ゆきおんな
お前を傷つけるものは、私が許さない。
この里の冬は厳しい。
山の麓、しんしんと降り積もる雪は柔らかく、うっかり深みにはまると、足が抜けなく抜けなくなってしまう。
童は1歩1歩、雪を確かめるようにして、ゆっくりと、ゆっくりと歩いた。
手は壁を触りつつ、家の前まで辿り着く。
触れた家の戸に、ほっと息をついてから、戸を開けたと同時に、少しばかり驚いた男の顔があった。
「どこ行ってた? 心配したんだぞ」
おそらくは童の父親と思える男が、慌てて子供の側に寄ってきた。
「う〜んとね、かあちゃんに会ってきたの」
その言葉にハッとする。
そして、その直後に悲しげに眉を下げた。
もう子供の母親はいない。
男にとって唯一の愛しい女。
この子は、その女が残していった愛しい我が子だ。
もうじき8つの年をむかえる。
女がどこへ行ってしまったのか、今どうしているのか、男は知らない。
まだ赤子だった我が子と女と自分の親子3人で、静かに暮らしていただけだったのに。
それが突然奪われたのが8年前のことだった。
男の愛した女は人間ではなかったのだ。
真っ白い肌に、黒い髪、赤い目、冬の魔物。
ゆきおんな…
氷と雪を操り人間を弄ぶといわれる“ゆきおんな”は人間の恐怖の対象だ。
けれど男の側にいた“ゆきおんな”は全く違う。
心優しい妖だった。
人である男を愛し、子供を慈しみ、いつも柔和な笑みを浮かべ一生懸命に尽くしていた。
男のそばに寄り添う女には、ぬくもりがあり、ひんやりとした肌は、時に熱くなる。
残酷なのは人間のほうだ。
女が妖であると里の者達が知った途端、人間達は赤子もろとも男の家族に危害を加えようとしてきたのだ。
「妖め、ここを去れ、
さもなくば、お前の子供を火にくべてやる」
男は押さえつけられ、赤子をもぎ取られた。
妖といえど、大切な我が子を人質に取られた女に何ができようか?
まして赤子だ。
さらには人の血も引いている。
こんな何の力もない赤子の命を取ろうとするなど、人間のほうがよほど非道ではないか。
思い出すたび悔しさと悲しさが男の胸を締め付ける。
我が子を守るために、あれは泣く泣く里を去らねばならなかったのだ。
愛するものを置いていったときの女の顔が、涙にくれた悲しい顔が、男の脳裏にいつも浮かんでは離れない。
我が子よ、妖と人の血を継ぐ私の子よ。
幸せにおなり、誰よりも幸せにおなり。
私の代わりに、あの人を愛しておくれ。
女の声は、風が舞い上がる雪の音と共にかき消され、女の姿もどこへともなく消えていった。
けれど、そんな女の願いも虚しく、残された子供は目から光を失ってしまった。
女に良く似た子供の赤い目は、里の者達の憎しみと恐怖の対象となっていったからだ。
魔物の目だ!、こっちを見るな!
その目は里に不幸をもたらす。
罵られ、蔑まれ、ついには里の者達に目を突かれ潰された。
子供は、光を失った。
雪が降ると子供は、母に会うと言って外に出る。
顔を上に上げて、見えない目を開く。
吹雪の中でさえ、外に出て立つ。
どんな吹雪の中でも迷うことなく、どんなに寒くとも凍え死ぬことがないのは、童がゆきおんなの子供だからなのだろうか。
男は、心配でたまらなかった。
この子も、ここから、自分から去ってしまうのか?
女の面影を残す子供に、行かないでくれ、ここにいてくれと狂おしいほどに心が叫ぶ。
けれど子供の言葉が、さらに男を打ちのめす。
「とうちゃん、かあちゃんが今度、迎えに来るって」
「な、なに言ってるんだ?」
もう男は動揺を隠すことすらできない。
「ねえ、とうちゃん、一緒に行こうよ」
無邪気に笑う子供は、その小さな手を父親に手を伸ばす。
どうやって、あの寒さの中で生きていけるのだ…
里だからこそ、ゆきおんなと共にいられた。
俺は、無理だ。
男は絞り出すように息を吐く。
里の者達は、妖に関わったとして、この親子に冷たい。
いつも苛められている我が子。
いっそのこと母親である女が迎えに来てくれたらと、どんなに願ったことか。
だが、それと同時に我が子と離れる寂しさが胸を占め、男を悲しみの底へと突き落とすのだ。
「とうちゃんは、一緒に行けないよ」
「なんで?」
「とうちゃんは人間だから、寒いと死んでしまうんだ」
「いやだ、いやだ、とうちゃんも一緒じゃなきゃいやだ」
その晩は泣く子供をどうすることもできず、男はただ黙って子供を抱きしめ眠りにつくことしかできなかった。
その年の冬は、さらに厳しさを増した。
一日中、吹雪き、日が射すことさえ無くなっていった。
相変わらず子供は外に出ていた、何かを探すように空に顔を向けて。
「妖め お前のせいだ! お前がいるから、こんなに雪が降るんだ!」
いつの間にか、里の者たちが子供の側に集まって来ていた。
誰かが、子供に雪のつぶてを投げつけた。
それが合図のように沢山の雪のつぶてが飛んできた。
罵声を浴びせる者も出てきた。
とうとう1人の男が、子供の前に来て殴りつけた。
小さな子供が、大人に殴りつけられたのだ。
痛さと恐怖で、雪の上に倒れこんで動くこともできない。
「とうちゃん!、かあちゃん!、とうちゃん!、かあちゃん!」
泣き叫ぶ子供の声が雪景色の中に響く。
父親である男は、慌てて外に出て我が子に駆け寄り抱きしめ、里の者たちに向かって叫ぶ。
「この子を苛めるな! この子も里の子なんだ!」
「うるさい! お前達がいるから、この里は冬が酷いんだ!」
誰も彼も興奮していた。
大人も子供も男の言葉など耳も貸さない。
男は我が子をきつく抱きかかえ、唇を噛みしめる。
悔しくて、悔しくて、涙が滲む。
泣いたらダメだ、泣いたらダメだ、俺がこの子を守るんだ。
「とうちゃん、泣かないで」
子供が、父親である男の涙を拭う。
男は、さらに子供を強く抱きしめた。
その時だ、父親の腕の中でじっとしていた子供の目が、見えない目が瞬き、微かに赤く光りだした。
「とうちゃん、かあちゃん迎えに来た…」
男は、はっと驚く。
すぐさま辺りに強い風が吹き抜けた。
と同時に、風が唸りをあげて雪を舞い上げはじめた。
あっという間に、空は真っ黒な雪雲に覆われはじめていく。
赤い雷光が闇を切り裂くように光る。
猛烈な勢いで雪が降ってきた。
荒れ狂う吹雪は視界を遮り、空と地を魔の闇へと化していく。
家も人も、あっという間に吹雪の闇にのまれていく。
里の者達の悲鳴が、風の轟音にかき消されていく。
男の意識も、次第にぼうっとしてきた。
ああ、このまま死んでしまうのか…
薄れゆく意識。
懐かしい声が聞こえる。
愛しい声。
忘れることのできない、愛しい女。
もういちど、お前に会いたい…
「かあちゃん…… 」
童の声が、空に響いた。
かつて雪に埋もれ、死に絶えた里があったという。
雪は、里の全てを埋め尽くした。
深い雪に埋もれた里は、永遠に春が来ることもなく、ただ静かに、白く佇んでいるという。
「さあ、お話は、もうおしまいだよ」
優しい祖父は、孫娘が可愛くてたまらない。
頭を撫でるのは、愛おしさのあらわれ、いつものこと。
「ねぇ、もっとお話してよ。それからどうなったの?」
「さあね。2人はきっと何処かへ行ったのだろうね」
「死んでない?」
「ああ、生きてるよ。もう苛める人は誰もいなくなったから」
「ああ、よかった」
それを聞いて、小さな女の子は安心したようだ。
大きなあくびをして、眠そうに目をこすりだした。
祖母らしき女が、子供をを寝床へ連れて行く。
「ああ、お母さん、ありがとう。あとは私がやるから。お父さんのところへ行って?」
女の子の母親だろうか?
柔らかな笑顔で、女の子の頭と顔を撫でた。
祖母は祖父がいる部屋に戻って、静かに彼に寄り添う。
重ねられた手は、あたたかい。
男は女を見つめ、優しげに微笑む。
「疲れただろう? でも、もう少しだけ、こうしていてくれないか?」
「ええ、いつまでも」
「私はずっと、あなたのそばにいますから」 女も男を見つめて微笑んだ。
「ありがとう」
男はゆったりと寛いで、孫娘親子の声が聞こえてきた奥の部屋に視線を向けた。
「じいちゃんに、お話してもらったの?」
「うん、じいちゃんのおはなし、だいすき」
「そう、良かったわね、じゃあ、もうお布団に入ろうね」
「うん、おかあちゃん、いっしょにねよう?」
そう言うと女の子は、母の手を引き布団のところへ連れて行った。
小さな手が、母の顔に触れた。
「おかあちゃんの目、きれい、おばあちゃんといっしょ」
それを聞いた母は、嬉しそうに見えない赤い目で弧を描いた。
外では、静かに雪が降り積もっている。
けれど家の中は、あたたかい。
暖炉と人のぬくもり。
年老いた男は、もう一度、愛しそうに女の名を呼んだ。
「ゆき…… 」