第32話:学院生活、終了
最初で――そして最後になる補給船は、学院が始まって8日目の朝、濃霧に紛れてひっそりと到着した。
補給船の到来を真っ先に発見したのは、港で海釣りをしていた男子生徒だ。
大の釣り好きである彼は、実家から持ってきた釣り竿の先に捕えた虫を垂らし、立ち込める靄の中でのんびりと朝釣りを満喫していた。これが朝飯となり、果ては一日の収入となるのだからやめられない。
しかし、エサが悪かったのか場所が良くないのか、竿はいくら待ってもピクリとも揺れないかった。
どれ、ここはひとつ場所でも変えようかと思い始めた時――なんの前触れもなく、白い霧の向こうに巨大な影が浮かんだ。
「うおおっ?」
腰を浮かせた男は慌てて愛用の釣竿を引っぱり上げた。
すると、針先にあったはずのエサが綺麗になくなってる。
いつの間に――と呻く間もなく、眼前には巨大な船体が霧を裂いてその姿を顕にする。
二重の驚きに、彼は陸に上がった魚のように口をパクパクと開閉した。
「かっ、けっ――ふっ、船だああっ!」
叫んで始めて、男は事態を把握した。待望の補給が本土から届いたのである。
釣り竿を振り回しながら寮へ戻ると、廊下や階段を駆けつまろびつ声の限りに叫んだ。
「船だ、船だ、船だっ! 船が来たぞおおっ! 補給が届いたんだっ!」
騒々しくも嬉々としたその声を聞くや、ベッドでまどろんでいた生徒達はすぐさま飛び起きた。
そして、リア袋をひっつかむと次々に部屋から飛び出し、朗報を告げる彼には誰も目もくれず、一目散に外へと走り去っていった。
そこでようやく、彼は己が犯した過ちに気付く。
大声で船の到来を告げても、得るものなど何も無いのだ。むしろ黙って大テントに向うべきだった。そうすれば食料だろうが油だろうが、新しい釣り竿だって選び放題だったはずである。
「ぐあああっ!」
頭を掻き毟って歯軋りするが、後悔とは大抵の場合、取り返しがつかなくなった頃にするものだ。まさに『折れた剣は戻らない』で『食べた山羊は乳を出さない』の通りである。
案の定、彼が部屋に釣り竿を放り投げ、代わりにリア袋を引っ掴んで大テントに到着した頃――そこは既に、阿鼻叫喚の惨状が始まっていたのだ。
大テント前の喧騒は、日が傾いた現在も一向に衰えを見せなかった。
生徒という生徒がテントの前に押しかけ、初日以上の気迫と形相でテント入り口へと殺到し、1つでも多くの商品を買うために押し合い圧し合いを続けていた。
皆、誰かに先を譲るなどこれっぽっちも頭にはない。力無い者は押し退けられていく。
農学部の男子生徒、ザイル=タンツェンも押し退けられた1人だった。
小柄の上に痩身のザイルは、せめてそれを武器にと大テント入り口の集団に横から潜り込んだ。そこまでは良かったのだが、誰かに背中を押されて転ぶや、踏まれ、蹴られ――挙句の果てには、いかにも軍学部といった体格の男にぐわっしと掴まれ「邪魔だ!」と放り投げられた。
「のわああああああっ!」
天高く弧を描いて飛んだザイルは、宙で手足をばたつかせ、着地の瞬間でなんとか受身らしきものを取る事に成功した――が、勢い余って地面と激しいキスを交わす。
「ペッ、けほっ、けほっ。くそっ! なんて粗暴で浅ましい連中だ!」
口に入った砂をペッペッと吐き出しながら罵る。
だが、この程度で諦めるわけにはいかない。なにせ一昨日の晩、巨大な鍋料理を食べてからと言うもの、食事と言えば小指よりも小さな魚に黒々と痛んだトマト、そしてすっかり硬くなったパンが一切れだけなのだ。
その惨めな食事を思い返すだけで、腹は切ない鳴き声で主に訴える。
「もうちょっと我慢しろ。なにせ、この日のために節約したんだからな」
なだめるように腹をさすり、ザイルはテントに群がる生徒達を背後から睨んだ。
「ハナッから金を浪費した愚民どもめ。俺様はお前らとは違う。ここでたっぷり食料を買い込んで、貴様らに目の飛び出るような値で売りつけてやる……おっと、その前に農具も揃えないとな」
農学部の課題は、3種類の中から好きな種や苗を一袋選び、規定量の作物を収穫する事だった。
スカイビーンズとシロイモ、パオリャン――どれも丈夫な食物らしく周囲の生徒達は容易い課題だと笑った。
だが、農耕などした事も無いザイルには至難の課題である。しかも誰かに方法を聞こうにも、人付き合いの苦手なザイルは未だに相談できる友人が一人もいない。
その結果、初日に買ったのが鉄製の頑丈なジョウロである。そんなモノなんの役にも立たないと、ルームメイトの平民に爆笑された事がまざまざと脳裏に甦り、ザイルは頬を高潮させて歯噛みした。
「もう平民風情に笑われてたまるか。俺は貴族だ。しかも、大貴族の末裔だぞ」
200年ほど遡ればタンツェン家は公爵家の分家である。今でこそすっかり落ちぶれ、その日暮らしにあえいでいるが、優秀な血統であることは疑いようがないはずだった。
それを証明する為、まずは今度こそ正しい農具を買う必要がある――ザイルは再び突入する準備を始めた。
「怪我は――無いな。進入経路確認――良し。リア袋――お?」
腰に手を当てたザイルは、そこにあるべき感触が無く、ギョッと身をすくませる。
「お、おい、嘘だろっ!」
ベルトに結わえてあったはずのリア袋が、奇麗さっぱりなくなっていたのだ。
慌てて周りの地面を見渡すが、雑草以外何も無い。
頭からサァと血の気が引いた。
「嘘だ……こんな、馬鹿な」
よろよろとよろめきながら必死で記憶の糸を手繰る。
(テントの前に突入するまではあったはずだ。と言う事は――)
ザイルが顔を上げたその先には、餌をあらそう豚のような集団がいる。きっとあの中でもみくちゃにされるうちに落としてしまったに違いない。となると急がねば誰かに拾われてしまうかも知れない。迷っている暇などないのだ。
意を決したザイルは、テント前の集団に頭から突っ込むと、人ごみを縫って地面の上を舐めるように探す。
「どこだよ、出てこいよ……頼むよ、俺様のリアちゃん」
ブツブツと呟きながら探し続けるも、視界が悪すぎて何も見つからない。
少しでも視界を良くしようと、ザイルはとうとう腰をかがめて四つんばいになって探し出した――と、突然視界が真っ暗になり、柔らかい感触がボスンと顔を埋めた。
「ぎゃああああああ!」
金切り音が上から降り注ぎ、それでようやく何があったのか気付く。どこぞ女生徒のケツに鼻先から潜り込んだのだ。
「あ、あの、俺は――おわっ?」
言い訳する間もなく、凄まじい力で胸倉を掴まれ、
「こぉの、ド変態いいいっ!!」
再び、空高くブン投げられた。
気がつくと、空がとても青かった。
(終わった……俺の学院生活)
金が無くては飯も買えない。これでは学院生活など、無理にも程があった。
悲しいが、あまりにあっけなくて涙も出ない。
ただ頭の中を占めるのは、父の不機嫌そうな顔と声だ。
(やっぱり俺なんか、無理だったんだよ。親父)
貴族時代が忘れえぬ父は、口あるごとにザイルに期待を背負わせていった。
曰く、お前は大貴族の末裔だ。曰く、お前はこの国を支配する側なのだ。曰く、涙は敗者の証だ、お前は絶対に泣くなと、と。
そんな父がある日突然、学院の入試問題をどこからか手に入れてきたのだ。
『ザイル! さあ、チャンスがきたぞ! 農学部とは言え、卒業すれば官職に就ける。やっと我々が日の目を見る時が来たのだ!』
聞けば多額の借金までしたと言う。そんな父に嫌とはとても言えず、その期待を背負ってザイルは学院にやってきたのだ。
正直、入学してしまえば何とかなると思っていた。これまでだって苦労も無くやってこれたのだ。
後は適当に種を埋めて、芽が出て、それを刈り取れば晴れて安泰の人生が待っていたはずだった。
「くそっ! 神のクソ野郎! 俺が何したって言うんだよ!」
天に向かい唾を吐くと、当然のように顔に降りかかった。
流石に恥ずかしくなり、誰かに見られていないかと起き上がって周囲を見回す。
(よ、よし。みんなまだ買い物に夢中だ――っ!)
ザイルの背中、テントとは反対方向に赤いものがチラリと目にとまったのだ。
さっと振り向くと、やはり誰かがいた。
木の陰に隠れ――いや、顔こそ隠れていたのだが、炎のように赤い髪は丸見えで、どうしようもなく目立っている。
(あれで、隠れてるつもりなのか?)
人影は木陰でピクリとも動かない。どうやら真剣に隠れているつもりらしい。
失態を見られ恥ずかしかった気持ちはどこかに消え、逆にその姿にホッとした。
何も天才ばかりがここに居る訳じゃない。自分と同じように不正に合格した奴だって大勢いるはずなのだ。
肩から力が、すとんと抜けた。
(まだ諦めるには、早いか)
ザイルは立ち上がり、隠れている人影に向かって一歩を踏み出す。
途端にその人影は赤く長い髪をひるがえし、木々の生い茂る奥の方へと逃げ出した。
(女の子、だったのか――なんか、怯えてたな)
懸命に逃げていく後ろ姿は、なぜかザイルの胸に深々と残った。
結局、その後もザイルはリア袋を探し続けたが、とうとう見つける事ができなかった。
おまけに、テント内の商品は日沈前に全てが売り切れてしまい、ザイルはまた食料も農具も買うことが出来なかったのだ。
その夜は、久しぶりに物資が潤ったせいか、寮の外からは遅くまで明るい歓声や嬌声が響いてきた。
ザイルはベッドにもぐりこむと、その声から逃げるように毛布に包まって眠った。今日あった嫌な事が全て夢に変わる事を願って。
しかし、目覚めたザイルを待っていたのは、さらなる現実だったのだ。
「おい、テントがなくなっているぞ!」
「それだけじゃない。大教棟も全部もぬけの殻だって噂だ!」
「本当だって! 職員も教官達も、誰もいないんだよ!」
そんな怒鳴り声が、寮のいたるところからひっきりなしに響いてきた。
不安になったザイルはベッドから這い出ると、椅子の上で頭を抱えたルームメイトに尋ねる。
「おい、船は? 船も無いのか?」
「うるさいな。船なんて一隻も残ってねえよ! 当たり前だろ!」
「じゃあ、俺達はどうやってここから出ればいいんだよ?」
ルームメイトの男は頭をガシガシと掻いて立ち上がると、苛立ちをぶつけるように怒鳴った。
「貴族ボケしたお前の頭にも分かるようにハッキリ言ってやるよ! いいか、俺達は見捨てられたんだ! 逃げられやしねえ。俺たちはここで死ぬんだ!」
その言葉はガツンと頭にぶつかった。
ショックと空腹で、ザイルはベッドにペタンと座り込りこんだ。
「見捨てられた? 俺が? だって、ここは国の学院で、俺は貴族で……」
その時、バンと扉が開き、ザイルの知らない男がルームメイトに来いと手で合図した。
「広場でアグリフって奴が演説をはじめたらしい。行ってみようぜ」
「演説? どんな?」
「分からねえから行くんだろ。早くしろよ」
ルームメイトはそれもそうかと頷き、しっかりとリア袋を持って外に飛び出した。
そして誰も居なくなった部屋で、ザイルも広場に行くべきか迷う。
少なくとも、ここにいれば安心な気がしたのだ。
「でも、ここにいてもどうなる? 腹が減って……そして、死ぬんだ」
その言葉を口に出した瞬間、ザイルは体を震わせた。
「ま、まさか、俺様が、こんなところで死ぬなんて、ありえないだろ……あ、あは、」
上手く笑う事ができなかったザイルは、不安に追いかけられるように、小走りで広場へと向かった。
広場に集まっていた人の数は、先日のテント前に比べると若干少ないようだった。だが、それでも大半の生徒達がここに集っている事に違いは無い。
ある者は立ち、ある者は座り、しかし共通しているのがある一点をじっと見ている事だ。
皆の視線の先をたどると、その男は台の上にいた。
悠々と立ち、それだけで威厳溢れる様が伝わってくる。ザイルとは頭二つほども違う長身で、程よく体重もあり、そして、燃えるような赤い髪。
(あれ? 昨日のヤツ……じゃないか、あれは女の子だったし)
ザイルは苦笑を漏らすと、隣にいた男女の会話を盗み聞く。
「なあ、あいつが、アグリフってヤツか?」
「そうそう。なんでも、あのラーゼ商会の御曹司らしいの」
「へぇ、それがあの威厳か。神様も贔屓するもんだね」
ラーゼ商会と言えばツヴァイ領どころか、シュバート国随一の商会と言っても良い。
ザイルも羨望の眼差しでアグリフの姿を見つめた。
やがて、アグリフが、朗々とした声で告げる。
「教官達は去った。何故か?」
叫んでいる訳でもないのに、その低く澄んだ声はよく通った。
「これは試験に他ならない。つまり我々は今、試されているのだ。ならば我々がすべき事は何か? それは統制された秩序を、すなわち文明を築き上げる事である!」
文明を創る――それは学院長が、奇しくもアグリフと同じ場所から生徒達に言った事だ。
ザワリと騒ぎ、「なるほど」「さすがは」と口々に感心する声があがる。
しかし、ザイルはどうにも素直に感心できないでいた。理由は単純で、そして切実で、即物的である。つまり、文明などでは腹は満たされないのだ。
「だが、不安に耐えかねて蛮行にでる者も少なからず出るだろう。絶対なる秩序には、悪に勝る力が必要だ。そのためには誰かが立たねばならない。法を作り、悪しき者を罰する統治者が!」
そこまで聞き、斜めに聞いていたザイルはフンと鼻を鳴らした。
(その統治者になって、ガッポリ支持者を稼ごうって魂胆か? さすがは豪商の息子、やる事があざといね。でもな、俺が欲しいのは――)
アグリフから視線を逸らすと、広場の片隅で商魂たくましく露店を開いている店を見つけた。
同時になんとも香ばしい匂いが鼻をつく。
(この匂いは、まさか焼きチーズ?)
ザイルは鼻を疑った。焼きチーズといえば、彼の大好物なのだ。
吸い寄せられるように露店に近づくと、串に刺さったチーズの塊が火で炙られているのを目にした。
外側がカリッと焼けており、そして中はトロトロになっているのだろう。
「どうか力を貸して欲しい! この学院に絶対なる秩序を!」
「いいぞ、アグリフ!」
商店のチーズを焼いていた小太りの男が、串を地面に刺し、拳を振り上げて声援を飛ばす。その視線はアグリフへと釘付けられていた。
今がチャンスだ、そう思う前から手が動いていた。
「ナバル! そいつ盗んだよ!」
神経質そうな女の声が、小太りの男の後ろからするどく飛ぶ。
途端に、周囲の視線が突き刺さるように集まり、ザイルは焼きチーズを持ったまま駆け出した。
「ま、待て! うおおおおい! 泥棒だ! その小さい男を誰か捕まえてくれっ!」
ナバルと呼ばれた男が悲鳴のような声を上げると、アグリフの演説を聞いて義憤に燃えていた男達が「泥棒だと?」と一斉に振り向いた。
(ああ、くそっ)
手に持った焼きチーズを捨てたところで事態はもう戻るまい。後悔はいつだって取り返しがつかなくなってからするものである。
ザイルは掴もうとする人の手を掻い潜り、一路、人気の無い森へと突入する。
そこに、壇上にいたアグリフのするどい声が鳴り渡った。
「見ろ! 秩序を乱す悪しき盗人だ!」
その声に、ザイルは草木を掻き分けてながら肩越しに後ろを見て――また後悔した。
広場に居た全ての生徒が、憎悪と軽蔑の目でザイルを見ていたのだ。
「ぐああああっ!」
悲鳴を上げながら、ザイルは焼きチーズを胸に抱き、猫に追いかけられた野ネズミのように森の奥へと必死で逃げていった。