第19話:殺意の足音(下)
朝霧の漂う森。
乳白色に染まる世界でシュルトは目を閉じ、静かに息を整えていた。
(くそ。これほどなまっていたとは……)
先日、アーシェルの見つけた鉄の棒を下段に構え、不満そうに顔をしかめる。
ひと通り槍術の型をなぞってみたが、納得できるほどに体が動かなかったのだ。
慣れない槍術であることや、昨夜の雨で地面がぬかるんでいるのも原因だろう。しかし、それすら自身の怠慢が招いた結果に思えて気に入らなかった。
ようやく息が落ち着いたところで、意識を集中させ五感を研ぎ澄ます。
肌にしっとりと張り付くような空気、鋭く短い小鳥のさえずり、葉から水溜りに滴り落ちる雫の音。
その一つ一つを身近に感じ、意識が広がっていく。
(敵だ。敵を思い描け)
頭の中に敵の姿を強くイメージして、ゆっくりと目を開く。
すると、ねっとりと白い濃霧の中に剣を持った人影がぼうと浮かび上がった。
「ふっ!」
短く息を吐き、体重を乗せた突きを剣士の胸板目掛けて放った。
しかし、足が滑らぬよう慎重に踏み込んだせいか、空を穿つ音が鈍い。
剣士は易々と避け、シュルトが棒を引く僅かな隙を狙って斬りかかる。
「ちいいっ!」
胸元に迫った剣を棒の柄を使い、薄皮一枚のところで弾き流す。
そのまま逆手で棒を引き、その先端を最小限の動きで敵の喉笛に押し当てた。
ダンッ
踏み込みの反動を使い躊躇無く喉を貫くと、目の前にいた剣士は朝霧に溶け込むように四散した。
しかし、シュルトは息をつく間もなく振り向く――そこには大男が斧を振り上げていたのだ。
受け流すのは間に合わない。
そう判断し、あえて倒れこむように前に踏み出す。
戦斧が唸りをあげ、背後をかすめるように通り抜けた。
シュルトはその低い姿勢のまま肩からぶち当たろうとするが、大男は軽快なバックステップでこれを避ける。
しかし、逃さぬとばかりにシュルトは後退した足を棒で払った。
敵は足をすくわれ、狙い通り横向けに転倒した。
(迷うな。確実に息の根を――止めろ)
敵が立ち上がる前に、その心臓目掛けて棒を突き刺す。
「まだ、まだだっ!」
徒党を組んだ盗賊、弓兵に槍兵、騎兵に重装兵。
シュルトは次から次へと敵を生み出し、そして、縦横無尽に滅していった。
その立ち回りは荒々しくも洗練されており、美しくすら見える。
だがそれは同時に周囲全てを敵に囲まれ、必死で足掻いている手負いの獣のようにも見えた。
やがて、肩で息を切るようになった頃、最も忌むべき相手が霧の向こうに姿を現す。
ぎょろりと血走った赤茶けた瞳、飢えたトカゲを思わせる形相、そして赤く塗れた剣。
「……ヒルゾ」
その男が脳裏に現れただけで鼓動が早鐘のように打ち鳴らされ、無くなったはずの左目がジクジクと熱く疼く。
周囲にいた数多の敵は忽然と消え去り、乳白色の世界にはシュルトとヒルゾの2人だけが残された。
「――殺す」
小さく呟くとシュルトは一匹の獣と化し、遠間から突きを繰り出す。
ヒルゾの愛用していた剣には凶悪な毒が塗られていたはずだ。一撃でも当てられたら、そこで終わりだ。
一定の距離を保って打突を繰り返し、蛇のように伸びる斬撃を正確に打ち払った。
遠距離では不利と思ったのか、ヒルゾは接近するべく連撃を繰り出し、その手数の多さにじりじりと追い詰められていく。
だが、大振りになった瞬間を見計らって地を転がり、シュルトは立ち位置を逆転させる。
そのまま低い姿勢からの連突を繰り出し、今度はヒルゾをオークの大樹へと追い詰めた。
背が樹に触れて動揺した瞬間を狙い、下から斬り上げて毒に濡れた剣を高らかに弾き飛ばす。
「うおおおおっ!」
シュルトの放った渾身の突きはヒルゾの額を貫き、その幻をかき消したばかりか、背後にあった硬いオークの大樹にすら突き刺さった。
ようやく出来た会心の突きにシュルトは肩の力を抜き――直後、上から押し迫る無数の水滴をその右目が捕らえた。
「なっ――」
それはオークの大樹に溜まった大量の雨水だった。
傷を付けられたオークの逆襲か、井戸がひっくり返ったような雫が目の前に迫っていたのだ。
逃げ場はカケラも無い。避けるなど絶対に不可能である。
あきらめて、その雫を全身に受け止めた。
ドザアアアアアアア
予想以上の水量だった。
当然のごとく体の隅々にいたるまで濡れまくる。
早起きしてまでこっそりと洞窟を抜け出してきたのに、こんなに濡れて戻ればアルマになんと言われるか分からない。
その光景を想像し、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。
「くっ……ぷぷっ」
シュルトの舌打ちにあわせ、背後から小さな笑い声が聞こえた。
慌てて振り返って鉄の棒を構えると、観念したのか笑い声の主が木の影から姿を現す。
短い薄茶色の短頭、貧弱なほどの細身で小柄な体、そして青銅色の意志の強そうな瞳――よりによってアルマだった。
「ごめ、見ちゃった――ぷっあっはっはっは!」
とうとう耐え切れなくなったのか腹を抱えて爆笑した。
アルマの遠慮のカケラも無い笑いを、シュルトは睨みつけて黙らせようとする。
しかし、その怒った顔すらツボに入ったのか、人の顔を指差しゲホゲホとむせながら笑い続ける始末だ。
雨水でべったりと垂れ下がった前髪を乱暴にかき上げシュルトは嘆息すると、あきらめてアルマの笑いが収まるのを待った。
「ああ、久しぶりに思いっきり笑ったわ。まさかあんなオチをシュルトが見せてくれるなんてね」
ようやく笑いの収まったアルマは開口一番そう言うと、シュルトの頬を引きつらせた。
「……貴様、いつから見ていた?」
「一番最初から。シュルトがこっそり抜け出した後をつけてね」
その言葉にシュルトはがっくりとうな垂れた。
(こんな素人の尾行に気がつかないなど、失態の極みだ……)
地を睨んで自身の失態を責める。
すると突然、目の前にアルマの顔がぬっと現れ、上目遣いでシュルトを睨んだ。
「でも次からはちゃんと事前に連絡して。びっくりするじゃない」
「あ、ああ」
その顔があまりに近く、シュルトは動揺して一歩下がった。
(動揺? 俺が何故……)
例え凶悪な男が眼前で凄んでも動揺しない自信があった。
なのに、アルマに近づかれると自分の領域に進入された気がして、つい一歩引いてしまう。
男と女で話す距離が違うと聞いたことがあったが、アルマのそれは特別に近いと感じるのだ。
そして、それは距離だけでない。ちょっとした言葉で心の奥まで割り込んでくる。
それがたまらなく――怖かった。
(こんなヤツが怖いなど)
それはシュルトにとって認め難い事だ。何かに怯えるなど許される事ではない。
しかも、目の前にいるアルマは剣1本持っていないどころか、こっちが心配になるほど無防備で非力な少女である。
しかし、そんなシュルトの葛藤を知るよしもなく、アルマは開いた距離を何の躊躇いも無く埋めてニッコリと頷いた。
「うん、分かってくれればいいの。それより、その……ありがとね」
「――なんの事だ?」
「昨日、あの巨大イモシシから助けてくれたでしょ。あの時シュルトが助けてくれなかったら、私、たぶん死んでたと思うの。だから、ありがと」
「……そんなこと、別に」
奇妙な居心地の悪さからまた一歩下がろうとした時、アルマがシュルトの手を取った。
その柔らかな感触に思わず体が硬直する。
「ねぇ、シュルト。あなた鈍感だし、ちゃんと言わなきゃ分からないと思うから、ハッキリ言うね」
そして、この傷だらけの顔を正面から見て、真っ直ぐに告げた。
「私はあなたの――味方なの」
味方。
その言葉を聴いた途端、シュルトの胸に生まれかけた動揺は凪いだように消え失せ、代わりに冷たい風が心に吹き込む。
「だから周り全てが敵だなんて思わないで。私を、私たちをもっと信頼して欲しいの」
その言葉に鼻で笑いそうになった。
シュルトにとって味方ほど信じられない言葉は無いのだ。
今、欲しいのは仲間ではない、欲しいのは――
「ならば、証拠を見せろ」
「証拠?」
そうだと頷き、握られていた手を少し強引に外した。
「今、俺に必要なのは支持者だ。アルマ、俺の支持者になれ。そうすれば信じて――」
「嫌よ」
シュルトの言葉を遮り、アルマはハッキリと言い切った。
「何驚いた顔してるの? そんなの嫌に決まってるじゃない。そんなお願いをホイホイ聞いちゃうなんて、それは味方でも仲間でもないわ」
「……では、どうすれば俺の支持者になる?」
苛立ち紛れの問いに、目の前の少女は柔らかく微笑んだ。
「教えてよ。シュルトの事」
近づかれる事が嫌いだと分かったのか、アルマはシュルトと距離を保ったままその横を通り抜け、背後にあるオークの大樹に近づいた。
そして、オークの肌にできた丸い傷痕を撫で、木に尋ねるように言った。
「シュルトの幸せって何? この学院に入った理由は? この学院を、どんな風に変えてくれるの?」
そこでアルマは振り返り、その胸に手を置いた。
「私はね、暴力の前じゃほんとに無力なの」
いつか井戸の中で出会った時のように、青銅色の瞳がシュルトを捕らえる。
「この無茶苦茶な学院が今の無法のままなら、きっと私は真っ先に潰される。ルールが無いと私は戦えないの。戦えないでずっと隠れてるなんて、私は絶対に嫌。だから――」
そして、目の前の少女は、こんな自分に祈るように願った。
「お願い、シュルト。私を助けて」
その言葉にシュルトの心臓が跳ね上がり、崩れそうなほど足が震える。
願ったアルマの姿が、最後に見た姉の姿にぴたりと重なったからだ。
『お願い、シュルト。私を殺して』
発した言葉こそ決定的に違っていたものの、2人の瞳の色は同じなのだ。
姉と最後に会った日、あの日をやり直せるものなら、どんな代償だって払うだろう。
(しかしこいつは違う。姉さまではないんだ)
もう二度とあの日はやり直せない。もう二度と失敗は許されない。そのためには誰にも心を開いてはいけないのだ。
これ以上、アルマとの接触するのは危険だ。出会った時から分かっていたはずだった。
もう、潮時なのだ。
「俺は――」
「ねえシュルト。何か匂わない?」
しかし、シュルトが迷った末に言おうとした言葉を、アルマはやすやすと遮った。
自分で聞いておいて答えを聞かないなど礼儀に反する。そう怒鳴りそうになるが、別の考えが頭を過ぎった。
(まさか、俺の顔色を見て答えを拒絶したのか?)
流石にそれは買いかぶり過ぎかとシュルトは内心で苦笑する。
しかし、機を逸したため、出そうとした答えは結局自分の中に閉じ込める事にした。
「ほら、何か甘い匂いがするでしょ?」
アルマはもう一度シュルトに尋ねる。
言われてみれば確かに甘い、どこか懐かしい香りが周囲一帯に漂っていた。
「この香りは、シャムロックの花だな」
「シャムロックって、あの花の冠を作ったりする、あのシャムロック?」
「そうだ。あの花は繁殖力が強いから、どこかに群生しているのかも知れないな――っと、おい、どこに行く?」
「どこって、シャムロックが咲いてる場所に決まってるでしょ」
嬉しそうに答えたアルマは、辺りの匂いを嗅ぎながら森の奥へと勝手に歩いていく。もう何を言っても止まりそうに無かった。
ため息混じりに鉄の棒を担ぐと、シュルトは後をついて歩きだした。
(しかし、よりによってシャムロックか……)
シャムロックは姉の一番好きな花だった。
デイルトン邸の花園で幸せそうに花冠を織る姿は今も目に焼きつき、懐かしくも決して触れる事の出来ない過去としてシュルトを苦しめる。
しかし、いつもならその光景を思い描くだけでも吐き気と頭痛が襲って来るはずが、何故か今は心地よい穏やかな気分になっていた。
こんなことは今まで一度だって無かった事だ。
(あいつがいるせいか?)
目も前をキョロキョロと歩く少女は、一心にシャムロックの花を探している。
何も好きな花まで一緒じゃなくてもと思いながら、それを嬉しく思っている自分がいるのだ。
(違う……あいつは姉さまとは、違う)
シュルトはその言葉を胸に刻み付けるながら、一歩一歩と後を歩いていった。
やがて、アルマの嬌声が朝霧の森に響き渡る。
「あった! あったよシュルト!」
その声でシュルトは我に返る。
気が付けば周囲にはむせ返るほどの甘い匂いが漂っていた。
樹海の中にぽっかりと木々が無い場所があり、そこには真っ白なシャムロックが一面に咲き誇っていたのだ。
霧のせいで全てを見渡す事が出来ないが、それが逆に見渡す限り白の世界を作り上げていた。
アルマは夢中になって駆け出す。
「すごいすごい! こんなにいっぱい咲いてるなんて! 見て!」
シャムロックの絨毯の上で踊るように走り回ると、両手を広げてシュルトに笑顔を向けた。
それはまるで1輪だけ色の違う花のようで――その姿は、どうしようもなく姉の姿と重なった。
頭では違う人間だと分かっていているのに、心が勝手に疼く。
もう一度その声が聞きたいと渇望する。
「シュルト! 早くこっちに来てよ!」
アルマが手を上げてシュルトを呼び、心臓が跳ねる。
落ち着けと自分自身を叱咤する声は弱く、どこか遠い。
悠然と歩こうと思っていても足は急ぎ、ついには駆け出していた。
そして、焦るあまり花を踏みつけそうになり、必死で避ける。
グラリ
無理な体勢に体がつんのめり、そのまま顔から花畑へと突っ込んだ。
「ちょっとシュルト、大丈夫?」
アルマが手を取り、シュルトの体についた泥を優しく払う。
それはいつか見た光溢れる庭園の光景、そのままだった。
周囲に漂う白い霧、一面の花畑、そして目の前にある青銅色の瞳。
どれもが幻想的で、全く現実感が無かった。
(これは、夢か)
それでもいい。
頭の奥がジンと痺れるような感覚がシュルトを包み、口がひとりでに開く。
「ねえさ――」
「そうそう、シュルト! これ見てよ!」
またもアルマはシュルトの言葉を遮って叫ぶ。
その指が差しているモノは、シャムロックの花に止まっている1匹の虫。
「ほら、正真正銘のミツバチ! シャムロックの花畑なら絶対いるって思った通りよ!」
フンと鼻息を鳴らし、アルマは両手を握り締めて喜びを表している。
「何呆けた顔してるのよ。さあ、巣を探すわよ。蜂蜜に、蜜蝋のロウソク――ああ! いくらで売れると思う?」
そこでようやく悟った。
アルマは、シャムロックの花に興味など無かったのだ。
彼女を夢中にさせていたのは花を愛でる心ではなく、がめついほどの――商売根性。
「くっ」
姉とアルマのあまりの違いに力が抜ける。
同時に自分は何を血迷っていたのかと、あきれるを通り越して笑いが込み上げてきた。
「くくくっ、あはははっ」
「な、なに? なんなの?」
アルマのきょとんとした顔が可笑しく、棒に寄りかかり腹がよじれるほど笑う。
呆然としていたアルマだったが、やがてつられるように笑いだした。
笑い合う2人の間を、1匹のミツバチが新たな蜜を求めて横切る。
日が昇ったせいだろうか、辺りを覆っていた霧は確実に薄くなっていた。
「シュルトが笑ったの、はじめて見た」
笑いが収まった後、アルマはぽつんと呟いた。
気恥ずかしさを隠すようにシュルトは努めて不機嫌に言い返す。
「悪いか?」
「ううん。すっごくいい。支持者を集めるんだから、そっちの方が断然いいよ」
そう言ったアルマとの距離は近かったが、シュルトはさっきほど不快に感じない。
そうかも知れないな――シュルトがそう呟こうとした時、背後から刺すような殺気を感じた。
「誰だ!」
シュルトは振り向きざまに棒を構え、霧の中から現れた人影に言い放つ。
妙に手足の長い、陰気な男だ。
男は問いに答えず、ゆっくりと2人に近づく。
「まさか、こんなに都合よく、標的だけが離れてくれるとはな」
ボソボソと呟くと腰から剣を引き抜き、また一歩近づく。
シャムロックの花が1輪、クシャリと力なく踏み潰された。