第七章 ふたつ名『黒衣の剣士』
村を守るように取り囲む荒野の果てに近づいた、数日後の夕暮れ時。ロズウェルが、少し早めに野営すると手早く部下に設営の指示をした。
「パルディエスの国境を出る前に、キュア殿にも紅の一族である身の上をお隠しいただきたい。また、パルディエスを出る明日以降ノエルに到着するまでの間、真名で呼ぶこととさせていただく。不要なもめごとを起こす可能性が生じる故、失礼な申し出、ご勘弁くだされ」
そう言って手渡されたのは、毛染め道具一式と眼帯だった。
「パルディエスの外では、時が流れてござる。貴殿が机上にて学んだディエルトの概念も、今は遠い昔。パルディエスは『財を分かつこと惜しむ中央の田舎』、我がノエルは『欲に囚われた辺境の蛮族』と揶揄されてござるが実情」
なり損ねの紅ならば、まだ当たりが弱いらしい。辱めのパスやノイズが飛び交うだろうが、精神の鍛錬と割り切るようにと諭され、彼もまた白髪混じりの黄金を茶に染める為、自分のテントへ戻って行った。
手渡された眼帯を右手に取る。
「……閉じていたことにさえ気づかなかったとは、情けないキュアだな」
くろがねの鍔を模した眼帯の革が、きゅ、と小さな悲鳴を上げた。
「交易商人さん達も、知らなかったから報告出来なかっただけだと思うよ。シェリルを売ってもらえなくなるかもと思えば、誰だってパルディエスの人には言えないもの、きっと」
毛染めの道具を持つ左の手に、突然更なる重みが加わった。
「でも、お陰で旅が終わるまでの間は、メサイアやキュアからちょっとだけ解放された気分になれるね」
載せられたのは、ミドリがロズウェルに手渡されたフードと髪結びの組紐。彼女の黒髪もまた、不吉の象徴であったことを思い出すと、自然とハイレンの表情も和らいだ。
「そうだな」
受け止め方次第で、小さなことはどうにでも出来る。旅の本題と使命の前に、こんなことで気が滅入っている場合ではない。暗にミドリがそう諭しているような気がして笑みを返したつもりが、どうにも不自然に歪んでしまう。それでも彼女がほっとした心からの笑みを零し、ハイレンの背を押して「ほら、早く済ませないと陽が暮れちゃうよ」などと元気な声で促せば、自分の不器用な作り笑顔も釣られるように自然なものへと変わっていった。
夜は野賊と魔物に与えられた時間である。通常であれば、日没とともに油を染ませて防水を施したシェリル製のテントに身を潜めるのが戦での通例らしいのだが。
『メサイアにはシェリルが利かぬと伺った故、某ども、交代にて夜守りを致す所存。貴殿達はノエルより招待した客人であるからして、ゆるりと休まれたらよい』
火を囲み、そう告げられた初日の夜。ハイレンは、その申し出の後半部分を丁重に辞退した。
『ひとたび村から出れば、私も貴殿達と同じ、ただの旅人に過ぎぬ。夜守りに加えてもらいたい』
申し出た理由の半分は、ノイズの自制が未熟な自分に俯くミドリを慮ってのことだった。だが、もう半分は自分の統べる土地でありながら、見たこともない全ての事象をこの目で知っておきたい、という好奇心と、族長としての使命感からだ。同時に、彼らがミドリを交渉決裂時の切り札としての同行ではなく、本当にメサイアとの謁見を求める王に応えてくれた客人として、丁重に迎え入れるつもりでいると信頼出来たのも理由のひとつに挙げられる。
『こんなことでもなければ、存分に《ノイズ》を放散する機会に恵まれることもありませんしね』
ハイレンのその軽口に、ロズウェルは豪快に笑った。
『確かに。キュア殿にお任せすれば、某どもの出番すらなくなるでござろうな』
夜守りは荒野の途切れ目に辿り着く野営の最終日と決められた。
ミドリがハイレンの髪を梳く。油で溶いた茶の顔料を薄く延ばし、髪に少しずつ撫でつける。
「髪、傷みそうだね、これって。パルディエスに戻ったら、一度丸坊主にしなくちゃいけないかも」
自分で言ったその冗談に、ミドリ自身が爆笑した。釣られて噴き出しながら、ある種の安堵感で満たされていく。彼女の触れた髪を伝って、微かに漂う彼女のノイズ。そこにノエルのメサイアとしてその地に留まるという選択肢は微塵もなく、ただただ帰還後のパルディエスで、どう過ごそうかと思いめぐらすノイズが大半を占めていた。
「独りでテントにいて、平気か。ほかの者やヘルト王子とともにいる方が、ゆっくり眠れるのではないか?」
彼女は、異界ではまだ子供の部類に入る。気丈な日々を過ごして来たこの一廻半を越える歳月を思うと、少しでも本来の姿に戻るという彼女自身の癒しも必要ではないかと考え、そんな提案を口にした。
「独りの方が、気楽かも。ニッキをつけ始めたんだ。人がいるとなかなか書けないから」
「ニッキ?」
「うん。えっとね、自分のこととか、身の周りに起きた出来事とかを書き記していく書物のこと。書物、なんて大袈裟なものではないんだけどね」
忘れないように、記していきたい。そんなミドリの話から、面映そうな顔をした彼女に、旅路の間に紅の館で読んだ文献の幾つかを話してあげる、と言われた。
「きっとこのニッキも、そこへ納められることになると思うんだけど」
そんなパスと一緒に、ハイレンの母親の記したニッキと呼ばれるに等しい書物があったことを告げられた。
「母者の……。何と記されていた?」
「ハイレンってば、せっかち。でも、ひとつだけ。ハイレンって名づけたのは、ハイレンのお母さんだよ」
癒しという意味なんだって、と言われたら、何とも言えない気分になった。
「……名前負けをしているな。癒すどころか、恐れられている」
「だからこそ、『ハイレン』なんだよ。本当のハイレンを見てね、っていう、村のみんなに対する願いをこめて」
はい、出来たよ、というミドリの言葉で、髪の染色もその話も唐突に終わった。固く編まれた贋物の茶髪が、少しだけ頭皮を引き攣らせ、軽い痛みを感じさせた。
人差し指を小刀で軽く傷つけ、野営所を囲うように血で円を描く。ハイレンが三つ四つ呪いのパスを唱えると、焔の柱がそそり立った。これで火を恐れる魔物が、野営所を襲うことはないだろう。ハイレンは熱のない焔に背を向け、馬の背にまたがった。携えることに慣れていない剣の鞘がどうにも煩わしい。
『余裕があらば、極力道具による鍛錬を。貴殿の《ノイズ》はひと目で紅の一族と判るもの。今後、他国の往来では、《ノイズ》より武器を使わざるを得ない状況の方が多い故』
「……タクトと手合わせを続けていればよかった、かな」
心にもないことを呟いたら、余計に虚しさが増した。
馬を駆り、距離にして半刻ほどの位置を一巡しようと思われる頃。なにごともないとは思っていなかったものの、こうも待ち兼ねたとばかりに早々とお目に掛かれるとは思わなかった。生臭い匂いが不意に立ち込める。低く唸る獣の声が、四方から無人の荒野に響いた。足を失うのは少々痛い。馬上からの剣による接近戦は、なかなか骨の折れる仕事とは思うが、四の五のと言ってもいられなさそうだ。異形の捻れた角が連なるシルエットを見て、心の中でそんな諦めの混じる愚痴を零した。
「はぃやっ!」
鞘から剣を抜くと当時に、馬の腹を蹴って走らせる。痛みに悲鳴を上げた馬が、ハイレンを振り落とそうと前足を上げた。その勢いの後押しとばかり、わずかなノイズを馬に流し込む。命の危機を察した馬が、魔物の連なる隙間を目指し、全力疾走で駆け抜ける。その刹那、一文字を切る。呻きを発する間もなく、二体が崩れ落ちた。
近くで見て、改めてその大きさと形相を目の当たりにした。針金を思わせる毛らしきものは、全身を覆い守っている。剣から滴るのは赤ではなく、黄味を帯びた青い液。どろりとした粘りが、剣の鋭さを鈍らせそうだ。
「哀れな魂よ。闇の王の許へ還れ」
異形の醜悪な姿に似合わぬ、寂しげな瞳をした魔物達。それがかつて人間であったことを物語っている瞳とひと目で判った。これが、魔物の正体だったのだ。生に執着したまま、時の神に魂を委ねることが出来ず、屍と化した己の身体の朽ちていく様を嘆く悲しみ。獣に魂を無理矢理捻じ込み、異形の魔物と成り果てた彼らの、これは救いのひと太刀になってくれるだろうか。
生を羨む肥大した肉に、渾身の力で振り下ろす。グチリ、と嫌な音が響き、青い血飛沫がほんの刹那視界を遮る。痺れる腕の痛みよりも、心の方が痛かった。左右へ不自然に剥く魔物の瞳があまりにも悲しげで。感傷に浸る間もなく、次の一体が襲い来る。伸び上がる巨体の腹は、哀れなほど無防備にハイレンの目の前へ晒された。魔物の隙を縫う賢さを持つ馬ならば大丈夫だろう。そう判断し馬から降り手綱を放す。その間にも魔物の腹へひと突きを食らわせた。馬は野営場を目指してまっすぐに駈けて行った。同時にすぐ足許で、ずん、と鈍い地響きが鳴った。ヒクヒクと引き攣る魔物の手がハイレンの足を掴み、その肉に鋭い爪を食い込ませる。
「……眠れ」
見上げて来る双眸の狭間に、剣を突き立てた。息絶えた魔物の力が緩み、紅の血が足首から噴き出した。ハイレンの赤い血の匂いが、更に多くの魔物を呼ぶ。青い血が同種の魔物を呼び、憎悪を孕んだ黄土の瞳がハイレンに注目する。
「魔物が相手では、《ノイズ》を使っても致し方あるまい。野賊にはきちんと剣で応戦しよう」
魔物達の鋼のような肉体を刻み終えるまでに、剣がもたないことも確かにあるが。
「……生きるも地獄だぞ。それでも、まだ執着するか、お前達」
――生に。
もうそんなパスも届かないほど、心は狂っているのだろう。絶命の刹那、彼らのもっとも強く抱いたノイズが辺りの空気に混沌と渦巻く。それを浄化するように、ハイレンの放つ紅のオーラが次第に大きく包み込む。野賊を狩る時のように、調整する必要もない。その身が一気にとろけ出し、紅の龍をかたどった。人であった頃の彼らの無念をひと息に飲み下す。それらを包み、捻りあげるように、宙へうずたかく積もらせ、《ノイズ》化した身でそれらを食らっていく。地上では咆哮が次々と上がり、紅龍の瞳から、紅い涙が落ちた。
見知らぬ人々の温かな笑顔。「行ってらっしゃい、気をつけて」と心配げに覗き込む、親しげな間柄を思わせる瞳。野賊の陰惨で下卑た笑い、絶望と未練と「何故自分が」という疑問――魔物達の多くが、かつては交易に携わっていた行商人達だった。時の神の手を振り払い、その結果愛する人々と永遠の別れを強いられた人々。魂を食らってやらねば、もう時の神の庇護を受けられない彼らは、永遠にあの器に留まり続け、魔物として生ける屍のまま彷徨うのみ。例え戦士に死を与えられても、魂は屍とともに朽ちていくしかないのだろう。
先代は、それを知っていたのだろうか。だから閉鎖されたパルディエスであっても、自ら出陣したのだろうか。
(私は、何も知らない。知ろうともしなかった……)
月に届きそうな高さまでつのったノイズを残らず食らい尽すと、ハイレンは全てのオーラを《ノイズ》化させた。誰に教わったこともない。強いて言えば、食らった魔物達からたった今望まれたことだ。紅龍の形さえ溶けていく。陽の光に勝るとも劣らぬ紅が漆黒の闇夜を染めた。ひょう、ひょう、と犬笛に似た音が、荒野一体にこだました。
怯えた月が戦いの終焉に気づき、そっと雲間から顔を覗かせた。再び龍をかたどり始めた身体で、それを囲うように円を描く。眼下には、かつては狐や熊やうさぎだったと思われる獣の屍が累々と横たわっていた。紅龍の姿を見とめ、這いずりながらあちこちへと散らばっていく数人分の人影が目に留まる。荒野に見える、幾つかのテント。か弱い《ノイズ》とシェリルで守っている、普通のテント。ロズウェルの忠告を無視した結果となったが、それでも、あのか弱き《ノイズ》で身を守る彼らを守れたのならば、彼らなら渋々ながらも許してくれるだろうと思った。本当の彼らは、決して蛮族などではないのだから。
(……寒い。帰ろう)
月が白んで来た。夜明けが間もないことを知らせている。野賊の来襲ももうないだろう。魔物も恐らく当面の間は、新たに生まれることはないだろう。
ハイレンは、紅の焔で囲まれた一角を目指して下降した。
焔の前で立ち往生していた馬の手綱を手に取り、礼を告げる。
「怯えさせてすまなかったな」
命の危機でノイズを発するのは、何も人間だけではない。文字どおり彼とは馬が合うのか、ハイレンを怯えもせずに大人しく引き寄せられるまま顔をハイレンにすり寄せた。
馬に積んでおいた荷物から衣を取り出し、急いで身に纏う。野営場に近づくにつれて強くなっていった派手なノイズが焔の防壁の向こうから轟いている所為で、焦りが伴い逆に手間取ってしまうのが歯痒い。
「ハイレン!」
焔の防壁を消すと同時にその向こうから、待ち兼ねたようにミドリが懐へ飛び込んで来た。
「気をつけたつもりだったが、野営場にも魔物が来たのか?」
震える肩を受け止める前に、刺すような痛みが左頬に走った。
「……?」
目の前に、星が飛んだ。
「なんて無茶するのよっ、バカ!」
「……バカ……」
一瞬その場が凍りつく。目の前に火花が散った瞬間は何が起きたのか解らなかったが、蒼ざめるロズウェルやヘルト王子の怯え混じりに向けて来る眼差しから、自分がミドリから平手打ちを食らったのだとようやく認識した。
「ハイレン殿っ、ミドリ殿は貴殿を心配されてのこと故、落ち着かれよ!」
なだめようとしている割には、ロズウェルの右手が腰元の剣に伸びている。
「ノイズを食らうなんて、あり得ない。もし自分がそれに取り込まれてしまったらどうなるか、ということを考えないのか、お前は」
呆れ顔で醒めた目をして見上げて来るヘルト王子の視線が痛い。取り敢えず、皆からなじられていることは察しがついた。そして、ただならぬ心配を掛けたことも。
「……すまない」
国を越え、世代を越え、立場をも越えて、『個』としての自分を思う存在が、ここに在る。過日、ロズウェルの記したふたつの記号が脳裏を過ぎった。――『信』と『解』。臆することなく苦言をはっきりと口にした彼らの奥底にあるものを受け取ると、その記号の意味を脳ではなく心が理解した。
「だが、魔物の正体が判った。これは、ノエルでは既知のことなのだろうか」
「正体? 魔物は魔物でござろう」
「いえ。食らって初めて知りました」
彼らに仔細を話しながら、ひとつ道中で続けようと決めたこと。
最強の《ノイズ》を持つ自分であれば、ほかの《ノイズ》に食われることはまずない、という確信があった。
「――彷徨える魂を食らい、解放すること。魔物と化す人々を正しき道へいざなうこと。ディエルトに散らばる紅の一族に課された、真の責務はそこにあるのではないか、と思います。……道中、私は出来うる限り、それを行なっていきたいと思う」
眼帯と染色の道具を返却するとロズウェルに告げた。
タクトにばれたら、彼は何と言うだろうか。「俺と稽古をしていたお陰だ」と、相変わらずの減らず口を叩くだろうか。それともやはり、キュアとしての自覚が足りぬと怒るだろうか。
旅路の中、常に考える。独りで決めたことのない自分のこの選択に、間違いはないかと問いたくなる。そんなハイレンにミドリは言う。
「ハイレンが正しいと信じられることなら、大丈夫」
そう言うミドリこそが、誰よりもハイレンの出した答えに信頼を寄せてくれていた。
しばらくは街場のある国へ足を踏み入れても、市街地には受け容れてもらえなかった。ミドリをノエルの人々に託し、周辺を歩いてはシェリルの壁の隙間から市街へ入ろうとする魔物と対峙する。食らう魂は悲しくて、《ノイズ》化や変化で積もる体力の消耗よりも、心の磨耗の方がハイレンを疲れさせた。取り込み、記憶し、取り込んだ魂から受け継いだ記憶と思しき町へ着いたら、その家人を探す。その時だけは、フードのついたローブを纏って黒いマントで身を包み、一見してすぐ紅の一族であると解らぬように配慮した。いきなり怯えさせないように。かつて人だった魂が家族へ伝えたかったことを確実に伝える為に。伝えると、殆どの家人が泣き崩れた。彼らはこぞって、魂と同じパスを口にした。
――私も、愛してる。
それは、パルディエスにはないパスだった。
噂はハイレン達の急ぐ旅足以上に早いようで、それがパルディエスとの伝達文化の違いを知るきっかけとなった。
「ハイレン、黒衣の剣士さまもどうぞ、ですって」
ノエル一隊と自分を繋ぐ伝達係と化しているミドリが、検閲の門扉からこちらへ駆け寄って来てそう言った。
「黒衣の剣士?」
「うん。ハイレン、野賊の人も助けてたみたい。昼は普通に行商をしている人の一部が野賊をしていることもあるのね。彼らから口伝いにそんな呼び名で噂が広がっていってるみたい。この町の領主さまが、目どおりを願いたい、って」
「……剣は動きを封じる程度にしか使っていないのだが」
「私に言われても、困る」
「――確かに」
互いに顔を見合わせれば笑みが零れる。久方振りに、屋根の下で眠れそうだ。ミドリとともに、夜の帳がすっかり降りるまでのひとときだけでも。彼女は、魂達の記憶を留めたまま、強いノイズから受ける痛みだけを癒してくれる。だからミドリを少しでも傍らに。ハイレンは、それが彼女と少しでもともにありたいと願う理由だと思っていた。
領主からは随分な歓迎を受けた。この町は、ほかの町と町を繋ぐ仲介のような商売で成り立っている町らしい。特にこれといったものを生み出している訳でもないのに、比較的潤った町である理由がそれだ、という彼の弁に不自然さはないが。
「噂によると黒衣の剣士殿は、パルディエスで族長の座を賭けた争いに敗れたとは言え、紅の一族だとか。出奔であれば、キュアが存命を許さぬと伺っていますよ。まさかそれはありますまい。旅の理由は何ですかな?」
揉み手とノイズが、口先だけの問いだと、下品に飛ばす唾液で濡れたその口以上に語っていた。
(とっとと用事を済ませてもらい、帰りにも立ち寄ってもらわねば。これだけ投資したんだ。パルディエスへの入国許可証をどうにかしてくれるだろう)
殆どシェリルが含まれていない安物のシェルアイテムで、己のノイズを防げている気でいるのだろう。別室でもてなされているらしいヘルト王子やミドリも気になる。ハイレンはロズウェルやノエルの面々へ密かにノイズを送った。どうせこの領主も、下衆な趣向のもてなしに借り出された娼婦達も、微細な波長のノイズなど感知出来やしないだろう。
(私がヘルト殿とミドリを確保するまでの間に、仔細を調べることは可能だろうか)
(御意)
杯を干して、わずかなオーラで灯りをともす。同時にノエルの戦士達が、燭台の炎を吹き消した。
「な、何を」
「夜に火をともすなど、魔物の餌食にしてくれと言っているも同じ。丁重なもてなしの礼に、魔物を狩って参ろう。領主殿はこの場でゆるりと休まれるがよい」
ハイレンは床面の敷布をめくって血で方陣を描くと、呪いを呟き小さな冷たい炎の灯りをともした。
「迂闊に動かれると、貴殿の身に危険が及びましょう。どうぞ動かぬように」
言い終わるや否や、苦虫を潰した顔をあらわにさせて、早々にその部屋を立ち去った。失禁するほど恐れおののくぐらいなら、浅知恵など働かさねばよいものを。そんな不快感がハイレンを満たした。領主には、きな臭いものを感じていた。
「ミドリ! ヘルト殿!」
彼女のノイズが聞こえないということは、かなりの距離を離されている。強いノイズを出してくれればと願いながら、町中も厭わずノイズを飛ばした。
(ミドリ、どこだ。《ノイズ》を出せ。見えなくてもオーラの気配でお前の位置が判る)
(ココ! ハイレン、ハヤク!)
機転を働かせた異界のパスが、町中を走った。
(領主サマノ、私邸――上ノ――)
位置は粗方判った。ノイズに混じる危機感は、彼女自身というよりも、ともにいるヘルト王子に関するものだということも。
(ヘルト殿ヲ守レ。《ノイズ》ヲ先ニ飛バス)
片言の異界コトバでミドリに告げると、ハイレンはオーラで紅龍をかたどり出した。
自身の《ノイズ》に導かれるまま、領主の私邸へ辿り着く。その異形だけで効果があったようだ。地面に散乱した槍や剣、そして無人の敷地内を確認すると、《ノイズ》が無駄な殺戮をせずに済んだことに安堵した。
「!」
安堵している場合では、なかった。鳳の《ノイズ》の気配を感じる。ヘルト王子の憎悪が辺りに立ち込め、近づくにつれそれが次第に強くなっていく。二階へ伸びる階段が、酷く長いものに感じた。
「ヘルト殿!」
扉を蹴り破り飛び込んだ先で、時既に遅しと思わせる光景が広がっていた。
「ハイレン……止められ」
「いい」
腰を抜かしたミドリを抱きとめ、もう一方の手で呆然としているヘルト王子を抱き寄せた。
「……こいつらがロッジの家族をそそのかしたんだ……知らなかった…ウィズルの者がここまで自身を貶めていただなんて……」
すまない。そう呟いたヘルト王子の謝罪が、誰へ向けた、何に対する謝罪だったのか。
「この者達とて、家人がいます。憎しみは憎しみしか呼ばない。……ともに学ばれよ、この旅をとおして」
黄金乃王がロズウェルの同行をヘルト王子に許した理由を、何となく察した。硬く目を閉じれば、眉根に苦悶の皺が浮かぶ。魂を食らうようになってから、それを視覚で捉えられるようになっていた。器を求めて飛んでいく魂。鳳によって身をあちこちへ散らかされた男達は、恐らく魔物になるのだろう……ほんの数刻の間だけ。
「ロズウェル殿達と合流しましょう、殿下」
そう言ってミドリとともに彼を抱き上げると、彼は抗うことなくハイレンの首にしがみついた。
ロズウェル達の待つ迎賓用の館へ戻ると、領主が拘束され失神していた。だが、縛った綱の先を握るのはノエルの戦士ではなく、町の警備の者だった。領主からは一切のシェルアイテムが外されており、彼のノイズは全てこの部屋にいる者達へ漏れ伝わっていた。それによりハイレンは、ここへ戻る道すがら、あちこちで見られた暴動の理由を覚った。町民の一部もまた被害者であり、別の一部は加害者であり……領民と野賊の混在する町、それがこの町の実体だった。
ひとりの老人がハイレンの前へ出た。無精ひげを生やしたまま、顔色も酷く悪く、痩せこけている。纏う衣も慌てて着替えたのであろう。両の手首には、長い時間拘束されたと思われる、しめられた紐の跡が痛々しく残っていた。だが野賊上がりのこの領主は、囚人に貶めた彼から品のある強い眼差しまで奪うことは出来なかったらしい。
「黒衣の剣士殿、お初にお目に掛かります。領主のフェストと申します」
彼は丁重な挨拶をすると、掻い摘んでこれまでの経緯を語り、そして今後の町のありようをハイレンに告げた。
「わが町は、かつてパルディエスの先代キュアに野賊から助けられた者で作り上げた新しい町です。先代の存命中は町の治安もよかったのですが。先の戦において先代の訃報が伝わると、もともと行商の知識と素人並の武力しか持たないわが町は、彼らの本拠地のように踏みにじられました。パルディエスの威光に甘え、自らを自身で守る力を持とうとさえしなかった、その罪は領主たる私にあります。死して詫びるという口実で逃げるよりも、生き恥を晒してでも、今後は町の健全に努めていく所存です。願わくは、指導者の派遣をお頼み申し上げたい――キュア殿」
「!」
確信を持って「キュア」と呼ぶフェストの瞳の強さに、否定のパスを失った。危機感と迷いとある種の安堵を彷徨う。ディエルトの全てがパルディエスを拒んでいる訳ではないと知り安堵した一方で、パルディエスにキュアが不在とディエルト中に噂が広まるのは最も避けたい危機でもある。
「……キュアに、しかとお伝え申し上げる。その男の身柄を私に預けてはもらえませんか」
それと一隊に一夜の宿を、改めて領主としてのフェストに願い出た。彼はふたつ返事で快諾した。夜明けになれば、魔物が消える。もう一夜をここで費やす時の余裕はない。
――黒衣の剣士より、全ての者へ、ノイズを送る。
ハイレンの発するノイズをフェストが止めることはなかった。
――女子供はシェルターへ戻られよ。男は捕らえた野賊を市街の門へ連行されたし。我らがその身柄を預かる。怒りを鎮められよ。
フェストが膝を折り、ハイレンに深々と恭しく一礼を捧げた。それに軽く一礼を返し、ロズウェルを省みる。
「御意」
言わずとも全て承知とばかりに、ノエルの戦士達はロズウェルを先頭に、一名を残してその場を去った。ミドリとヘルトを振り返れば、まだ不安げな表情を崩せないでいた。
「ヘルト殿下を、頼む」
「……どうしたら、いいの……?」
ミドリがフードを目深に被り俯いて顔を見せないようにするのは、きっと自分に余計な雑念を持たせないようにという配慮なのだろう。自分に出来ることを、と感じさせるパスとは裏腹に、呟いた声は震えていた。
「触れていてくれたら、それでいい。お前には解らないだろうが、それが癒しになるのだから」
それだけ伝えて彼女の頬へそっと手を伸ばした。あとはこの手が自分の思いを彼女へ伝えてくれるだろう。俯いた面が途端に上がる。怯えと不安の混じる大きな瞳が、水面を湛えてハイレンを見つめた。
「……許せとは言わぬが、ノエルまでは私とともにあること、辛抱しておくれ」
彼女から発せられるであろう、自分を拒絶するノイズを受け止める覚悟が、そうすぐには出来なかった。
居住区から遥か離れた他国との境界の草原のかたどる水平な地平線を、十数人の人影が一本線を崩す。既に空は濃紺までの明るさとなって、月を淡い黄色へと変えていた。
ここへ辿り着くまでの間、既に魔物を幾つ食らったのだろう。殆どが女だった。領主として納まっていた頭首率いる野賊達に辱めを受けた挙句殺された者。娼婦としての利用価値がなくなり、野へ捨て置かれ餓死した者。旅人に事実を話し、助けを求めたが為に拷問を受けた末に死んだ者。ハイレンの中で最も胸を引き裂かせたノイズは、遺した子への最期の思い、だった。
――ごめんね。独りにして、ごめんね。
好きで取り残した訳ではないのに、募る罪の意識を拭えないまま、生に拘り帰りたいと泣き叫ぶ。母と呼ばれる彼女達は、食らう瞬間確かに「ありがとう」と言って溶けていった。
引き換え、眼下にいる彼らはどうだろう。欲に満たされた心が発する恐怖は、どこまでも薄汚い。
(何でキュアがここにいるんだ?! 死んだはずじゃなかったのか)
(こんなことなら頭首に寝返るんじゃなかった。まだ死にたくねえ。まだやり残してることがあるのに)
(こいつらに寝返ったら助かるかな。ほとぼりが醒めたら、またずらかれば何とかなるだろう)
一本の太い枯木に括りつけられた彼らから、ノエルの一隊が身を剥がした。それにあわせて、ハイレンが《ノイズ》の光を鋭く密に収束させる。ごぉん、という地鳴りとともに、槍のように細く赤い閃光が枯木をまっぷたつに引き裂いた。枯木は一瞬にして火柱に変わり、それに括られた野賊達も、それより幾回りも小さな火柱と化した。
「ぐああぁぁぁぉぉぉっっっ!!」
「ぎぁぁぁ……っっっ!!」
断末魔の声に続いて上る淡い黒味を帯びたオーラ。それは既に人のものとは言えない、獣に近い本能だけに近く、改善の余地はない。かすかに人の記憶を宿した、鼻をつく黒い魂。明け始めた朝にそれが溶けてしまう前に、ハイレンは苦いそれを飲み下した。
町へ戻る気にはなれなかった。ともに旅をして来て愛馬となった彼の傍らに戻ると、町で待つ仲間への伝言を彼に託した。ヘルト王子が回復するまで、周囲の警護を兼ねて、研究材料になりそうな草原の植物を見て回る旨と、今日中の出立が無理であれば、野営の設置をする為に使いをひとり寄越して欲しい旨を書き記した。町へ戻れば、ミドリがいる。フェストは自分がキュアであることを確信していた。当然だ、先代と直接まみえた彼に、即興の方便など通用するはずがなかった。ノエルの面々の扱いから、ミドリがメサイアだということも今頃はもう解っているだろう。これまでに受け容れられた数少ない町の長と同様の扱いをすると考えると、町へ戻るのは何としても避けたい事態と思われた。自分という存在が、ミドリを怯えさせない為に。
(……怯えているのは、私、か)
次に彼女へ触れれば、あの光景が彼女の中へイメージとして送られる。命が奪われる光景を見るたびに、「どんな理由があっても、殺してはダメ」と訴え続けて来たミドリの泣き叫ぶ姿を思い出す。彼女の、怯えと不安が膨れ上がった、うつろう瞳を思い出す――。
「お前を何度も用立てて申し訳ないが、皆をここまで連れて来てはくれまいか」
そう言って破ったローブの袖に血で記したことづてを、彼の首へくくり町へと促した。他者の目があれば、まだ少しは耐え凌げる。それはミドリも同じだろう。互いに互いの使命の重さが、辛うじて個を抑えてくれる。
「……ふ……っ」
ざわめく黒いノイズが、身の内で甘く囁く。それを鼻で笑ってやり過ごしたのか、それとも自嘲したのか、ハイレン自身にも解らないまま、渇いた笑い声が草原に消えていった。
使命を貫く為に、何かとても大切なものを失ってしまったような気がしていた。
どこまでも続く、緑。昨夜は夕陽の茜が混じり、こんなに青々と茂る美しい深緑だと気づかなかった。シェリルが恋しい。森ではなく、物心ついた頃からパルディエスに佇んでいた、タクトとふたりでよく登った神樹の方だ。
生ぬるいものが頬を伝う。思いのほかそれが温かく感じられ、自分達が少しずつ北へ近づいていることをそれとなく感じた。
「!」
空の青が、草原の深緑に染まっていく。
(……違う)
小さな点が次第に大きくはっきりとした輪郭をかたどり、近づいて来る。友となった愛馬が載せているのは荷物でもなく、頼んだ仲間と連れ立って戻ったのでもなく。
「――……ンっ」
ひんやりとした朝の空気を覆う深緑は、メサイアが流す涙の雨。馬上の人影から、風に乗ってフードが落ちた。川の水面に遊ばれるようになびく漆黒の髪が、風の所為なのか自分の瞳がそう見せているのか曖昧になって来る。
「危な……ぃ!」
無茶なことを。そう叱る余裕さえないまま、馬の蹄に当たる危険さえ顧みず、馬上から飛び降りる小さな身体を抱き止めようと飛び出した。かするように触れた頬が、彼女の想いを五感全てに伝えて来る。袖のめくれたしがみつく腕が、ハイレンの首へじかに触れる。
――ずっと、傍にいて。
全身に鈍い痛みが走り、視界が一面の青になった。視線を重みの元へ戻せば、誰よりも必要な存在でいて最も恐れる少女が、自分を押さえつけるようにのしかかっている。
「ハイレン、ローブにノイズを残し過ぎ」
見下ろす彼女が、泣きながらもにこりと微笑む。
「一緒に帰ろう、町へ」
不安げなオーラは、もう消えていた。
「ハイレンって、鈍いよね」
「ミド」
不意に柔らかな感触が唇に宿り、その温もりがハイレンのパスを遮った。
――全部ひっくるめて、ハイレンが、好き。
食らって来た魂達の遺したひとつのパスから湧き上がる想いが、ミドリのそれからも溢れ出す。遺された遺族が零した、不可思議な音を思い出す。
『愛してる』
そのパスの意味が、ようやくハイレンにも解った。自分が何故彼女を傍らに置くことで癒されるのか、脳ではなく心がその理由を理解した。ただ、それは許されるのだろうか。キュアが特定の誰かを想うこと。メサイアを留めさせる元凶になりはしないだろうか。
過ぎる不安が、ハイレンの身を硬くさせる。彼女を支える手をその身から引き剥がさせる。途端、襲い来る恐怖と、すり替わる別の不安。壊れそうなほど震える彼女のノイズを、思うまま受け止めたがる自分に抗えなかった。せめて今この瞬間だけでも、キュアでもなく、黒衣の剣士でもなく、『ハイレン』という個人として、ミドリの為に在る自分でいたい――。
剥がした両の手で、彼女の頬をそっと包む。彼女が大きく目を見開くと、その瞳からまたぽたりと雫が落ちた。
「ハイレ……ん……」
彼女が自分に施した口づけよりも、少しだけ大人のそれを、彼女に返す。閉じた瞳を密かに開けると、視界一面に深緑の葉の絨毯が広がっていた。さわさわと奏でる微かな葉ずれの音まで鮮明に聞こえる。
――シェリル。
初めて、ミドリの《ノイズ》を見た。