第17話:殺意の足音(中)
――駄目、避けられない!
大気を震わす雄叫びにアルマの身はすくみ、根が付いたように足が動かなくなった。
眼前に迫る恐怖に頭が真っ白になり、ただ拳をきつく握り、目を閉じる事しか出来なかったのだ。
ドガッ
衝撃は正面ではなく横から来た。
予想していなかった方向に体が浮き上がり、同時に力強い感触に包まれた。
アルマは必死でその感触にしがみつき、木の根でゴツゴツする地面を1つの塊になって転がる。
ドドドドオッ
直後、地を抉る足音が耳元で弾け――やがてそのまま遠ざかった。
踏み潰されずに済んだ事を不思議に思い、アルマはうっすらと目を開ける。
目の前にあったのは蒼の隻眼、少し癖のある褐色の髪――シュルトだ。
その表情は歩測を邪魔した時以上に怒っているように見えた。
「お前、死にたいのか!」
「――ごめんなさい」
手のひら一つの距離で怒鳴られ、アルマは反射的にかすれる声で謝った。
そしてようやく今の状況を理解した。シュルトが横からぶつかり、獣との衝突から救ってくれたのだ。
もし、あの質量と速度に正面からぶつかっていたらどうなっただろう。
運良く生き残れたとしても手は砕け、踏み潰され……その光景が思い浮かび、恐怖が背筋を這い上がった。
ガタガタと体が震えだし、手が勝手にシュルトの服を掴む。
「お、おい。しがみ付くなっ」
何か言い返そうかと思うのに自由に呼吸する事すらできず、何も話せない。
それどころか、服を掴む手にますます力が入ってしまう。
「あいつが戻って来る! 早く手を離せっ! おい、聞いてるのか?」
もちろん聞こえていた。しかし、早く離さなくてはとは思うものの、手は全く言う事を聞いてくれないのだ。
どうしていいか分からず、またギュッと目を閉じた。
「こんなところで諦めるつもりかっ! しっかりしろ、アルマ=ヒンメル!」
シュルトに痛いほど肩をつかまれ、大声で名を呼ばれた。
(嫌だ。諦めたくない。だって私は――)
折れない剣になるんだ。
パッと目を開くと、視界一杯にシュルトの顔が飛び込み、視線が絡み合った。
その隻眼は意外にも怒っていない。いや、むしろ優しく労るような眼差しにすら見えた。
だから、意地を張らず素直に言葉が出てきたのだろう。
「ごめん、シュルト」
アルマは短く、呟くように謝った。
そこで、ようやく手が言う事を聞いてくれた。服を手放し、急いで起き上がろうとする。
だが黒い獣は待ってなどくれない。再びアルマ達へと狙いをつけ、突撃を開始していたのだ。
しかし、獣とアルマを繋ぐ線を断ち切るように、人影が立ちふさがった。
「カンナ!」
アルマの叫びを背に受けたカンナは腰から刃を滑らせ、ほのかに赤い刀身を正眼に構える。
あの巨大な獣を正面から叩っ斬るつもりなのだろうか、手を貸してくれていたシュルトもそう思ったらしく、鋭く警告を発した。
「よせっ! 下手に斬れば腕ごと弾き飛ばされるぞ!」
「分かってます。紅姫もそう言ってますから――」
カンナはこの状況においても冷静に答え、流れるような足裁きで徐々に横へ移動を始める。
その動きにつられ、獣の軌道がアルマ達から外れた。
そして十分に引き付けて横に飛ぶ。猫のように転がって突撃を避けると、獣の後足目掛けて薙いだ。
しかし、獣はくぐもった悲鳴をあげたものの、その勢いは止まらない。
「くっ、浅かったです――レディンさん、そっちに行きました! 逃げてください!」
「うわっ、うわあああっ!」
黒い獣はレディンの背負うリュックに標的を変え、頭を下げて突進する。
レディンは木を盾にして逃げ回っているが、見ていて危なっかしい事この上ない。
隣にいたシュルトも同感だったらしく、小さく舌打ちすると上を振り仰いで叫んだ。
「アーシェル。その棒を貸せ」
すると大樹からシュルト目掛けて鉄の棒が降って来た。
アルマが驚いて見上げると太い枝の上に腰掛け、足を揺らしているアーシェルの姿がそこにあった。
――い、いつの間に?
アーシェルが登った木は表面が固く枝も少ない。木登りに向いているとはとても思えないが、この短い間でするすると登ってしまったらしい。
アルマがぽかんと感心している間に、シュルトは鋭く指示を出した。
「レディン、こっちに逃げてこい! カンナ、そこから10歩右に進め!」
シュルトの指示通りに2人が行動を開始する。
「あの、私はどうすればいいの?」
「アルマ、お前はあの木の陰に隠れてろ――邪魔だ」
付け足したように邪魔者扱いされ、怒りと羞恥に体の芯がカッと熱くなるが、実際その通りなのだ。下唇を噛み締め、言われた通りに木の陰に身を隠した。
せめて事の成り行きを見守ろうと木陰からシュルトを覗く。ちょうど、レディンがシュルトのすぐ脇を通り抜けたところだった。
「お、お願いします」
レディンはそのまま駆け抜け、アルマとは別の木の陰に隠れる。
シュルトは大きな根のくぼみに棒の端をしっかりと固定し、反対側の先端を獣に向けた。そして、腰を落とすと角度を慎重に調整する。
グオオオアッ!
シュルトの覚悟が伝わったのか、黒き獣は血走った目で吠え猛り、その巨体をさらに加速させた。
両者の距離はまばたきの間に縮まるが、シュルトは深く構え微動だにしない。
――ちょっと、避けないつもり?
黒い獣とシュルトが手を伸ばせば届く距離まで近づいた瞬間、アルマは耐え切れなくなって叫んだ。
「シュルト!」
その叫びと同時だった。
シュルトがさらに身を屈め、鉄の棒の先端を黒い獣の眉間へと導いた。
ゴッと言う鈍い音が森に響く。
そして次の瞬間、黒い獣の巨体が宙に跳ね上がった。
獣の体はシュルトの上を飛び越え、回転しながらその遥か後方に落下する。しかし、それでもまだ勢いが余っていたらしく、巨体は地を転がり続けた。
やがて、獣が力無く仰向けに止まった先は、カンナの眼前だった。
「カンナ!」
「は、はいっ!」
シュルトの呼びかけでカンナは慌てて紅姫を構え、昏倒している獣の腹へ、静かに止めを刺した。
「これ、やっぱりイモシシです。食べ物が豊富なのか、こんなに大きくなっていたようですね」
動かなくなった黒い獣を調べ、レディンは断言した。
イモシシとは文字通り芋類を好んで食べる動物で、通常は茶色の毛並みをしている。大きさもこの獣の半分以下なのだが短い足といい、潰れた鼻といい、特徴は確かにイモシシだった。
アルマは革袋から口を放し、口に含んでいた水を飲み下して尋ねる。
「ふぅ――でも、イモシシなら肉食じゃないでしょ? なんで私たちを襲ったのよ?」
イモシシは通常家畜としても飼われており、気性も穏やかだ。人を見て突進することは習性的に考えてあり得ない。
そのもっともな質問を受け、レディンは詰まったような顔を見せた。
「ううん、すみません。ちょっとそこまでは……」
「ますます謎だらけ、か。まぁいいわ。カンナ、あそこの木に巻きついてるツタを何本か切ってもらえる?」
昼食のチャパティを頬張っていたカンナがきょとんとして答える。
「ほれは、ムグ、いいですけど……何に使うんですか?
「何って、こいつを運ぶに決まってるじゃない」
アルマがぺしぺしとイモシシの頭を叩いて言い切ったので、カンナは眉を思いっきりひそめた。
「あの、もしかして、これ食べるんでしょうか?」
「もちろん。殺したからにはしっかり責任を取らなきゃ」
「はう、やっぱり……」
カンナが切り落としたツタでイモシシの足を蔦で何重にも結び、そこに鉄の棒を差し込んで担ぎ上げる作戦だった。
しかし、さすがにそのまま運ぶには重過ぎるため、シュルトの提案で首をバサリと落とし、腹を切って内臓を取り出す。
それらを道端に捨て置くのは居たたまれないと、レディンは簡易的な墓を作り埋めた。
「気が済んだのなら、始めるぞ」
シュルトの問いに祈り終わったレディンが頷くと、2人はイモシシを挟むように座り、鉄の棒を肩に背負った。
そして掛け声をあわせ、アルマたちの声援を受けながら立ち上がる。
「むっ、ふううっ!」
ゆっくりとイモシシの体が持ち上がった。しかし、その時点でレディンの顔には苦渋の色が浮かぶ。
そして、一歩、二歩と踏み出した途端だった。
「だ、だめです。学院まではとても無理です」
レディンは早々に音を上げた。無理もない、人間で言えば3人分に等しい重量だろう。
しかし、シュルトの方は悠々とはいかないまでも、ふらついていない。
考えてみればシュルトは軍都ドライの公爵家の男子だ。幼少から徹底的に訓練されていてもおかしく無いだろう。
――そう言えば、腕も胸も結構逞しかったな
助けてもらった時の感触を思い出し、カッと顔が熱くなった。
今更ながらに恥ずかしくなり、熱くなった顔をブンブンと振る。
「どうしたんですか、アルちゃん」
「なっ、なんでもないの。それよりカンナ、チャンスでしょ」
「へ?」
首をかしげたカンナに、レディンを助けてあげるチャンスでしょとアルマが耳打ちをする。今度はカンナが頬を染めたが、満更でもなかったようだ。
宙を歩くようにレディンに近づき「手伝いますぅ」と身を寄せるように棒を支えた。フラフラしていた巨大イモシシは、その途端にピタリと安定する。
気のせいか、レディンは少し落ち込んだようだった。
「アルマ、早く帰ろ」
疲れたのか、重いリュックを背負わされたせいか、もしくは折角見つけた鉄の棒を取られたせいか、アーシェルは口を尖らせて不満げな顔を見せた。
「そうね。油は見つからなかったけど十分な収穫よね。さあ、帰って大儲けよ! もちろんアーシェルも売り子手伝ってね」
アーシェルはアルマに聞こえないよう、鬼と小さく呟いた。
木に彫ってある矢印をアルマが探し、その示す方向へ5人が進む。
重い荷物を抱えているため進行速度はゆっくりだが、ただ進むだけで良いので、来た時よりも遥かにスムーズに進んでいた。
しかし、アルマが33個目の矢印を発見した時だった。
「おい、アルマ」
「なによ。もう体力の限界?」
シュルトはムッとした表情をみせ、首を振る。
「違う。ただ気になった事があるだけだ……こんな場所、俺たちは本当に通ったのか?」
「あ、カンナもなんか変だなって思ってました」
シュルトの意見にカンナも頷いた。
アルマは2人に言われたので流石に不安になり、慌てて周りを見回す。確かに来た時と森の印象が違うような気はした。
「うーん、日の差し込む位置が変わったせいじゃない? だってほら、ちゃんと矢印があるんだし」
「……まぁ、それもそうだな」
「でしょ。あ、見て! 森が途切れるわよ!」
木々の隙間から強い光が射し込み、そこで森が途切れている事をアルマに教えてくれた。
感じていた不安から解放されたくて、アルマは小走りで先行すると、森を駆け抜けた。
そして、そこに広がる光景を目の当たりにして――絶句する。
「なっ、なっ……」
「アルちゃーん、どうかしました?」
「なんで行き止まりなのよっ!」
アルマの叫びは目の前の切り立った崖に跳ね返され、むなしく響いた。
そう、目の前に広がっていたのはゴツゴツとした岩肌をさらした、巨大な崖の壁だったのだ。
崖の斜面はほぼ垂直で、頂上は学院の校舎よりも遥かに高い。とても登れるような崖ではなかった。
「これは、困りましたねぇ」
イモシシを置いて身軽になったカンナは頬に指を当て、本当に困っているのかと疑うほどおっとりと呟いた。
その隣で疲労から座り込んでいたレディンが崖の一角を指差し、カンナに尋ねる。
「あそこに入れそうな横穴がありまけど、あれ、洞窟でしょうか?」
「うーん、なんでしょうね。ひょっとして動物さんの巣かもしれませんよ」
その2人の緊迫感の無い会話に、シュルトがこめかみを引きつらせた。
「そんな事は今はどうでもいい! それより何でこんな場所に矢印が続いていたんだっ!」
「そんなの私にだって分からないわよっ!」
売り言葉に買い言葉。反射的にアルマは怒鳴り返してしまう。
「怒っても、体力の無駄」
そこにアーシェルの冷たい一言が割って入り、アルマは深くため息を吐いた。
「そうね、ごめんなさい。ちょっと動揺してたみたい。でも、なんでこんな場所なんかに……矢印だってちゃんと――あっ!」
アルマは俯き加減だった顔をあげ、慌てて森に駆け出した。
そして、木に彫ってある矢印を確認すると、大声で叫んだ。
「カンナ! ちょっと来て!」
その叫びにカンナだけでなく全員が走ってやってくる。
そして、矢印の彫られている1本の木の前で立ち並んだ。
「カンナ、ここに立ってみて」
カンナが言われた通りに矢印の前に立つと、それは目線より若干上に彫られていた。
「カンナって、目線より下で彫ってたよね?」
「あ、はい。その方が楽だし、木屑が目に入るのが嫌なので、もう少し下を彫ってました。これってアルちゃんが彫ったんじゃ――」
「私はもっと低いわよ!」
それもそうだと、カンナが腕を組む。
「つまり、どういうことでしょうか?」
その答えを、アルマは言うかどうか迷った後、一言一言選ぶように慎重に告げた。
「つまりね。これを彫ったのは、私たちじゃない、別の誰か――なの」
やむなく森に引き返すと、矢印を逆にたどってイモシシの墓まで戻る。
しかし、そこに待っていたのはさらなる困惑だった。
「くっ、もうなんなの! なんで矢印がこんなにあるのよ!」
墓の周りには何十と言う矢印が至る所の木々に彫られていたのだ。
体力の限界に近いレディンがぐったりと腰を下ろし、アルマを見上げる。
「アルマさん、彫った高さから私達の目印が分かりませんか?」
「駄目なの。ここにある目印は全部低くなってて――まるで、さっきの会話を聞いてたみたいに……」
自分の言葉に寒気がして、アルマは腕を抱くように身をすくめた。
「しかし、日の向きから方角くらい分かるだろう?」
そう言ったシュルトの声も、流石に疲れの色を帯びている。
「それも駄目なの。日が暮れるまでもう時間が無いの。そしたらもう、動けない」
「動けないって、ランプはどうしたんだ?」
「その、無いの……夕べ、リュックを作ってたときに、油、全部切れちゃったの」
泣きそうなアルマの顔に、追い討ちをかけるようにポタリと雫が落ちた。
「……雨?」
ポツポツと降り出した雫はすぐさま夕立に代わり、雨が葉を打つ音がやかましいほどになった。
無論、頭上を覆う葉は雨避けにはならず、逆に大きな雫がボタリボタリと落ち、衣類の中にまで冷たく染みてくる。
「アルマさん、さっきの崖に戻って、あそこにあった横穴で雨宿りしましょう。でないと、全員風邪をひいてしまいます」
「う、うん。そうね、レディン」
「アルちゃん、大丈夫ですよ。きっとなんとかなります」
「ありがと。カンナ」
重い荷物を抱えたまま、アルマ達は疲労した体に鞭打って走るように崖へと向かった。
ようやくぽっかりと開いていた横穴に滑り込んだのは、日が暮れるギリギリだった。
横穴はかなり浅かったが、5人が雨宿りするには十分なスペースだった。
抱えていた荷物を洞窟の奥に置くと、転がっていた小岩の上にそれぞれ腰掛ける。
そこで外からの明かりが届かなくなり、何も見えない闇に閉ざされた。
「……少し寒いですね」
「あ、ちょっとまって、リュックのポケットに麻布を入れてたの。アーシェル、取り出せる?」
真っ暗な中、言葉と手探りでどうにか体を拭くことはできたが、それで体力の限界だった。
言葉数が減り、陰鬱とした空気が洞窟に満ちる。
今日、何度目になるか分からないため息を吐くと、アルマは隣にいるカンナが震えているのに気がついた。
「カンナ、まだ寒い?」
「いえ、寒いのは平気なんですが、暗いのがちょっと怖くて」
そう言われてカンナが暗い部屋に独りでいた時、布団をかぶって震えていた事を思い出した。
あれから特に怖がるような事が無かったのですっかり失念したが、暗所恐怖症の人間にこの闇は流石に辛いのだろう。
「大丈夫?」
「いいえ、アルちゃんが横にいるから大丈夫です。でも、こうやって話してた方が気が紛れます」
「そう……じゃあ、カンナの小さい頃の話を聞かせてよ」
「カンナの小さい頃、ですか」
カンナはそこで「うーん」と唸った。
小さい頃の話をするのは嫌なのだろうか、アルマがそう聞くとカンナはそうじゃないと否定する。
「実はカンナ、小さい頃の事をあんまり覚えてないんです。最初に覚えているのは、ちょうどこんな真っ暗な闇の中にいた事で……」
「じゃあ、そこからでいいから聞かせて。カンナの事、私もっと知りたいの」
アルマが半分空元気で勢い込んで話をせがむと、カンナもしぶしぶ頷いた。
「分かりました。でも、あんまり楽しい話じゃないですよ」
「やった。ありがと、カンナ」
他の仲間も黙ってカンナの話に耳を傾けているのだろうか、暗闇の中で静寂がその色を濃くした。
「カンナが覚えているのは、ちょうどこんな真っ暗な部屋なんです。たしか、お母様に怒られて、小さい部屋に閉じ込められていたんだと思います。そこは狭くて、暗くて、怖くて……」
カンナが語るその声は、隣にいるはずのにどんどん遠くへ行ってしまいそうに聞こえた。そんな不安がアルマの胸を締め付けたが、カンナはさらに生気の無くなった声で、ポツリと告げた。
「その時、足音が聞こえたんです」