第27話:夜が来る
カンナの背中を見上げながら、アルマは薄暗い階段を一歩、また一歩と上っていた。
ここはもうアルマたちのいる4寮ではない、1寮――つまり男子寮である。
カンナの言う知り合いとは、やはりクレアではなかったという事だ。
(となると、相手はアグリフ=ラーゼか。カンナに暗殺までさせてた話も……)
アルマの視線の先、黙々と進むカンナは3階に上った所で廊下に出た。
後に続いて廊下に出たアルマは、吹き抜けの窓から外を見て、一瞬立ち止まる。
赤紫に染まった西の空が視界一杯に広がっていたのだ。
(――夜が、来る)
美しいはずの日沈の光景は、空が闇に侵食されるように見えてしまい、逆に不安が胸で膨らみ出した。
話し合いは確かに大きな機会ではあるが、同時にかなりの危険を伴うはずだろう。
たった1人で上手く交渉できるのだろうか?
それ以前に、話が通じる相手なのだろうか?
なによりカンナは今、何を願っているのか?
アルマがその横顔を覗こうとした時、カンナは静かに足を止めた。
「ここです」
慌てて立ち止まったアルマは、カンナの目の前にある扉を見た。
当たり前だがアルマの部屋の扉と同じ形、同じ大きさである。なのにその扉は大きく見え、異様な圧迫感を感じた。
この学院で最も危険な人物だと言われた生徒が、ここにいるはずなのだ。
逃げ帰るなら、今が最後の機会だ。
(退くな、アルマ=ヒンメル! 相手を知らなきゃ、何も出来ないでしょう。やってやるわよ!)
怖気づきそうになる心臓を服の上からギュッと掴み、緊張を唾ごと飲み込んだ。
カンナが静かに扉を叩く――
「どうぞ、鍵は開いていますよ」
扉の向こうからは、意外なほど優しげな声が返ってきた。
無表情のままのカンナが扉を引くと、言葉通り扉はあっさりと開き、そこから黄金色の光があふれ出る。
(この光――ランプ?)
アルマは目を細めて部屋の中を覗くと、小型のランプが机の上から煌々と部屋を照らしていた。やはり、どこかで流通していたらしい。
(あれ? そう言えばマティリアもランプを持ってたっけ……ううん、今はそんな場合じゃないか)
なにせカンナは既に部屋の中へ入ってしまい、アルマも後に続かねばならないのだ。
扉の前に立ち、部屋の中を確認する。
部屋の中心で1人の男が優雅に椅子に座り、アルマを待っていた。
顔が影になってはっきりと見えないが、クレアを思い出させる見事な赤髪――彼がアグリフ=ラーゼなのだろう。
あと部屋には女性が1人、アグリフの斜め後ろに直立不動で控えているものの、それ以外の人影は見えなかった。
(よし。これなら大丈夫)
アルマは小さく息を吐くと、部屋の中へと足を踏み入れた。
カンナは入ってすぐ扉の脇で待機していた。アルマはその前を通り、アグリフと数歩の距離をあけて立ち止まった。見下すような立ち位置になったが、椅子を勧められないのでお互い様だろう。
赤髪の男は見た目にはそれほど恐ろしいようには見えなかった。目を細めて穏やかに微笑んでいる様はむしろ優しげですらある。
アグリフはしばらくアルマを観察し、やがて歓迎するように静かに両手を開いた。
「君が噂に高いアルマ=ヒンメルですね。確か14歳で、貧民層の出と聞いていますが」
「ええ、その通りです。ラーゼ商会の後継者、アグリフ=ラーゼさん」
その答えにアグリフは僅かに背を逸らし、ほうと感嘆を漏らす。
「ノイン領出身の君が私の事までご存知とは、なるほど有能との噂は確かなものらしい」
(……あれ?)
アルマは拍子抜けしそうになった。
プライドの高い貴族で、尚且つあのクレアの兄が貧民であるアルマの才能を認めるなど、想定もしていなかったのだ。
しかし、現にアグリフはニコニコとアルマを賞賛し、歓迎しているように見える。
予想外だったが、これなら思った以上に上手く話をまとめられるかもしれない。アルマは肩の力を少しだけ抜いた。
「私を知っているなら話が早い。少し、アルマさんにお願いがありまして」
「――奇遇ですね。私も、アグリフさんにお願いがあって来たんです」
「ではまずアルマさんの願いから伺いましょう……ですが、その前に」
アグリフは糸のように細めた目を、戸口で立つカンナに向けた。
「カンナ、君はもう下がっていい。部屋でゆっくりと休んでくれ」
その言葉に、アルマの肩が小さく震えた。
カンナとアグリフの主従関係をまざまざと見せ付けられたのだ。
分かっていた事だが、胸は抉られたように痛んだ。
「……では、失礼します」
アルマが横目で見つめる中、カンナはアグリフに向って深々と頭を下げた。
そして俯いたまま扉を開き、部屋から出て行こうとする。
「カンナ!」
アルマは咄嗟に大声で呼び止めていた。
カンナは振り返らなかったものの、一瞬だけ足を止めた。
だからアルマはその背に向かい、精一杯の言葉を投げる。
「カンナ。帰ったら私、あなたに話したい事があるの! とても、大事な事!」
しかし、やはり返事は無い。
カンナは扉を抜けると、後ろ手に扉を閉めようとする。
その最後の隙間に向かい、それでもアルマは叫んだ。
「お願い、忘れないで!」
部屋に再び静寂が戻ると、アルマはゆっくり振り返った。
気を悪くしたかとも思ったが、アグリフは微笑んだまま僅かたりとも姿勢を崩していない。
クレアと違い正真正銘の大物らしい。
「さて、アルマさん。話を戻しましょうか」
「……ええ。まわりくどい事は嫌いなので、単刀直入に申し上げます」
アルマはアグリフに持てるだけの誠意を込めて頭を下げた。
「お願いします。オリベ=カンナを自由にしてください」
「……何の事でしょう。よもや私がオリベ=カンナの自由を阻害しているとでも?」
意外そうに返事をしたアグリフに、アルマはキッと顔を上げる。
「アグリフさん、しらばっくれるのは止めにしましょう。私は十分な確信があった上でお願いしているんです」
「――君が何を言っているのか全く分かりません。オリベ=カンナは自らの意志で私に仕えているのですよ」
両手を広げて微笑みつづけるアグリフに、アルマは「なら、こう言うのはどうでしょう」と腰にぶら下げていた皮袋をズンと目の前に置いた。
「私の持っている全財産、約4万リアあります――これで今後カンナに干渉しないと約束して頂けませんか?」
すきま風にランプの炎が揺れ、アグリフの伸びる影をゆらりと歪める。
部屋の温度が急に下がった気がした。
「……君は、オリベ=カンナの何だと言うのですか?」
「友達です」
アルマが即答する。
無言の時間が流れ、やがて両手で顔を覆ったアグリフは、忌々しそうにため息をついた。
「もういい。君がどれほど下らない人間か理解した。平民なりに上手く使えないかとも思ったが……失望したよ。ルア!」
「何を――っ!」
アルマが半歩詰め寄ろうとした瞬間、アグリフの後ろに控えていたはずの女が、すぐ隣にいたのだ。
あっと声を上げる間もなく腕を捻られ、アルマは床に額を擦り付けて倒れ伏す。
「では、私からの依頼を伝えよう」
アグリフの声色が変わった。この人は危険だ。アルマの脳裏に警告が打ち鳴らされる。
しかし、全てが手遅れだった。
「この島から消え失せろ。期限は明日までだ」
「ふざけないで! あなた一体何様っ――」
アルマの無駄に高いプライドが、考える前に答えを返してしまっていた。
女に腕を捻り上げられ、それ以上の言葉を悲鳴に換えられる。
「――くっ、離しなさい! あなた、悔しくないの? こんな暴力でしか物事を解決できないなんて!」
その罵声にもアグリフは微笑を崩さないで答えた。
「使えるものは使うだけだよ。そんな覚悟も無いのか、君は」
「それでカンナに暗殺させたってわけね。しかも、血の繋がった兄姉を!」
アグリフの肩がピクリと動く。
ゆっくりと近づいてくるとアルマの髪を掴み、無理やり顔を引き上げた。
「――貴様、それを誰から聞いた?」
アグリフの糸のような目が、蛇のように開いた。
アーシェルは僅かな星明りを頼りに廊下を進んでいた。
大きく膨らんだリュックを背負い、腕にはレーベを抱きかかえている。
「……全く、貴族なんて」
思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうだった。
アルマが帰った後、ルームメイトの貴族の娘が知り合いらしい貴族を何人も連れて来て、アーシェルを部屋から追い出しにかかったのだ。
確かにレーベは部屋を汚しはしたが、だからっていきなり追い出すなど横暴にも程があるというものだ。
しかし、このままあの部屋に居座ったらレーベに何をされるか分かったものではない。
やむ無く、アルマの部屋に厄介になろうと降りてきた訳だ。
「……暗い」
こう暗くては何をするにも不便だった。早急にロウソクの作成が必要だろう。
アーシェルは目を凝らして部屋番号を確認すると、扉をコンコンと叩いた。
「アルマ、寝てる?」
戸を叩いても返事が無い。試しに扉を軽く引いてみると、鍵はかかっていない。
おそるおそる扉を開き、中を覗いた。
「っ!」
明らかに部屋の様子がおかしい。
窓は開け放たれ、家具が無残に荒らされていたのだ。
「これって――」
アーシェルは小走りに部屋の中に入って状況を確認する。
引出しという引出しが開かれており、蜂蜜の入った器も机の上でひっくり返っていた。どろりとした蜂蜜が、机の上から垂れ下がっていたのだ。
アーシェルは机に近づき、空になった器にそっと触れる。
ギギィ
突然、背後で扉が開く音が聞こえた。
猫のように飛びさすったアーシェルは、しかし戸口に立つ人影を見て胸を撫で下ろす。
「……カンナ」
そして、机の上から空になった器を取り上げると、カンナの元に走り寄った。
「カンナ、見て。部屋が荒らされて――」
「いいんです。気にしないで下さい」
その言葉に、アーシェルは耳を疑った。
「いいって、色々盗まれてる。折角作った蜂蜜も、こんな――」
「だからいいんです! さあ、帰ってください!」
カンナに怒鳴られ、アーシェルは身を竦ませた。
明らかに彼女の様子は変だった。苛々していたし、目の焦点も合っていない。肩も傍目に分かるほど震えているのだ。
「アルマは、どこ?」
その問いにカンナの震えが止まる。
ギョロリと目が動きアーシェルを捕えると、唇を吊り上げて薄く笑った。
「アルマ……誰ですか、それ?」
アーシェルの背がゾクリと震えた。
零れそうになる悲鳴を飲み込み、カンナの脇をすり抜けて部屋を飛び出した。
地面にひれ伏し、腕を折れそうなほど捻り上げられても、アルマのプライドは折れなかった。
むしろ、ますます意固地になって啖呵を切る。
「嫌よ! 誰があんたなんかに教えるもんですか!」
「貴様……アグリフ様になんと言う口を」
憎々しげに言い放ったのは、ルアと呼ばれたアグリフの後ろに控えていた女だ。
細身な体からは信じられないほどの力で、アルマを押さえつけている。
このままではまずかった。
理性は挑発するな、もっと上手く交渉しろと警告している。しかし、アルマのプライドは勝手に言葉を紡いでしまうのだ。
嫌だったのだ。こんな暴力に屈して媚びへつらうなど、絶対に嫌だった。
「言え。アグリフ様に全てを話せ」
「じょ、冗談! まず手を離しなさい。そしてカンナを解放してくれたら、考えてもいい――っ!」
「もういい、ルア。その下品な口を塞げ」
アグリフが命じると、ルアは持っていた布切れをアルマの口にねじ込み、後ろできつく結んだ。
犯罪者が良く使うとされる『口封じの布』だった。アルマは強引に吐き出そうとするが、それは適わない。
言葉を封じられる、それはアルマにとって唯一の武器を取り上げられるに等しい。
怖かった……だが、屈したくない、こんな暴力の前に這いつくばるなど、何があっても出来ない。
アルマは涙目でアグリフを睨み上げた。
「気に入らないな。力も無いのに、権利を振りかざす愚者の眼差し。私が一番嫌いなものだ」
アグリフがそう呟いた時、部屋の扉が乱暴に開いた。
「アグリフ様。戻りました」
「ですが、金の他には大した物はありやせんでしたぜ。ゲハハッ!」
その言葉に続き、ドカドカと何者かが部屋に入ってきた。
入ってきたのは2人の巨漢だ。明らかにガラの悪そうな男たちで、しかし彼らが持っていた麻袋には見覚えがあった。
アルマ達が昨夜必死で稼いだリアの詰まった袋だ。
それがアグリフの横に、置かれた。
(ふっ、ふざけるなああっ!)
アルマは捻り上げられている腕を無視して、麻袋に突進した。
腕は激しく痛んだが、虚をついて拘束する女の手から逃れる。そしてアルマは全身を投げ出すように、麻袋の上に覆い被さった。
これは、これだけは渡す訳には行かない。
アルマなら大丈夫と、そう言って渡された信頼の証なのだ。
「メシャク」
アグリフの言葉が飛び、ほぼ同時にアルマは肩を掴まれた。
獣に噛まれたような激痛が肩に走り、麻袋からはぎ取るように立たされる。
目の前に凶悪な髭面の姿が映り、その顔がニタリと歪んだ。
バキッ
顔に衝撃が走り、目の前で光の影が明滅する。
気がつくと、ベッドの近くで倒れていた。
顔の半分は感覚が無くなっているが、鼓動の度に鈍く激しく痛む。
鼻から流れている何かを拭うと、腕にベッタリとついたそれは血だった。
「メシャク! 部屋が汚れるだろ。ここはアグリフ様の部屋だぞ」
「ゲハハハッ! シャデラクの兄者、硬い事言うなよ」
まったく悪びれも無く、メシャクという毛むくじゃらの男は下品に笑った。
その足元には麻袋があり、数枚の黄色い100リア硬貨がこぼれている。
『アルマなら、大丈夫だから』
アルマはガクガクと震える足を握りながら立ち上がり、麻袋目掛けて駆けた。
だが、袋まであとわずかと言うところで後頭部に衝撃を感じ、そのまま意識は闇に飲まれていった。
「こいつ――気でも狂ったか」
気絶したアルマを見下ろし、メシャクは信じられないとばかりに首を振る。
「シャデラク、メシャク、こいつを連れて行け」
アグリフは淡々と男2人に命じた。
「おっと、いいんですかい?」
「かまわん。この貧民を徹底的に後悔させろ――許しを請うまでな」
「ゲハハッ! さすがアグリフ様!」
狂喜したメシャクはぐったりとするアルマを軽々と担ぎ、もう1人、シャデラクと呼ばれた男はアグリフに近づいて尋ねた。
「アグリフ様、こいつが命乞いをしたら、その後はどうするんで?」
「決まっている。誰にも見つからないよう、処理しろ」
そう言うと、アグリフはもう興味が無いとばかりに椅子に深々と座り、何も無い虚空を見て微笑を浮かべた。
アーシェルが立ち去り、静かになった部屋にカンナは独りで立ち尽くしていた。
虚ろな目に映るのは2つのベッドに2つの椅子。
最後に机の上に広がった蜂蜜を見つめた。
ベッタリと机を覆う琥珀色の液体。そこから放たれる微かな甘い芳香。
「これ、何でしたっけ……」
その声は真っ暗になった部屋に空しく響き、そして消えた。




