーズとはまるで別物だ。硬いくせにチーズ独特の臭みだけは強い。

 疲弊した体に、そのくどい味はきつかった。


「くそ、まじぃな」


 そう呟くと、ますます惨めさが胸からこみ上げてきた。

 潤みそうになる目元をこすり、意地になってもう一口だけチーズを噛み切ると、塊のまま嚥下(えんか)した。


「泣くかよ。泣いてたまるか。泣けば、俺は敗者だ。俺は、生きる。生き延びて……」


 それでどうなるんだろう――出ない答えを前に、ザイルは猛烈な眠気に襲われる。まだ真昼間だったが、体は疲労の極みに達していたのだ。

 ザイルは木の根の裏に焼きチーズを刺して隠すと、壁にもたれかかり、深く深く目を閉じた。

 チーズの臭さと塩辛さだけが、いつまでも舌にまとわりついて離れなかった。




「げはははっ! 見つけたぞ!」


 突然響いたその声にザイルは跳ね起きた。

 一瞬遅れて心臓がガンガンと警鐘のように打ち鳴らされる。


(見つかった?)


 目を皿のように開くと、ザイルは出口に目を細めるが、そこには誰もいない。

 それほど時間が過ぎていないのか、まばゆい日の光が差し込むだけだ。


「おらおら、もっと必死で逃げねぇとヤっちまうぞ!」


 その大声はずいぶん遠くから聞こえた。愉悦にひたっているような嬌声、ザイルを追っていた怒りの声とは何かが決定的に違っていた。


(いったいなんだ? 何が起こってる?)


 好奇心に負けたザイルは出口に手をかけ、おそるおそる外を覗いてみた。だが、角度が悪いのか見えるのは代わり映えのしない森の風景だけだ。

 止む無く胸まで這い出て、ぐるりと周囲を見渡す。

 と、距離にして数十歩のところを、赤い髪の少女が顔をぐしゃぐしゃにして駆けていた。


(あいつは、昨日の?)


 確かに昨日見た少女が、必死の形相で何かから逃げていた。

 少女はひぃひぃと嗚咽漏らしながら、ザイルが顔を出している大樹のすぐ後ろを駆け抜ける。

 そして、彼女を1人の男が追いかけていた。

 太さも高さもザイルとは比べ物にならないほどの体躯、口元には(ひげ)がもっさりと生えており、お陰で制服が冗談のように似合っていない。そして、何より目を引いたのは、男の手にあった抜き身の半月刀だ。

 男は少女を追う事に夢中になっているのか、ザイルには全く気付かなかった。


「ひゃあっはっはっは! 逃げろ逃げろ逃げろ! 叫べ! 怯えろ! 泣き(わめ)け!」


 その狂喜の声が、手に持った剣が、なによりギラギラと血走った両目が、絶対に関わってはいけない人間だとザイルに強く教えた。

 最善の選択、それは考えるまでもない。このまま穴に隠れ、息を潜めれば何事も無いないのだ。理性はその答えを選んだ。

 選んだはずなのだ。

 しかし、逃げる少女の必死の形相が頭に焼き付き、離れなかった。


(だってあいつは、あの子は……一緒じゃないか)


 あれは絶望の顔だった。

 あれは孤独の目だった。

 彼女もまた、この狂った学院が求めた餌食(ぎせい)なのだ。


 気が付けば、ザイルは小さな穴の中から飛び出していた。




 ザイルは少女が逃げる先に回り込んだ。

 髭面の男が、右へ左へと遊びながら少女を追い立てていたからできた事だった。


「こっちだ!」


 ザイルに呼ばれた赤髪の少女は、驚きに顔を強張らせた。

 疑惑、戸惑い、逡巡、少女は次々と表情を変えていく。

 しかし、この状況で選択の余地が無い。少女は悲鳴のような呼吸を続けながら、ザイルの方へと走ってきた。


「ついて来い!」


 少女が近づく事を確認するや、ザイルはさっきまで隠れていた大樹目掛けて駆け出した。

 後ろからはザイルに気付いた髭面の大男が怒鳴る。


「てめえ! そいつを助けるなら、てめえも殺すぞ!」


 チラリと後ろを振り返ると、髭面の男が怒りの表情で速度を上げていた。

 距離としてはまだ余裕がある。だが、果たしてこの速度(ペース)で男の目を盗み、あの穴に隠れる事ができるだろうか。


(くそ、ギリギリだな)


 ザイルは限界に近い赤髪の少女を振り返り、小声で指示を出した。


「これから穴に飛び込む。迷うなよ」


 少女は、視線で返事をする。それはまるで溺れている人間の目だった。


(頼む、上手くいってくれ……)


 少女の不安の伝染したザイルは、歯を喰いしばって願った。


 やがて大樹が近づく。

 ザイルは男から死角に入った一瞬を狙い、通り抜けるように見せ掛けて穴へと飛び込んだ。


「はやく!」


 ザイルが押し殺した声で呼びかけると同時に、少女が上から降ってきた。

 慌てて手を広げ、なんとか抱き止めた。

 突然暗闇の中に飛び込んだ少女は、床に足が着いたのにザイルの体に強くしがみ付いていた。まるで本当に溺れたように。

 その体は小刻みに震えていた。


(そりゃ、怖かったよな。死ぬのは、怖いよな)


 ザイルの手が、落ち着かせるように少女の肩を優しく包んだ。

 そして、視線だけを上げ、たった今2人が入ってきた穴を見た。


 髭面の男が、覗いていた。


「うわああああああっ!!」


 ザイルの悲鳴に少女はますます強くザイルの服を引き掴み、バランスを崩した2人は穴の底で1つになって倒れた。

 髭面が、ニタリと歪む。


「てめえら、もう逃げられねえぞ」


 そう言うと、穴からぬっと手を伸ばしてきた。

 男の手は2人の頭上を宙を彷徨(さまよ)い、何も無い空間を何度も掴む。


「ちっ、面倒臭えな!」


 舌打ちをした男は、穴に侵入しようと顔を入れてきた。だが、その体格の良い男の体では、手を顔すら穴に入る事ができなかった。

 やがて、男は一度手を引くと、立ち上がる。


(次はどうする? 俺がこいつなら――)


 ザイルはしがみ付く少女の手を強引に引き離すと、立ち上がった。

 髭面の男が取った次の手段は、やはり半月刀を中に突き入れる事だった。


「おらっ! 死ねっ!」


 乱暴に突き入れられた剣は、ザイルの脇をすり抜け、少女の目の前で止まった。

 肌が粟立ったがザイルに安堵する暇は無い。今がその時なのだ。

 ザイルは半月刀に飛び掛り、刃の背を両手で握むと、捻りつつ引き抜く。

 剣は驚くほどあっけなく、男の手から離れた。


「ぬおっ! てめえ! 俺の剣を返せ!」


 返せと言われて返せるものか。

 ザイルは奪い取った刀を握り直すと、男の伸ばされた手に向かって斬りつけた。

 狭い空間で振るった刀は、男の二の腕を軽く斬っただけだったが、男は慌てて手を引っ込めた。


「このメシャク様に傷を付けたな……てめえ、ただで死ねると思うなよ」


 ゾッとするほど低い声が降り注ぐ。

 だが、ザイルは半ば意地で剣を構え、震える声で吠えた。


「来るなら来やがれ!」

「くそが、調子に乗りやがって」


 メシャクと名乗った男は、忌々しげに吐き捨てるが、流石に不用意に手を出してはこなかった。

 そして、沈黙の時間が流れる。

 男が次に何をやらかすかと戦々恐々としながら、ザイルは重い時間をじっと耐え続けた。


 やがて穴から降り注ぐ光が、徐々に落ちてきた。日沈が近いのだ。


「チッ。時間切れか……覚えてろよ、そこのチビ! 必ず殺してやるからな!」


 そう脅したメシャクは罵詈雑言を吐きながら、立ち去っていった。


(た、助かった……)


 ザイルは正直、そのまま地面に崩れ落ちてしまいたかった。しかし、背後では少女がうずくまったまま、震えてるのだ。

 残っていた気力を掻き集めると冷静を装い、振り返る。


「あいつ、行ったみたいだぞ」


 少女が顔を上げた。

 穴から降り注ぐ僅かな灯りに照らされた顔は、病的なほど青白い。そして不思議なモノを見るような目でザイルを見つめ、貝のように口を(つぐ)んでいた。

 疑惑の視線は当然の事だろう、少女から見れば森の奥で突如現れた見知らぬ男である。信用しろと言う方が怪しいくらいだ。


「そうだ。ちょっと、待ってろ」


 ザイルは根の裏側に突き立ててあった焼きチーズを取り出した。


(分かってるのか? これは最後の食料だぞ?)


 理性が警告する通り、これはザイルの命綱である。無駄な浪費は絶対に許されない。まして、人に与える余裕など、あるはずがないのだ。

 なのにザイルの手はいとも簡単にそれを串から外すと、二つに割った。


(何やってるんだろうな、俺は)


 苦笑しながら片方を、しかも大きいチーズを彼女へと差し出した。


「腹減ってるだろ。食えよ」


 チーズを見るなりクレアはさっと手を伸ばし、しかし、触れる直前、それを止めた。

 そして消えるような小さな声で呟く。


「ありがと」


 そのネズミの鳴き声のような一言が、ザイルの心を溶かした。

 嬉しい。たかが一言なのに、体が震えそうなほど嬉しいのは何故だろう。

 ザイルは相変わらずぶっきらぼうを装い、目を逸らすふりをしながら、チラチラと彼女が食べる様を覗く。

 彼女も久しぶりの食事だったのだろう。最初の一口は恐る恐る、ゆっくりと余韻を味わいながら飲み込んだ。

 その後はあっと言う間だった。

 まるでネズミのように、一瞬たりともチーズから顔を離さず、ぺろりと食べ尽した。


(良かった。全部食べてくれた)


 そう胸を撫で下ろし、そこでザイルは困惑した。

 この生きるか死ぬかと言う時に、何と言うバカな事をして、何を喜んでいるのか。

 だが、どうしようもなく嬉しいと感じる自分がいる事は、変えがたい事実なのだ。

 悩む事を放棄したザイルは、手に残ったもう片方のチーズを口に入れる。


「あれ……美味(うま)いな」


 さきほど食べた時とはまるで違った。臭くない、くどさもない。冷たかったチーズが、何故か温かく感じる。

 それは両親に囲まれて食べた、あの屋台の味そのものだった。


 ザイルもあっという間に残りの食べ干してしまい、2人の間には再び沈黙が訪れる。

 何か話さなくては、そう考えたザイルはまだ名乗っていなかった事を思い出した。


「えっと、俺はザイル。ザイル=タンツェン」


 少女は訝しげな視線を上げ、ザイルを見た。だが、口は相変わらず固く結ばれている。


「これでもタンツェン家は貴族としては名家なんだ。まぁ、今は落ちぶれてるんだけどな、あっはっは……はぁ」


 ニコリともしない少女にため息を漏らした。

 その直後、少女はポツンと呟いた。


「クレア」


 ザイルが驚いて見つめると、警戒した姿勢を崩さぬまま少女はもう一度口を開いた。


「クレア=ラーゼ。名前よ」

「ああ、クレアか良い名前だな――って、ラーゼ? ラーゼって、あのラーゼ商会の?」


 思わず乗り出すようにザイルが問いかけると、クレアは小さく頷き、豊かな赤髪が揺れる。

 その時、ザイルの記憶で何かが一致した。


「クレアは、その、広場で演説してたアグリフってヤツの――」

「妹よ」

「ちょっと待て! あいつの妹が、なんで狙われてるんだよ? あいつなら学院中の生徒が味方だ。絶対守ってくれるはずだろ?」


 ザイルは記憶にあったアグリフの顔を思い浮かべる。

 優しく、義に厚く、誠実そうな人間だった。少なくとも妹を見捨てる人間には見えない。

 だが、クレアはゆっくりと首を横に振ると、力なく俯いた。


「……リフなの」

「え? なんだって?」

(わたくし)を殺そうとしてるのが、そのアグリフなの!」


 突如、そう叫ぶと、クレアは立ち上がった。


「無駄だったのよ! あなたの言う通り、あいつは学院中の人間を味方にした! もう、どこにも逃げられない! 絶対に助からないのよ!」

「お、おい待て、ちょっと落ち着け」

「今日だって、死ぬのが遅れただけよ――死ぬ? 死ぬの? 私が?」

「おい、クレア」


 ザイルの延ばした腕をクレアは払い、木の根だらけの壁を激しく叩きだした。


「い、嫌っ! ここから出して! ビスキム、どこにいるの! は、早く来なさい!」

「落ち着けって、おい、クレア!」


 両腕を振り回して暴れるクレア腕を、ザイルは後ろから掴んだ。

 さっきは気付かなかったが、小柄なザイルよりクレアは少しだけ身長が高い。だが、その腕は驚くほどに細かった。


「い、いや、離して!」


 クレアが抵抗する力など、問題にもならなった。

 その事実がザイルの胸をチクリと刺す。

 こんな無力な少女が学院中の生徒を敵に回したのだ。兄に命を狙われ、孤独と死の恐怖に怯え、今、目の前で泣いているのだ。

 ザイルの胸の奥底に火のような感情が生まれ、すぐさま全身を焦がした。


「――俺が守ってやる」

「っ!」


 クレアの動きが止まった。


「あの髭面からも、お前の兄貴からも。これからずっと俺が守ってやる! だから……」


 その先の言葉を言う前に、クレアは俯いたままゆっくりと振り返った。

 そして、おそるおそるザイルの顔を覗きながら、尋ねた。


「……私は、まだ、生きてもいいの?」


 真摯な、それ故に悲しい問いだった。

 ザイルは胸に湧き上がった憤りをそのままにぶつける。


「生きていいかなんて、そんな事聞くなよ! 当たり前だろ! 俺が絶対にお前を――」


 ザイルはその細い肩を強く掴んで、誓った。


「死なせない!」


 そこで、糸が切れたようにクレアの体から力が抜ける。


「お、おい?」


 急な事にザイルは支えきれず、クレアは床の上にドサリと崩れ落ちた。

 そしてそのまま、すぅすぅと寝息をたてはじめた。


「……本当にギリギリだったんだな」


 床に崩れ落ちたクレアが土に汚れるといけないと思い、ザイルは抱きかかえた。

 だが、どこに置いても下は土だらけである。おまけに壁も床も石や木の根でゴツゴツしていた。

 自分はともかく、こんな場所にクレアを寝かせたくない。そう思ったザイルは、仕方無くクレアを抱いたまま背を壁に付けて座り、胸を枕の代わりにして眠らせた。

 これならば起きた時、痛い思いをする事も、風邪を引く事も無いだろう。

 しかし――10を数えないうちにザイルは後悔した。

 胸元から聞こえる寝息、柔らかく温かい背中の感触、甘いような髪の匂い、その全てが息苦しさに変わったのだ。


(くそ! 静まれよ、心臓!)


 鏡を見なくても、自分が赤面していくのが分かる。


(俺はやましい事はしてない。そうだ、俺はこいつを守ってるだけだ)


 そう自分に言い聞かせ、ザイルは深呼吸を繰り返す。

 だが、そこに追討ちが来た。

 クレアが僅かに身動ぎをする。彼女の体が傾き、ザイルは倒れないよう慌てて腕を伸ばして支えた――のだが、その結果とんでもなく柔らかい感触が上腕に触れる事になったのだ。

 頭の中が真っ白になり、同時に激しい自己嫌悪がザイルを襲う。


(くそっ! なんだよ、このくらいで! 俺は高潔な貴族で、くそっ!)


 ザイルは後ろにある木の根にガツガツと頭を打ち付け気を静めようとするが、大した効果は無かった。

 唯一自由に動かせる左手を宙に彷徨(さまよ)わせ、クレアの冷えた肩に置く。

 そして、後ろめたさに離す。


 そんな事を、ザイルは鳥の声が聞こえるまで繰り返したのだった。



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