第18話:紅き姫と闇夜の誓い
カンナが覚えている一番古い記憶は5年前、12歳の頃の記憶だ。
ただ、あの日の事だけは鮮烈に覚えている。
濃密な闇、酷い首の痛み、息苦しさ、かび臭さ、自分自身のうめき声――どれもが今、目の前にあるように思い出すことができた。
「う……ううっ」
細身の人間が1人、やっと入ることのできる狭い小さな部屋。
その棺おけと呼ぶの方がふさわしい漆黒の部屋に、カンナは押し込められていた。しかも、頭を下にしてだ。
「痛い、苦しい……助けて」
必死で助けを求めるが、その弱々しい声はすぐにかすれて闇に消えた。
首の筋力はとうに限界を超えていた。しかし、狭い空間で逆さになっている以上、休みたくとも逃げ場などは無い。
痛いだけではなかった。気道がねじれて、息をするのも苦しいのだ。
せめて手で体重を支えられれば少しは楽になるだろうが、どれだけ身をよじっても肘が壁につかえて腕が胸から上にいかない。
動けず、逃げることもかなわず、助けも呼べないのに、意識だけはっきりとある。それは途方も無い恐怖だった。
息苦しさが限界まで高まり、せめて息を止めて死にたいと願った時、ギイと床のきしむ足音が耳に飛び込んだ。
誰かが部屋の近くまで来たのだ。カンナは残る全ての気力で助けを求めた。
「お願い、助けて」
「まだそんな元気が残っていたのね。カンナちゃんはやっぱりすごいわ」
「か、母様」
カンナをここに閉じ込めた張本人である母の声だった。
「カンナちゃん。そこは苦しいでしょう。辛いでしょう。私もそんな事はしたくないのよ」
信じられなかったが、その言葉は優しく悲痛な色を確かに含んでいた。
「お願い、母様、許して」
「あら、許すも何もカンナちゃんは悪い事はしてないじゃない。とてもいい子よ。だから、何をすればいいか、もちろん分かっているわよね」
「……でも」
その途端、母の声が一変した。
「でも? ――でも、何?」
母の冷たい言葉を聴いたせいか、すっかり頭に血が上ってしまったせいか、カンナは闇の中を落ちていく感覚に襲われた。
落ちて、しかしどこまでも闇で、それでもまだ落ちていく。
その絶望に近しい感覚の中で、母の声だけがカンナの現実だった。
「カンナちゃんも知っているでしょう? あの下品なクグラ道場の娘が色香で将軍にのし上がったせいで、この由緒あるオリベ道場が窮地に立たされてしまった事を」
「……はい」
当然だった。それは何百何千と聞かされていたのだ。
「それなのに、あれはオリベの師範として公衆の面前で戦い、あろう事かクグラの小娘などに敗れたの。そして今、おめおめと生き恥をさらしているのよ」
あれ、という言葉に胸が抉られたように痛んだ。
しかし、その痛みを言葉にはできない。ただ唇を噛み締めるしかないのだ。
「あれはオリベの名を汚しました。ですから、無かった事にしなくてはいけません。そうでしょう?」
返事はできない。カンナは肯定の返事が出ないよう、固く唇を引き結んだ。
「カンナちゃん、あなたの剣才はあれよりも遥かに上。足りないのは、覚悟だけ。さあ、斬ると言いなさい」
しかし、カンナは沈黙をもって拒絶の意思を示した。
無論ここから出たい。自由になりたい。母に愛されたい。しかし、それだけは嫌だった。
静寂の時間が流れ、やがて母の深い深いため息が漏れる。
「そう。ならそこで――死になさい」
冷たく言い放って、そのまま立ち去ろうとする。
おそらく、本当にこのまま置き去りにされるのだ。
「――ま、待って」
グルグルと回り続ける闇の中で、カンナは恐る恐る尋ねた。
「私が、斬らなければ、どうなるのですか?」
「あなたが斬らなくても別の者が斬るわ。ただそれだけの事」
そう、変わらないのだ。
意地を張ろうと、想いを貫こうと、この世界は何も変わらない。ならば――
「やり、ます」
苦しさに耐えかねた口は、気がつけばそう返事をしていた。
外は血のような真っ赤な夕日だった。
カンナが了承すると信じていたのか、母は熱い湯と食事を用意していた。
食べたくないと食事を断ると、隠れるように湯につかり、硬直した手足を揉み解す。
しかし、湯の中にあっても手足の震えはいつまでも消えない。それどころか風呂から上がると、ますます酷くなっていった。
「さあカンナちゃん。準備はできていますよ。これに着替えてすぐに道場にいらっしゃい」
用意されたのは、特別な時にしか使わない純白の胴衣だった。
紐を結ぶのに手間取りながら、しかし着替えは終わってしまい、足は道場へと向かう。
だだっ広い道場の四隅にはかがり火が盛大に焚かれていた。
しかし、そこにいるのはわずかに4人、いつも通りの笑顔を浮かべた母と、厳しい顔をした高弟と呼ばれる人が2人、そして中央に1人の青年が縄で巻かれて座っていた。
青年はカンナとは対照的に黒装束をまとっており、暴行によって腫れ上がった顔が否応無く網膜に焼きつく。
「カンナちゃん、今日からこれはあなたのものよ。良かったわね」
カンナの目の前に一振りの刀が差し出された。
オリベ家の宝刀『紅姫』――縄に巻かれた青年が今朝まで腰に差していた刀だ。
確かにこの刀が欲しいとねだった時もあった。しかし、
――こんな形で受け取る事になるなんて
カチカチと鞘鳴りを繰り返し、ゆっくりと刀を引き抜く。
かがり火の光に晒された刀身は、まるで早く斬れと急かすかのよう赤く、ぬらぬらと光っていた。
「さあ、斬りなさい」
母も遅々としているカンナを急かした。
しかし、刃先は自分でも分かるほどに震え……ついには涙で滲んだ。
耐え切れないとばかりに控えていた高弟の1人が声を上げる。
「奥方様、もう十分でしょう」
大切な瞬間を邪魔されたとばかりにギロリと睨まれるが、それを真正面から見つめ返して申し立てた。
「奥方様、この先は私が代わります。どうかお慈悲を」
「よせ、クロウド」
隣に座っていたもう1人の男が肩を掴んで押し留めようとするが、クロウドと呼ばれた男は止まらなかった。
「お嬢が師範を好いていた事は、道場の誰もが知っています。その上でこの仕打ちは、あまりに、あまりに惨いではありませんか!」
しかし、熱を帯びたその口調に、女主人はあくまで冷静に答える。
「クロウド。オリベの恥を漱ぐのは頭首の務めではありませんか。それとも……もしや頭首の座を狙っているのですか?」
その言葉にクロウドは信じられないといった目で見上げた。
「違います。私は、ただ――」
「もうよせ、クロウド。お前まで処分されるぞ」
「私は、ただ――お嬢が――」
クロウドは歯を食いしばってその先の言葉を飲み込んだ。
そして、刀を手に泣いている少女を見て、静かに頭を垂れた。隣にいた男も習うように頭を垂れる。とても、直視などできなかった。
「さあ、早く斬りなさい」
しかし、母親だけが邪魔は無くなったとばかりに嬉々として娘を急かし続ける。
言われるままにカンナは刀身をゆっくりと男の首筋に押し当てた。
「やめ……カ、ンナ……死にたく、ない」
男の口から言葉が漏れた。
その声にビクリと手が震え、押し当てていた刀からポタポタと鮮血がこぼれる。
「――い、いや」
床の上に赤い円ができる。それは目の前の男を自分が斬って出来た血溜りだ。
しかし、まだ終わりではない。このまま、手を引いて男の首を落とさねばならないのだ。
その光景を想像し――視界がグラリと傾いた。
カンナの意識が、そこで途絶えたのだ。
ギッ ギギィ
近くで足音が聞こえて目が覚めた。
そこはかび臭く、息苦しく、暗かった。
(また、この部屋……ここは、いや)
しかし、さっきと1点だけ違う事がある事に気がつく。すぐ目の前に何かが突き立っているのだ。
手で探ると冷たく硬い。そして、ついさっきまで握っていたものだと気付く。
(これは――紅姫?)
確かにそれは紅姫だった。顔を動かせば斬れるくらいの位置に、刃が剥き出しのまま床に突き立っていたのだ。
何故と考えるより早く、またギギィと足音が聞こえた。
「だ、誰?」
カンナは外に向かって尋ねたが、声はもっと近くから返ってきた。
『――のう』
甲高く、どこか高慢な感じのする声。それが、すぐ近くで聞こえたのだ。しかし、この小さな部屋で他に誰がいるというのだろう。
「誰、誰なの?」
『愚かよのう』
それはすぐ傍で聞こえた。しかし、そこにあるのは一振りの刀だけなのだ。
「まさか、紅姫、なの?」
『信じなくともよい。耳を塞ごうともお前に闇がある限り、わらわの足音を消す事はできぬ』
「い、いや、来ないで」
しかし足音は迫り、とうとう耳元に息を吹きかけるように、紅姫は囁いた。
『お前の願いを、わらわは知っておる』
「願い――」
『ここを出たい。ここを出たくない。大人になって自由になりたい。昔に戻って幸せでいたい……見事に矛盾だらけじゃのう』
そう言うと紅姫はけたたましく嘲笑う。頭の中が掻き回されるほど煩い笑い声だ。
しかし、言い返せない。それは確かにカンナの願いだった。
ここを出たい。でも出るならば、現実が待っている。
『じゃがな、わらわにはそれをぜーんぶ叶えてやれる』
「……うそ」
『まことにお前は、愚かよのう』
紅姫はまたもカンナを嘲笑する。
『簡単な事なのじゃ。そら、お前の母が言ったではないか。無かった事する、とな』
「そんな事、できるわけが――」
『できる。ただ忘れるのじゃ。斬って、その全てを忘れられれば、お前は幸せでいられる。子供でありながら大人になれる。母にも愛され、ここを出られるのじゃ』
「ここを……」
『そうじゃ、わらわを振るえ。そして、斬った人間など全て忘れてしまえ』
「私は、忘れる」
『そうじゃ。お前はカンナ、それだけ覚えていれば良い』
「私は、カンナ……」
ギッ ギギィ
道場に足音が響き、闇夜に白い影が浮かび上がった。
縄にまかれ黒装束に身を包んだ青年は、ハッとしたように顔をあげる。
「カンナ?」
「はい、そうです」
カンナは男に笑いかける。しかし、その笑顔はどこか虚ろだ。
その笑顔をどのような意味に受け取ったのか、男もカンナに笑みを返した。
「もういい。俺を斬れ。やっと覚悟ができた。これ以上、お嬢に辛い目をあわせたくない」
「もちろん、そのつもりですよ」
余りに簡単に言い切ったカンナを、信じられないモノを見る目で男は凝視した。
「お嬢? お前は、本当にお嬢なのか?」
「何を言ってるんですか――」
カンナは紅姫を振り上げ、暗闇にニイと笑みを浮かべる。
「カンナは、カンナです」
そして、容赦なく振り下ろした。
「失礼な話ですよね。カンナはカンナに決まってるじゃないですか。ねぇ、アルちゃん」
「……」
突然話を振られたアルマは、言葉を失っていた。
闇の向こうでカンナがどんな顔をしているのか、無性に知りたかった。
(これじゃあまるで、カンナが刀に――)
しかし、そんなアルマの動揺などお構いなしに、カンナは楽しそうに話し続ける。
「それからカンナは、母様に命じられて沢山の人を斬りました。でも、紅姫のお陰で斬った人の顔は全部忘れました」
「――カンナ、もういい」
これ以上聞きたくないとアルマは小声で止めるが、カンナには届いていなかった。
「でも、最初に斬ったあの人の顔だけはまだ覚えているんです。きっと、もっと斬ればいつか忘れて――」
「もういいって言ってるでしょ。やめて、カンナ」
今度は大声で止めた。
しん、と洞窟の中が静寂に戻る。
「どうしたんですか? アルちゃん」
その声は先程までの高揚した感じと一変して、まるで冷たい金属のようだった。
「もしかして――アルちゃんも、カンナの事を嫌いになったんですか?」
作り物の声のように生気が感じられない声。この闇のように、底が知れない。
しかし、アルマは暗くて見えないと知りつつ、カンナに大きく首を振った。
「ううん。カンナはカンナ、初めて会ったときから何も変わってない。私の大切な友達」
自信をもって答える。これだけは胸を張って言えた。
「……変です。なんか、急に眠くなりました」
「うん、今日はもう寝よう。明日になれば、夜は必ず明けるから。明けない夜なんて、絶対にないから」
「……よく、分かりま、せん」
そう答えたかと思うと、カンナはたちまちスースーと寝息をたてはじめた。
アルマは静かに立ち上がると、暗闇の中で慎重にカンナの手を探して両手で包むように握る。
「私、カンナの事、絶対に嫌いにならないから」
そして、その腰にあるだろう紅き姫に誓った。
「だから、お前なんかに、絶対に負けない」