第1話:歪んだサイン
読んでくださって嬉しいです。
この物語は前作、剣の国の黒猫から12年後の物語ですが、続編ではありませんので、前作を知らなくても楽しめます。
不定期更新ですが気長にお付き合いくだされば嬉しいです。
アルマは待っていた。
家の戸に耳をあて、目を閉じ、外の音に全ての意識を傾けて。
戸に張り付いたその様子は雨上がりに空を望む蛙のように奇妙で、静かで、切実だった。
肩上で切り揃えられた短い薄茶色の髪が隙間風に小さく揺れる。
短髪は貧困者の象徴であり、やせ細った体付きからも貧しい食生活を思わせる。
だが何より貧困を示しているのは、まだ寒いノイン領の朝に薄っぺらな麻のワンピースしか着ていないことだろう。
まして、アルマが張り付いている木の扉は朝露に湿っており、彼女の体温を確実に奪っていく――決して賢い行為とは言えなだろう。
だが、もう来るはずなのだ。
彼女の全てを賭けた試験の、その結果が。
コツ コツ コツ
扉の向こうから規則正しい足音が近づいてくる。
アルマの強い意思を思わせる瞳がパッと開いた。
次いで心臓が高鳴り、胸が詰まり、呼吸が速くなる。
だが、自分が緊張しているのだと気づく余裕すら今の彼女には無かった。
「ヒンメルさーん、お手紙ですよー」
「はいっ!」
間延びした声が聞こえるや、アルマは勢い良く扉を開け放った。
彼女の青銅色の瞳に飛び込んだのは、褐色のコートを羽織った配達屋の驚いた顔。
アルマは焦る気持ちを白い息と一緒に、吐いた。
「それ、私宛てでしょ?」
「……え?」
「そのお届け物は、アルマ=ヒンメル宛てですよね?」
郵便屋は少女の切羽詰った表情に気圧され、わたわたと封書の宛名を確認する。
「ええと、はい、宛て先はアルマ=ヒンメルさんですね」
「きたあああっ!」
悴んですっかり赤くなった手で封書を引っ手繰った少女は、その勢いで開封しようとする。
我に返った郵便屋は「ちょっと、困ります!」と叫び、慌ててペンと紙を取り出した。
「それは国からの公書ですから、まずここにサインをお願いしますよ」
「ああ、もう!」
アルマは『返すものか』と言わんばかりに封書を唇で咥え、ペンと領収書を受け取る。
ペンは最新式でインクが中に入っているタイプだった。
(こんな機会じゃなかったらゆっくり使うのに……)
思うように動かない手を心で叱咤しながら糸くずのようなサインを書き、郵便屋の眼前に突き返した。
「――はい、確かに」
郵便屋はニッコリと笑いペンと領収書を受け取った。
そして、少女の口元――つまり、たった今配達が終わった封書に目をやる。
「ずいぶん待っていたみたいですけど、それ、一体なんの手紙なんですか?」
封書を口から離したアルマは、それを朝日に透かすように両手で掲げた。
「合格通知よ! 絶対!」
ここアルマの住むシュバート国は新生の民主国家だ。
ほんの10年前までは由緒ある王国だったが、不正のはびこっていた貴族体制に民衆が立上ちがって絶対王政は脆くも崩壊した。
あるいは、最後の王であるリア王が国外逃亡し、誰も王位を継げなくなったことが民主化の真因であると言う人もいる。
何はともあれシュバート国の貴族体制は消え、貴族が不当に利益をむさぼる時代は終わったのだ。
しかし、次にやってきた問題は人材不足だった。
シュバート国の教育レベルは低く、一般的に教育と言えば親が片手間で教える事を指していた。
政治家になれるくらいの教育を受けられる人間は裕福で時間に余裕のある元貴族達におのずと限られてしまっていた。
実際、領を治める知事の大半は元貴族である。
これでは何も変わらないと大衆は嘆いた。
その不満の声に国が取った政策とは、シュバート国で初となる学院の建設
――つまり、『シュバート国立学院』の建設である。
「で、結局、このガクインって何なの?」
アルマの母はテーブルに置かれた合格通知をつまみ、首を傾げた。
最近たるみを気にしている首筋に、はっきりと皺がよる。
「簡単に言えば……そう! 勉強を教える道場みたいな所なの。
海の向こうじゃ当たり前の制度よ」
「場所がツェン島って書いてあるけど、これっていったいどこなの?
遠いんじゃない?」
「ツヴァイ領にある港から船で半日、確かに遠いけど1年間泊り込みで勉強させてもらえるの。
つまり通う訳じゃないから距離は関係ないのよ」
「でも、1年も泊り込みで勉強することなんてあるのかねぇ?」
「あるのよ! お母さん、いい? 大事なところだからしっかり聞いてよね」
アルマは乾いてきた喉を潤すため朝食の林檎をかじると噛みもせずにゴクリと飲み込んだ。
喉元を通る異物感に少し涙目になる。
「私が合格したのは経済学部ってところなの。つまり、お金儲けの勉強ね」
「母さん、それは怪しいと思うわ」
「最後まで聞いてよ! ええと、なんだっけ……
そう! その経済学部を卒業すれば、こんなノイン領の田舎役人なんて選り取り見取り。
しかも、卒業試験で1番を取ったら、どうなると思う?」
「……もう1年、かしら」
「なんでよ!」
アルマは食べかけの林檎を宝珠のように母へ掲げてみせた。
「なんと、首都アインで文官になれるのよ! 男女関係無しで文官よ!
給料はなんと銀貨18枚! たった1ヶ月でほとんど金貨1枚分なのよ!
さあ、早くここにサインして」
熱を帯びて話すアルマに、しかし母の反応は冷たかった。
「母さん悪いことは言わないわ。せっかく美人なんだし夢みたいな話はやめて、ここで静かに暮らしなさい。
ほら、衛視のパルスタフさんなんてあなたのことを好きだって言ってくれてるじゃない?」
「やめてよ、おじさんじゃない。私まだ14なのに」
「アルマ! いくら油っこいからって失礼なこと言っちゃいけません!」
失礼なのは私じゃない――アルマはそう言いたかったが感情的になった母に何を言っても無駄だと思い反論を飲み込んだ。
それから母の小言が始まって、少し前まで体を駆け巡っていた天にまで届きそうな気持ちはすっかり霧散してしまった。
逆に林檎の果汁が手にベタついて酷く気持ちが悪い。
さっきまでは気にもならなかったのに。
「母さんはね、貧乏でも幸せな家庭を作って欲しいの。
いくらお金があったって幸せにはなれないのよ。
アルマは賢いから分かるでしょ?」
――違う。私が欲しいのはお金じゃない
「あなたには私みたいに傷ついて欲しくないの。
幸せになって欲しいのよ」
――違う。私の幸せはお母さんの幸せと違う
「だから学院だなんて行かないで、ここにいなさい。
ほら、そろそろ綿工場に行く時間じゃない。
こんな紙はもう捨てて――」
バンッ!
そこが我慢の限界だった。
食べかけの林檎をテーブルに叩き置くと椅子から立ち上がった。
「こんな紙だなんて言わないで!
これは私の全てなの!
これが私の14年間なの!」
「母さんはただあなたに幸せに――」
「そんなのうそよ!
お母さんはただ寂しいだけでしょ?
私に傍にいて欲しいだけでしょ?」
これ以上はだめだ、言っちゃだめだ。
そう思っても悔しさが一瞬で頭をぐちゃぐちゃにした。
「でもやめて!
私に依存するのはやめて!
私を父さんの代わりにしないで!」
「アルマッ!」
アルマは母の顔を見て酷いことを言ってしまった事を嫌というほど理解した。
でも謝れない。
もし謝ってしまえば、この合格通知はただの紙きれになってしまうのだ。
「――もう時間だから、行くね」
耐え切れず母に背を向けると仕事用のカバンを引っさげアルマは静かに戸口に向った。
バタンと乱暴に扉が閉まる音が聞こえても、母親としてアルマを追いかけるどころか「いってらっしゃい」の一言も渡せなかった。
しわだらけの自分の手の中には娘の食べかけの林檎がひとつ。
今日の朝食はこの林檎のみだ。
あとは夕食にパンが一枚だけ。
よくも『貧乏でも幸せな家庭』などと言えたものだ。
深く、長く、ため息が漏れた。
「あの子、やっぱりあなたに似てるわ」
窓から差し込む光に意思の弱そうな青色の瞳を向ける。
その目に映るは、色あせた幸せな過去。
「いつの間に試験なんか受けたのかしら。
いえ、いつの間に勉強していたのかも、私には分からないの。分からないのよ」
アルマは朝から日が落ちるまで綿工場で働いていた。
きっと身を削るような思いをしてランプの油を集めては、睡眠を削り勉強したに違いない。
それも母親の目を忍んでだ。
悔しさと情けなさが雫になって頬を滑り落ちた。
「アルマの言う通りね。きっと私は、あの子がいなくなることが、すごく怖い。
独りに耐えられるか分からないのよ……でもね、あの子がこのまま、飛べずにもがいて苦しむ姿は――」
かつて、優しく笑って支えてくれた夫は記憶の中で黙って微笑んでいた。
アルマとそっくりな意志の強い青銅色の瞳は、今でも鮮やかに思い出せる。
「ねぇ、私はどうすればいいの?」
聞くまでも無い。
きっと、彼ならいとも簡単に言うのだろう。
『もう、君の中で答えは出ているんだろう』
「――そうね。バカね、たった一年なのに」
涙を拭って笑うと、まだ震える手でペンを取った。