第10話:親子のキズナ(上)
綿雪のような日差しが、柔らかに降り注ぐ。
足元には一面の花。赤、白、黄、大小様々な花が咲き乱れていた。
ここはかつて、ドライ領の領主デイルトン邸内にあった、名も無き庭園だ。
その中心で一人の少女がたおやかに座り、精一杯咲いた花を褒めては微笑を浮かべている。その笑顔は庭園のどの花にも負けないほど、鮮やかに咲き誇っていた。
「――ねえさまっ!」
「あら、シュルト。どうしたの?」
陽だまりのような暖かく優しい声音。
その声を聞いただけでシュルトは胸が一杯になり、懸命に走り寄ろうとした。
しかし、思うように足が動かない。焦るあまり姉の大切にしている花を踏みつけそうになり、必死でよけた。
グラリ
無理な体勢に体がつんのめり、そのまま顔から花畑に突っ込んでしまう。
「シュルト、大丈夫?」
柔らかな腕がシュルトの体をフワリと包み、ゆっくりと立ち上がらせた。
そして、体についた土を優しく払う。宝物を撫でるように、丁寧に、丁寧に。
この時、姉の注意は全て自分に向いているのだ。美しい青銅色の瞳に見つめられ、シュルトの心は陽を全身に浴びた花のように満たされていく。
しかし、それはいつまでも続かなかった。
「シュルト!」
突然強く名を呼ばれ、体をビクリと強張らせた。
その声を聞いただけで呼吸が詰まり、胸が苦しくなる。
「シュルト、どうしてお前がここにいる? 剣の稽古はどうしたのだ!」
恐る恐る振り返ると、想像した通り、眉間に険しい皺を刻んだ父が立っていた。
その足下には、潰された花々が苦しそうに横たえている。
「あ……あの」
「なんだ、何を言いたい? お前はいつかこのドライ領の領主となるのだ、自覚を持ってハッキリと答えろ!」
「あの……もうしわけ……ありません」
「この腑抜け者が!」
次の瞬間、剣の鞘で顔を横殴りにされた。
容赦ない一撃に体が宙に浮き、花畑を削りながら地面に倒れ伏す。
「お父様! なにもそこまでしなくても!」
倒れたシュルトに駆け寄り、かばうように父を睨み上げた。
しかし、デイルトン公爵の言葉は娘の上に冷徹に降り注ぐ。
「エステル、お前か?」
「――え?」
「お前がシュルトを唆し、ここに連れて来たのか?」
「…………ええ、そうです。私が――」
再び鈍い音が響き、殴られた少女はシュルトの目の前で力無く倒れた。
「ねえさまっ!」
シュルトは悲鳴を上げた。
幼いとは言え、姉が自分を守るためにウソを吐いた事くらいは分かるのだ。
自分のやった事がこの結果を招いている――後悔のあまり悔し涙が零れる。
そんなシュルトを見て、父、デイルトン公爵は情けないと呟き盛大なため息を吐いた。
「まったく、なぜ由緒あるデイルトン家にこんな軟弱者が生まれたのか……おい、ヒルゾ!」
デイルトン公爵の呼びかけに、その後ろから一人の男がゆらりと現れた。
「将軍閣下が紹介して下さった戦士、ヒルゾだ。今日からお前達のガーディアンをやってもらう」
ヒルゾと呼ばれた男を見て、シュルトは言いようの無い嫌悪感を抱いた。
戦士と言うより、むしろ盗賊と言った人相。確かに体付きはよかったが、口元には嘲るような歪みが染み付いていたのだ。
「はじめまして、ヒルゾと申します。以後、お見知りおきを」
ヒルゾの目はぎょろりと血走っていて、まるで飢えたトカゲだった。
その赤茶けた瞳で睨まれ、口からはヒッと情けない悲鳴が漏れてしまう。
次いでヒルゾは未だに倒れ伏しているエステルに視線を移すと、舐めるように眺めた後――ニタリと笑ったのだ。
「うあああああ! ――はぁっ、はぁっ、はぁっ」
シュルトはベッドから起き上がり、激しく呼吸を繰り返す。
左目の傷が、鼓動にあわせてドクンドクンと疼いていた。
――ヒルゾ
その言葉を思い出しただけで恐怖が、後悔が、そしてそれらを飲み込むどす黒い憎悪が、体の奥深くから次から次へと湧き上がる。
「あの、シュルトさん、大丈夫ですか?」
暗闇の中から心配そうな声が聞こえた。姿こそ見えないが、隣で眠っているお人好しだろう。
夢の中の姉と同じような事を言われ、何故か言いようの無い怒りがこみ上げる。
――だめだ、今は怒りを抑えろ。俺には、支持者が必要だ
目的の為にはプライドなど捨てねばならない。どれだけ意に沿わぬ事だろうと、どれだけ泥に塗れようと、果たさねばならない事があるのだ。
シュルトは溢れ出そうな怒りを、大切に心の中へしまった。
「ああ、大丈夫だ。騒がせて悪かった」
「そうですか……あ、そうだ! 明日の朝、僕の知り合いをアルマさんに紹介するのですが、よかったら御一緒にどうですか?」
「…………」
「きっとアルマさんも喜びますよ」
――有り得ない事を
シュルトは心の中であざ笑う。
自分が行けば、その紹介は台無しになるに決まっているのだ。
そうなれば、あの少女はどんな顔をするのだろうか。
そしてその先に、どんな結論を出すのだろうか。
――見極めるには、ちょうどいい機会か
捨てられるなら、早いほうが良い。
シュルトはそう納得すると、努めて穏やかに告げた。
「分かった、明朝だな」
翌朝、レディンは上機嫌でシュルトを連れて部屋を出て、アルマ達のいる4棟へ向かう。
なにせ、ようやくあのシュルトを連れ出す事に成功したのだ。
しかし、部屋を出て外に出ると、どこからか刺すような視線を感じた。敵意と憎悪が入り混じったような視線だ。
視線の主を探そうとしたが、それは1人ではない。寮の窓から、木陰から、すれ違う道すがら、その視線は投げかけられた。
目が合った途端、背を向けた者はまだいい。
汚いものを見てしまったとばかりに、唾を吐き捨てる者。
隣にいる者になにやら耳打ちしては嘲笑する者。
それはまるで悪意に満ちた世界だ。
――これが、シュルトさんのいる世界
砂漠の民にであるレディンも、ここで奇異の目で見られることはよくある。しかし、これほど多くの者に、敵意を向けらているとは思わなかった。
――シュルトさんは、いつもこんな視線に晒されているんだ
そう思った途端、レディンはどう話し掛けて良いか分からなくなった。
どんな言葉を使っても、同情や憐憫に聞こえてしまうのではないかと怖くなったのだ。
同情と憐憫、それらはかつてレディンが最も嫌ったことだった。
――でも、折角のチャンスなのに、何か会話をしなくては
そう考えれば考えるほど2人の間から会話が途切れ、あぜ道を黙々と進み続ける事になったのだ。
とうとう会話らしい会話もせずに、アルマ達の部屋の前まで着いてしまった。
「あの、ここがアルマさん達の部屋です」
ようやく出せた言葉は、そんな分かりきった事だけだった。
レディンは自分の不甲斐なさに小さく息を吐くと、扉に手を伸ばした。
コンコン
「はいはーい、ちょっと待ってね」
すぐに明るい声が返り、扉が開かれた。そして声以上に上機嫌の顔がひょこりと顔を出す。
肩上で切り揃えられた短い薄茶色の髪に青銅色の瞳。昨夜、強面の男達に啖呵をきったとは思えないほど細々としたこの少女は、しかし間違いなくアルマだった。
「おはようございます、アルマさん。今日はシュルトさんも連れてきました」
「え?」
アルマは驚いてシュルトを見ると――意外な事に彼女は不機嫌な顔でシュルトを睨んだ。
「あ、あれ? あの」
ひょっとして連れてきてはまずかったか、レディンがそう気にかけた時、彼女はシュルトの胸にビシリと人差し指を突きつけた。
「ちょっと、シュルト! あなた昨夜、私の誘いを断ったでしょ!」
「……なんだと?」
シュルトが困惑の表情を浮かべた。
「なんだと、じゃないわよ! お陰で私、粉をこねすぎて今日すっごい筋肉痛なのよ? 食べるもの食べたのなら、その分はちゃんと働きなさい! 分かった?」
「……あ、ああ」
シュルトは勢いに押されて頷く。
その様子を見て、レディンは呆然とした後、盛大に噴き出した。
「なによ、レディン」
「ごめんなさい、なんでもないんです。ええ、なんでもなかったんです」
――そう、彼はシュルトだ。それだけだったんだ。そんなこと、僕が一番良く知っていたはずなのに……
レディンは何を悩んでいたのかと、ひとしきり笑った後で、ハタと辺りを見回す。
「あれ、そう言えばカンナさんがいないようですが?」
「そうなのよ。カンナってば今朝早くに用事があるって出てっちゃったのよね。レディンが来るって行ったのに。もうっ」
「そうですか……」
「――あれ? 気になる?」
アルマがにやにやと顔を覗き込んできた。
その意味が分からずレディンが首を傾げると、「なんでもないわよ」とため息を吐き、彼女は別の質問を投げかけた。
「で、レディンが紹介してくれる人って、どんな人なの?」
「ああ、まだ言ってませんでしたね。名前はアーシェル=クライン。アルマさんと同じ14歳の女の子ですよ」
「女の子!? そっかぁ、てっきり男だと思ってたわ。でも女の子で、しかも同い年なんてちょっと嬉しい誤算かも。ねぇ、どんな子なの?」
アルマがウキウキと身を乗り出すように聞くと、レディンは言い難そうに頭を掻く。
「そうですね、ちょっと変わってますが、大体は大人しい子で……ああ、そうそう、剣の民と砂漠の民のハーフですよ」
「砂漠の民とのハーフ? そりゃ珍しいわね。学部は? 工学部?」
「はい。この4棟の3階に居るそうなので早速行ってみましょう。でも、協力が得られるかどうかは期待しないで下さいね」
「分かってるって」
そう言いながら鼻歌を歌っているアルマを見ると、どうにもその言葉は信用できなかった。間違いなく、協力してもらえると期待しているに違いないのだ。
レディンはアルマに知られないように小さくため息を吐く。
――たぶん、いきなり追い返される事はないと思うけど
むしろ、勝算は薄いのだ。
3人はゾロゾロと一列になり3階へ上がった。
あれこれと心配しながら先導するレディン、それに続くひたすら上機嫌なアルマ、さらに後ろから黙ってついてくる不機嫌そうなシュルト。
外から見ればさぞ珍妙な一行だったろう。
やがて、目的の一室を見つけると、レディンは本日2度目となるノックをした。
「こんな朝早くにだれよ?」
不機嫌そうな足音がダンダンと近づき、半分だけ扉が開く。
そこからはやはり不機嫌そうな半眼が覗いていた。
「あんたら、誰?」
「ええと、ここにアーシェル=クラインという方がいるはずなんですが」
「ああ、アレの知り合いなんだ――ちょっと! あんたに客よ!」
そう言い放つと、乱暴に扉を閉め「もう、朝から面倒かけないでよ」とブツブツ呟きながら引っ込んでいった。
「……今のがアーシェルって子じゃなくてホント良かったわ」
そのアルマの呟きに、レディンは苦笑するしかなかった。
やがて、入れ替わりに一人の少女が扉を開いて出てきた。
藍色の髪、小麦色の肌、そこまでは砂漠の民の少女そのものだ。しかし、少し眠そうな瞳は、砂漠の民ではありえない綺麗な空色をしていた。
首筋までの髪を両肩の上で2つの金管を使って止めており、それがよく似合っている。レディンの言うとおり大人しそうな少女だ。
しかし、レディンの顔を見るなり少女は眉根を寄せ、険しい顔を作った。
「……帰って」
いきなり言われた言葉に、レディンは焦ったように口を開く。
「アーシェル、何度も言うけど僕はフェン爺さんから君の事を頼まれてるんだ。すこし話を聞いてくれないか?」
「話す事なんか無い。帰って」
アーシェルと呼ばれた少女は、にべも無くそう告げる。
これは不味いと、アルマが横から一歩身を乗り出した。
「あの、アーシェルさん。私ね――」
バタン!
問答無用とばかりに扉は閉められてしまった。
レディンは申し訳無さそうにアルマに告げる。
「どうもアーシェルにはまだ嫌われていたみたいで。お役に立てなくて申し訳ありません」
「……っふ」
「あの、アルマさん?」
俯いていたアルマが、ギリギリと錆びた鉄のように顔を上げた。そこには壮絶なまでの笑みが浮かんでいる。
「うふふふふふ――私を無視するなんて良い根性してるじゃない。でも、まだよ! これくらいであきらめる訳ないじゃない! さあ、戻って作戦会議よ!」
アルマは自分のベッドに腰掛け、レディンとシュルトは言われるまま椅子に座る。
つまりアルマは自室に男2人を連れ込んだことになるのだが、彼女にそういう自覚は皆無のようだ。
「あの、アルマさん。僕らを信用してくださるのは嬉しいですが、一応、僕もシュルトも男なので、そう簡単に部屋に上げるのは――」
「そんな事は明日から考えるわ! 今はあのアーシェルとか言う子の攻略よ!」
ダンと机を叩いて、悔しそうに親指の爪を噛んだ。
そんな彼女を見て、シュルトは嘆息する。
「……やはり、似ているのは瞳だけか」
「何? シュルト、なんのこと?」
「何でもない。それより、レディン。あのアーシェルとかいうヤツは、明らかにお前を憎んでいた。それも、相当根が深い。どういうことだ?」
「ええと……」
レディンは頭を掻いて、答えにくそうな顔をする。
「レディンのプライバシーに関わる事なら、別に言わなくてもいいわよ」
「――――いえ、話します」
「無理しなくてもいいのよ?」
レディンは頭を掻いていた手をひざに乗せ、ゆっくり首を振った。
「いいえ、きっと今が話す時なんです。むしろ、これは神様がくれたチャンスでしょう。あなた方2人になら僕とアーシェルの過去を聞いて欲しい――ただ、長話になりますが、いいですか?」
「レディンがいいならね。本音を言うとあの子に何を話していいか分からないもの。シュルトは?」
「俺が聞いたところで、どうなるわけでもないが……時間はある」
2人それぞれの承諾を得て、レディンは大きく頷くと目を閉じ、過去をなぞるように話し出した。
「まず僕の生まれた時のことを話さないといけませんね。僕が生まれたのは17年前――ですが僕の母親は僕を生む前に、死にました」
「はい?」
アルマは耳を疑った。それでは一体どうやって生まれたというのだろう。そう聞くと、レディンはアルマの目を見て、淡々と過去を語る。
「17年前、砂漠の民は盗賊たちに追われていました。そして母は僕を出産する直前、襲ってきた盗賊達から逃げる事も出来ずに殺されたのです」
「酷い……」
アルマが口を抑え、シュルトの顔が苦虫を噛み潰したかのように歪む。彼の父は、その盗賊団と密通していたのだ。
「でもその直後、当時砂漠の長だったディアナ様という方が盗賊を撃退し、死んだ母の胎を切り開き、僕を取り出してくれたそうです」
シュルトを安心させるかのように笑いかけ、話を続ける。
「だからそれは良いんです。だって僕はそんな事は覚えていないですし。むしろ、そんな状況でも生まれる事ができるなんてラッキーですよ。親代わりになってくれた人もいましたしね」
レディンはそこで少し言葉を切り、もう一度目を閉じた。
「ただ、親がいない僕には名が付けられなかったのです。ただ、カサマという姓があるだけでした」
「たしか、砂漠の民は、男ならセカンドネームを、女ならファーストネームを付けるのよね。親代わりの人に付けてもらえないの?」
「できません、実親が付けなくてはなりません。だから、僕は――名無しのカサマだったのです」
どこか自虐的な口調に、彼らしくないとアルマは不思議に思った。
「名前がないと砂漠では人間と認められません。それにあの頃は、盗賊たちから逃げるので精一杯で、みんな精神的に追い詰められていました。そこで、僕はその――怒りのはけ口のようなモノになっていたのです」
アルマが息を呑んだ。淡々と話しているものの、それが示す事は恐ろしい現実だ。
しかし、話しているレディンの表情は、むしろ穏やかと感じれるほど優しい。
「辛く、なかったの?」
「それは、確かに辛かったです。でも、もう駄目だと思った時に来てくれたんです」
「――誰が?」
その問いに、砂漠の少年は誇らしげに答えた。
「アーシェルと、クライン先生です」