第八章 先見(さきみ)の国統べる者・伝導(みちびき)の国統べる者
極寒の地、ノエル。雪と氷に閉ざされた国だと勝手にイメージしていたが。
「思っていたより、むき出しの大地を目にすることが出来るのだな」
先頭に立って待っていたロズウェル将軍に追いつき、率直な感想を簡潔に漏らす。この地で育った彼らの皮膚は強靭で厚く、この寒気もさほどのものではないらしい。防寒の為に口許を覆った襟巻き越しで呟いたハイレンの声が、くぐもった所為だけではない聞き取りにくさをいや増させた。そんなかじかむ声を耳にし、ロズウェルは苦笑しながらねぎらいのパスを返して来た。
「貴殿の住まう常夏にはほど遠い夏でござるが、これでも夏の気候ゆえ、幾ばくかは気温も緩み、氷も溶ける。集落へ辿り着くまで、今しばし堪えてくだされ」
ノルデンとの境目にある町で冬支度を整えたつもりだったが、やはり甘く見ていたようだ。うさぎの冬毛で編まれた起毛の服を重ね着しても、足の底から冷えが上へと回る。幌で風除けを施した荷台を振り返れば、胎児のように丸まり幾重もの毛布に包まれたミドリが安らかな寝息を立てていた。
「寝息が穏やかになって来た。熱も上がり切ったみたいだぞ」
彼女の傍らで介護を続けていたヘルト王子がつけ加えた。
ノエルの領土に足を踏み入れてから、ミドリの体力が急速に落ちた。基礎体力が、ディエルトのそれと異界とではかなり違いがあるらしい。適度な湿度と温度を保つパルディエスでは気づかなかったことだ。ミドリに言わせれば、パルディエスは異界に於ける春の気候の温度だと言う。そんな彼女を伴う旅で、更に冷え込むこの地へ向かう駆け足の旅程を組んだ自分の浅慮に、口にはしないものの、ここ数日密かに悔んでいた。
「町と町を繋ぐ無人の街道ならば、少しだけ構わないだろうか」
ハイレンはロズウェルに、わずかばかりの《ノイズ》を発動させることについての是非を打診した。
「少々獣がざわつくでござろうが、その程度は構いますまい」
彼はそう言って君主の弟へ視線を投げる。あくまでも、最終決定を下すのは王族である彼だと言いたげだった。
「すまぬ。もっと兄上からメサイアのことをしっかり聞いておけばよかった」
曇る表情でそう呟いて、座した場を明け渡す。彼のその意味ありげな表情に妙な引っ掛かりを覚え、その後黄金乃王と謁見を果たすまで、彼のそのひと言が心の奥底にこびりついて離れなかった。
一隊が皆立ち止まり、ほろで囲った荷台へ集まった中、ハイレンはミドリの額へそっと手を当て《ノイズ》を灯した。灯す――パスどおり、かすかな紅がミドリの全身を包む。冷気で強張った彼女の体が次第に緩んでいく。傍らで彼女を見守るヘルト王子の頬にもその熱が伝わったのか、ほんのりと紅を差し始めた。
「そうか。《ノイズ》は武器だけでなく、こんな風にも使えるのだな」
野賊の町での一件以来、笑うことを忘れた彼が初めて笑顔を見せた。一時期の自分とよく似ているとハイレンはその時感じていた。無知を自覚した瞬間の、自分に対する不甲斐ない想いと自己嫌悪。十一歳にしてこれだけの責と覚悟を背負う彼の心のあり様を、ハイレンは年齢の隔たりとは関係なく、尊敬に値するものと思って来た。そんな彼の笑顔は、何よりも喜ばしい。
「鳳も火の属性を有しております。お願いしてもよろしいか」
少しでも、彼にも己に対する自信を。自分にミドリが施してくれたように。そんな思いから、翳した手を離した。幼い子供らしい瞳が嬉しげに瞬いた。
「……やん」
ハイレンではない小さな寝言の声が、無礼にもヘルト王子の答えを妨げた。同時にハイレンの退けた右手が、再びミドリの許へと引き寄せられる。
「!」
ハイレンがよろめくことなどお構いもせず、ミドリが思い切り腕ごとハイレンの右手を胸元へ抱き寄せ、目を閉じたままかなり間抜けな顔をして、笑った。
「えへぇ……あったかぁ……」
背後と横から、妙な沈黙がハイレンに圧し掛かる。かなり寒かったはずなのだが、急に体中が火照り、嫌な汗がこめかみを伝っていった。
「……私では力不足だそうだ」
拗ねた面持ちでヘルト王子がぼそりと呟いた。
「殿下、夕刻までには集落へ辿り着きまする。彼らもキュアとメサイアに戻らねばなりませぬ故、ここはひとつ寛大なお心遣いを」
仰々しくとりなすロズウェルの声が、かなり上ずり震えている。勿論それは寒さの所為ではない。ヘルト王子に愛馬の手綱を奪われ、ハイレンはミドリの寝言の為に行き場も立つ瀬も失った。
最後の、ひととき。個としていられる最後の時。夜毎一話ずつ話してくれた、ミドリの語りを思い返す。
――ハイレンのお母さんもね、異界人だったのよ。
――私達異界人には、メサイアと守り人のどちらかを選ぶ権利があるんですって。
――私がメサイアを選んだ理由? それは、きっと私がこのディエルトに飛ばされたのは、罰なんかじゃなくて、私にしか出来ないことがある、って思ったから。
そう語ったミドリの寂しげな笑みが、亡き母のそれと重なった。ミドリにしか出来ないこと、それが何かを問うてみたら、「秘密」という意地悪なパスとそっと重ねられた唇に巧く答えをはぐらかされてしまった。
『もっと兄上からメサイアのことをしっかり聞いておけばよかった』
何故かヘルト王子のそのパスが、再びハイレンの脳裏を過ぎっていった。
夕陽を背にして目的の地を細めた目で眺めれば、寒々とした地平線の彼方に、朱色の塊が煌々と輝きを見せた。何かを守るように身を丸くするそれは、すみれ色の瞳を持つ麒麟の《ノイズ》だと近づいて初めて気がついた。ハイレンの持つ鋭く激しい紅龍と異なる、穏やかで柔らかく、絶えず空気の中を流れ、たゆたう《ノイズ》。たゆたうのは麒麟のたてがみ。ゆらりと毛先を模した《ノイズ》がハイレンの頬に触れると、炎とは異なるぬくもりを感じた。
「……温かい。包まれた空間、全てが」
手綱を手離し、愛馬を闊歩させたまま、汗ばみ始めた身から熊毛の上衣を脱ぐ。麒麟の主はすぐ想像がついた。だが、まさか常時《ノイズ》化させておく、などという離れ業が可能なのだろうか。
「黄金乃王は神官故、星見の時以外は、床で眠る時さえ、皆の平和を願う。そのお人柄がこのような《ノイズ》をかたどられる。某の主君こそ、まさに和平の象徴でござる」
ロズウェルがハイレンの脇へ馬を寄せて並び、誇らしげにそう語った。
遠い過去に生きた先祖の所業から、蛮族の汚名を被ったままのノエルの王。それを黄金乃王は何よりも嘆き悲しんでいた。願うはディエルト全ての平穏。自分が何をなすべきかを知る為に、星見を学び、神官を目指した。武人としての才覚はないと自認していた黄金乃王は、ゆくゆく第二王子へ族長の座を委ねるつもりでいるという。だが、当のヘルト王子が、前例を崩すことで戦禍になりはしないかと危惧し、それを未だ拒んでいる。
「某どもは、お二方をともに王とお慕い申しておるのでござるが、どうもご兄弟そろって謙虚が過ぎる」
と、ロズウェルは、他国の主であるハイレンに隠すことなくノエルの現状を愚痴零した。
パルディエスに留まったままの頃のハイレンであれば、彼の愚痴に同調したかも知れない。だが、この旅をつうじて、様々な考え方、受け止め方を知った。そして、人にはそれぞれ天賦がある、ということも。
「黄金乃王は、ともに輝くことは互いの光を消し合うと熟知しておられるのだろう。添え星であるからこそ、主たる星が瞬ける。――貴殿の君主は、素晴らしき先見の天賦をお持ちだ」
ヘルト王子のまっすぐな気性に、幼き頃のタクトを見た。それは、間違っていなかったのだ。そして、自分は黄金乃王とよく似ている。
「黄金乃王との謁見が楽しみだ。個としても、気が合う気がしてならない」
意表を突かれたと言いたげなロズウェルの表情が、途端ほころんで不思議なことを言った。
「星に例えられるとは、さすがはキュア殿と申そうか。王をそれに例えて讃えた者は、某どものメサイア以来でござるな」
「メサイア?」
同じ時間軸で複数メサイアが存在するなど、初めて聞く話だった。ミドリの招待と関係しているのだろうか。そんな疑問から問い掛けたのだが。
「さようでござる。王の妻でござった」
「過去形、ですか?」
――役目を終えて、今はもうおわしませぬ。
ロズウェルが憂う瞳をそっと伏せる。ハイレンの心にも、静かに漆黒の帳が降りていった。
迎えられた集落では、ノイズが筒抜けになっているのが当たり前のような雰囲気だった。雑多に入り乱れることで、却って読みづらくなっている。ハイレンは、パルディエスとの大差に面食らい表情を失った。次第に強張った顔がほころび始める。物心ついた頃から欲しくて仕方のなかったもの。それが目の前に、当たり前のように実体化している。
『思いを共有したい』
比較的静かな町なのに、飛び交うノイズが町を賑やかにし、活気を与えている雰囲気だった。
既に伝令が回っているようで、紅玉の瞳、紅の髪を晒すハイレンを見ても、誰も恐れおののきはしない。道往く人がノエルの一隊に向かい、恭しく一礼を捧げ、通り過ぎるのを見送っていた。
馬が止まった衝撃で、荷台で眠っていたヘルト王子とミドリが目を覚ました。
「あれ? あったかい……」
「ロズ、起こしてくれたらよかったのに」
まだ眠たげな顔でそう零す二人に、ロズウェルはようやく心からの安堵の笑みを浮かべて一礼した。
「ヘルト殿下、メサイア殿、長の旅路、大変お疲れでござった。まずはお二方、ゆるりと休まれよ。某は黄金乃王の許へキュア殿をご案内申す故」
ロズウェルのパスへ応じるように、出迎えた兵のひとりがミドリに「ご無礼致します」とひと言添えて抱き上げた。
「ハイレン、あのね、まだ」
不安げに視線を寄越す彼女の言いたいことは、もう何となく解っていた。
「まだ、時間がある。滞在中でも、帰りの旅路でも、話の続きはまだ聞けるから……心配するな」
彼女を和らげようと思って浮かべた笑みを、どうしても巧い笑顔に出来なかった。
ノエルにはパルディエスのようなシェリルで守られた空間がない。ハイレンが謁見の場として通されたのは、氷のように透きとおる石で出来た箱型の大きな一室だった。よく見れば、わずかに朱色掛かった色味を帯びている。それが室内を温めている――黄金乃王が漂わせる《ノイズ》だ。ロズウェルはそれについて簡素な説明を加えて最奥へ案内した。
「水晶と呼ばれる石でござる。これに王の《ノイズ》を封じ、王ご自身が小さなこれらを操りまする。伝令、空調、ほか遠隔での諸々も、ほぼこれで補うがノエルに於ける民と王との交わり方。同じ立ち位置に在ろうとするお考えは、確かに貴殿とよく似てござる」
高座に視線を上げたロズウェルが、ハイレンから一歩身を退き、膝を折った。ハイレンはそれを一瞥して確認すると、促されるまま高座へ視線を移し、息を飲んだ。
(……これが、ノエルの族長)
一見すると性別がわからないほど中性的な、長く細い金色の髪。瞳の紅は、角度次第でオーラと同じ朱にも見える多彩な色合いを帯びている。神官を示す僧衣に身を包んだ姿は、ハイレンの目には神とさえ見間違わせた。蛮族の長と揶揄された伝聞を、こうまで見事に覆すのは、その風貌だけでなく。
「ようこそ。ノエルに於ける紅、真名をフリードと申します。遥か辺境のこの地まで、よくご無事で参られました」
お連れのメサイアには気の毒をした、と零す声音は心からのパスだと伝えるものだった。ありたい村の姿がここにある。族長の座に就いてからの十二廻、諦め掛けていた姿が目の前にある。そんな彼の人柄、人徳によっても、蛮族の説を覆させられた。
「パルディエスの紅、真名をハイレンと申します。此度は旅路の提案、感謝に絶えません」
万感の思いをこめて、そう告げる。ミドリが一話ずつ語る話、旅路の中で知り学んだこと、ディエルトという広いこの世、この次元に生きる人々と交わる中で考え至った黄金乃王の真意。
「私の危機感を煽ってでも、広いディエルトを見せんといざなってくださったお心遣い、どのような形で報いたらよいのか、図りかねている次第です」
寂しげに浮かべるハイレンの微笑に、儚げな笑みが返って来た。
「全ては時の神が導くままに、私は私のなすべきことをしているまで。……昔話のお相手を願えませんか」
黄金乃王はそんな奥ゆかしい申し出の仕方で、星見の示す今後のあり様とハイレンが知りたかった全てを教えてくれた。
「時の神が、星をつうじて預言をくださるのに、私にはそれをディエルトの人々に信じてもらえるだけの歴がなく。かつては先人達を恨みもしました。ただ、平和に穏やかに過ごしたいだけなのに、と」
似た虚しさを内に秘める先代より、王の座を押しつけるように譲り受けて間もなく、この地にメサイアが降臨されたという。
「ノエルの者にさえ蛮族の末裔と言われていた私に、彼女だけが普通に接してくれました」
――フリード、「どうせ私は」なんて自分を貶めるパスを口にするのはお止めなさい。
まだ少年だった黄金乃王は、そう諭す彼女を姉のような想いで慕ったのだという。
「ノエルという小さな一国だけでなく、広くディエルト全てを見てはどうか、と。見れば、サルデン地方の紅はパルディエス以上に荒んでいる。メサイアがまだ一度しか降り立ったことのない地域だと初めて知りました」
メサイアを呼べるだけの器を持った紅の一族が、彼の地を統べていないと星が語った。
「メサイアを、呼ぶ……我らが呼んだ、というのですか」
折った膝の上で握る拳に力がこもる。旅の始めこそ、真実を求めて赴いたのに、今ではおよそ浮かんだ推測を彼に否定して欲しいと願う自分がそこにいた。
「意思ではなく、魂が。もう、お気づきではないのでしょうか。顔色がそう語っていますよ」
そう年の差もなさげな若い王に、情けの混じった苦笑が浮かぶ。多分に含まれた情けは、同調と諭しのノイズとなって、ハイレンの心の奥深くにまでもぐりこんで来た。
(我らが最初に願ったこと。それは覆せない本当の願い。いちどきの想いに、時の神は振り向いてなどくれません。私も、貴殿も、キュアである限り、本当の願いは、次の生へ委ねるしかないようです)
視線を上げれば、哀しげな瞳がハイレンの深紅とぴたりと合う。黄金乃王の瞳の紅が、更に薄みを帯び、様々な想いが混じり、寒々とした淡いすみれ色のそれに変わっていた。
「私の願いは、無駄な戦を避け、互いに助け合えるディエルトに。過去を引きずらず、先を見て互いに生きたい、と。過去ではなく現在の私を見て、紅の一族が蛮族ではないと知って欲しかった。ともに助け合う為に。個々が孤独な生き方を苦しみながらするのではなく。メサイアの庇護のもと、ノエルのこの村に於いてだけは、願いが実現いたしました。《ノイズ》の操り方を心得ることで、その力を民の為に使えたことで、私の願いは叶ったのです。あとは時を重ね、諸々を伝え、後人の願いと意思のもと、我らは未来を後人に委ねていくのみ、です」
あなたの願いは何ですか。それは問うというよりも、改めて思い出させようとする説得の声と受け取れた。
「……星見であれば、ご存知かと思いますが」
反発の意をこめ、口にすることを拒絶する。人々と思いを分かち合いたかった。恐れられる自分が哀しかった。信じられないから、信じない。自分を含めたすべての人を、そんな無限の地獄から解放したく、されたかった。だが、今最も願うのは、それではない。
「守り人が何を選択すると守り人になるのかを、メサイアから聴いていますか」
彼がそう呟きながら、高座から降りた。近づく衣擦れの音に面を上げると、彼を見上げる恰好になった。
「いえ、まだ」
見下ろされる恰好から、折っていた膝に力を込めて立ち上がる。あくまでも、威圧されることなく対等でありたかった。
「願いは、叶える術が解らぬが故に願いとなる。メサイアは、我ら『願い』と対を成す『答え』なのです。『答え』が『答え』であることを拒んだ場合、メサイアは『答え』とも呼ぶべき《ノイズ》を失くし、異界人であることも許されず、ただ時の狭間で真実を守る番人となって次の守り人が現れるまで彷徨い続ける……エインのように」
触れそうなほど近く寄せられた彼の瞳が、憂うすみれ色から深紅に染まった。
「!」
「見せましょう、サウルの亡国の経過を。エインが降り立った地の過去を」
ハイレンの視界が、深紅一色に染まった。
ノエルの国境を思わせる、荒廃した白い地面。そこがノエルと対極にあるサウルだと判ったのは、一帯に漂うオーラの違いからだった。それは、パルディエスの民が漂わせる猜疑とは異なる冷たさを孕み、ハイレンの肌を突き刺すような痛みでさいなんだ。
(……これは過去の残像……ノイズに、取り込まれるな)
自身に言い聞かせるべく、ノイズに変える。上る戦火の方へと意識を集中させた。
灼熱の赤で染め上げられた大地に、一本の大樹。赤黒く燃え、深緑が黒ずんでいく――シェリルの《ノイズ》が、悲鳴を上げた。
(嫌だ。死ぬと解っているのに、この子を大地へ戻すなんて)
サウルの幼き王を抱きかかえ、地の底深くへ隠れ潜るそれは。
(……エイン館長。あなたは、そんな愛し方をしたのですか……)
燃えるシェリルリーフが、エインのノイズを舞い散らす。白く四角い大きな箱。そこへ閉じ込められた、おびただしい数の女達。「ママ」と叫ぶ少年の面差しが、エインとよく似、それでいてサウルの少年王ともよく似ていた。引き裂かれた二人を映すシェリルリーフが燃え尽きる。新たなシェリルリーフが見せたのは、屍の山。泣き崩れる若かりし頃のエイン。抱きしめたのは、腐り掛けた遺体。男に蹴られ、エインが身を崩すと、彼は死体を大きな穴へ蹴り入れ、火をつけた。それもまた、黒に侵され燃え尽きる。舞い上がる炎の轟音と、シェリルリーフの伝える異界の音が交じり合う。
《エイン、あんた病気なんじゃないの?》
《しっ、そんなこと、口にするんじゃないよ。エインが呼ばれてしまうでしょう》
《呼ばれた人は、殺されるらしい》
《風呂に入れてやる、と言われたら終わりらしいよ》
《五八三番。班長から体調が悪いらしいと報告があった。明日の点呼のあと、指示された列へ並べ。医療テントへ連れて行く》
《風呂だ》
《エインが、風呂へ連れて行かれる》
《誰? 密告したのは》
燃え尽き黒い灰と化したそれらが舞い乱れ、次のリーフが三度ハイレンの視界を占拠した。それらが更に遡ったと思われる、少しふくよかだった頃のエインを映し出した。
暗くて狭い、小さな空間。上から響く激しい靴音。
《この家で、ユダヤをかくまっているという通告があった。大人しく引き渡せば、住人に罪を問わない。出せ》
激しい鼓動がハイレンの胸をしめつける。胸元から感じられる震えた温もりは、恐らくエインの息子だろう。
――もっと深く、暗く、二人きりでいられるどこかへ、誰も知らないどこかへ隠れるべきだった。
(エイン、離せ! 私は王だっ。私が民を守らずして、誰が守る!)
燃え尽きるシェリルの《ノイズ》の奥深くから、別の《ノイズ》が天を衝いた。それが、見つめるハイレンから哀れみを引き出す。統べる民を救うには、あまりにも弱く儚い、子獅子の《ノイズ》。深手を負い、気迫だけで辛うじて息を繋いでいることが見てとれた。威勢のよいノイズと《ノイズ》は、それが最初で最後だった。炎が納まるよりも遥かに早く、サウルの人々のノイズが消えた。
エインが独り、荒野に立つ。
(……私が、間違っていたの? 我が子の魂と解っても、それでも守ってはいけなかったというの?)
《ノイズ》を失くし、メサイアの資格を失くし、人から人へと渡り歩く。
(自分のセカイへ戻ったところで、もう私の身体はない)
我が子の魂を捜し歩く。サルデンから、ノエルへ。ノエルを追われ、パルディエスへ。器がない。次を担う守り人がいない。王の願いよりも自分の欲をとおしたエインの果てしない後悔が、ハイレンの心を満たしていった――。
いつの間にか瞳を閉じていた。そう気づいたのは、白い闇が明けたと同時に眼前が温かで淡いすみれ色で満たされたことからだ。
「パルディエスの紅、ハイレン殿にもう一度だけ問います。あなたの願いは、何ですか」
見つめる彼を見つめ返せば、彼の瞳も潤み、揺れる。彼もまた悩み、苦しみ、迷った末に下したそれによって受ける痛みをまだ癒し切れていないのだ。説得というのは、ハイレンのうがった憶測と知る。全て解った上で促す彼は、どこまでも真の和平を望む「フリード」の真名に相応しい人物だった。
「紅の血が、民にとって恐怖の象徴であることが哀しかった。ただ、皆と同じように、血に縛られることなく自由に平等に生きたくて。皆と思いを分かち合いたくて。長く重い歴史がある。だから、少しずつでいい、いつか紅の《ノイズ》が破滅の象徴ではないと……信じて欲しい、と願い続けて来た」
後世に残さねばならない紅の子らの為に。その血と能力を利用されるだけではなく、共存という同じ位置で、民とともに生きていけるディエルトにしたくて。
ミドリにしか零したことのない密かな願いを、初めてこのディエルトの住人の前で口にした。
「随分、壮大な願いを抱いたものですね。自国のことしか願えなかった我が身を恥ずかしく思います」
旅の意味が、もうお解りなのですね、と言われ、溢れそうなものを隠すように、跪いて大袈裟なほど丁寧に頭を垂れた。
「流浪の術を学ばせていただきました。あてどなく彷徨う必要ある使命故に、己が力で生きる術も。メサイアが道を照らす灯火であったことも、願いは自分自身で叶えるものだ、ということも……全て、貴殿の導きのお陰です。心より御礼申します」
澄んだ水晶の床に、雫がふたつ、みつ、零れ落ちる。黄金乃王の足許にも、同じものが幾つか零れ落ちた。
「メサイアが過ぎ去るのを、恐れなさいますな。そしてその後の戦禍の預言も、恐れずに。時の歯車を進めるも戻すもあなた次第であることを、努々(ゆめゆめ)お忘れ下さいますな」
水晶が、紫の法衣でハイレンの視界から消え去った。零した涙が、膝をついた黄金乃王によって隠された。俯く先に見えるのは、限りなく銀に近い黄金色にたゆたう長い髪。ハイレンよりも遥かに華奢で儚げな身体が、力なく首へしがみついて来た。
「王……?」
面食らい、咄嗟に上がったハイレンの両腕が所在なさげに宙に浮く。定められた未来を憂いで嘆くハイレンのそれよりも、既に過去と化した黄金乃王の頬から伝う涙がハイレンの肩をひんやりとさせた。
「あなたしか、思いを分かつことの出来る人がいないから……すみません」
溢れんばかりに伝わるノイズ。七色に煌く、悲しいくらい美しいオーラ。
――知っていたら、残された時の全てを使って、あの人を精一杯愛していただろうに。
「ハイレン殿。どうか、今を精一杯大切に過ごしてください。時を越えてまで愛を施しに訪れてくれた、あなたのメサイアの為に。そして、あなた自身の為にも」
ハイレンは、メサイア伝説の終わりが、どの文献にも記されない理由を確信した。受け取り方次第では、それはあまりにも大きな犠牲を伴う救世の使者。個の抱く「残す悲しみ」「残される悲しみ」を踏み越えて得られる進展に、ためらう紅がいても責めることは出来ないだろう。少なくても、ハイレンや、この優し過ぎる和の王には。
「フリード殿。エインの歴史を信じましょう。魂は、時も次元も越えて、いつかきっと想い人と廻り逢いましょう」
一族としての使命に添えて、個としての進言をしてくれた彼に、最大の親愛を込めて真名で呼び、悔いで震える肩をそっと抱いた。
侍女に案内されて、ミドリが待つ迎賓の館へ辿り着くと、ヘルト王子が館の前で直々にハイレンを出迎えた。
「キュア、メサイアのノイズが、完全に届かなくなった」
「ミドリについていてくれたのですか」
「うむ……、元気のないのは、寒さの所為だけではないような気がして」
思い当たる節があるのだろう。ヘルト王子の顔色は青く、見上げる瞳が小刻みに揺れていた。
「ミドリも、義姉上のように……?」
そう尋ねる間にも溢れ出す彼のノイズから、ノエルのメサイアが使命を終えた瞬間の追憶を垣間見ることは出来なかった。恐らくその瞬間に立ち会ったのは、フリード王ただひとりなのだろう。
王が溢れんばかりに伝えて来た追憶のノイズが、ハイレンに苦笑を浮かばせた。ただの少年に戻っている王子の、まだ幾分か華奢な肩にそっと手を置く。少しだけ、王から受け取ったノイズを彼へ伝えた。ノエルのメサイアが残した最後の表情が、パスにし切れない美しさだった、その映像だけを。
「ヘルト殿。メサイアのノイズが薄れていくのは、彼女達を呼んだ我ら紅の者が、正しき道を歩めている証拠なのだそうです。心配は、ありません」
「……ハイレン殿は、それでいいのか?」
子供は時に惨酷だ。ハイレンは、彼の問いへ答えるよりも早く、そんな感想が先に浮かんだ。
「ミドリから、メサイアの選択を聞いたのですね」
小さく頷く少年の手が、ハイレンの袖の先をきゅ、と握りしめた。
「やはり私に王の座は、無理だ。あなたや兄上のようには、思えない」
はたはたと落ちる涙が、ハイレンの代わりに泣いてくれているようだ。身を屈め、彼の目線に視線を合わせる。落ちる雫を、掌でそっと拭った。
「ヘルト殿は、まだこれからの人間です。我らの次の世代を受け継ぐ者です。ゆっくり、少しずつでいいのです。私とて、ついこの間までは何も知らぬ子供も同然の不甲斐ないキュアだったのですから」
自分自身へ言い含めるようにヘルト王子をそう励まし、彼の瞳が凛とした輝きに戻ったのを確認すると、一礼ののちその場を辞した。
部屋の扉をくぐると、無人の居室だった。まだ身を起こせないのだろう。奥の方から、微かにミドリのオーラが漏れて来る。日頃の距離が近過ぎて、気づけなかった。こんなにもノイズが弱まっていたことに。この程度の距離でも、もう届かなくなっていたことに。
「ミドリ」
大きな部屋を隔てる幔幕をくぐれば、そこは一面のシェリルの緑。風もないのに、さわさわと葉ずれの音が聞こえて来る。その中央へしつらえられた高床式の寝床で、気だるそうに身を横たえる彼女がいた。
「あ……お帰りなさ」
「いい。横になっていろ」
起こし掛けたミドリの身体を支え、もう一度床へ潜らせる。掛け毛布で口許を隠した彼女が、くぐもった声でハイレンに尋ねて来た。
「ハイレンの《ノイズ》が、泣いている。黄金乃王から、全部聴いたの」
シェリルリーフが舞い落ちる。深緑の雨が降り注ぐ。
「ハイレン、ごめんね。私、解っていて決めたの。だって」
「案ずるな」
苦笑とそのパスで、彼女の声をわざと遮る。全てを彼女に背負わせたくはなかった。洪水のように溢返る彼女の目許へ、そっと唇を寄せて悲しみの象徴を吸い取った。
「もう、私が揺らぐことはないから、案ずるな。でなければ、お前がこんな思いをしてまで私の為に異界から赴いてくれたことが、全て無為になる」
ただひとつだけ、未だ迷うことがある。それを口にしたら、彼女がエインのように堕ちてしまわないだろうか、という迷いが。
「ハイレン?」
彼女の声が、ハイレンの耳をくすぐる。それがわずかに震えているのは、ノイズを感じ取られてしまったからだろうか。
「以前、タクトとの秘密の約束とやらを無理矢理喋らせたことがあったな」
「あ……うん。なぁに、急に」
「やっと、解った。さすが兄というべきか、同じものが欲しかったのだな」
「……」
意地悪く囁けば、ミドリが頭から毛布を被って隠れてしまう。
「……ハイレン、だからもう、ミドリとしての私は、要らない?」
そんな不安げなミドリのパスが、ハイレンのノイズを読み取られていないと教えていた。吐息を感じ取れるほどの距離にいるのに、もう届かない互いになっている。それを嘆くことはないのだ。その為にパスが在るのだから。
そう言い聞かせて、彼女へ告げる。キュアとしてメサイアに、ではなく、ハイレンとして、ミドリへ。
「旅の往路で、食らった魂達やその家族がよく口にしていた。タクトへミドリが探して来る、と言っていた、パルディエスのパス。……リベル、という音らしい」
タクトがミドリへ抱いた想い。そして、自分にも施してくれたもの。
「りべる?」
「そう、リベル。ミドリのセカイのコトバにも、似た音があるだろうか」
きっと、ある。そう思った。顔を出したミドリが、ほんのりと頬を染めたから。
「リーベ、かも。ママが、パパや私によく言ってくれた」
「そうか。始めはとても悲しい音だと思ったのだ。亡くした家族を思って口にされた所為、かな」
――今を精一杯大切に過ごしてください。
フリードのパスが、ハイレンの背中を押す。少しだけためらいを燻らせたまま、それでも彼女の耳許へ囁いた。
「ミドリ。キュアとして生まれたのだから、使命を果たす気持ちは揺らがない。それは私が願ったことなのだから。でも」
時の神に、ひとつだけ抗いたい。紅の末裔としてではなく、ハイレンという個として。
「時の神が二人を分かつ時が来たとしても」
旅の往路で、ミドリが館の書物蔵に納められた母と父のことを教えてくれた。そのことを思い出しながら、パスにする。
「父のように、そこですべてが終わると諦めはしない。私は諦めが悪いから」
父のように、母をパルディエスの外へ出すことで、愛する妻をディエルトに留めさせようなどという抗い方は、しない。
「ミドリが時の狭間のどこにいようと、必ず見つけ出して、迎えにゆく」
だから。
「残された時間、次の命の営みでも、互いを必ず見つけ出せるよう――ハイレンの妻として、傍らにいて欲しい」
――Ich liebe dich.
戯れに彼女から教わった、彼女のセカイのコトバを、パスにした。
「……はい」
癒しの葉が、舞い狂う。最期の張りとばかりにさざめき、踊る。伸ばされた腕に応えて小さな身体を抱き上げると、ミドリの鼻に掛かった上ずる声が、ハイレンの鼓膜を何度も「リベル」というパスで震わせた。