第20話:勝者の剣技
白い霧から現れた男は、手足が異様に長くやせ細っていた。
しかし、痩せているからと言って非力だとは限らない。その証拠に男が片手で持っている剣は重厚な半月刀だ。
(あれを片手で扱うのか……)
そうだとすると膂力はかなりのものだろう。
シュルトは男の一挙一動を食い入るように観察し、斜に構えた棒をきつく握り直す。
「あの人……」
すぐ後ろからアルマの上擦った声が聞こえた。
「知り合いか?」
シュルトが肩越しにに尋ねると「最悪のね」とため息混じりの返事が返ってくる。
「クレア=ラーゼの手下で、私を襲ってきた張本人。確か名前は……ビスキム」
男――ビスキムは表情を変えないまま、ほうと感嘆の声をあげた。
「あの状況で、よくも名前まで覚えたものだ」
「そんな事、商売の基本よ――それより、あのニセモノの矢印を彫ったのあんたでしょ! そんな事したら自分だって帰れなくなるのに、そんなことも分からなかったの?」
気丈にもアルマは罵声をあびせるが、ビスキムは無表情のままゆっくりと歩を進めるだけだ。
無論、自分だけが知る目印をビスキムは残しているに違いない。それを探ろうとした挑発だろうが、敵は想像以上に慎重だった。
しかし、それでもアルマは情報を引き出すべく問いかけ続ける。
「迷わせて疲れたところを殺そうってつもり? ずいぶんみみっちい作戦じゃない」
「…………」
「あの巨大イモシシをけしかけたのも、ひょっとしてあなたなの?」
その問いに、ビスキムはわずかに唇の端を上げた。それは明確な肯定だ。
「――いったい、何をしたの?」
アルマの強張った質問に、ビスキムは嘲るように答えた。
「簡単な事だ。子が死ねば、親は怒り狂う」
「っ! 私たちを襲わせるために、あのイモシシの子供を殺したって言うの? あんたバカじゃないの!」
激昂し、詰め寄ろうとしたアルマを、シュルトが片腕を伸ばして遮る。
「落ち着け。逆に挑発されてどうする。取り乱せばヤツの思うつぼだ」
「でも、シュルト!」
「黙って洞窟へ逃げろ。やつは本物の暗殺者だ」
「……でも」
「急げ――邪魔だ」
腕に寄りかかる感触がピクリと震えた。
イモシシから助けた時もそうだったが、プライドの高いアルマにとって、邪魔という言葉は酷くこたえるのだろう。
シュルトは僅かに逡巡し、なおも食い下がろうとするアルマを諭すように言った。
「さっき言っただろ。俺に、その、守って欲しいって」
「……うん」
そこで息を吸い、後ろを振り向かないで告げた。
「守ってやる。だから、隠れてくれ」
「――うん、分かった」
アルマはシュルトの腕からゆっくりと身を引き、この場から逃げるために1歩、2歩と後退する。
逃げようとしたアルマを狙ってビスキムが襲い掛かるかとも警戒したが、敵は相変わらず慎重に近づいていた。
このままなら、一対一で思う存分戦うことが出来るだろう。
「――ねぇ。シュルト」
それは、すぐ後ろから聞こえた。アルマの心細そうな声だ。
「アルマ、お前まだ逃げてなかったのか!」
シュルトは思わず怒鳴りつけると、アルマはしどろもどろと理由を述べる。
「あの、ごめん。でも、あのね、その、洞窟ってどっちだっけ?」
その申し訳なさそうな声に、怒りを通り越して疲れが出た。
「……お前、来た方角も覚えてないのか?」
「だって、ほら、蜂の巣のことで頭がいっぱいで、ねぇ?」
「ねぇ、じゃない! いいか、洞窟の方角はだな――」
そこまで言って、自分がここに来るまですっかり上の空だった事に気がついた。
記憶の糸がぶっつりと切れていて、肝心な部分を手繰り寄せる事ができないのだ。
「シュルト?」
「……まぁいい。そこらの木の陰に隠れていろ」
アルマの鼻で笑う音が聞こえた。羞恥に頬が紅潮するのが分かる。
お陰でピリピリしていた緊張感はすっかり無くなり、シュルトは大きく息を吐いた。
すると、肩に必要以上の力が入っていたと気が付き、棒を持つ手を少し緩める。
「ねぇ、シュルト」
「まだ何かあるのか?」
「――死んだら、絶対にダメだからね」
振り向かなくてもアルマの少し怒ったような顔がハッキリと思い浮かんだ。
腹の奥が熱く、それでいてくすぐったいような不思議な感覚に、口元が小さく歪む。
「ああ、こんなところで死ぬつもりは無い」
その言葉を聴いてようやく納得したのか、アルマのトントンと走り去る足音が聞こえ、徐々に遠くなる。
そして十分に遠ざかったのを見計らうように、ビスキムはゆっくりとシュルトの間合いに入った。
「ビスキムとか言ったな。見逃すとはずいぶんと余裕じゃないか。標的は俺1人か?」
「いや、2人とも消えてもらう。ただ不確定要素は全て排除するのが俺の信条でね」
飄々(ひょうひょう)と言ったビスキムの言葉に、シュルトは隻眼を鷹のように細めて睨んだ。
「……気に入らないな。俺に勝てると思っている口ぶりに聞こえたぞ」
「そう言ったんだ、非国民。貴様はここで――死ぬ」
言葉が途切れたと同時にビスキムは短く息を吐き、半月刀を半身に構え、間合いを一気に詰めた。今までのゆったりとした動きが嘘のような速度だ。
鉄の棒と剣が衝突し、小さく火花が散る。
打ち合った直後、ビスキムは剣を捻り、棒の側面に沿って刃を滑らせた。
狙いはシュルトの握り手――つまり、指だ。
シュルトは後方に飛び、まとわりつくような斬撃を避けると、着地と同時に中段突きを放つ。
その一撃は難なくいなされるが、これで槍の間合いが完成した。
(剣の速度も力も技も、言うだけはある――だが、この程度なら)
シュルトは怒声を張り上げ、連撃を放つべく一歩を踏み込む。
その瞬間、ビスキムの眼が大きく見開かれ、唇が禍々しく歪んだ。
アルマは花畑を突っ切り、身近なオークの木に身を寄せる。
しかし、その顔には恐怖でも安堵でもない、悔しさだけが浮かんでいた。
(また役に立てないなんて)
シュルト1人に危険を背負わせ、自分は隠れていることが心底悔しかった。
しかし、それでも逃げてきたのはシュルトならば大丈夫だろうと思ったからである。
今朝、朝霧の中で鍛錬していたシュルトは、素人のアルマからも分かるほどに強いと思ったのだ。
そこまで考えて、背筋にゾクリとした悪寒が走った。
(ちょっと待って。ビスキムは朝の鍛錬を見ていたはず――)
そう、ビスキムは洞窟からずっと尾行していたはずなのだ。シュルトの鍛錬の様子も見ていたに違いない。
つまり、シュルトの実力を十分に観察し、その上で勝てると踏んだのだ。
巨万の富を持つラーゼ商会が、末娘クレアの為に特に選んだガーディアン、それがビスキム――
ギイン
甲高い金属音がアルマの耳朶を打つ。
花畑の中央に目を向けると、シュルトとビスキムの間に火花が散っている。
手数はシュルトの方が多いようだが、その顔は驚愕に満ちている。
対してビスキムの表情は――冷笑が浮かんでいた。
アルマの胸中にあった疑問が、確信に変わる。
何が起きているか分からないが、このままではシュルトは負け、そして死ぬのだ。
もう話すことすらできなくなる――そう考えただけで頭から血の気が引き、膝が震えた。
(何か、何か助ける方法はないの?)
シュルトの邪魔をしないで加勢する方法を考えるが、どうにも頭がまとまらない。
ブウゥン
途方に暮れかけた時、目の前を1匹のミツバチが横切った。
同時に、ある作戦が思い浮かんでしまった。
否、それは作戦などという代物ではない。言うなればただの――
「ヤケクソよね……でも、他に方法もないし」
アルマはひとりごち、迷いながらも、ミツバチを見逃すまいと後を追って駆け出していた。
すると、すぐにウンウンと唸るような羽音が耳に入ってくる。
音を頼りに目的の物を探すと、ほどなくそれも見つかってしまった。
アルマは泣きそうな顔で立ち尽くす。
「何もこんなに大きくなくてもいいじゃない……」
それは、ひと抱えもある大きな蜂の巣だった。
オークの幹と一番下にある枝の間、ちょうどアルマの頭の高さに球体状の巣がガッチリと作られており、その表面には何十何百のミツバチが忙しなく蠢いていた。
「燻さずに手を出したら、やっぱり刺されるよね?」
アルマは誰と無しに尋ねるが、返事はミツバチの羽音だけだ。
ここなら花畑から歩いて数秒の場所、シュルトたちが戦っている場所も、走ればすぐに着くはずだ。むしろ絶好の位置といえる。
だがその間、ミツハチどもが大人しくしている訳がないのだ。
蜂の巣を素手で掴み取る瞬間をイメージする。
あの大量のミツバチが雲霞のように沸き立ち、体中を這い回る光景が思い浮かぶ。
全身に鳥肌がたち、気力が腹の奥に萎んでいく。
でも、とシュルトの方を振り返ると、木々の隙間から剣戟が垣間見えた。
ギギン!
手数が多かったはずのシュルトが、目に見えて劣勢になっていた。
防戦一方で、ハッキリとは見えないが裂傷らしき痕まである。迷っている暇など無いのだ。
ひゅうひゅうと深呼吸を繰り返し、巨大な蜂の巣を涙目で睨みつけた。
そして――
「いあああああっ!」
悲鳴のような掛け声をあげるや、アルマは蜂の巣に突撃を開始した。
シュルトは肩で息を切りながら、ギリリと歯噛みする。
(バカな、俺の槍術がまったく通じない?)
しかし、認めなくてはならなかった。
シュルトの放つ突きも払いもフェイントも、全て完璧に見切られていたのだ。
いくら片目で遠近感が無いとは言え、それを克服する以上の技量は身につけたと思っていた。しかし――
「おおおっ!」
ビスキムの攻撃の間をつき、足元を薙ぎ払う。
しかし、それは僅かに足を引かれただけで空振りに終わった。
直後、体勢を崩したシュルトの眼前に半月刀が迫り、仰け反ってその一撃を辛うじて避ける。
「……俺には特技がある」
突然、無口だったビスキムがポツリと呟いた。
その間に地に転がったシュルトは、疲れた足に鞭打って後方に飛び、再び槍の間合いを作る。
しかし、ビスキムは急いで追い詰める事はせず、ゆっくりと間合いを縮めた。
体力を温存させ、確実に標的を消すための信条だとでも言うのだろう。
「この目で見た事は決して忘れず、再現できる。それが俺の特技だ」
その言葉を信じられない感情と、納得する理性がシュルトの中で入り混じる。
しかし、そんな理屈でもなければ、速度と技で勝っているのに一撃も当てられない理由が思いつかないのだ。
「お前の攻撃は来る前に見えている。あきらめて大人しくしていろ、そうすれば楽に殺してやる」
「戯言を……俺がこんな所で死ねるか!」
「何故だ? お前が生き伸びたとて、何がある? 呪詛と苦痛と憎悪に塗れた一生だ」
「だまれ――」
「よもやお前が生きて、喜ぶ人間がいるとでも思っているのか?」
「だまれえええええっ!」
シュルトはダンと踏み込み、渾身の直突きを放つ。
「それも、見た」
ビスキムがわずかに首を捻っただけで、棒の先端は狙いをはずし、虚空へと吸い込まれる。
そして、無防備になったシュルトの胸板目掛け、半月刀が閃いた。
「くっ!」
シュルトは逃れようと上半身を捻り、そこで泥濘に足をすべらせる。それが結果的にシュルトの命を繋ぐ事になった。
ビスキムの剣は僅かに服を裂いただけで、シュルトはシャムロックの花の上に尻餅をついたのだ。
しかし、それでも勝負がついた事に変わりなかった。
ビスキムは地に転がった鉄の棒を素早く蹴り飛ばし、半月刀の切っ先をシュルトの眼前に突きつけたのだ。
(こんなところで――何も出来ずに、俺は、終わるのか?)
シュルトの全身が後悔という名の怒りに焼かれる。
その時だった。
「うひゃあああっ! うきゃあああああっ!」
凄まじい悲鳴と共に、何かが接近してきた。
ビスキムですら何事かと体をピクリと震わせる程の大声量だ。
シュルトとビスキムの2人はこの状況にも関わらず、全く同時に、それを見た。
「アルマ?」
シュルトの口から呻きのような声が漏れた。
アルマが岩のようなものを掲げ、泣きながら走ってくるのだ。
「……不確定要素」
ビスキムは不機嫌な声で呟き、シュルトとアルマを交互に見た。
どちらから始末するか悩んでいるのだ。
「この馬鹿、逃げろ!」
シュルトは声の限り叫ぶ、が、アルマは止まらない。
むしろ最後の力を振り絞るように加速した。
「馬鹿って言うなあああっ!」
絶叫しながらアルマは手に持っているものを、ビスキム目掛けてブン投げた。
しかし、それには速度がない。空中で失速すると、ビスキムに届く前に地に落ちてしまった。
その結果を見るや、アルマは急いで踵を返した。
「あだっ、ごめんなさいいいっ! もうしないから、きゃあああ!」
そして悲鳴を上げながら来た道を駆け逃げていったのだ。
「弱者が、覚悟も無いのに出てきたか――」
ビスキムは小声で吐き捨てると、ようやく標的をシュルトへと定め、剣を握り直す。
為す術の無いシュルトは、歯噛みして眼を伏せた。
「がっ!?」
敵の発した奇妙な声に、シュルトは目を上げる。
大人しいはずのミツバチが数十匹、ビスキムに群がって攻撃を加えていたのだ。
(これはまさか、アルマが?)
恐らくそうに違いない。アルマが投げた岩のようなものは巨大な蜂の巣だったのだ。
その結論に至った時、ビスキムの手の甲にミツバチが止まり、剣がシュルトの眼前から――逸れた。
刹那、シュルトは刃の切っ先を両手で挟み込んだ。そして間髪いれずに捻り、ビスキムの手から重厚な半月刀をもぎ取る事に成功した。
「――っ!」
ビスキムの顔が驚愕の色に染まる。
シュルトは起き上がりざまに横一閃の斬撃を見舞い、飛びさすって避けたビスキムにその切っ先を向けた。
「貴様、見たものは覚えるそうだが、俺の剣技はまだ知らないのだろう?」
ビスキムは胸元からナイフを取り出し低く構えるが、その顔には恥辱と焦りが浮かんでいる。
その表情に満足したように、唇の両端を吊り上げ、非国民は笑うように告げた。
「なれば見せてやる。建国より研ぎ澄まされし、デイルトン家の剣技をなっ!」