円
何よ、何よこれ。
戦うなんて選択は最初からない。
鯨サイズ、食べられるなら一呑みだ。一瞬で丸呑みにされるだろう。
いや、薄く空いた唇から大理石のような歯がのぞいている、丹念に噛み砕かれるのは丸呑みとどっちが苦しいだろう。
水に飛び込んでいないのに、襦袢は冷や汗でぐっしょりと濡れた。
「あ、あ、ひえ」
悲鳴を上げたいのに言葉が出てこない。それはゆっくりと手を伸ばす。
子供のころに見た怪獣映画のように捕まえられるんだろうか。
ここまでサイズが違うと悪あがきする気も起きない。
人魚は私の脇に手を置いて、木の幹に寄り掛かる。
鯨サイズが寄り掛かっても、びくともしないなんてどれだけこの木は太いんだろう。
「ごごごごご」
野太い声が、繊細な美貌の唇からあふれ出す。
巨大ゆえに重低音しか出せないようだ。
『お前はまだ選んでいない』
頭の中でそんな声がした。
『選ぶときはまだ来ていない』
響く声に頭痛がする。しかし、声は相変わらず響き続ける。
「あんたがしゃべっているの」
頭痛をこらえてそう尋ねれば、人魚は顔を近づけてくる。
『私は珠魂』
ご丁寧に、漢字まで頭の中に描きこまれた。
ジュゴンというのも人魚のモデルになった珍獣だ。
なんでもゾウの仲間らしい。
脳がなんだかわからない無駄トリビアを吐き出している。
「ジュゴンだかマナティだか知らないけど、誰に向かってしゃべってるの、わけわかんない」
だめだ、今頭がまともに回ってない。なに訳のわからないことしゃべってるのと自分に突っ込んでもどうしようもない。
今のところ相手に敵意はないようだけど。
『挟間の子』
珠魂はそう言って、私を見つめる。
「挟間の子?」
それは私のことだろうか。よく考えてみると、普通の人間と、こちらの人間の血を引いているのならその呼び名がふさわしい気がする。
『お前が選ぶ時は迫っている、心せよ』
珠魂は、私の身体をつかむ。
あれよあれよという間に、私は水中に引き込まれた。窒息の苦痛を重い。眉をしかめた。
しかし、いつまでたっても、あの鼻に響く激痛は襲ってこなかった。
水中で、どうやら私は息をしているようだ。
水圧でめくれた袂からのぞく鱗にふと視線がいった。どうやらこの鱗はだてではないのだろうか。
珠魂につかまれたまま水中子高速移動していく。
おぼれないとなれば、周囲を見回す余裕も生まれる。
珠魂の泳ぐのに合わせてなびく海藻が、絵の具を不規則に塗りたくったような極彩色だったり。水中を普通に歩いている獣がいたり、鳥が飛んでいたり。
どうもこの世界は、水中と空中がさして差がないようだ。
もしかしたら、泳がなくても歩いて渡れたんだろうか。
向こう岸に、私を置くと再び珠魂は水中に潜っていった。
結局助けられた? 初めて、好意的な行動をとるこの世界の生き物にあった。
最初に降りた木がかなり小さくなっている。
「ありがとう」
そう言った声は聞こえただろうか。
珠魂はショートカットの人魚です。人魚といえばロングヘアですけれど、たまにはいいかと。




