第25話:いつもの瞳
大鍋に上半身をつっこんですくい取ったスープを片手に、レディンは大声で叫んだ。
「完売! 申し訳ありません、完売です!」
その最後のスープをレディンから受け取った女生徒は歓喜の声を上げ、逆に後ろに並んでいた残りの客からは悲鳴のような不満が吹きあがった。
「えええ! なにそれ!」
「ありえないっ!」
「ここまで来て売り切れなんて、冗談じゃ無いわよ!」
確かに彼女らの言い分はもっともだろう。
期待して夜分遅くに大広場まで足を運んだにも関わらず、目の前でお預けでは文句の一つも言いたくなる。
事に食の恨みは恐ろしい、後々の遺恨に繋がる事だってあるのだ。
それを骨身に染みて分かっているアルマは、頭を下げて謝っているレディンに近づいて耳打ちした。
「レディン。この後アーシェルにチャパティを焼くんでしょ。ついでにあの人たちの分も焼けないかな?」
「あ、そうですね。アタ粉はまだ2袋も残っているので、全然大丈夫です。なんなら呼びに行かなかった5寮の方々にも声を掛けて、盛大に焼きましょうか?」
「ダメ! アタ粉は非常食として万一の時に取っておかなきゃ。残ってるお客さんは……12人ね。その分だけ売りましょ」
レディンはなるほどと頷き、憤る客達へ恐る恐る代案を述べていく。
お腹の空いた女生徒相手では、さすがに快諾とはいかないまでも、「まあ、それなら」と溜飲を下げる事はできたようだ。
その様子を見ていたアルマは、どうやら無事に終りそうだと安堵のため息を付いた。
「アルマ」
その声に振り向くと、アーシェルが大きな麻袋を手に持っていた。
たしかその麻袋は、空になったアタ粉の袋を再利用した、臨時のリア入れのはずだ。
アーシェルはその麻袋をずいとアルマに押し付けた。
「アルマ、これ」
押し付けられるままに受け取った麻袋を覗くと、中には100リア硬貨がぎっしりと入っていた。
ぱっと見ただけでも1万リア以上はあるだろう。
「わお! 今日の売上げね。ちょっと待ってて、すぐに数えて分けちゃうから」
一体いくら入っているのかと、アルマは頬を緩ませ興奮気味に袋をゆすった。
しかし、アーシェルは後ろで手を組んで、小さく首を振る。
「ボクの分は要らない。みんなも要らないって」
「――へっ!?」
アルマの驚いた顔が可笑しかったのか、アーシェルはクスリと薄く微笑んだ。
その浅黒い顔が、チロチロと燃え続ける松明の灯りに小さく揺れる。
ああ、この子は笑うとこんなに美人になるんだ、とアルマは女性ながらにドキリとした。
「みんな、そのお金をアルマに預けたいって。ボクもそうしたい」
「で――でも、手持ちの財産が無いと、いざって言うときに困るでしょ?」
信じられないと言ったその問いに、アーシェルはもう一度、ゆっくりと首を振った。
「その時は、その時。アルマなら、きっと大丈夫だから」
アーシェルのたどたどしい言葉に、アルマの目頭が熱くなった。
財産を任せる、それはとんでもなく大きな信頼なのだ。
「うん、分かった。このお金は大切に預かるね」
アルマが力強く頷くと、手の中にあった麻袋がずしりと重みを増した。
「じゃあ、焼けたみたいだから」
アーシェルはそれだけ言うと、よほどお腹が空いていたのか小走りでレディンの元へと走っていった。
その背中を目で追っていたアルマは、レディンの傍から大鍋が無くなっている事に気が付く。
さっきまで大鍋を支えていた石組みの即席釜戸には、今や何も載っていない。残り火でチャパティを焼いているレディンの姿が見えるだけだ。
おやと思ったアルマはぐるりと大広場を見渡した。
「……ああ」
祭りの後のような空気が漂う広場を見渡した瞬間、寂しさが込み上げて、アルマの口から言葉が漏れた。
まだ食べ終わった女性客が広場の隅でささやかな談笑を楽しんでおり、スープの残りをゆっくりと味わっている客もちらほらといた。
しかし、さっきまでの火の粉が爆ぜたような賑やかさと比べると、終わってしまったような切なさが胸を詰める。
照明として所々に突き刺した松明もチロチロとしぼみかけ、ここから早く立ち去れと急かしているようだった。
息苦しくなり、アルマはすぅと夜の空気を吸い込んだ。
(――でも、違う。1年はまだ始まったばかりなんだ)
マティリアと話してから、どうにも弱気になってしまうと、首を振って気合を入れた。
すると、視界の隅に探していた大鍋の姿が引っかかる。
どうやらナバル達3人組が大鍋を井戸端に移し、早速洗ってくれていたらしい。体を使う仕事は苦手かと思ったが、3人とも真面目に頑張っていたようだ。
しかし、鍋の内に入って洗うナバルの表情は、ハッキリと疲労の色が浮かんでいた。
それも当然だろう。水汲みや皿洗いはもちろん、客の誘導、果てには順番争いの仲裁までやらせてしまったのだ。
アルマは腰につけた自分の布袋から一枚の硬貨を掴み取ると、心を込めて声を掛けた。
「ナバル、お疲れ様」
同時に弾いた硬貨を、ナバルは鍋から身を乗り出すように受け取った。
そして、手の中にある1000リア硬貨を確かめて「ほ」と声を上げる。
「約束は1人300リアだったはずだ。いいのか?」
「こき使った分のお詫びよ。帰りにそこの松明も持って行って」
「すまん。派手に助かる」
にっこりと笑ったナバルは腕をまくり、再び大鍋の中に顔を引っ込めた。
「ナバル。終ったら、その辺の木に立てかけておいて。たぶん盗まれないと思うから」
「分かった」
ここはもう大丈夫だと、アルマはレディン達を振り返る。
次々とチャパティが焼きあがったようで、女生徒達が美味しそうに頬張る姿が遠目にも微笑ましく映った。
「さあて、この間にやっちゃいますか!」
ニヤリと笑い、まだ元気に燃えている松明の傍へ移動すると、地面の上に麻袋を置いた。
「ふっふーん、ご開帳!」
頬が緩むのを自覚しつつ麻袋の口を開くと、紙幣の山が姿を現した。
おもむろに手を突っ込み、そのさらさらとした感触を思う存分味わう。
「うわぁ、これは3万リアくらいあるんじゃない?」
客がチャパティを食べ終わるまでに数えられるか心配なほどの量だ。
とは言っても数えたくて仕方が無い。黄色い100リア硬貨を一掴み取り出すと、10枚づつ積み上げて地面に並べていった。
「10、20……うふ……50、60……まだまだある、うぷぷぷっ」
「おい、アルマ」
アルマは緩んだ頬のまま顔を上げると、いつの間に近づいたのかシュルトがいた。
自分がいては商売に支障が出ると、薪割りが終わった後は暗がりで剣の手入れをしていたが、もうその必要も無いと判断したようだ。
「シュルト、どうかしたの?」
そのニタニタしたアルマを見て、さしものシュルトも一歩たじろいだ。
「あ、いや。レディンがカンナの姿が見えないと心配しているんだ。どこにいるか知らないか?」
「カンナならあの辺りで見たけど……って、もういないみたいね。どこ行っちゃったんだろ」
アルマはぐるりと見渡したが、カンナらしき姿はどこにも見えない。
「アーシェルが最後にカンナを見たらしいんだが……知らない女生徒に声を掛けられ、2人でどこかへ行ってしまったらしい」
「っ!」
アルマの心臓がズキンと跳ね上がった。
その顔に走った僅かな動揺を見つけ、シュルトの隻眼が僅かに細くなる。
「何か心当たりがありそうな顔だな……まさか、さっきマティリアのヤツが言ったのは――」
それ以降の言葉を、アルマの明るい声が遮った。
「ごっめーん、シュルト。早く今日の売上げをチェックしちゃいたいの。悪いけど、後にしてくれる?」
にこにこと笑って言うアルマは、シュルトの返事も聞かないで麻袋から紙幣を取り出した。
「……おい、アルマ」
「ああ、もう。声掛けないでよ。今数えてるのよ?」
そう言うとアルマはさらに鼻歌を歌い出し、作業に没頭する――振りをした。
視線を上げないアルマに、シュルトは口を開き、何かを言おうとした。
だが、結局何も聞かずに後ろを向く。
「悪いが先に帰らせてもらう。さすがに疲れた」
諦めたように言うと、シュルトは寮に向って歩き出した。
「うん。ありがとシュルト。冒険、すっごい楽しかった」
そのアルマの言葉に、シュルトは一瞬足を止める。
「……目を背けても、何も変わらんぞ」
唇から漏れたシュルトの小さな囁きは、消える直前、アルマへと辛うじて届いた。
そして、シュルトがもう振り返らないと知っていたから、アルマは小さく頷いた。
「11、12……」
暗く静まりかえった寮の廊下。
吹き抜けの窓から入る僅かな星明りを頼りに、アルマはブツブツと呟きながら歩を進めていた。
松明を室内に持ち込むのは危険なため、寮の脇に設置されている井戸で消してしまった。お陰で扉に彫ってある部屋番号も見えない有り様だ。
しかたなく端から扉を数えて自室を探しているのだが、大きな麻袋と食器30枚を抱えながらの作業は正直辛い。
「うう、眠い……やっぱり、ランプかロウソクは必要ね」
とは言うものの、ランプの油になりそうな材料は今のところ見つかっていない。
蜂の巣からロウソクを作れると聞いた事があるので、明日にでもアーシェルに頼んでみよう。
アルマは傾きかけた器の山を抱えなおし、切実にそう思ったのだ。
(……22、23、24。たぶん、ここね)
だが、いざ扉に鍵を刺し込もうとすると、妙に自信が無くなる。
ちゃんとカウントしてきたのだと自分に言い聞かせ、深呼吸をした時――その声は聞こえた。
「やめて、ください」
細く震えた声は部屋の中から聞こえた。
あまりに弱々しい口調だったので、カンナの声だと気付くまでに時間がかかってしまった。
「もういいです。お願いです。消えてください……」
(カンナ、だよね。いったい誰と話してるの?)
アルマは扉に耳を近づけてみるが、カンナ以外の声は全く聞こえない。
「わ、分かってます。全部忘れてしまえば、幸せになれる。そうですよね……紅姫」
紅姫――あの妖刀が、またカンナに話し掛けているのだ。
このままじゃいけない。
アルマは思い切って鍵を開けると、努めて明るい声を上げ、扉を開く。
「カンナ、ただいま!」
真っ暗な部屋に、アルマの声は虚しく響いた。
カンナの表情は見えないが、驚いて息を飲んだ音だけはハッキリと聞こえた。
「カンナ、いるんでしょ? 遅くなってごめんね」
「い、いえ、それはカンナが――」
その先にある謝罪を聞きたくなくて、アルマは大声を出して遮った。
「そうだ、聞いてよカンナ! 今日の売上げ、いくらだったと思う? なんと3万6700リアよ!」
しかし、カンナからの返事は無い。彼女の表情が分からないのが、もどかしかった。
何か返事があれば、そこからカンナの気持ちを聞く事だって出来るはずだ。
そうしたら、きっと――
「私の手持ちだって4万くらいでしょ。まさか一晩でこんなに稼げるなんて思ってもみなかった。カンナ達のお陰ね、ありがと」
「……」
「でも、これだけ稼げるって事は食料が足りてないって証拠ね。だからカンナ、またみんなで――」
「アルちゃん!」
カンナが大きな声でアルマを制し、数瞬の間、痛いほどの沈黙が訪れた。
やがて、カンナの震える声がアルマの耳に届いた。
「あの、カンナ、眠いのでもう寝ます。おやすみなさい」
そのまま毛布を頭から被る音が聞こえた。
「その、ごめんなさい」
カンナは最後にそう呟くと、それきり黙ってしまった。
時間切れだった。言葉が届かなかった。
アルマは深いため息と一緒に、悔しさを吐き出した。
「……なんで、謝るのよ」
その潤んだ声は、カンナに届く前に、闇の深みへとどこまでも落ちていった。
コンコン
シュルトはもう一度扉を叩く。これで3度目だ。
これで何も反応が無ければ帰ろうと決めた。
考えてみれば、日は既にかなり高くまで昇っている。あのアルマなら既に商売を始めていてもおかしくない時間だった。
しかし、そのシュルトの思惑は外れ、扉はゆっくりと開いた。
そこには今まで寝ていたと言わんばかりのアルマが、不機嫌そうに立っている。
服は制服ではなく、出発の際着ていた麻の服を着ていた。おそらく寝間着にしているのだろう。
「何?」
「何、じゃないだろう。マティリアのところに行くぞ」
「……ああ、そうだったっけ」
そう言ったものの、アルマは行動に移ろうとしない。放っておけば立ったまま眠ってしまいそうなほど、ぼうっとしていた。
そのアルマらしくない態度に、シュルトは苛立ちよりもむしろ不安になった。
「調子でも悪いのか?」
「ううん。ちょっと疲れただけ」
アルマはゆっくりと首を振る。
その動きにあわせ、頭のてっぺんで弧を描いている寝癖が、頼りなく揺れた。
「昨夜、カンナとは会えたのか?」
「…………ううん、会えなかった」
そこで少し、アルマの顔色が変わった。
もちろん、良い方にではない。
「まあいい。早くマティリアのところに行くぞ。ヤツが知っている情報を全部吐き出させてやる」
「……私は、どうしようかな」
扉に額を寄りかかり、アルマは力無く呟く。
この言葉に、シュルトは何故か裏切られたような衝撃を受けた。
「お前は何も知らないつもりなのか? 何も知らないまま戦うつもりか?」
「違うけど、だってほら、シュルトが後で教えてくれればいいんだし……」
その煮え切らない態度に、シュルトは床を強く蹴った。
そして、アルマの弱気な目をにらんで、言葉を叩きつける。
「ではアルマ。お前は、もう諦めたのか!」
「っ!」
アルマの顔がピクリと引きつり、そのまま一歩下がって深く項垂れた。
「俺は先に行く。覚悟が出来たら来い」
これ以上の議論は無駄だとシュルトは乱暴に扉を閉め、そのまま歩き去ろうとした。
パンパンッ!
直後、閉めたばかりの部屋から破裂したような音が聞こえ、シュルトは慌てて扉を開く。
そこには頬を真っ赤にしたアルマが、いた。
「ごめんシュルト。ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」
その瞳は、いつものアルマ=ヒンメルだった。