第11話:親子のキズナ(中)
「いやだ! やめて! やめてっ!」
必死で叫んだのに、後ろで腕を捻り上げている男は、手を緩めるどころかますます締め上げた。
男は薄暗い小屋の重厚な扉をギギィと開くと、その中へ突き飛ばす。
ズササッ
土の床に肩を打ち付け無様に倒れた。
服の中に砂が混じり、埃っぽい匂いが鼻をツンとつく。
「よう、名無しのカサマ」
狭い小屋の中には、何人もの大人がこっちを見下ろしていた。
どの目も、血に飢えた獣の目だ。
「――や、やめて」
両手で頭を抱え怯えた姿を見て、大人達はゲラゲラと笑う。
その中の1人、片腕の男は髪を根元から捕むと強引に引き上げた。
「おいおい、名無し。指導してくる人にそんな態度はないだろう?」
「ひっ、ご、ごめんなさ――」
言葉を最後まで言う前に、顔を地面に叩きつけられた。
ジンと麻痺したような感触の後、痛みが鈍く響き、鉄の味が口に広がる。
これが、3日に1度は繰り返される日常。
かつて砂漠の民を苦しめていた盗賊達は壊滅し、砂漠には平和が戻った。
でも、この歪んだ世界は砂粒ほども変わらなかったのだ。
何本もの手が伸びてきて、腕や足を掴むと左右の壁へ繋いであるロープにきつく縛られた。
「わかってんのか? 盗賊どもが金鉱脈を掘り尽くしたせいで、俺達は満足に飯も食えねぇ。その上でお前のような厄介者を抱え込んでやってんだぞ」
「お前のせいで一体どれだけの食料が無駄になったと思ってる」
「それを感謝も出来ないなんてな……こう言うヤツには指導が必要だろ?」
「ああ、きついヤツが、な」
最初の一人が、拳を握り込む。
「あ……やめっ」
そして、小屋の扉は閉められた。
ズキン ズキン
だらりと下がった腕が焼け付くように熱いのに、体の芯は風邪を引いたような寒気がする。
唾を吐けば真っ赤で、喉はカラカラに渇き、視点が定まらないほど朦朧としていた。
――でも、帰れば、休める
早く横になって眠りたい一心で、寝泊りしている納屋へと一歩、また一歩と進んだ。
だが、ジリジリと肌を焦がす陽の光りに体力は次々に奪われていく。
やがて膝がガクガクと笑いだし、視界が濁ったように黒く変色していった。
――さむい
そしてそのまま力尽きてうずくまると、道端のゴミのように、ひっそりと倒れ伏した。
「コクン……うっ、ゲホッ! ゲホッ!」
喉に注ぎ込まれた何かに思い切りむせた。誰かが水を飲ませていたのだ。
しかし、頭痛が酷くて視界がぼやけ、そいつが誰だか良く分からない。
分かったのは日を遮る屋根がある事と、背中に回された大きな温かい手。
「ああ、よかった。大丈夫ですか?」
男の心配そうな声が聞こえる。
焦点が合って最初に目に飛び込んだのは、鮮やかな金色の髪だ。
真っ白な肌、澄んだ空色の目……驚くべきことにそいつは砂漠の民ではなかった。
「剣の……民」
この砂漠は去年、剣の国に吸収され、剣の民もこの地に入る事を許されるようになった。だが、こんな何も無い荒野に来るのは、行き詰った行商人か物好きな旅人くらいだ。
しかし、この男はどちらでもなさそうに見える。
色白で、ひょろひょろの頼りない華奢な体、そして柔らかな金髪の優男だ。
服装はさらにおかしかった。この暑いのに暗色のローブをきっちり羽織っている。
――へんなやつ
それが、その男への第一印象だった。
男は何が嬉しいのかニコニコと笑いながら名乗る。
「私の名前はクラインです。宣教師……ええと、砂漠の民の皆さんに神様の事を伝えに来ています。こちらは娘のアーシェル」
言われて始めて男の足元に隠れるように、小さな女の子がいる事に気が付く。
少女はパッと見た目では砂漠の民の少女かとも思ったが、目の色だけはクラインと名乗った男と同じ、空色だった。
――きれいな色
少女は見つめられると、クラインの後ろにすっぽり隠れてしまった。
「すみません、4歳になって急に人見知りをするようになったんですよ」
クラインは苦笑すると娘の頭にポンと手を置き、頭を下げた。
本当におかしなヤツだった。こんな7歳の子供に、こんな名無しに頭を下げ、丁寧な言葉を使う人間なんて、ここには1人だっていやしなかったのだ。
「それより、一体何があったのですか? 喧嘩――にしては怪我が酷すぎるようですが」
「……それは」
思わず正直に答えようか迷う。そうさせてしまう雰囲気がこの男にはあったのだ。
だが、言葉を口にするより数瞬早く、クラインは「ああ、そうだ」と声を上げる。
「忘れてました。まずは君のお名前を教えてくれませんか?」
「っ!」
名を尋ねられた瞬間、湧き上がる怒りを感じた。
――こいつは、何も知らないんだ。知らないくせに
興味本位でずけずけと詮索しようとしたのだ。そこの事が急に腹立たしくなり、クラインに分からないよう足元の砂をこっそりと掴んだ。
名前を答えない理由を痛むせいだと誤解したのか、クラインは慌てて言う。
「ああ、すみません。まだ体調が悪いのですね。ゆっくり休んで――わぷっ」
「うるさいっ! よそ者が知らないくせに、偉そうに言うなっ!」
思い切り素直投げつけて叫ぶと、ふらつく足に鞭打って自分の家である納屋へと駆け出した。
「君っ!」
後ろからクラインが叫ぶ声が聞こえる。
だが、どんな罵声が飛んできても怖くない。
そんなものは聞き飽きていた。どんな言葉だってもう心には届かないのだ――
「私はいつも、この先の広場で勉強を教えてます! よかったら君も来ませんか!」
――は?
ついさっき、砂を顔に投げつけたはずだった。目や口にたっぷりと入れてやったはずなのだ。
なのになぜ、と振り返る。
視界に入ったのは、目を擦りながら満面の笑顔で手を振るクラインのひょろりとした姿だ。
背中に残る大きな温かい手の感触を思い出し――訳もなく怖くなった。
「だっ、誰が行くもんか!!」
抗うように懸命に叫んだが、クラインはそれすら微笑みで包み込む。
「でも、私は諦めません! 君をずっと待ってます!」
「っ!」
気がつくと、クラインに背を向けて走っていた。
その声の余韻からから逃げるように、懸命に。
しかし、納屋に帰っても少しも休めなかった。
胸がざわついて、あのクラインとか言う男の笑顔が頭から離れないのだ。
それが腹立たしいのか、悔しいのか、それとも
――なんだあいつ、なんだあいつ
野鳥も鳴かない夜なのに、心が騒がしくて眠れなかった。
朝、いつものように水を汲みに家を出た。親代わりと称してこき使う一家のための水だ。
――広場で、勉強……待ってる……ずっと待ってる
重い水瓶を頭の上で支えながら、しかし頭の中は昨日の言葉で一杯だった。
まだ疼いている体の痛みすら忘れそうなほどだ。
しかし、それがまずかった。
突然、視界に大きな影が落ちる。
考えに没頭していたため、誰かが接近した事に気が付かなかったのだ。
易々と近づいた男は、重い水瓶を支えて不安定な足元を、容赦なく蹴り払う。
なす術もなく地べたに倒れ、水瓶は乾いた音を立てて粉々に割れてしまった。
「おいおい、水瓶を壊しちゃダメだろう?」
「あ、あああ……」
足を払った男は、挑発するように肩を叩くが、水瓶を落とした事がショックで地面から起き上がれないでいた。
このまま家に帰れば、水瓶の代金は食事から引かれる。最低でも三日は何も食べれないのだ。
騒ぎを聞きつけたのか、別の男たちもわらわらと集まってきた。
「おーい、どうした?」
「名無しのカサマだよ! こいつ、金もねえのに親代わりの水瓶を割っちまったんだぜ」
「んだとぉ? どうしようもねぇな、名無しは」
わらわらと男たちが集まってくる。よりによっていつも暴行を加えてくる大人達だ。
こうなれば、もう助けは無い。親代わりの一家ですら、全く黙認しているのだ。
「昨日あれだけ指導してやったのにな。結局は親なし名無しの恩知らずか――」
「おら、さっさと立てよ!」
誰かが放った蹴りの爪先が、脇腹に深く突き刺さる。
呼吸が止まり、激痛に地をのたうって体を丸めた。
だが、丸くなってかえって蹴り易くなったと言わんばかりに、幾つもの足裏が休む間を与えず体中を蹴りまわす。
止めどなく降り積もる罵声と暴力を浴びながら、心で何度も呟く。
――終われ 終われ 終われ 終われ 終われ
しかし、唾を吐きかけられても、腿を蹴られても、地面に頬を削られてもいっこうに終わりは見えない。
やがて、片腕の男に顔面を思い切り蹴られ、鼻血が吹き出ると、四肢の力が抜け落ちてその場にゴロリと転がった。
「お、死んだか?」
「まさか、そう簡単に死なないだろ」
「そうそう、まだまだこれからじゃねえか」
――終わらない
たとえ今、この大人たちが飽きたとしても、すぐに同じことが繰り返される。
この日常は永遠に終らないのだ。
手の甲に硬く尖った何かが触れた。割れてしまった水瓶の破片だ。
――そうか、終わらないなら、ぼくが終われば……
震える手で、鋭利な破片を手に取る。
その時だった。
「――何を、しているのですか?」
氷のように冷めた声は、暴行に熱中していた男たち手を止めさせた。
濁った視界の中、男の姿が映る。
最初に目に止まったのは綺麗な金髪。そして、昨日とは別人のような怒りの顔。
「その子が、何をしたのですか?」
クラインはそのひょろりとした華奢な体で、屈強な男達の中へと割って入ってきた。
それは明らかに場違いで無謀だった。
「ば、か……くる、な」
言葉はうまく声にならない。
クラインは聞こえなかったのか、聞いていたのに無視したのか、立ち止まる事なく近づき、目の前まで来ると膝を屈める。
そして、周囲の視線を気にせず、ローブが汚れる事も厭わず、二本の腕でそっと抱きしめた。
「すみません――今まで、助けに来れなくて」
――なんで、こいつは、
訳が分からなかった。
何で謝るのだろう。背中には無視されて苛立った男達がずらりと並んでいるのに、それが分からないのだろうか。
男達は、無視された憤りをそのままに、再び周りを取り囲んだ。
「おいおい、こいつ異教徒の坊主だぜ」
「ガキどもに勉強教えるからって特例で村に住みついてるヤツか」
「はっ、剣の民はお気楽なもんだな」
「おいっ! 聞いてるのか?」
クラインは肩を乱暴につかまれ、しかし、自分の意思で立ち上がった。
「答えなさい、これはいったい何なのですか?」
隻腕の男が一歩進み出てると、クラインの空色の瞳を睨み上げる。
「お前には関係ねえよ、ひっこんでろ邪教徒のくそ坊主」
「関係無い? 私はここにいます。理由はそれで十分です」
一瞬の沈黙の後、大人たちは気色ばんだ。
「おい、こいつ調子に乗ってるぜ?」
「ああ、砂漠を占領したと勘違いしてやがる」
「バカじゃねえ? ここでお前らのクソ神を拝むヤツなんて1人もいねえんだよっ!」
「お――」
「答えなさいっ!!」
痩せっぽちのクラインが発したとは思えない大声量に、しん、とその場が静まり返る。
「この子が、なぜこんな暴力を受けねばならないのですか! さあ、答えなさい!」
隻腕の男がポツリと答える。
「――指導だよ」
眉をひそめ「指導?」と聞き返すクラインに、隻腕の男は「そうだ」と説明を続ける。
「こいつには親も名前も無い。砂漠で名が無いと言う事は、人間ですらない。だから、親切にも人間として生きれるよう指導してやってたんだ」
「馬鹿な! そんな指導があるものですか! 大体、名前くらい付ければいいじゃないですか!」
この激昂に、周囲の男達は息を吹き返したようにゲラゲラと笑い出す。
「砂漠じゃ、親以外は名を付けれないんだよ。そんな事も知らねえのか?」
「名前を付けたきゃ、そいつを子供にしな」
「そうそう、銀貨30枚をそいつの親代わりに払ってな」
「うひゃひゃひゃ、金払ってこいつの親になるって? ありえねぇよ!」
隻腕の男はクラインの襟首を掴むと、吐き捨てるように言う。
「もう一度だけ言う、何も見なかった事にして、帰れ!」
「――断ります。私は、この子の親になります。それなら文句無いでしょう?」
いとも簡単に、クラインが言ったので、しばらく何を言ったのか意味が分からなかった。
――親に、なる?
その意味を理解する前に、男は吠えるように叫んだ。
「もういい! てめえの偽善は反吐が出るぜ! おい、後悔させてやれ! 死ぬほどな!」
隻腕が白い頬へと殴りかかったのを皮切りに、周りで見ていた男達もクラインへと殺到した。
「お、おい、長だ! 長が来たぞ!」
暴行が始まって数秒後にその叫びが聞こえると、クラインに殴りかかっていた男達の手がピタリと止まった。動揺がその場の空気を走りまわる。
やがて、初老の戦士がその場に現れた。灰色のマントを羽織い、竜馬のような顔を不機嫌に歪めていた。
「これは一体、なんの騒ぎだ?」
青年達はその雰囲気に気圧されるように一歩下がった。
だが、クラインは口の血を拭うと、逆に笑顔で一歩を踏み出し、地に膝を着く。
「お久しぶりです、砂漠の長。この度は宣教活動を許可して頂きありがとうございます」
「うむ、クラインと言ったか。だがこれは一体何の騒ぎだ?」
クラインが答えようとすると、隻腕の男がずいと砂漠の長の前に立ち、訴え始めた。
「長! こいつが俺達の指導に文句を言ってきたんだ!」
「……指導に文句?」
「はい、名無しのカサマを指導してやってたのに、まるで俺達が罪人のように――」
「本当か、クライン」
厳しい目がクラインを射抜く。しかし、それでもクラインの笑顔は変わらなかった。
「はい、本当です。砂漠の長」
「――何故だ?」
「何故ですって? この少年を見て、分かりませんか?」
その途端、何十と言う視線が少年に注がれた。
鼻からは血が滴り、上着が真っ赤に染まっていた。
「この子に対する指導について、私は納得がいきません。ここまで暴力を加え、一体何が生まれるでしょう?」
「しかし、クライン。お前はそいつと関係が無い。お前に口出しをする権利はないのだ」
「いいえ、砂漠の長」
クラインは真っ直ぐに砂漠の長の目を見て、空のように澄み切った声で言った。
「私は、この子の親になります」
「……分かっているのか? 人の子の代価は銀貨30枚だ」
「はい、存じてます」
「分かっているのか? その者の責任を、これからはお前が背負うのだぞ?」
「それが、親です」
砂漠の長は、不機嫌そうな顔を緩めると、豪快に笑った。
「よかろう! 名を付けろ、剣の民よ!」
クラインは、呆然としているこちらに満面の笑顔を向けて、両手を広げた。
「レディン、君の名は今日からレディンだ」
泥と粘土で出来た小さな廃屋に足を踏み入れる。そこは、小さなロウソク1本の火でも十分に明るくなっていた。
「レディン、おいで」
名を呼ばれると背中がむずがゆかった。
部屋の奥からねずみのように何かが走りより、クラインの足へ黙ったまま擦り寄る。昨日見た空色の目の少女だった。なかなか父親が帰らないので不安になっていたのだろう。
「改めて紹介するよ、アーシェル――君の妹だ」
クラインは誇らしげに紹介するが、アーシェルは挨拶すらせず父親の背後に隠れてボソリと呟く。
「――こわい」
ムッとしたが、無理も無い。パンパンに腫れ上がったこの顔は、きっと自分が見ても不気味だろう。
「こら、アーシェル。レディンはアーシェルのお兄さんになるんですよ」
「……おにーさん?」
「そうですよ。ほら、手を出して」
「うー」
それは抗議だったのか、返事だったのか。
クラインに背中をポンと押され、アーシェルは恐る恐る顔を出し、小さな手を伸ばす。
「さあ、レディン」
手を繋ぎなさい、その目は雄弁に語った。
だが、手を差し出すだけなのに何故か体が強張り、心臓がドクンドクンと体に響く。
――怖い
これはきっと契約なのだ。新しい家族を認めるという、取り消しの効かない契約。
信じた後に裏切られれば、その時は心が粉々に砕けてしまうのだろう。逃げてしまえば、家族など知らなければ、そんなことにはなら無いのかもしれない。
――でも
クラインは銀貨30枚と言う大金を払い、何の役にも立たない『名無しのカサマ』に名をつけたのだ。
危険を物ともしないで、まっすぐに抱きしめてくれたのだ。
ならば、信じてもいいのではないだろうか?
レディンはアーシェルに負けないほどゆっくりと手を伸ばし、やがて、指と指が触れ合った。
そのタイミングを待っていたように、クラインの手が2人の手を包み込む。
水を飲ませてくれた時に感じた、大きくて温かい手。
ロウソクの火に揺れて、3人の手がつり橋のように重なっていた。
「さぁ、これで私達は一つの家族です」
それが、僕とクラインとアーシェル、3人の生活が始まった合図だった。