第16話:殺意の足音(上)
「ごめんなさい。あなたのことが恨いわけじゃないのよ……」
沈痛な面持ちで謝ったアルマの胸元で、祈るように握られた刃物がギラリと妖しく光る。
だが、謝られたところで相手は何も言い返せない。ただ静かに立ち尽くすのみだ。
「でも私は――こうするしかないの!」
悲痛な叫びとともに両腕を高らかに振りかざす。
そして、ピクリとも動かない相手の褐色の肌目掛け、思い切り刃を叩きつけた。
カン
鋭利なはずの刃先は、僅かに表皮を切り裂いただけで弾かれた。
逆にあまりの固さに腕がジンとしびれ、アルマはその場に座り込こむ。
「いったぁ……水しか飲んでないくせに何でこんなに固いのよ!」
手を擦りながら、不条理を目の前にそびえ立つ大樹にぶつけた。
そんなアルマに背後からあきれたような声が掛かる。
「アルちゃん、なにのんびりやってるんですか。早く目印付けてくれないと先に行っちゃいますよ」
「……名も無き樹木さん。もし恨むなら、無意味に巨乳なカンナを恨んでね」
「ちょ、アルちゃん!」
カンナの文句を聞き流し、アルマはノミの角を使ってギコギコと削るように木肌へ矢印を彫っていく。
この矢印を順にたどって行けば、苦も無く学院に戻れるという寸法だ。
(いやぁ、我ながら天才ね)
アルマは自画自賛に浸りながら額に吹き出る汗をぬぐう。
誤算と言えば、硬い木肌へ矢印を彫るのに思ったより時間が掛かる事だ。
しかし、その間を利用してレディンとアーシェルが使えそうなものを採集し、シュルトが地図を描いているので、まあ大きな問題とは言えないだろう。
ただ――
「カンナ……暇そうね」
頬杖をつき、アルマの横顔をボーッと見ていたカンナは、よくぞ気が付いてくれましたと言わんばかりに立ち上がった。
「そうなんですよ! 見てください!」
彼女が両手を広げて指し示した周囲一帯は、見渡す限りの広大な森林が広がっていた。
その森林を構築している樹木のほとんどは、天辺が見えないほどの大樹である。おそらく少しでも多くの光を浴びようと、上へ上へと競うように成長した結果なのだろう。
そして日照権の争いに負けた背の低い植物たちは、この一帯からすっかり姿を消していた。
通行の邪魔になるような植物がビッチリと生えていたのは森の入口だけで、この辺りには雑草が申し訳程度に生えているくらいである。
つまり、森の中は実に快適に歩ける環境だったのだ。
「邪魔な障害物をザクザク斬れるはずだったのに、これじゃ欲求不満です! 暇です! 退屈です!」
「……で、私に仕事を代わって欲しいと」
「いいんですかっ!?」
目を輝かせて喜ぶカンナを見て、正面切って駄目だと言う気概がアルマから失せる。それにちょうど手が痺れて痛くなってきた頃だったのだ。
しょうがないわねと恩着せがましくノミを渡すと、すぐさまカンナは嬉々として樹木に叩きつけ始めた。
「うふ、うふふふ」
歓喜の表情でノミを打ち付けるカンナの姿は不気味の一言に尽きる。
しかし、流石に刃物の扱いはアルマよりも格段に上手かった。固いはずの木肌にサクサクと目印が彫られていく。もはやアルマがここにいる意味は無くなったのである。
「じゃあ私はみんなの様子見てくるけど、いい?」
「はぁい!」
「その木が終わったら、次はあの木に付けてね」
「――えと、どれでしょうか」
カンナは一旦手を止め、アルマの指差す方を見た。
「あのシュルトの性格みたいにひん曲がってねじくれた木よ、分かった?」
「とてもよく分かりました!」
弾んだ声で答えるやカンナは作業を再開した。
その嬉しそうな後ろ姿に肩をすくめると、アルマはその場からそっと離れた。
サワ サワワ
葉がそよ風に揺れるたび、木漏れ日がキラキラと形を変えて降り注ぐ。
日の傾きから、お昼まではもう少しありそうだった。
体中に光を浴びたくなり、ぐいと大きく伸びをして大きく息を吸い込む。森のひんやりと湿った空気が火照った体に染み込んでいくようだ。
「ううん、気持ちいいっ!」
むふんと息を吐き切ると、腕を組んで作業に勤しむ残りの仲間を見渡した。
「うむうむ、皆よく頑張ってるじゃない」
作業に勤しむ姿を見ると、ありもしないあごひげを撫でて鷹揚に頷く。
「それではこの私が手伝ってあげましょうか。まずは――」
標的を手近にいたレディンへと決め、弾むような足取りで近づく。
レディンは朽ちて倒れた木の横に座り込み、倒木の陰から何かを引っこ抜いていた。
「レディン、調子はどう?」
「こっちはまあまあですね。アルマさんが作ってくれたリュックが便利で助かってます」
「そう、それは良かった。で、何が取れたの?」
「キノコです。ほら、見てください」
レディンが開いてくれたリュックの底には、既に何十本かのキノコが散乱していた。
アルマの故郷であるノイン領は寒く乾燥した場所なので、生のキノコを見るのはこれが初めての事だ。
王都の方で人気の食材とは聞いていたが、いざ目の当たりにするとかなりグロテスクな物体である。
「ねえ、これって本当に美味しいの?」
「実は僕も食べた事がないんですよ。でも、長がキノコ図鑑を持っていたので、食べられる種類と調理方法はしっかり覚えてます」
「ふぅん、砂漠の長がキノコ図鑑ねぇ……」
「長は色々と多趣味なんですよ。それにキノコは使い方によっては毒にも薬にもなりますからね。ほら、これなんか煮込むと良い出汁が出るそうですよ」
レディンは笠の広いキノコを1本取り出し、嬉しそうにアルマに見せた。
しかし、そのキノコの表面は野菜が痛んだような茶色で、お世辞にも美味しそうとは思えない。
アルマはあいまいな返事を返し、もっと美味しそうなものがあるのではとキノコの群生している場所を覗き込んだ。
「レディン、これ見てよ。こっちの方が真っ赤で美味しそう」
「ああ、駄目です。赤いのはほとんど毒キノコなので、絶対に食べないでくださいよ」
「そうなんだ……わあ! こっちのキノコってばすごい綺麗じゃない! なんか美味しそう!」
「あああ、アルマさん! 勝手に入れないでくださいっ!」
アルマがリュックへ放り込んだ極彩色キノコを、レディンは大慌てで投げ捨てた。
珍しく声を荒げた様子から、かなりの猛毒キノコだったらしい。
「……あの、アルマさん。僕の方は大丈夫なので、アーシェルの様子を見てやってください」
どこか疲れたような苦笑で追い出されたアルマは、頬を膨らませて立ち上がった。
だが毒キノコを食べるつもりも無いので、ここは専門家に任せて言われた通りアーシェルを探すことにした。
「あ、いたいた」
アーシェルは数歩離れたところで木の根に座り、休憩を取っていた。
「アーシェル、お疲れ様。どんな感じ?」
「……これ、拾った」
ぬっとアルマの眼前に差し出されたのは1本の暗色の棒。
棒はアルマの身長ほどの長さがあるのにピンと一直線で、木の枝にしてはあまりも人口物じみていた。
手に取ってみると、その感触はひんやりと手に冷たい。
「これって、もしかして、鉄なの?」
「そう。槍の柄の部分……ほら」
アーシェルが指差した棒の先端には、刃の根元らしきものが僅かに残っていた。
刃の部分だけがボッキリと折れて、そのまま捨てられたものらしい。
「そっか。ここは昔、軍の演習場だってマティリアが言ってたっけ……他にも何かあった?」
「ボクが見つけたのは、それだけ」
「そう、でもこれは使えそうね。やったじゃない!」
「……」
アルマの賛辞にアーシェルは黙って俯いてしまった。
不機嫌になったのか、照れているのか、それとも無視されているのかすら分からない。
よくもまあ、あのシュルトがこの無口な少女の心理を理解したものである。と同時に、2人の間で何があったのか無性に知りたくなった。
「ねえアーシェル、シュルトはなんて言ってあなたを誘ったの?」
「……聞きたい?」
アーシェルの空色の視線にアルマの青銅色の瞳が重なり合う。
これはうまく行けばアーシェルと打ち解けるチャンスではないか。
そう思ったアルマは持てる愛想を全てかき集め、極上の微笑を浮かべて頷いた。
「うん、教えて欲しいな」
「……いや」
無性にノミ打ちに戻りたくなった。
(深呼吸。深呼吸よ、アルマ)
ひゅうひゅうと深呼吸を繰り返し、喉元まで出かかった怒声を飲み込んだ。
そんな事などお構いなしに、アーシェルは棒を撫でて悦に入っている。
(くそぉ、本人から聞いてやる)
アルマは早々に標的を切り替えることを決めたのだった。
残る仲間はペンと羊皮紙を持ち、気難しい顔で湿った土の上を闊歩していた。
「シュルト、地図は順調に描けてる?」
「歩測中だ。話しかけるな。62、63……」
にべも無く会話を打ち切られた。
しかし、ここまでブツリと拒絶されると、返って闘志が沸くというモノだ。
アルマは地図を覗き込むようにシュルトの横に並ぶ。
シュルトは横に並ぶアルマを横目でちらりと見ると、一瞬微妙な表情を浮かべたが、すぐに無視するかのように作業を続けた。
咎めないのをいい事に、アルマは手近な木を指差して尋ねてみる。
「ねぇ、あの木ってすごく固かったんだけど、なんていう木か知ってる?」
まあ無視されるかな、と思って聞いたのだが、シュルトは以外にも素直に答えた。
「オークだ。66、67……」
「オーク!」
シュルトが答えたことも驚いたが、その内容にはさらに驚愕した。
オーク材と言えば非常に高価な値で売り買いされている材木だ。少なく見積もっても1本が金貨1枚になる。
にも関わらず全く伐採されていないのは、国がこの島を厳重に管理しているからだろう。
ますますこの島、この学院への疑問が募る。
(うーん、考えるにはまだ材料が足りないなぁ)
悩んでもしょうがない事だと気持ちを切り替えると、道端に小さな花が咲いているのを見つけた。
「あ、奇麗な花が咲いてる! シュルト、名前とか分かる?」
「シノニムだ。72、73……」
「へえ、シノニム。聞いたこともないわ……ねえ、なんで花の名前とか詳しいの?」
しかし、シュルトはその質問に答えるつもりが無いようだった。
アルマの質問を一切無視するごとく、歩測の声音を強くした。
「78、79、80、81」
「83」
「8――っ!」
物凄い形相で睨まれた。
青筋がくっきり見えているどころか、怒りのあまり歯がカチカチと音をたてている。
「あ、あはは。冗談じゃない……その、ごめんね、シュルト」
流石に調子に乗りすぎたかなと謝る。
シュルトはしばらくアルマの申し訳なさそうな顔を睨みつけて、やがて盛大なため息を吐いた。
「お前は、何故――」
「な、なに?」
2人の剣呑な雰囲気に、何事かとカンナやレディン、少し遅れてアーシェルも集まってきた。
「シュルトさん、何かあったんですか?」
心配そうに近づいてきたレディンをシュルトは鬱陶しそうに手で払う。
「何でもない……だが、アルマ。お前にひとつ聞きたい」
「――なに? スリーサイズは秘密よ?」
しかし、シュルトは眉をピクリと動かしただけでアルマの軽口を流し、疲れたように尋ねた。
「お前、何故そこまではしゃいでいる?」
「はしゃぐ?」
最初は何のことかと思ったが、言われてみれば確かに少しだけ、いや、かなり浮かれていたかもしれないと気付く。
アルマは何故自分がこんなにウキウキしているのか、頭をかしげて考える。
「ああ、そっか!」
そう叫び、照れたようにはにかんだ。
「私ね。こうやって友達と遊ぶ事が夢だったみたい」
「遊ぶ、だと?」
シュルトがムッとしたように返したので、アルマは慌てて説明した。
「ああ、違うのよ。遊ぶって、こうやって友達と並んで歩くって、そういう意味なの」
「はあ、それがアルちゃんの夢だったんですか」
「――うん、たぶんそう」
アルマは地面に落ちていた木の実の残骸をつま先で軽く蹴ると、4人の仲間を振り返った。
「私、5歳の頃から綿工場で夜遅くまで働いて、帰ったら寝るだけ。来る日も来る日もガッタンガッタン。そんな生活が10年近くもずぅーと続いてたから、友達と楽しく歩いている子達を見ないようにしてたの」
そこで、アルマは目を閉じ、過去の自分へ確認しながら続けた。
「きっと、見ちゃうと羨ましいって思うのが分かってたんだと思う。で、イジイジ嫉妬するのなんて絶対嫌だったから、すれ違う時でも目を閉じてたの――」
でもね、と肩をすくめた。
「目を閉じたって、羨ましいものは羨ましかったのよ。私だって同い年の友達と笑って歩きたい、なんて夢を心のどこかでずっと持ってたのね」
「――それで、自分が不幸だったとでも言うのか?」
咎めるように口を挟んだのはシュルトだ。
しかし、その言葉の意味が分からないと言うようにアルマは首を傾げた。
「不幸ねぇ。私は、貧しかったとか不幸だったとか、どうでもいいかな」
アルマは「うん」と頷くと、迷い無く断言した。
「私が大切なのはね、過去より今。ついでに未来。過去なんかいくら幸せでも、今が不幸なら不幸でしょ? 逆に今、私はこんなに幸せだから、過去なんてどうでもいいの」
「ええ、そうですね」
アルマの意見に笑って頷いたのは、レディンだけだった。
だが、今はそれで十分だ。今、理解してもらえない仲間がいるなら、いつかの楽しみに取っておけばいい。
折れない剣、その柄にあたるのは希望なのである。
「さあ、私の昔話はこれでおしまい。それより忘れてないでしょうね。この探索の最終目的はランプに使える油の確保と、そして――」
アルマは森の奥に宣戦布告するべくビシリと指を突きつけた。
「肉よ!」
クイクイ
言い放ったアルマの裾を、アーシェルがひっぱっていた。
「アーシェル、どうかしたの?」
「肉なら、あそこ」
「へ?」
アーシェルが指差す先を見る。
目を凝らすまでもない。
薄暗い樹林の影に、何かがいた。
「な、なにあれ!」
その距離にして20歩程度の距離の先、そこに巨大な獣がいたのだ。
真っ黒な毛並み、重量感溢れる巨体、四足で立っているのにアルマよりも上背が高い。
「あんな動物、僕も知りません。ツチウシ、いえ、イモシシでしょうか?」
「イモシシって、そんな、大き過ぎますよ!」
「……肉」
巨大な獣は、アルマ達の声を聞きつけたのか、ズシンと足音を響かせ振り返る。
そして、アルマたちを認めるや、グググと唸り声をあげ始めた。
シュルトが緊迫した叫び声を上げる。
「まずい、気が立っている! 逃げるぞ!」
「え? えええええっ!?」
獣に睨まれて混乱するアルマは、シュルトの叫びにすぐに反応する事ができなかった。
グオオオッ!
木々を震わす雄叫びと足音をあげ、黒い獣はアルマ目掛けて、突進を開始した。