第22話:適わぬ願い
しっとりと濡れた新緑の空気が漂う森の中、アルマ達は西へと移動していた。木々の隙間から零れ落ちる針のような光が、5人に方角を示す最後の道しるべだ。
シュルトとレディン、カンナの3人が巨大なイモシシを吊った鉄の棒を担ぎ、そのすぐ後ろをアーシェルが半月刀を胸に抱いて続く。
そして最後尾からはアルマがパンパンに脹らんだリュックを背負い、花畑で起きた今朝の顛末を声高に説明していた。
「――と言う訳で、私達を狙っていたビスキムはシュルトが追い払ったから。もう安心しても大丈夫よ!」
話が一段落したところで、レディンは自慢気に胸を反らしたアルマを振り返って尋ねる。
「では、アルマさんの顔の腫れは蜂に刺されたんですね。あの、痛くないんですか?」
「痛いわよ! 痛いに決まってるでしょ! さっきからズキズキしてるんだから」
「そ、そうですよね。なんか楽しそうに話してたので、つい……薬草でもあればいいのですが」
レディンは申し訳なさそうに肩をすくめる。そこでアルマは昨日の強行軍で彼も酷い筋肉痛だったと思い出し、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ごめん、辛いのはみんな一緒よね。大丈夫、放っておけば明日には腫れも引くでしょ……ん? アーシェル、どうしたの?」
すぐ隣でアーシェルが興味深げにアルマの顔を見つめている。
正確に言えばアルマの顔ではなく、左頬にある大きな腫れを、だ。
「アーシェルも心配してくれるの?」
そう言って微笑んだ瞬間、アルマのパンパンに腫れた頬をアーシェルはおもむろに指先で、突いた。
「あだっ、痛い! ちょっとアーシェル、何すんの!」
腫れている箇所をプニプニと押され、アルマは涙目になって身を避ける。
一方のアーシェルは突付いた自分の指をじっと見つめ、ポツリと呟いた。
「……人間の体って、不思議」
「不思議なのはあんたの頭よ!」
怒鳴られてもアーシェルは全く意に介していないようだった。
怒り覚めやらぬアルマを、レディンが苦笑しながらなだめる。
「まあまあ、まずはシュルトさんとアルマさんが無事で何よりじゃないですか。ねぇ、カンナさん」
レディンは後ろにいるカンナを振り向くが、カンナは深刻そうにうつむいており、気が付かない。
「あの、カンナさん?」
「ひゃうっ!」
気が付けば目の前にレディンの顔が迫っており、カンナは悲鳴を上げてバランスを崩す。レディンが踏ん張って転倒だけはまぬがれたが、カンナは申し訳無さそうに眉を歪めた。
「すみません。ボーっとしてました」
「なんか元気無いよ、カンナ。どうかしたの?」
心配になって近づこうとしたアルマに、カンナは小さく首を振る。
「大丈夫です。本当に何でもないんです」
それは大丈夫と信じるには程遠い返事だった。だが、同時にアルマの脳裏にある事が閃く。女性ならば月に一度くらいは情緒不安定になる日だってあるのだ。
「そっか、分かった。でも無理しないで休みたかったら言いなさいよ。ああ、そうだ!」
アルマは両手をパンと打ち合わせ、嬉々とした声で叫ぶ。
「リーベデルタが2枚集まったでしょ。きっとカンナが卒業の合格ラインに一番乗りよ! だから帰ったらお祝い会しよう!」
「はい、その……ありがとうございます」
そう言ってカンナは笑顔を作るが、それも作り物めいて生気が無いように見えた。傍目には分からないが、肉体的にもかなり疲れているのかもしれない。帰ったら栄養のあるものをご馳走しようと、アルマは蜂の巣が入っているリュックをカンナに見えるように担ぎ直した。
「お祝い期待しててね。虫歯がいーっぱい出来ちゃうくらい蜂蜜食べよ」
「……蜂蜜って、そんなに美味しい物なんですか?」
カンナの問いに信じられないとばかりにアルマは目を見開く。
「カンナってば食べたこと無いの? 私の住んでたノイン領じゃ、蜂蜜飴が新年祭の名物なの。雪で冷やして固めた蜂蜜飴ってば、もう最高なのよ!」
「そうなんですか。それは楽しみで――」
「ああ、そうだ!」
この時点で、アルマの脳内では蜂蜜飴による占領が完了した。
「シャムロックの場所が分かったからには、夏に向けてわんさか蜂の巣を収穫できるじゃない。早いところあの花畑の土地を買い占めなくちゃ!」
「……あの、アルちゃん?」
「土地を買ったら養殖場も作るべきよね。養殖場が出来たら蜂蜜なんて腐らないし、どんどん貯めておけるでしょ。そしたら毎日蜂蜜食べ放題ってこと? ああもう、どうしよう!」
締まりの無い顔で身悶えるアルマを、シュルトが振り返ってたしなめる。
「その前に俺たちが今、遭難しているんだと言う事を忘れるな」
「うっ」
そうなのだ、帰れない事には何も出来ない、何も始まらないのだ。このままでは、せっかくの『蜂蜜大量生産大作戦』も無駄になってしまうかもしれない。
クイクイ
思い悩むアルマの裾を、何者かが小さく引いていた。
目をやるとアーシェルが空色の瞳で見つめている。相変わらず、何を考えているのか全く分からない不思議な目だ。
「何? まさか、また突くんじゃないでしょうね?」
アルマが頬を隠して警戒するが、アーシェルは黙って首を振り、1本の大樹を指差した。
その表皮には矢印が彫られている。おそらくビスキムが付けたであろう偽物の目印だ。
しかし、よく見るとそれだけではなかった。
「あれ――矢印の上に、傷?」
矢印の上から斜めに切り傷が入っていたのだ。
かなり深く鋭利な傷であり、とても自然に出来たとは思えない。
「この傷、ひょっとして……ねぇ、カンナ。こんな傷をつけた覚えある?」
カンナはプルプルと小刻みに首を振って否定する――となると結論は一つである。
アルマはむむむと唸り、あごに親指を当てて考え込んだ。
(付けたのはビスキムよね。でも、こんな目印なんて必要無いはずなのに……あ、ひょっとして)
この傷はビスキムが残した何らかのメッセージかも知れない。
そう思ったアルマはビスキムが近くにいないかと注意深く見回すが、見えるのは薄暗い樹林だけだ。
アルマは親指をあごから離すと、樹皮にできた傷に沿ってゆっくりと撫でる。
傷のついた矢印の向きは、目指していた進路と少しずれていた。これがただの傷なら、さらに道に迷う事になるのだ。
(目印なら、ちゃんとそう書いてくれればいいのに――でも)
このぶっきらぼうな印こそ、あの寡黙な暗殺者に似つかわしい置き土産なのかもしれない。
アルマは微笑を浮かべると、皆にを振り返って宣言した。
「よし、この矢印の方向に進みましょう!」
最初は嫌な顔をしていたシュルトも、進む先に傷のある目印を発見し、小さく舌打ちする。それが彼なりの敗北宣言、つまり正しい道であると認めた証拠だった。
「どう、シュルト。私にビスキムの処分を任せて良かったでしょ?」
アルマが歩を早め、先頭を進むシュルトに並んで尋ねた。
しかし、シュルトはアルマの問いかけを無視するかのように黙ったままだ。
「ちょっと、シュルト。怒ってるの?」
「……怒ってなどいない」
「怒ってるじゃない。帰り道だって分かったのに、何が不満なの?」
「分からないようだから言ってやる」
シュルトは矢印の上に付けられた傷を見て、言う。
「あの傷は明らかにナイフによるものだ。つまり俺たちがビスキムの前で言い争っている間、ヤツはまだ刃物を隠し持っていたんだ」
「う、うん。それは分かってる」
「分かってない! お前は刃物を持った暗殺者に背を向けていたんぞ? まだ生きていられるのは、ただの幸運だ!」
「それは、でも――」
「それを反省もしないなど、楽観にも程がある!」
痛いところを突かれ、アルマは口ごもる。
「カンナも、そう思います」
アルマは驚いて振り返った。
そこには怒ると言うよりは、むしろ泣き出しそうな顔で眉をひそめているカンナがいた。
「アルちゃんは、優しすぎます。優しすぎるって事は、いい事ばかりじゃないんです。心を凍らせる事も、時には必要なんです」
その声は痛切で、アルマの心に深く食い込む。
「カンナもビスキムを殺すべきだったって、そう言うの?」
「――はい、もちろんです」
その毅然とした言葉を前に、アルマは何も言い返すことが出来なかった。
そして自分の胸に問いかける。
甘かったのだろうか、選択を間違えたのだろうか、心を凍らせるべきだったのだろうか、と。
悩み、塞ぎこんでしまったアルマを見て、レディンが「そういえば」と明るい声をあげた。
「不思議に思うんですが、ビスキムさんってどうして僕らを尾行できたんでしょうね」
その言葉に一同がレディンを振り返る。
「ほら、この5人以外に冒険に行くなんて、誰にも話してないですよね。しかも早朝の出発だったのに尾行できたなんて、不思議じゃないですか?」
「――別に不思議でもない、誰かが情報を漏らしたと言う事だ!」
シュルトの苦々しい一喝にレディンは顔をしかめた。
空気を和ませようとして、逆に火に薪を投げ入れてしまったのだ。
そこへさらにアーシェルが、油をドボドボと注ぎ入れる。
「出発する前の日、アルマが女みたいな男の人に教えてた」
「女みたいな男……マティリアか」
シュルトの声が不愉快一色に歪んだ。
「アルマ、本当にマティリアに話したのか?」
「う、うん。でも彼は情報を漏らしたりしないはずよ」
「どうしてそんな事が言える? あいつは仲間面して近づき、平気で裏切る偽善者だ!」
「でも――」
食い下がろうとしたアルマをシュルトは半眼で睨みつけた。
「では、他にどこから情報が漏れると言うんだ?」
「……」
思いつかない、アルマは下唇を噛んで黙り込む。
しかし、どうしてもあの人の良さそうなマティリアが、クレアに情報を漏らしたとは思えないのだ。
「見損なったな。まさか顔に騙されて情報を漏らすなんてな」
「ちょ、シュルト、それ違う! ちゃんと性格を見て、信頼したから話したの!」
「では人を見る目が無いんだ。商人失格だろう!」
「なによ! そんな言い方無いじゃない!」
嵐が来る。
そう感じたアーシェルはするすると言い争う2人から離れて行った。
しかし、シュルトと一本の棒で繋がれているレディンとカンナは、居たたまれない表情で嵐が通り過ぎるのを待つ事になる。
「怪しい奴も見抜けない楽観商人を、失格と言って何が悪い!」
「そうと決まってないでしょ! そんな悲観人より私の楽観の方がずっとマシよ!」
「楽観にも程がある! 情報は漏らす、暗殺者は逃がす、素手で蜂の巣を掴む、そんな奴は聞いたことも無い!」
「うっ――でも蜂の巣はシュルトのせいじゃない! あんたが負けて泣き出しそうだったから、私が必死でフォローしたんでしょ!」
「ぐっ――お前が助けてくれなくても、十分に勝算はあったんだ!」
「ああそうですか、とてもそうは見えませんでしたけど――」
ぴゅぎいいい!
不毛な言い争いを止めたのは、悲鳴のような甲高い鳴き声だった。
5人はビクリと立ち止まり、鳴き声のする方を一斉に見る。
アルマ達から十歩程度の離れた薄暗い地面、そこに黒くまるっこい生物がいた。体長は人の顔よりもひと回り小さく、足もあるのか分からないほど短い。
その黒い毛玉のような生き物は、わずかに反り返った鼻をひくつかせ、モゾモゾと駆けてくる。
「か、かわいい!」
「なんですか、あれ?」
「あれはイモシシの赤ちゃんですね。でも、どうして……」
カンナの質問に応えたレディンも、不思議そうに首を傾げた。
まだ乳しか飲めないような赤子が親と一緒にいない時点でおかしいのに、人間が5人もいる場所へ逃げずに向かって来るなどありえないのだ。
おまけにそのイモシシの子は明らかに衰弱しているように見えた。
小さな木の根にもつまづき、よろめき、力尽きたように倒れる。
しかし、倒れる度に身を切るような声を上げながら立ち上がり、よろよろと走り続けた。
その先にたどり着けさえすれば他に何もいらない、そう言わんばかりの走り方だ。
「アルちゃん、あの子、このイモシシの赤ちゃんじゃないですか?」
カンナは吊り下げているイモシシを見て言うが、アルマは眉根を寄せて首を振る。
「でも、ビスキムは殺したって言ったの。子供を殺して親をけし掛けたって」
「――それは、変」
そう呟いたのは、いつの間にか戻っていたアーシェルだった。
どう言う事かとアルマは目でアーシェルの続きを促す。
「動物は復讐はしない。復讐するのは――人間だけだから」
そう言われ、アルマは蜂の巣を引き抜いた時を思い出す。
引き抜いた当初こそミツバチ達は死に物狂いでアルマを刺した。しかし、やがて巣が元には戻らないと分かると、ミツバチ達はどこかへ飛び去ってしまったのだ。
もし、ミツバチ達がいつまでも復讐心を燃やしていたのなら、刺されまくったアルマは今ごろ全身イボイボ女になっていた事だろう。
「うわわっ!」
「アルちゃん、どうかしました?」
「なんでもないの。ちょっと嫌な想像しただけ」
総毛立った両腕を抱えアルマはブルリと身を震わせ、合点がいったとばかりに頷いた。
「このイモシシは、どこかで生きてるあの子を助けるために私達を襲ったのね。確かに、動物が恨み続けるなんて想像できないかも」
動物達は今日を生きる為に、過去を忘れる――否、過去を乗り越えるのだろう。そして今出来る事を懸命にやるだけ。いつまでも過去にばかり捕らわれている人間とは大違いだ。
でも、とアルマは近づいている赤子のイモシシに目をやった。
「餌をとれないあの子には、他でもない今、お母さんが必要なんだよね」
やがて、イモシシの赤子は棒に吊られた親の下にたどり着き、飛び込むように親の背中に鼻をすり当てる。
今この時、周りを囲む外敵たる人間すら、一切視界に入っていないのだろう。
だが、それ程までに求めた母親は、もう何も答える事ができないのだ。
「……ごめん、ごめんね」
アルマはそう呟くしか出来なかった。
しかし、そのイモシシの赤子の体を、薄褐色の手がためらいも無く抱き上げた。
「この子は、ボクが育てる」
アーシェルは服が汚れるのも構わず胸に抱きしめると、静かに宣言する。
イモシシの赤子は、もう抵抗する気力も無いのかアーシェルの腕の中でぐったりとしている。その行為がたとえ傲慢だろうが自己満足だろうが、今助けねば死ぬのだ。
アルマは小さく嘆息すると、アーシェルの決意に溢れた目を見る。
「この学院で生き物を飼うなんて相当辛いと思うけど、それでもやるのね?」
「うん」
「なら私は止めない。ううん、むしろ協力する。でもね、これだけは言っておくわ」
アルマはシュルト達が吊り下げている巨大イモシシの体をペシリと叩いて宣言した。
「これはちゃんと食べるから!」
その言に表情の乏しいアーシェルが目を剥き、カンナとレディンは食べるところを想像したのか顔を青くする。
しかし、援護は意外なところから来た。
「俺も同意見だ。こいつは食うべきだ」
「あら、シュルト。意見が会うなんて初めてじゃない?」
「――そうかも知れんな」
満面の笑みを浮かべたアルマと対照的に、シュルトは全くの無表情のまま頷く。
「このイモシシはこの辺りの栄養を吸い上げ、ここまで大きくなった。栄養は循環されるべきだ。食わねばその循環を断ち切る事になる」
「……なんとなく意味が分からないけど、私もこのまま捨てちゃうなんて、この子にも失礼になると思うの。前にも言ったけど、それが私達に取れる責任だと思うの」
そして2人はじりじりとアーシェルに詰め寄る。
「アーシェル、まさかこの巨大な栄養源をハエや虫たちにくれてやるつもりか?」
「アーシェル、別にあなたが食べなくてもいいの。料理して売ればいいのよ。ね?」
勢いに飲まれ、アーシェルはしぶしぶと頷いた。
「よし! じゃ、早く帰って丸焼きにして売るわよ!」
「待てアルマ。野生のイモシシは生臭いと聞く。昨日レディンが採集していた香草と一緒に煮込んだ方がいいだろう」
「煮込むか……あ、それならいい考えがある。シュルトも手伝ってね」
「食べるのなら、その分はちゃんと働け、か?」
「そうそう、その通りよ」
アルマはアーシェルが置いた剣を拾い上げて歩き出し、シュルトも当然のようにその後に続いた。もちろん、棒で繋がれているレディンとカンナも後に続く事になる。
力無く動き出したカンナは、目の前を歩くアルマとシュルトを見つめた。
2人は先程の喧嘩など無かったように、肩が触れ合いそうな距離を歩いている。取り分けアルマの笑顔には、一点の曇りも見出せなかった。
それはまるで過去を乗り越え、今生きている喜びを高らかに謳歌する一匹の獣のようだと、カンナの黒い瞳に眩しく映った。
「このままずっと迷っていられるなら、きっとカンナも……」
「え? カンナさん、何か言いましたか?」
「……いえ。ただ、アルちゃんにはこのまま笑っていて欲しいなって、そう思ったんです」
木々の隙間から巨大なテントが見えたのは、それからほんの少し経ってからだった。