円
木を慎重に降りはじめた。襦袢一枚という格好で、木に取りついているのは余りいいものではないが、それでもわずかなくぼみを足掛かりにして降りていく。
スリッパは邪魔だと足袋一枚になって、よじ降りる。
木々の枝にひっかき傷を作りながらようやく自分のいた場所がどんな場所か理解できた。
巨大な湖の真ん中にそびえる山ほどある巨木。その幹のくぼみにしがみついている。
「どうしたもんかね、これは」
枝はところどころ生えているので、座って休むことはできなくもない。しかし、木の下に地面がないとは思わなかった。
この巨大な湖、と思ったけれど、もしかしてこれは海だろうか。
向こう側の岸がものすごく遠い。おまけに反対側は水平線で途切れている。
てっきり森に降りたと思ったけれど、よもやしたが水、それもかなり深いというのは少々計算違いだった。
泳げるけれど、それは普通のプールで、きちんと水着を着た状態ならという注釈がつく。
襦袢姿で、どれほどの距離を泳ぐのか見当もつかない状況で、そのうえ水深が不明という状態ではまず泳ぎきる自信はない。
それどころか、どんな巨大生物が、この水の下に生息しているかわかったもんじゃない。
早まった自分の考えを今更後悔しても遅いが、どうしようもない。
襦袢を着たまま泳ぐ自信はないが、かといって、襦袢を捨ててこの場で裸になる自信もない。それにどうやって着替えを用意すればいいのよ。
水面から五メートルという場所の枝に座って、ぼんやりと水面を眺めていた。
水の透明度は高いのに、水底は全く見えない。
やはり相当深そうだ。
勝算は、今なら相当の体力向上があるはずなので、以前ならできないと思われていたこともできるのではないかと思うことくらい。
しかし、今の体力をもってしてもあちらまで泳ぎきることができるか。
本気で向こう岸が遠い。
それでも、行くべき場所はあちらと、意を決して跳びこもうとしたその時、水面が波立った。
ごぼごぼと白く泡立つそれ、まさか鯨でも浮上してくるんじゃないでしょうね。
鯨が浮上してきたら、水中にいたら確実に死んでいるけど。でもこの世界で普通の鯨がいるとも思えない。
最初に水面から上がってきたのは、ぐっしょり濡れたベリーショートヘアーの頭頂部だった。でもたぶんあの頭、ボートの縦ほどの直径だ。
次いで、顔が見えた。
巨大な女性の顔。なんとなく彫が深い気がするけれど、整った国籍不明な顔立ちだ。
それから一気に全身が現れた。
それは巨大な鯨サイズの人魚だった。
あまりに意表をついたものを見ると、思考する能力すら奪われるものなんだな。
呆けたように空中を撥ねる巨大人魚を見ていた。
再び人魚は水中に戻り、消防車のホースでぶちまけられるような水圧の水しぶきが私にたたきつけられた。
枝にしがみついていなければ、確実に落ちていた。
再び、水面から、人魚は顔を出した。私の真正面に。
上半身だけを水面に直立させて、その場にたたずんでいる。
洗面器より大きな瞳はまっすぐに私に向けられていた。




