第23話:一期一会
巨大テントの中には数えるほどの人しかいなかった。
にもかかわらずテント内はムッとした熱気がこもっている。ただ立っているだけなのにシャツはじっとりと湿り気を帯びてきた。
レディンは胸元をパタパタと引っ張って扇ぐが、まったく効果が無い。
「アルマさん、遅いですね」
「ああ」
隣で短く答えたのはシュルトだ。
空になった棚に寄りかかり平然そうに腕を組んでいるが、顔には疲れが浮かんでいた。況や自分はもっと酷い顔をしているんだろうと、レディンは苦笑する。
女性の買い物を待つのは気力を奪われるぞ、と義父であった砂漠の長から冗談交じりに言われた事がある。しかし、それは冗談ではなかったのだと痛感していた。
(他に気力を奪うのはなんと言ってたっけ。確か愚痴を聞く事と――)
指折り数え始めた瞬間、背後から何かが勢いよくぶつかった。
よろめき、地に手を着いたレディンが聞いたのは――罵声だ。
「気をつけろ! この下等民族が!」
レディンが驚いて振り仰ぐと、そこには3人組の男がいた。
外見からは素行が悪そうでも暴力が好きそうな人間にも見えない。しかし、今回悪かったのは、狭い通路を横に並んで徘徊していた彼等だろう。
そして何よりもショックなのは、その暴言だった。
(下等民族……砂漠の民をまだそう思っている人がいたんですか)
レディンは怒りを通り越して悲しくなり、そっと目を伏せる。
それを怯えたと見たのか、男達はお互い顔を見合わせて薄笑いを浮かべた。
すぐさまレディンを取り囲もうと移動して――そこでようやく隣にいたシュルトに気が付く。
「おい、こいつ噂の非国民だぜ!」
「隻眼に顔の傷――間違いないな、売国奴の化身だ」
「おいおい、非国民のくせに優雅に買い物かよ?」
その内の1人がシュルトの襟首を掴もうと手を伸ばし――直前でピタリと止める。
シュルトの手が革ベルトに挟んだ半月刀の柄に触れていると気が付いたのだ。
「何か、用か?」
シュルトが手を伸ばしている男に問う。
別段、脅している口調ではない。しかし、3人の顔色は一瞬のうちに蒼白へと激変した。
それぞれに口をパクパクとさせ、目だけで互いに合図を送る。
「用が無いなら、行け」
その言葉で呪縛が解けたように、男達は我先にとテントの外へと逃げ去っていった。
やがて静寂が戻ると、シュルトは何事も無かったように腕を組んで棚に寄りかかった。
そこには僅かな動揺も、苛立った様子も、追い散らした喜びすら無い。
シュルトにとって今のような事は、ただの日常茶飯事なのだ。
レディンがあまりにじろじろと見つめたせいだろう、シュルトは半眼で睨み返した。
「レディン。まさか今のも暴力で解決するなと言うつもりか?」
「い、いえ。誰かを守る剣は尊いものだと教えられてます。シュルトさんは僕を守ってくれたんですよね。その、ありがとうございました」
「――ちっ」
丁寧に礼を言われたシュルトは思いっきり不機嫌な顔でレディンから目をそらした。
さっきの3人組を前にしても崩れなかった顔が、こんな事で崩れてしまうのだ。
レディンは込み上げる笑いを噛み殺し、シュルトのために別の話題を振る。
「それにしても、さっきの人達以外にも随分ピリピリしてる人が多いですね。いったいどうしたんでしょう」
「――この学院に居るのは大抵が元貴族や裕福層のヤツらだ。不自由な暮らしなどした事が無い奴等に、この島での生活はさぞや不快なんだろう」
シュルトの答えに、レディンはなるほどと感心する。
幸か不幸かアルマを中心に集まった仲間は裕福な暮らしから縁遠い者ばかりで失念していたが、言われてみれば至極当然だ。
しかし、仲間に関係無い事とは言え、これは人事で終わらない。なにせ同じ小さな島に住んでいるのだ。
(この小さな苛立ちが、大きな騒動の元にならないといいのですが……)
そこまで考えたレディンは緊張がほぐれたせいか、急激な眠気に襲われた。
テント内の蒸し暑い空気が、疲労困憊のレディンには逆に心地よかったのだ。
体中を襲う筋肉痛と疲労が残っていた気力を奪い、足元から崩れるように地面へ座り込む。
「もう駄目です。このまま寝てもいいですか?」
「ぬるい事を言うな。あいつに笑われるぞ」
「でもシュルトさんだって、相当疲れた顔してますよ」
「――これくらいは人として当然だ」
「ですよねぇ……」
レディンが目を閉じ耳を澄ませると、店内のどこからかアルマの元気な声が聞こえてきた。
おそらく店員相手に交渉しているのだろう。
その嬉しそうな声だけで、店員の圧し負けている光景が目に浮かんだ。
「アルマさんって、何であんなに無尽蔵に元気なんでしょう?」
「知るか。あいつに直接聞け」
「ですよねぇ……」
そもそも2日間歩き通しの冒険が終了して、まだ日が変わっていないのだ。
5人が森を抜け学院にたどり着いた時、太陽はまだ空の中腹にのんびりと浮かんでいた。
つまり、夕方まで十分な時間が残されているのだ。
その事実にアルマは狂喜した。
曰く、これで今日中に巨大イモシシを売りさばける、お肉の保管場所も痛む心配もしなくて済む――との事だった。
あれよあれよとアルマに説得されたレディン達は調理のために大広場へと向かい、確保したスペースに巨大イモシシや食材一式を置いた。
アルマは続いてカンナを巧みに褒めそやし、巨大イモシシの解体を任せてしまう。
同時にアーシェルにはレディン達の部屋に行くよう指示した。アタ粉を水に溶いて、イモシシの子供に飲ませるためだ。十分な食事とはとても言えないが、食べないよりは遥かにマシだろう。
座る間もなくアルマはレディンとシュルトの2人を引き連れてテントに入るや物資の調達を始め――そして、現在に至っている。
アルマの小さな体のどこからあの活力が溢れてくるのか、レディンには理解できそうになかった。
ただ言えるのは、今とてつもなく眠いということだけなのだ。
(でも、居眠りなんかしてたら、アルマさん本当に鼻で笑いますね)
眠い目をこすり、シュルトはどうだろうかと見上げると、キョロキョロと店内に隻眼を光らせていた。
「シュルトさん、誰かお探しですか?」
「……マティリアだ。あの偽善者を早く締め上げなければ、気が治まらん」
マティリア=アスハルト、アルマが冒険に行くと情報を流してしまった人物。アーシェルが言うには女のような男であるらしい。
シュルトは誰に対しても心開くことは無いが、とりわけマティリアに対しては刺々しいようにレディンには感じられていた。
「そう言えば、アルマさんがそのマティリアさんに情報を漏らした事、ものすごく怒ってたじゃないですか」
「それだけの事をしたんだ。当然だろ」
ムッとしたようにシュルトはレディンを睨む。
「いえ、それはいいんです。ただ、あの後すぐにアルマさんを許してましたよね。あれって何か理由があったんですか?」
「……確かに愚行ではあったが、結果的にこの剣が手に入った。それにアルマもマティリアの本性に気付いたはずだ。これでもうヤツの顔に騙される事も無い」
「ああ、なるほど。怒ってたのはマティリアさんへの嫉――」
危険な言葉を言いそうになり、レディンの目が一気に覚める。
バッと立ち上がり、作り笑いを浮かべて言いつくろった。
「――心配だったんですね、アルマさんの事が」
「別に、そんなのじゃない」
シュルトがまた不機嫌そうに顔を逸らし、レディンはそれで済んだ事に胸をなでおろした。
寝惚けた頭のせいで危うく嫉妬と言うところだったのだ。
(言ったら烈火のごとく怒ってたでしょうね――神様、言葉は大事です)
レディンが教義のありがたみを噛み締めていると、アルマが薄茶色の髪を弾ませて駆けてきた。
「やった、やったよ!」
その表情はしてやったりとの喜びに溢れ、疲労など微塵も見えない。
「聞いてよ! あそこにある巨大鍋、思いっきり値切ってやったの!」
「へえ、どう言って値切ったんですか?」
良くぞ聞いてくれましたとばかりにニッと歯を見せ、目で後ろを差す。
「ほら、あの店員さん」
そこには40過ぎの冴えない男が、一仕事終わったとばかりに満足そうな伸びをしていた。
「最初はなかなか値切ってくれなかったの。でも、ここの店員って担当の品物が全部売れたらいなくなるじゃない?」
「ええ、もうほとんど残っていませんね」
「そう! それで、この巨大鍋が売れたらあなたもこの島から解放されるんじゃないですか――ってカマをかけてみたの。そしたら元は5000リアだったのにドンドン値を下げて最後には500リア! やったぁ!」
「お前は鬼か」
シュルトの呻きを無視し、アルマは笑顔で指示を出す。
「さあ、シュルトとレディンの2人であの巨大鍋を運んでね。縦にして転がせば何とかなるでしょ? 私はあっちを運ぶから」
アルマは巨大鍋の横に積み上げられた30枚ほどの白い陶器を指差した。
陶器は丸帽子を逆にしたような半円状で、サイズもちょうど帽子くらいだ。
ただバランスが悪いのか一番下の器は地面に埋まるように固定してある。
「なんでしょうか、あの丸い帽子みたいな物は?」
「食器よ。でも、安定が悪くせにバイスレイト製の高級品で1つ800リアもするからって売れ残ってたみたい」
「バイスレイトって、あれが名高いゼクス領特産の高級陶器なんですか」
「そ、私も始めて見たんだけどね。熱々のスープを手渡しで売るならちょうど良いでしょ」
確かに、バイスレイト製の陶器が噂通りなら熱に強く、割れにくいと聞く。スープを売るには申し分ないだろう。
しかしいくらなんでも、800リアは高過ぎる。
「……ちなみに、あれはいくらで買ったんですか?」
「100リアよ。店員さんが涙目で頭下げるから止めたんだけど、もうちょっと値切れたかなぁ」
「ほんと鬼ですね」
レディンのしみじみとした呟きに、アルマが頬を膨らませて抗議する。
「なによ! 鬼なんてそんなに賢くないじゃない。それに私からすれば貴族の人達が値切らない方が不思議なの。さあ、急がないと広場でカンナが待ってるでしょ」
アルマは気軽に急かすが巨大鍋はとてつもなく重そうだった。
少し持ち上げたところで、レディンの背筋は限界と悲鳴を上げる。
止む無く涙目でアルマに訴えようとするが、既に先に進んで「早く早く!」との事。
本当に小鬼じゃないかと、レディンはこの時真剣に思ったのである。
初日、学院長が挨拶をした大広場の一角、井戸のすぐ近くにカンナはいた。
地べたに正座し、頬を紅潮させ、ひたすらにアルマを待っていたのだ。
大広場には日用品や野菜、果物等を並べただけの簡易露店が幾つも開いている。おそらくテントで買った物品を転売しているのだろう。
その中でも今一番注目を浴びているのが、誰であろうカンナだった。
(ほええええぇ)
遠巻き近巻きの視線を浴び、カンナは真っ赤になって固まっている。
しかし、その視線の数々は止むを得ないだろう。
何故ならカンナの前にはナイフで細切れにしたイモシシの肉が、山のように積みあがっているからだ。
新鮮な肉などしばらく見ていなかった生徒達は、鮮やかな赤色を前に当然のように足を止め、ゴクリと生唾を飲み込む事になる。
そこへアルマ達が巨大鍋をゴロゴロと転がして登場すると、観衆は大きくどよめいた。
「すげえ! あの鍋を買ったんだ!」
「あれで煮込むのね、なんか美味しそう」
「いやいや、どうせ失敗するって。あんな臭そうな肉、食えたもんじゃねえよ」
観衆からは賛否両論が飛び交い、その騒ぎに見物客はさらに増え広がった。
「アルちゃん、遅いですよ! こんな恥ずかしい留守番なんてもう嫌です!」
「ごめんね。でもさすがカンナ、見事な切り分け具合じゃない」
カンナの前に積みあがっている小間切れ肉の山を見て、アルマはにっこりと微笑んだ。
無論、半分は本心である。
「そ、そうですか? あ、ほら、アルちゃん。これ見てください!」
機嫌を直したカンナは肉片の山とは別においてあった白っぽい塊を一つ掴み、アルマの手にそっと置いた。
表面はベタベタヌルヌルしており、妙に手にくっつく。
「これって、まさか脂身? これ全部?」
白い塊は全部あわせればアルマの顔ほどもありそうだった。
「これを絞ればランプの油になるんじゃないですか?」
「カンナありがとー! そうそう、こっちも大猟だったの!」
アルマは巨大鍋と高級器を誇らしげに見せる。
しかし、カンナは巨大鍋を見るなり眉をひそめ、アルマに抗議した。
「そうです! 前にその大鍋をカンナが見つけた時、部屋に入らないから買わないってバカにしたじゃないですか!」
「ちっちっち。あの時と今は状況が違うの。見なさいこの観衆を! これなら盗まれないでしょ?」
そう言われ、カンナはぐるりと取り巻く人々を見回す。
多くの視線とぶつかりはしたが、しかしそれが何を意味するのか全く分からなかった。
「アルマ教官、まったく意味が分かりません!」
「よろしい。ではカンナさん、例えばここに1万リアの硬貨が落ちていたら、拾いますか?」
「はい、拾ってポケットに入れます」
「迷い無いわね……でも、学院長しか持っていない特殊な10万リア硬貨が落ちてたら?」
もちろんそんな硬貨は無いけどね、とアルマは付け足す。
その問いにカンナはしばらく迷ってから答えた。
「拾って――学院長に届けます」
「なんで使わないの?」
「なんでって、使えないじゃないですか。みんな学院長の物だって知ってるから……あ」
そこまで言って、カンナは気がついた。
「みんなが鍋の所有者をカンナ達だって知ってたら、盗んでも使えないって事ですか?」
「そう! 後は『砂漠の大鍋料理、いかがですか?』なんて言って売れば――」
「砂漠の民って言えば、レディンさんとアーシェルさんの2人しかいないですもんね」
そうそう、とアルマは頷きながら人差し指を立てる。
「盗まれない3つの大事な事。1つは盗ませない事。1つは盗んだら刑罰がある事。そして最後の1つは盗まれたら使えないようにする事。この3つがしっかりしてたら、そうそう盗まれないの」
「わあ、アルちゃんなんかかっこいいです!」
カンナはパチパチと手を叩き、アルマに賛辞を贈る。
その顔に今朝の悲壮な気配は、すっかり見えなくなっていた。
(もう大丈夫みたいね)
やはりカンナが元気でないと、アルマも調子が出ないのだ。
「アルマ!」
そこへタイミングよく、アーシェルが観衆を掻き分けて戻ってきた。
「アーシェルじゃない。あの子、どうだった?」
「飲んだ! いまぐっすり寝てる!」
アーシェルは息を切らし、上気した頬でアルマに報告する。その口調にいつものようなボソボソとした感じはなかった。
よほど嬉しかったのだろうと、アルマは微笑んで頷いた。
「そう、良かったじゃない」
その言葉にアーシェルは――笑った。
いつもの歪んだ微笑ではない、はっきりとソレと分かる笑顔だったのだ。
彼女の中で、少しずつ辛い過去が消化できているのかもしれない。
隣で口を開けて驚いているレディンの背中をパンと叩き、アルマは胸を張った。
「さてと、良い感じになってきたところで、そろそろはじめましょうか?」
返事を促すように、皆の顔をぐるりと眺めた。
「はい! 任せてください!」
「ここまで来たら最後まで付き合いますよ」
「……がんばる」
「約束くらいは守ってやる」
4者4様の答え。その全ては肯定。
アルマの中に抑えられないほどの何かがこみ上げてきた。
「よぉし、やるわよ! じゃあ、役割を――」
「アルちゃん、その前に周りにいる皆さんをどうにかして下さい。カンナ恥ずかしくて……」
「んっふっふ、任せなさい!」
アルマはスカートの裾を閃かせ、群集を振り返って軽く一礼する。
そして両手を広げると、息を胸いっぱいに吸い込んだ。
「さあさあ、皆様! 暑い中お集まり頂きありがとうございます。これより作りますは『砂漠の大鍋料理』! お楽しみの完成は日没後、月明かりでのお披露目となります」
群集はざわつき、後ろからは大声で不満を漏らす声がした。
「なんだよ! 期待させやがって!」
「ランプも無いのに、夜にこんなところまで来れるかよ!」
アルマはその声のする方をビシリと指差し、さらに声高に叫ぶ。
「はい、そこのあなた。心配はご無用! 私、アルマ=ヒンメルが各寮を回り、灯りを持って道中をご案内致します」
集まった人々はあれこれと騒ぎながらも、アルマの自身に溢れた言葉に飲まれ、まだ見ぬ『砂漠の大鍋料理』を心に描きはじめる。
そして、アルマは止めとばかりに声を張り上げた。
「獲れたイモシシは泣いても笑ってもこれ1頭、次はいつになるか分かりません。どちら様も食べ逃しの無いよう、部屋から耳を澄ませてお待ちください!」
最後に深々と一礼すると、威勢の良い口上に感心したのかまばらな拍手がポツポツよ始まり、すぐに大雨のような拍手になった。
やがて拍手が止み、人々が解散し始めたのを確認すると、アルマはようやく振り返って「お待たせ」とカンナ達に微笑んだ。
「あ、あの、アルちゃん。恥ずかしくないんですか?」
「それはたぶん、価値観の違いね。私が一番恥ずかしいって感じる時は――」
アルマはこれから述べる言葉を確認するように間を置き、確かに真実だと頷いて唇を開いた。
「出来るはずの最高の事が出来なかった、その時なの」