第六章 責を負いし者達
「エインよ。汝は幾つ亡国させれば異界へ帰ってくれるのだ」
その会談は、ロズウェルの荒ぶるパスが嫌な響きで謁見の間にこだました時から始まった。
「ロズウェル将軍、違うんです。私、エイン館長の昔を知っています。閲覧を許されて書物蔵の文献で全部知りました」
「メサイアよ、途中で口を挟むは誰に対しても失礼な行いですぞ。私のことは気にしなくてよい」
「……でも」
彼のパスを皮切りに、その後もミドリやエインの述べるパスが、次々とタクトに新たな事実を突きつけた。ハイレンの傍らに立ち、ちらりと俯瞰で彼の様子を窺うが、ミドリやエインから語られる真実に黙って耳を傾ける彼から、特にうろたえる様子は見受けられなかった。
(おい、お前は知っていたのか)
極微量なノイズでキュアにだけ語り掛ける。
(いや。だが誰も素性を知らなかった以上、エインがそうであっても不思議はない)
伝わって来る彼のノイズは、あくまでも淡々として落ち着いている。確かにいつからここにいるのか謎であるエインが、異界人であってもおかしくはないが。タクトには、理屈と感情を切り分けるのにしばしの時間を必要とした。
「富める国ほど、囲いたがる。その裏にいつも汝がおった。某は汝ほど生きておる訳ではござらぬが、ノエルの伝聞録にてエインの名があちこちに綴られておるのを見知っている。汝がディエルトに疑念という種をばら撒きし戦禍ではないか、というのがノエルの見解でござる。弁明あらば、ともにノエルへ赴き、黄金乃王にその旨申し開きをしてみよ」
抑揚のない声に努めながらも厳しいパスを連ねるロズウェルを前に、エインは能面のような無表情を保ったまま、ここにはないどこか遠くを見つめていた。彼の言及に答えもない。そんなエインを見るのは初めてだ。彼女は、荒んだパルディエスに於いて、常に微笑を湛える憩いの場とも呼べる存在だったはずなのに。だが、彼女のその無表情が、タクトの抱いて来た概念を否定していた。
「エイン館長は、彼女の生きて来た異界での暮らしから、彼女なりに皆さんを守りたかっただけなんです」
小さな声で庇うミドリにも驚かされた。キュアにさえ一切を秘めたこの老館長は、彼女にだけ書物蔵を開放していたという。思い返せばミドリが謁見の間に現れてから発した第一声は、エインを見据えて放った『私、メサイアである道を選びました』というひと言だった。異界からの訪問者は、何もパルディエスだけに舞い降りる訳ではない。それはディエルト中でメサイア伝説が語られていることで承知していることではあった。だが、ディエルトの民が『異界』と呼ぶその空間が、複数あるとは予想だにしなかった。タクトは耳をパスに集中させつつ、溢れそうな勢いで急激に増えていく脳内の情報を慎重且つ迅速に整理した。
「不老長寿などあり得ない。それに、エインはシェリルの《ノイズ》を有していない。異界人の全てがメサイアとは限らぬということか。それに、メサイア以外の異界人に関する伝聞は一切聞かれないことも引っ掛かる。ロズウェル殿の言には信じがたい部分も見受けられるが」
パスを口にしつつ、ち、と軽く舌を打つ。冷静に徹したつもりではあるが、やはり育ての親を敵視する相手に嫌悪のノイズが幾分か零れてしまった。勝手に溢れてしまう馴染みのないその感情が、密かに「長老なんてやっぱり苦手だ」という愚痴を零させた。
「メサイア、タクトも、もうよいぞよ」
エインが何を思い廻らせたのか、タクトには相変わらず解らない。だが、初めて疑問を抱いた。幼い頃は、ノイズの防御力の差だと大して気にしたことがなかったが。
(ミドリとは正反対に、エインのノイズを一度も見たことが、未だにない……なぜだ)
抱いた疑念をノイズにしたことに気づき、一瞬背筋が寒くなる。さりげなく視線を巡らしたが、誰もタクトのノイズに気づいている様子はなかった――多分。
不意にエインが口を開いた。
「私がパルディエス降りた九の月、九代前のキュアの申し出に、メサイアではなく館の守り人を選んだ時より神託があり待ち続けて来たこと。九代の流れで九の月に生まれしディエルトの中枢とも言えるシェリルの神域に座すキュアの許へ、九の生まれのメサイアが現れた。そなたのような少女が舞い降りるはディエルトで初めてのことじゃ。大きな時の流れが向かう先を変えようとしているのやも知れぬ……ロズウェル殿とヘルト王子に書物蔵を解放いたしましょう。さすれば私が帰れぬ理由も、古くの戦禍呼ぶメサイアではないことも解りましょうぞ」
そう零したエインの面から能面が外され、意外にも彼女は微笑んだ。まるで長年背負って来た肩の荷が降りたとでも言いたげに。そして彼女はノエルの要人達へ、書物蔵の中身を簡単に説明した。
「書物蔵に納めらるるものの大半が、ディエルトに降り立ったメサイア達が残していった品々じゃ。そこには、その時代時代で知る必要のないもの、知ることにより却って戦禍の元凶となりうるものもある。くれぐれも勝手に触れぬよう。そこな少女が、最後までメサイアとして生きるか、館の守り人として生きるかの選択をするまでの間、私の成すべき私の務めが定められておってのう。彼女に全てを伝授することじゃ。それは既に終わっておる、その上でメサイアの道を選んだのじゃ。私は彼女を信じましょう。彼女に案内させるがよい」
柔らかな微笑が彼女の皺をより際立たせる。その穏やかな双眸がタクトに向けられた。
「タクト、そなたにも許しましょうぞ。見事、立派な長老になられて……その資格を得ることが出来、何よりじゃ」
それが彼女の心からの祝辞と解ると、どんな表情で受ければよいのか戸惑った。少し前ならエインのこんなパスを耳にすれば、ハイレンよりも先んじることが出来たと心躍ったものなのだが。
「エイン、キュアを差し置いて俺が見るなど」
言い終わらぬ内に、ハイレンがタクトの右手を引いて言い掛けたパスを制した。
「私にはまだ知る必要がないものということだ。構うな」
そう言って見上げて来る紅玉の瞳に、薄暗い澱みは皆無だった。次第に不遜な笑みに変わる彼の表情が、タクトに拳を握らせた。これまで歯痒いほどに全てを諦めていた彼から、三度目の強い意思を感じ取ったからだ。一度目は『キュアになんかならない』と殺意を彼自身に向けた幼い頃。二度目はこれまでにない『副族長』という官位を設けると言って恐怖で村人を鎮圧させた時。どちらもハイレン自身を無視したタクトを思っての強い主張だったが、三度目の今は、それらとも違った。
ハイレンはタクトの沈黙を認めると
「メサイアが諸々を熟慮した上でのことであれば、彼女にそれらを補ってもらおう。本題へ移ってよいか」
と視線を客人達へ戻し、静かに先を促した。彼の声が、心の奥底がざわめかせる。それは決して不快なものではない。時代が動く瞬間を目の当たりに出来るという期待混じりの高揚感、と言えばいいのだろうか。その声は自然とタクトの右足を彼より一歩後ろへ退かせる張りを持っていた。
「ノエルの招待に応じようと思う。ただし、先に起きたウィズル家に関する申し開きの為ではなく、星見やメサイアに関する書など、学者として招きに応じたい。ロズウェル殿、王の書簡にはふたつの意味がこめられていたのではありませんか」
問い掛けるハイレンの目はロズウェルではなく、一瞬にして気色ばんだヘルト王子に注がれていた。それが王子のパスを封じ込んでいた。彼が例の亡命した貴族を殺した罪人について異論を唱えたいのであろうことはタクトにも想像がついた。そして、ふたつの意味の内訳も。それだけに、タクトの視線もヘルト王子へ向かう。彼にとっても試練の旅であったことを、ようやくタクトは覚った。
「御意。赴く意向なき場合は、ウィズル家を壊滅させた罪人として連行せよとの命を受けてござった」
ロズウェルのパスを受けて、ヘルト王子の目が大きく見開く。生成り色のオーラが瞬時に溢れ出し、震える拳が肘掛けを叩いた。
「キュア……お前が……ロッジの家族を……」
ハイレンの右に控えていたミドリが、不意に動いた。震えるヘルト王子の小さな肩にそっと柔らかに手を乗せる。
「お願い。本当のことを知っても、壊れてしまわないで。みんな、ヘルト王子の気持ちを解っているから隠していたの。だから……」
彼女は少年を抱きしめると、彼の頬へ直に触れた――泣きながら。彼にイメージを伝えているのは、恐らくハイレンを介して見えた一廻前の光景だろう。ハイレンの表情が重く沈む。ロズウェルも恐らく調査済みだったのだろう。ミドリを制することもないまま、深い皺を眉間に寄せて君主の弟へ寄り添った。ヘルト王子の身体が傾き、ぱたりとロズウェルの懐へ落ちた。耐え難い現実に堪え切れず、意識を飛ばしたようだった。
「辛い役回りをさせ、かたじけない」
そう呟くロズウェルの苦しげな表情を直視出来ず、面を伏せた自分の行動に不可解さを覚えた。
「私の役目は終わりのようじゃのう。その子とて紅の子。館にて養生させましょうぞ」
エインが椅子から立ち上がってそう述べると、ハイレンがボラウを呼んだ。部屋の出入り口で控えていたボラウはヘルト王子を抱き上げ、エインとともに謁見の間を立ち去った。
しん、と静まり返った部屋に、ミドリの小さな声が哀しげに語った。
「ロズウェル将軍、彼女は収容所……私には巧く説明出来ないけれど、私が生まれるよりも、ずっともっと昔、人を人とも思わず人体実験や、少ないご飯と睡眠時間で無理に働かせるとか、そういう場所と時代があったんです。彼女は軍人に発見されてしまうまで、ずっと隠れてひっそりと暮らしてました。それが唯一の生きる方法だったんです。囲って、息を殺して、いない振りをして。それが唯一身を守る方法だったんです。だからパルディエスに囲いを作るよう昔のキュアに提案した、ただそれだけで、シェリルを独占してディエルトに戦禍を呼ぼうとした訳ではないんです。キュアを許したように、彼女のことも許して欲しいと、ノエルの王にお願いに上がるのは失礼になるのでしょうか」
――メサイアの神託だからと彼女の提案を鵜呑みにしたディエルトの民には、本当に一切の罪がないと言い切れますか。
「私も、異界でそうやって人の所為にして責任逃れをしたから、罰を受けたんだと思っていることがあります。メサイアと呼ばれて、いろんなことを誰かの所為には出来なくて……ここは、嫌でも大人にならなくちゃ、って思うセカイですね」
最も若いミドリの発したそれは、年長である三人にとって、酷く重い問い掛けだった。
彼らの旅立ちまで、ひと月以上の時間が掛かった。当然だ。村人がキュアの不在など許すはずがなかった。
「い……い加減にしてくれっ。やっと長老の席も埋まり、パルディエスも落ち着くだろうと思った矢先に!」
(ふざけるな、学問かぶれの弱腰がっ。キュアとしての自覚がなさ過ぎる!)
「ノエルまでどれだけ掛かると思っているんだ!」
(三月も四月も村を空けて、その間に他国が攻め入って来たらどうする気だ!)
「や、宿しの儀はどうなるんだ……」
(俺の娘は間もなく十五なんだぞ。この日の為だけに生傷堪えて育てて来たのに、何てことだ。勘弁してくれ)
様々な負のノイズが、《ノイズ》化したがり暴れ出した。これまでハイレンに対する不満が多々ある村人がノイズをドーム内に渦を巻かせることは多々あったが、今回ほどの荒れようは流石に見たことがなかった。だが同時に、これだけの負のノイズを目の当たりにしても、自身のオーラを堪えようと額に汗を浮かべて来たハイレンが、眉ひとつ動かさずにそれらを静観する様を見るのも初めてだった。
「長老となったタクトに留守を預けられるからこそ、私もパルディエスを空けることが出来る。先代も戦の間は長老に政を託していた。それと変わりないはずだが」
涼しい顔で、微笑さえ浮かべて彼は答える。なかなか自分で物事を決めない彼が、こうと決めたからにはてこでも動かないことを知るタクトから見れば、覆そうと足掻く村人こそが哀れとさえ感じられた。
「今回は戦が理由じゃないでしょう。メサイアの帰還の書? 星見? 俺達には迷惑なもんばかりだ。あんたは一体誰の為に存在してると思ってるんだ!」
ひとりの男が勢いよく立ち上がり、拳を震わせてそう叫んだ。閉ざされていたハイレンの瞼が、静かにゆっくりと開かれた。
「逆に、私が問おう。お前は誰の為に存在している」
問われた男の乗り出した身が、一瞬にして硬くなる。
「……私にも、今は答えられない。無知な族長では頼りないと思わないか」
(誰もそのようなことを考えたこともないだろう……我々は、閉ざされたパルディエスの中で、無知なまま無駄に怯えているという現実を知るべきだと私は思う)
自分を貶めるパスの裏に、相手にも同類と諭すノイズを送る。いつもどおり、村人の安心を促す為に過剰にシェルアイテムを身に纏ったまま。それは、紅の一族が持つノイズの真の強さを村人に知らしめる行為だった。
静まり返ったキュアドームの広間で、ハイレンが淡々と残りの問いにもパスで答えた。
「不在の期間は約一廻、出来るだけ早く帰って来る。ノエルから定期的に使者を送らせよう。何か火急の件があれば、ボラウに伝達係を一任する。怯えさせてやるな、真っ当に仕事が出来なくなるからな」
そう言って微笑みを投げると、右に控えたミドリが小さく笑った。
「酷い」
シェリルの葉擦れのような彼女の声が、村人の緊張を幾分か和らげた。
「宿しの儀については、当該女子の名簿を作成して控えさせておく。帰還後、個々と話をしたい。親ではなく、娘達個人とだ。これに異議は唱えさせない。ほかに不満がある者は遠慮なく述べよ」
ハイレンのそのパスを受けて、数人の若者が立ち上がった。
「メサイアまでパルディエスから出るということに、どうしても納得が出来ない。ノエルに屈するようなもんじゃないか。タクトならきっと応戦した。メサイアを危険な旅に伴わせるなんて、あんたの考えは間違ってる!」
荒い語気に反して、その声音は震えていた。タクトはその若者の根底にある思いを、ほんの少しだけ同調の念を抱かざるを得ない。キュアに対する恐怖をも上回るそれはきっと、メサイアには決して届かないもの。奇妙な親近感を覚えると同時に、己を含めた村人の無知を改めて感じさせられた。ミドリの住まう異界では、それを何と呼ぶのだろう。本当は、ディエルトにも存在しているものなのだ。それに気づかぬ者があまりにも多いだけで。
「キュアがメサイアに命じたのではない。紅の館にある書物蔵の存在をお前達も知っているだろう。その文献を読んだ上で、メサイア自身が決めたことだ。帰りを待とう」
書物蔵の主たるものを閲覧した今のタクトだからこそ言える。そして今の自分だからこそ、村人も納得してくれるだろうと――信じた。
タクトのパスを補うように、おずおずとミドリが思いを述べた。
「私、パルディエスの人達が好きだから。ちゃんと帰って来るし、帰ってくれるし。キュアが一緒なんだもの。守られて来たみんなだから、キュアの強さは知っているでしょう?」
つきりとタクトの胸に痛みが走る。ミドリのパスにこめられた想いが、タクトに酸っぱい唾を飲み下させた。
「メサイアの不在中は、シェリルの森を開放しよう。私欲に乱伐しないように。疲れたら、自由に赴きシェリルに癒してもらうといい」
仔細はタクトに一任する、というハイレンのパスで会議はしめ括られた。のたうつノイズは幾分か燻ったままではあったが、どうにか村人の了承は得た。
朝陽が昇り始めた頃、パルディエスの村と荒野を隔てる防壁から橋げたが降りた。
「数々の配慮、厚く御礼申し上げる。黄金乃王にもしかと伝え、後々の両国の親睦と発展に尽力する所存でござる」
相変わらずうっとうしい挨拶を述べるロズウェルに、タクトはすっかり砕けた口調で憎まれ口を返した。
「年寄りが頑張らなくていいだろう。こっちの小坊主が兄王のよい右腕になるんだろうから」
「小坊主と言うな! ヘルトだ!」
相変わらず中身は子供で、まだ理屈と感情の反りが合っていないようだが、このひと月の交流で、幾分かパルディエスに対する嫌悪の情が薄らいだ様子を見せたヘルト王子に別れを告げた。
「ノエルとパルディエスを中心に、これからは若い世代が時代を動かしていくのだろう。頑張れよ、少年王子」
きりりと口を引きしめ、挑むように睨む勝気な目が、初めてタクトに潤みを見せた。
「……世話になった。立場上、互いにもう会うことはないであろうが……会えて、よかった」
無理のある大人びた口調に、思わず苦笑いが零れ落ちた。
続いてハイレンの方へ向き直る。考えてみたら、この世に彼が生を受けてからの二十と二廻、こんなにも長い期間離れたことなど一度もない。
(何だろう。この辺りが、妙に気持ち悪い)
胸の真ん中辺りが心地悪く、ローブの上からきゅ、と軽く拳を握り、そこへそっとあてがった。気を取り直して笑顔を作る。彼は自分が笑うといつも釣られて笑うからだ。
「実際、ろくな人間は揃っちゃいないが、警備の者をひとりでもつけていけば少しはマシだろうに」
二人だけで発とうとするハイレンとミドリに、最後までそうごちた。
「ノエルの護衛が一緒だ。タクトの《ノイズ》から生き残れたくらいだから、大丈夫だろう」
ハイレンは不敵な笑みを零して、彼らの前で堂々と高慢なパスを言い放った。
「あれはロズが俺の雷を弾き飛ばしただけだからだ。俺はロズ以外攻撃してない。恨みを勝手にノエルへ売るな」
「はっ、お前らしい言い草だ」
ハイレンが声を出して笑うのを聞いたのは何廻振りだろう。そして、自分のこういった類の冗談を真に受け、深刻に悩んでいたかつてとは異なるこの反応。馬上に乗っているからというだけではない。彼がいつの間にか随分と大きくなったと改めて感じられた。
「村は心配ない。俺も、それにカインもいる。人心については、館長の協力も得られるようだし、お前はそちらに専念しろ」
あまり時間が残されていないから、というノイズを掻き消すのに苦心した。
「必ず一廻で帰って来い。それ以上は村人を抑えられん」
「解った。では」
「あ、ちょっと待って」
ミドリが不意に、出立の声を上げ掛けたハイレンの声を止めて馬上を降り、タクトの傍まで駆け寄って来た。
「タクト、ちょっと内緒話っ」
言うが早いか、ミドリはタクトを門の向こうへ引きずっていった。人の気配がないのを確認すると、小さな声で俯いて尋ねた。
「どうして一廻って、決めたの」
賢い娘だとつくづく思う。持て余す指先をもつれさせている仕草が、彼女の照れを伝えていた。
「ミドリ、既に一廻以上が過ぎている。期限を作らないと、あの研究馬鹿は永遠にノエルの書庫に引きこもってしまうぞ」
メサイアは、ここから来たのだろう、と促すと、彼女は小さく頷いた。
「パルディエスの人達が、好き。だから、帰るのもここから、って、思ってた……ありがとう。タクト」
ふわりと柔らかな感触に包まれる。深緑の雨が、タクトの胸の内だけに降り注ぐ。否、それだけではなかった。触れ合う頬にも、ミドリの零す涙がタクトの頬を濡らしていた。
「必ず、ここへ帰って来い。そして必ず俺に教えろよ」
抱くこの思いを何と呼んだらいいのか。それがミドリと密かに交わしたふたりだけの約束だった。
「タクトは、もう知ってるよ。でも、ディエルトで何て言うのか、それをノエルで見つけて来るね」
耳許でそう囁くと、ミドリはそっと身を引き剥がした。
「ありがとう。タクト。大好き」
パパとおんなじくらいに。悪びれることなくそう返すミドリの、満面の笑顔を脳裏に焼きつけた。
「最後まで、そうやって笑って過ごせ。忘れるなよ、俺との約束」
思い出さずにはいられない。書物蔵で知ったメサイアの最後を。ミドリはそれを知った上で、メサイアであることを自らの意思で選んだ。ひとつの想いの為に。
「うん。ディエルトで何て言うのか、絶対見つけて帰るから」
パルディエスのみんなへ恩返しをする為にも。ミドリはそうつけ加えるとタクトに背を向け、ハイレンの待つ馬へ近づいた。
そのあとについてタクトも足を戻し馬上の彼を見上げれば、後光のように朝陽を受けて表情を見せない姿を瞳が捉えた。
「内緒話はおしまいか」
「ああ。羨ましいだろう。教えてなんかやらないぞ」
どこまで察しているのかいないのか、ハイレンは「そこまで子供じゃない」と言ってくすりと小さく笑った。
「ハイレン、ひとつ訊いていいか」
蒼い瞳に変わってから、気になっていたことを最後に尋ねた。
「これだけ村人から散々な仕打ちを受けているのに、何故村人の為に自分を犠牲にして来たんだ?」
彼が地位や権力を望んでなどいないことは、幼い頃から知っていた。あまり他者に関心を抱くことがなかった昔は、そのことに気を留めてなどいなかった。だが蒼い瞳と髪を手にしてからは、それらが無性に気になって仕方がなかった。
「……諦めが悪いのだ、きっと私は」
思いを分かち合いたくて、村人の望みを叶えることで、自分を認めて欲しかった、皆と同じ『ひとりの人間』として。そう零した彼の表情は、やはり後光の朝陽が遮り分からなかった。
「……そうか」
「あ。しかし前よりはそんなに強くそう考えている訳ではないぞ。タクトが解っていれば、それでいい」
「……気持ち悪いからさっさと行け」
――まったく。
ミドリまで笑い出したので、タクトは初めての旅路を憂慮する暇さえ与えられなかった。
見送られるのは好きじゃないというメサイアの意向に従い、キュアとメサイアが、たったふたりで村を発つ。いつ彼は真実を知るのだろう。彼女はいつ真実を伝えるのだろう。
(エイン。あんたはミドリが自分と同じ、守り人を選ぶと思っていたんだろうな)
書物蔵で独りハイレンの母が遺したものを読んでいる時、エインが隣へ腰掛けて呟いた。
『まだ幼い少女なのにのう……』
それとともに零した深い溜息には、彼女のミドリに対する哀れみがこめられていた。パルディエスの毒に侵されたエインは、ミドリが自分と同じ道を歩むに違いないと思いながら書物蔵を巡らしたのだろう。純粋で幼い心を持つ少女であったことこそが大きな特異であったのに。
誰もいない荒野を見つめるタクトの蒼い瞳から、光る筋がひとつ頬を伝っていった。