第29話:消せない過去と消えない記憶
――待っていたぞ、ビスキム
それはかつて、ビスキムが殺してきた人々の歓声。
決して忘れる事を許さない記憶の群れが、飢え乾いた声で叫ぶ。
――やっと、お前の番だ
記憶は告げる、この傷では絶対に助からない。たとえダガーを抜いて止血しても、臓器に届いた傷までは塞げないと。
もう朝日を見ることも無いのだろう。
(だが今、俺は生きている)
ビスキムは鉛のように重くなった足を引きずり、戸口の外で惑うシュルトとカンナに道をあけた。
奥で倒れているアルマの姿がハッキリと見えたせいか、ランプに照らされたカンナの顔が胸でも刺されたかのように強張る。
「あいつは、無事だ――行け」
ビスキムの言葉に弾かれ、カンナはアルマへと駆け寄った。
腰をかがめ、ゆっくりと手を述べ――
しかしその手はアルマの頬に触れる直前、ビクリと止まった。
「あ……ああ……」
かすれたうめき声を上げ、手はアルマに触れることなく宙を彷徨う。
やがてカンナはその場で崩れ落ち、床に額を擦りつけ、許しを乞うかのように嗚咽を漏らした。
ビスキムは思う――彼女は暗殺者になれる人間ではなかったのだと。
自分の痛みより他人の痛みを厭う。それは暗殺者にとって致命的な弱さだ。そんな弱い者が人を殺すためには、自分が壊れるより他に道が無かったのだろう。
(それでも、あいつは選んだ)
弱いままで、身を切り裂く痛みを覚悟して手を伸ばした。自分が選べなかった答えを、この暗殺者だった女は選んだのだ。
ビスキムは霞む視界で、眩しそうに2人を見つめた。
「ビスキム」
呼びかけたのはシュルトだった。
アルマの無事に安堵しながら駆け寄る事すら出来ず、苛立った表情を崩そうともしない。つくづく不器用で――自分を見ているようだ。
「貴様、何故アルマを助けた?」
それは意味の無い質問だった。何故かなどビスキム本人にも分からないのだ。
何も答えないビスキムに、シュルトは口調を荒げて問い詰める。
「貴様は臆病なほど慎重だったはずだ。アルマを助ければ、こうなる事くらい分かっていたはずだ。貴様にもなすべき事があったはずだ。違うのか!」
なすべき事はあった。
ラーゼ家の頭首からビスキムに与えられた使命は、末娘のクレアを守る事。特に兄であるアグリフの手から守って欲しいと頼まれていたのだ。だからアグリフに不穏な動きがないか、毎晩のように慎重に見張っていたのだ。
今夜もそうだった。
アグリフの部屋に2人が入る時も、アルマが担がれて部屋に連れ込まれる時も、絶対に見つからない所から息を殺して見張っていた。なのに、
部屋からアルマの短い悲鳴が聞こえた瞬間、頭が真っ白になった。
喉は一瞬で干からび、心臓が耐え切れないほど動悸を打ち、腹の奥から何かが込み上げ――気がつけばこの有り様だ。
これで頭首の命を果たす事はできなくなった。まったくの失態、ありえない選択ミスだ。
確かこう言う時に使う言葉が、あったはずだ――
「ヤキが、回ったんだろう」
そう言ったビスキムを忌々しそうに睨んだ後、シュルトは諦めたように息を吐いた。
「では、アグリフ達はどうした。ここに奴と手下がいたんだろう?」
「アグリフは、いない。手下は、退いた」
「退いた? 増援をつれて戻って来るのか?」
ビスキムは小さく頷く。
だからこそ助けが来るまでの時間を僅かでも稼ぐため、ここに立っていた。
ひどく分の悪い賭けだった。それでも諦められず、信じた事もない神にまで願ったのだ。
そして、この非国民が現れた――絶対に無駄にしたくない。
「早く逃げろ……もう、奴が来る」
「奴だと? 誰の事だ」
シュルトの問いに答えたのは、肩を震わせていたカンナだった。
カンナはふらりと立ち上がり、赤くなった目でシュルトとビスキムを振り返る。
「ルアさんが、来るんですね」
「……そうだ」
ルア――ビスキムにもアグリフの正式な守護者としか情報が無い。
しかし、その手下だったシャデラクとメシャクの兄弟にすらビスキムは適わなかった。不意をついて捨て身の攻撃を繰り返したのに、追い払うだけで精一杯だったのだ。
ましてあのアグリフが片時も離さない人間が、並みの剣士である筈が無い。
「俺が、足止めする……窓から、逃げろ」
「ならカンナも戦います。そうしないと、アルちゃんに顔向けできません。謝る事すら出来ません!」
紅姫を構えようとしたカンナに、シュルトは嘲るように笑った。
「やはりお前は救いようの無い愚か者だな。アルマが、こいつがそんな償い方を認めると思うのか?」
「それは……」
「償いたいと思うなら、アルマを背負って逃げろ。ここには俺が残る」
「で、でも」
「俺は奴らに聞きたい事があるんだ。邪魔は許さん――それとも、まだ俺を斬りたいのか?」
シュルトが半月刀をカンナに突きつけると、カンナは俯いて紅姫を腰に収めた。
「……意地悪です。カンナ、やっぱりあなたのこと嫌いです」
「ふん。嫌われるのは、慣れている」
きっと、どちらも本音ではない。
ここにいる三人は、たぶんどうしようもないほど不器用で、臆病なのだ。だから剣を振るい、傷つける事ばかり上手くなった。
そんな人間だから、居場所を求め、温もりを求め、アルマに惹かれたのだろう。
「シュルトさん。ルアさんは、毒を使うと聞いた事があります」
「毒……か」
「はい。その、気をつけて」
シュルトの顔を見ないで告げたカンナは、横たわるアルマを割れやすい宝物を扱うように背負った。
机に登り木板の窓を開け放つと、夜風がアルマの薄茶色の髪が小さく揺らした。
ビスキムは目の端でアルマを見つめる。おそらく彼女を見るのはこれが最後だろう。
この汚れた手を握り、必要だと言ってくれた少女の顔を、記憶の最後に焼き付けた。
不思議だった。
ダガーから滴り落ちる血が体中から熱の熱を奪い、手も足も唇まで寒くて震えている。なのに胸の奥だけが陽だまりのように温かいのだ。
タン
やがてカンナが猫のように窓辺から飛び降りると、シュルトは窓と部屋の扉をしっかりと閉めた。鍵を掛けなかったのは、不意打ちをする布石だろう。
最後に戸口を塞ぐようにビスキムの横に並ぶと、半月刀を構えながら尋ねた。
「ビスキム。お前は死ぬのが、怖くないのか?」
「……いつだって、死ぬのは――怖かった」
死ぬ日が来る事が、怖く怖くて仕方が無かった。
殺せば殺すほど死が怖くなるのに、生きるために殺し続ける。だから、いつだって死なない事ばかり考えて生きていた。
まるで、悪夢のような日々だった――なのに。
「クッ、ククク……」
堪えきれずに笑ったビスキムを見て、シュルトは目を見開いた。
「な、何がおかしい! お前はもう死ぬんだ! 何故、こんな時に笑える!」
「知るか、よ。あいつが、無事だ……そう、思うだけで」
そう思うだけで、もう怖くないのだ。目前に迫っている死も、苦痛も、消え行く意識も。
ビスキムは見えなくなった目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「まさか、こんな最期が、俺に、許される、なんて……」
「――!」
シュルトが叫んでいるが、耳も聞こえなくなったようだ。
もしできるなら、この男ともっと話してみたかった。きっと、剣以外でも良い会話が出来ただろう。
だがもう時間だった。
せめてあと一言、そう思って口を開く。
「俺は、生きたぞ。お前も――」
そして、意識は乳白色の闇に溶けた。
「ビスキム! 奴らが来たぞ! おい、ビスキム! ――くそっ」
シュルトが横目でビスキムを見るとビスキムは立ったまま、微笑を浮かべたまま、静かにそこにいた。
(なんと言おうと、死ねば全て終わりだ。俺は、絶対に死なない。復讐を果たすまで、死ねるかよ!)
シュルトは迫る足音を聞きながら、半月刀をきつく握り直した。
扉のすぐ外で、足音が止まる。
(扉を開いた隙を――突く)
シュルトは扉に一歩近づくと弓のように剣を腰元で引き絞り、その瞬間を待った。
ガシッ
いきなり後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなくシュルトは体を引かれ、代わりに長身の影が前に出る。
次の瞬間、長身の影――ビスキムの体を細身の剣が刺し通した。
「ビスキムッ!」
シュルトの叫びに応えるように、剣の刃先は扉の向こうに消えた。
敵が扉越しに攻撃したのだ。
支えを失ったビスキムは壁に寄りかかり、力なく崩れ落ちる。
そして扉が開き、鷹のような目をした女が姿を現した。
「ほう、貴様――シュルト=デイルトンだな」
女は感情を見せない顔で告げた。
シュルトは冷静になれと自分に言い聞かせ、その相手を睨んだ。
しかし、その相手の剣を見た瞬間、シュルトの心臓は破裂したように脈打った。
赤く濡れた剣――それはビスキムの血だけではなく、剣に仕込んである猛毒の色だ。
その剣に見覚えがあった。いや、見間違えるはずが無い。その剣だけは絶対に忘れる訳が無いのだ。
「うあああああああああっ!!」
我を失ったシュルトは、闇雲に剣を突き出した。
カンナはゆっくりと扉を開く。
部屋には誰もいなかった。ただ目をそむけたくなるほど荒らされている。
窓は開け放たれ、引き出しは散乱し、椅子も残らず叩き折られていた。
(これがカンナと、アルちゃんの部屋……)
背負ってるアルマの小柄な体が、途方もなく重いと感じた。
部屋に入ると、やはり引き出しの中には何も無かった。カンナのリア袋はおろか、ゼクス領から着てきた高価な胴衣まで綺麗に持ち去られている。
そして、机の上にベッタリと広がっているものに目が止まった。
「っ!」
それはアルマがカンナを元気付けようと必死で集めた蜂蜜だった。机の上から糸のように伸び、床へとゆっくり滴り落ちている。
こぼれてしまったものは還らない。
二度と同じようには、戻らないのだ。
「……カンナ、泣いてるの?」
突然背中から声がして、カンナの心臓が跳ね上がった。
「アルちゃん! その――」
「よかったぁ……いつものカンナだ」
キュッと肩を絞めつけたアルマの細い腕は、小刻みに震えている。
「カンナ、もう私のこと、思い出さないかもって――こ、怖かった。ほんとに、怖かったの」
カンナの服をきつく掴み、押し殺したように泣き出した。冷たくて熱い雫が首筋に落ちる。
謝りたい。でも、何を言っても足りない気がして、アルマが泣き止むまで唇を引き結び、静かに立ち尽くした。
「――スンッ、スンッ。ごめんね、カンナ」
「なっ、なんでアルちゃんが謝るんですか!」
「私、みんなのお金、守れなかったの。みんなが信頼して預けてくれたのに、全部、取られちゃった」
「アルちゃんは何も悪くありません! なにも、悪く、なくて、悪いのは、全部……」
悪いのは自分だ。
謝ろう。たとえ言葉が足りなくても、何度でも謝ろう。
カンナがそう決めた時、アルマが窓を指して叫んだ。
「カンナ、外!」
アルマの指の先を見ると、窓の外で光りが踊るように動いていた。
アルマが背から飛び降りて窓際に向かったので、カンナも後に続く。
男子寮へと続く道中で、木々に隠れながら2つ、いや3つのランプの明かりが揺れていた。
カンナは目を細めてランプを持つ人物を凝視する。
垣間見えた姿には見覚えがあった。
(あれは、ルアさん? それにあの兄弟まで。逃げているのは……アーシェルさん!)
アーシェルがランプを持ったアグリフの手下に追われていたのだ。
ルアが来たと言うことは、シュルトが負けたという事だ。このままではアーシェルまでも殺される。
「……もう沢山です」
「カンナ?」
たとえ刺し違えてでも、この狂った状況を終わらせてやる。
カンナは紅姫の柄を握り、アルマに告げた。
「アルちゃん、カンナ行きます。もう、こんなの全部終わりにしま――フガガッ?」
アルマがカンナの鼻をキュッと摘んだのだ。
「カンナ! ポンポン刀抜く癖、いい加減やめなさい!」
「で、でも、ここままじゃアーシェルさんが――」
「アーシェルの事は、私に任せて」
アルマはカンナの鼻から手を離した。しかし、任せろといわれても、アルマの手はまだ震えていたのだ。
心配そうな顔が伝わったのか、アルマは腫れている顔でニッコリと笑った。
「大丈夫、見てなさい。私が、商人の戦い方を教えてあげるわ」
「商人の、戦い方?」
アルマはコクンと縦に首を振ると、窓枠に手を掛け、思い切り息を吸い込む。
そして、アーシェルに後一歩まで近づいていた3人に向かって、叫んだ。
「きゃあああああああ! こんの下着ドロボウッ!」
カンナが「へっ?」と声をあげると同時に、寮がザワリと揺らめく。
続いてバンバンと窓が開き、何人もの女生徒が顔を出した。
「あそこよ! あのランプ持ってるヤツ!」
「うそ、あれ下着ドロボウ?」
「見て! あの子襲われてない?」
騒ぎに気づいた3人は、慌てて女生徒たちから顔を隠す。
だが、降り続ける何十もの罵声に、ついには退却を始めた。
逃げ切ったアーシェルは限界だったらしく、立ち止まると同時に地面の上にペタンと腰を落とした。
「アーシェル、そこで待ってて! すぐに行くから!」
了解の意味を込めてアーシェルはアルマ達に手を振ると、地面の上に仰向けに倒れて空気をむさぼる。
「す、すごいです。アルちゃん……でも、なんで下着ドロボウだったんですか?」
「そりゃ、カンナ。人殺しが来たなんて言ったら、みんな部屋に閉じこもるじゃない。でも下着ドロボウならみんな顔を出すでしょ?」
「……ああ、なるほどです! やっぱりアルちゃんってすごいです!」
「ふふ、よかった。本当にいつものカンナだ」
そう言って微笑むと、アルマは部屋を見回して腰に手を当てた。
「さて、そろそろ行かなくちゃね」
「行くって、どこにですか?」
「あいつら、このくらいで諦める連中じゃ無さそうだし、ここはもう安全じゃないから」
「……」
その通りだった。
この学院にいる限り、アルマはアグリフの追っ手に狙われ続けるだろう。
全て、カンナが招いた事態だ。
「ああ、もう! そんな顔しない! ちょっと引っ越すだけじゃない」
「……でも、当てもないのに」
「あるのよ! ほら、さっさと準備する」
準備と言っても何も持って行くものはない。
そう思っていたが、アルマは引き出しの隅から針を、ベッドの下から面の糸玉を取り出した。
「ど、どうして残ってるって分かったんですか」
「あんな奴らが裁縫なんてすると思う?」
「あ、あはは、全然思いません。でもよかったですね。これで、制服縫えます」
「え? あああっ! もう、早く言ってよ!」
アルマは破れてはだけていた制服の胸元を掻き寄せた。
変わっていなかった。
あんな事があったのに、アルマは何も変わらない態度で話してくれるのだ。
「もう使えそうな物は無いわね――それじゃあ、準備はいい?」
「あ、ちょっとだけ待ってください」
カンナは荒れてしまった部屋を見回し、その目に焼き付ける。
また記憶を失う事があっても、アルマとこの部屋で過ごした日々だけは、もう二度と忘れる事がないように。
「――お待たせしました。もう、大丈夫です」
アルマは頷き、その拳を振り上げた。
「では、趣味の悪いテント目指して、出発!」
まだ、少しだけ震える拳を、それでもアルマは高く上げたのだ。