第五章 時の歯車を回す者
シェリルの森のオーラさえも突き抜けて届いた、子供と思しき高いノイズ。
――ロッジの家族を襲ったのはあいつか。私からロズまで奪う気なのか!
ミドリに後ろめたさを感じつつも、そのノイズを放ってはおけなかった。急いで窓辺に立ち森を見れば、黄金の鳳が強い《ノイズ》を発していた。その下方でタクトの《ノイズ》、黄土の大虎が森の中どこか一点を見据えている。戦闘が行なわれていると察せられた。何よりも、鳳は異形であり、気高い《ノイズ》でもある。子供であれだけのものを発するとすれば、恐らく他国における自分のような位置にある者に違いない。
――ロズ! 避けろっ!
そのノイズを最後に、途端、鳳が姿を消した。迂闊に村人を使いには出せない。ハイレンはミドリとボラウに雑事を託すことにした。
「ミドリ、薬箱を持ってあとからシェリルの森へ来てくれ。ボラウに馬を駆らせろ。荷台を忘れるなと伝えて欲しい」
振り返って告げる間にも、執務室に封印を施す。ミドリに呪いはつうじないので彼女の在室は関係ない。とにかく早く森へ行かなくてはならなかった。
「森で何かあったの?」
上ずる声を必死で抑えるミドリの気丈さが逆に痛々しい。
「何者かが森の結界を破り侵入した。タクトが応戦しているようだが、他国の者であれば戦の火種になり兼ねん。見て来る」
まともにミドリの顔を見れなかった。伏せがちの面を窓の外へ向ける。短時間で自ら《ノイズ》を操れることこそが、キュアの素養のひとつでもあった。瞬時に全身が熱を帯びていく。背後で「あ」と小さな声が漏れた。思えばこれまで彼女の前で変化をしたことがない。また怯えさせてしまっただろうかと不安が過ぎる。
(だが、今はそんなことを言っている場合ではない……な)
溶けまどろんでいく意識の中で、無理矢理小さな懸念を掻き消した。空が急速に近くなる。空気の濃度が人体の時以上の鮮明さで感じられて来る。全てが紅の薄衣を介して見る視界に変わると、ふわりと宙に浮かぶ感覚を手に入れた――飛べる。
窮屈に思わせる窓枠から長い身が躍り出る。空高く昇りつめると、くるりとシェリルの森に向けて長い身体を旋回させた。その刹那、執務室の窓辺から見上げるミドリの姿がちらりと見えた。遠く高く昇ったここからでは、小さ過ぎて彼女の表情が解らなかった。多くの気掛かりを残しつつも、ハイレンはその場をあとにした。
森へ急ぎ赴けば、タクトの放った雷が森の一部を燃やしていた。尖るオーラはもう感じない。恐らく向こうは大事ないだろうと判断し、ハイレンは再び天高く昇り雨雲を呼んだ。黒雲の中に走る稲光は、容赦なくハイレンの身を傷つける。鱗が剥がれ落ちる度にずきりと痛みが走り、龍の身体を伸ばして雲を追い囲うのに難儀した。どうにかそれなりに集まると、身を焦がし大気に熱を加える。己の身も焦がすほど熱くなると、一気に熱の放出を停止させた。急な温度変化が水蒸気を可逆させ、雨と化した水がシェリルの森を湿していく。それは紅に燃えるハイレンの身からも熱や炎を奪う諸刃の剣とも言えた。
(急いで村に戻らねば)
冷却が炎を完全消失させ人形に戻されるまでに地上へ降りねば、情けない理由で落命する破目に遭う。シェルターの寝室の窓に解放の呪文を唱え、そこから身を踊り入れると同時に身体が溶けた。
疲れている暇はない。急ぎ新たな衣に着替え、キュアドームへ足を運ぶ準備を整える。今はとにかく、内部のもめごとはあと回しだ。ハイレンはキュアドーム謁見の間へ向かう道すがら、自身へそう言い聞かせ歩を早めた。敢えてシェルアイテムの一切を身につけない自分の姿を晒すことで、異変に警戒する村人達を各々のシェルターへ引きこもらせた。
「ボラウ。ボラウはまだ戻っていないのか」
彼のシェルターはもぬけの空だった。ハイレンはノイズとパスの両方を用いて四方へ向かって呼び掛けた。
「キュア、タクト警備班レンタであります。報告します」
今頃になって、現場からの報告を伝える男がハイレンの前に立ちはだかった。傷の痛みと事態の重さがハイレンから余裕をなくし、些細なことでも苛立たせる。
「遅い。状況は既に把握した。森へ遣わしたボラウとすれ違わなかったかだけ答えろ」
発した声の低さで我に返る。レンタと名乗った男は膝を折ったまま小さく肩を震わせ萎縮していた。
「……済まない。まずはご苦労だった」
「も、申し訳ありません。ボラウとは行き違った模様であります」
「ならばいい。……持ち場に戻ってくれ」
「御意」
彼は逃げるように、元の持ち場である周辺警備へと足早に戻って行った。その彼とすれ違う形で、二頭の馬が駈けて来る。
「キュアー、申し訳ありませんー! 荷台を忘れてしまいましたー」
能天気な謝罪の内訳に、カクンと一度首が傾く。だが、それはある意味でハイレンをほっとさせた。小心のボラウがあれだけ元気な声を出し、能天気な意味の謝罪を零すということは、少なくても来訪者に敵意がないということだ。
客人を乗せた馬が間近になると、ハイレン自らが手綱を取って出迎えた。ボラウに導かれやって来たのは、肩の肉を削ぎ落とされた大男と、きりりとした鋭い瞳に警戒をこめてまっすぐハイレンを見据える黄金色の髪をした少年だった。
「馬上から失礼する。某はノエル王国軍将軍ロズウェルでござる。こちらの御方はノエル王国第二王子、ヘルト殿下であらせられる。新たなるキュア殿に於いては、至急黄金乃王より預かりし書簡にお目通しの上、返答を戴きたく馳せ参じた」
そのパスと肉体にそぐわぬ粛然振りに、年かさのいった老将軍と見受けられた。第二王子のノイズに混じる、未だ燻る敵意が気になる。迂闊に非礼を詫びるパスは避けるべきだと考えた。
「遠路遥々よくぞ無事参られました。まずは傷の処置をさせましょう」
「これのどこが無事だというのだ」
「これ、若」
「ウィズル家を皆殺しにした者を差し出せ」
ヘルト王子が途端剣呑な表情を強めたのは詫びの言葉がなかったからかと思ったが、どうやらそうではないようだ。ロズウェルとの齟齬も感じられ、状況を把握出来ない今は、それ以上口を開くことがはばかられた。
「若、場をお慎みください。王が若に許されたのは、あくまでも同伴だけでございますぞ」
「……わかった」
ハイレンは二人のそんなやり取りに無言で背を向けた。
「ボラウ、薬師をすぐにキュアドームへ集めてくれ。手当てを頼む。痛み止めもだ。急ぎだとくれぐれも皆に念を押しておいてくれ」
「はい。俺も馬を戻してすぐキュアの手当てを」
「私はよい」
あとに続くボラウのパスを感じはしたが、今はそれどころではなかった。過去の記憶を手繰り寄せる。
――ノエル、ウィズル家、皆殺し。
(身に覚えが、ない)
そもそも、キュアが戦以外でパルディエスから外へ出ない形態を取ってから何世代経たのかも解らない。この村の生き字引でもあるエインに同席を願う方がよさそうだと判断した。
「ボラウ、治療が済み次第、キュアドームへ来るよう館に知らせを飛ばしてくれ。お前はそのあと、もう一度森へ。メサイアとタクトが迎えを待っているだろう……急げ」
手早く次の指示をボラウに出した。気を荒げたタクトが、ミドリと二人きりであるのがほんの少しだけ気になった。
他国の者を招き入れる謁見の間は、キュアドームの中でも特別な造りになっている。地植えのシェリルに呪いを掛け、それ以上の成長を止める処置を施した壁と柱で囲われている。頭上高くに生い茂る深緑の葉が粗方の雨を防いでくれる仕組みになっている。その中間部に硬く透明な板を施されているが、光を通す物質らしいことしか村人にもハイレンにも解らない。パルディエスにひとつしかない貴重な物質なので、研究も出来ないのが現状だ。エインは何か知っているようだが、それもまた、館の書物蔵に保存されている資料を読めば判るの一点張りで埒が明かず、問い質すのを諦めたもののひとつだった。
ハイレンは高座にあるキュアの席ではなく石張りの床に椅子を用意させ、客人と同じ立ち位置で腰を下ろして彼らと対面した。
ほどなく処置を施され幾分か小綺麗な見た目になったロズウェルが、ヘルト王子を伴いカインに導かれて謁見の間に姿を現した。
「先ほどは森にて助けられ、かたじけない。また丁重なる厚遇にも御礼申す」
(話の解る小僧のようだ。我が王の先見には、つくづく頭が下がる)
膝を折り、頭を垂れて述べるロズウェルのパスと、ノイズに大きな落差は感じられない。だが、鍛錬を積んでいるのだろう、彼の奥底に潜む本音までは、霞が掛かり読み取るに至らなかった。
「書簡を拝見するとしよう」
早速本題を促すと、カインがロズウェルの前に立ち、彼から巻物を受け取った。特に仕掛けが施されていないことが確認されると、それはハイレンの手に手渡された。綴られる端正な文字に、黄金乃王の人柄がうかがえる。公正、公平に徹し、糾弾を臭わせるパスはないものの。
『過日、貴殿の統べる領土内に於いて我が国より逃亡した国民の遺体を発見、収容した。シェリルアイテムが全て搾取されている形跡がある由、弁明あらば申し開きの場を設けたく、ノエルへの来訪を提言す。遣いの者を案内とす。ともに参られることを切に願う』
「メサイアの同行を条件とす――これは、どういう意味か。貴殿は王よりことづかっているか」
問いながらも心の中では疑問が渦巻く。あれほど慎重に隠して来たのに、何故ミドリの存在が彼方ノエルにまで知られているのか。
「特にござらぬ、ただ」
星見の預言があったという。
「戦禍、メサイア立ち去りしのち降り注ぐ。無知の子に知を施すが王の使命、と。此度の惨殺死体についての星見で、斯様な神の思し召しはいかなる意味か、王はそれを考えあぐね、深慮の末貴殿と語らう場を設けたいと申し出を決意されたのではないか、と。身の程もわきまえず、某の私見を申し上げるが、貴殿は聞く耳を持っておられるようなので、寛容な対応を願う次第」
平身なのか不遜なのか解らぬ態度で、頭を垂れて膝を折ったままロズウェルが述べた。ノイズは厳重に胸の奥底に沈めたままだ。紅の一族の力も把握しているらしい彼が、よからぬ企みを腹に抱えている可能性が皆無とは考えにくかった。ノエルに仕える星見ならば、王を知者と据えるのは真偽を度外視して当然だろうと受け容れられるとしても、だ。
「私が無知の子、と言う訳だな、黄金乃王は」
問い質す声に苦笑が混じった。村人であればハイレンの苦笑を嘲笑と捉え、その場でノイズを荒げるところだろうが、ロズウェルは違った。
「事実を受け止め下され。さすれば先の我が国民の惨殺については不問にされましょうぞ」
「ロズっ、お前が勝手に罪人の処遇をパスになどするなっ」
それまで黙していた少年王子が、ロズウェルの言葉を遮り激昂した。忠臣の一歩前から、更に数歩前へ身を乗り出し、これまで堪えていたのであろう思いの丈をハイレンにぶつけて来た。
「キュア、そなたがメサイアを私のおるところまで導いてくれたこと、突然の訪問という無作法を許す器量、それらは認めてやる。そなたが罪人でないことは判った。だけど、私はウィズル家を壊滅させた罪人のことだけは許せない。人体のあの壊れ方は、通常の民が発する《ノイズ》にやられたそれではない。だがタクトとやらいう者でもなさそうだと先ほど判った。罪人を素直にノエルへ引き渡せ。一家諸共だ。私はそなたに、それを、訴えに……来、た……」
次第に涙声になっていく。彼のノイズがイメージ化され、その光景をハイレンへ伝えて来る。ようやく彼が異様に拘るウィズル家というものが判って来た。そして、それを惨殺した咎人も。
「……ヘルト殿下。心中察せられました」
平静を装い切れない自分がいる。ウィズル家とは、一廻前にハイレンの夜警に出くわし、いきなり《ノイズ》を食らわせて来た賊達のことだった。あの時彼らのノイズは、シェリルの強奪を漏らしていた。漆黒の闇だった所為で、彼らはハイレンの乗るラバの音に気づいた瞬間、ただの警備兵と勘違いして《ノイズ》を発動させたのだ。彼らからノエルに対する慕情や諸々の事情を感じることはなかった。ただひたすらに、シェリルを奪いそれを元手にいずこかへ流れて裕福に暮らそうという我欲に満ちていた。身分がどうであれ、あの状況下では野賊としか判断がつかなかったのもまた事実だ。
だが、それを口に出来ない自分がいる。ヘルト王子の脳裏に浮かぶひとりの少年が、王子とともに泣いている。その面差しが、ハイレンの殺めた賊のひとりとよく似ていた。一族から置き去りにされた落ちぶれ貴族の、ただひとりの後継者だとヘルト王子の記憶が伝えていた。その少年の悲しい末路まで、鮮明に。
(亡命者の生き残りとして民になぶり殺しにされたのか……)
やり場のない憤りや悲しみを、ウィズル家を絶やした何者かにぶつけるしかない幼い心に、かつての自分が重なった。
「私の一存では決められぬ故、その返答は今しばしお待ちいただけないだろうか。勿論、貴殿の滞在中によい結論を出すつもりではありますが」
「……ありがとう。兄上は、子供が表に出るものではない、って、聞き入れてくれなかったんだ……ありがとう、恩に着る」
親友を思いやるひとりの少年に戻ったヘルト王子のパスが、ハイレンの胸にずきりと刺さった。敢えて静観を決め込んだロズウェルと、恐らく黄金乃王も既知のことと推察される。星見の預言も引っ掛かる。戦を避ける妙案を考慮するには、あまりにも情報が雑多かつ少な過ぎた。
「カイン、エイン館長はまだか」
タクトやミドリに代わって脇に佇むカインに彼女の動きを問い質した。だが声を発したのはカインよりも、ロズウェルの方が早かった。
「なんと、あの老いぼれはまだここに留まっておるのか」
(あやつがパルディエスの澱みであったか)
交叉する彼のパスとノイズがハイレンの関心を強く惹いた。
「エインをご存知なのですか」
呆れた顔でぽかんと口を開けたロズウェルに仔細を問うてみたが
「……本人に訊くがよかろう」
とすげなく躱わされた。軽く発せられたパスとは裏腹に、ノイズに置き換えてしまいそうな自分を律するのに苦心している様が見て取れる。彼らの来訪は、次々とハイレンに新たな疑問を提示して来た。
「其処許の主、エインにはロズウェルの来訪を伏せて呼ばれよ」
彼の忠告について無言で意向を問うカインに、是の合図を送ってエインの迎えを促した。
「ひとつ尋ねたいが」
ハイレンは間を繋ぐ他愛ない話を装いつつ、軽い口調で彼らに問い掛けた。
「パルディエスには、星見の識者がいないので不思議な感覚なのだが、そんなに事実に即する預言なのだろうか。貴殿達はメサイアと会う前から、ここに彼女が降臨していると確信の上で赴いたと見受けられるが」
問われた二人は互いに顔を見合わせ、きょとんとした瞳を二度三度瞬かせた。それはまるで、ハイレンが奇怪なことを尋ねたとでも言いたげな仕草だ。流石にそれには少々不快を覚え、わずかに眉をひそめた。これでも周りの人間に比べれば遊ぶ間も惜しんで学んで来た自負がある。小馬鹿にされた感が否めず、疑問をパスにした好奇心を軽く悔やんでそっぽを向いた。
「道中、パルディエスに近づくにつれ、キュア殿の噂も幾ばくかは耳にした。軍属する歴代のキュアと異なり、此度のキュアは、古代と植物を究める学者に籍を置く変わり者だ、と。しからば、この文字をご存知か」
ロズウェルがそんなパスでハイレンの興味をまた煽る。視線を戻すと、彼が小さな《ノイズ》の白熊を操り、その爪で石の床面にふたつの記号を刻ませた。
『信』
『解』
「……見覚えがある。古代文字の一種ではないか?」
「ほう、やはり博学でござるな。これは」
「いや待て。思い出す」
余計な負けん気がこんなところで出ようとは。好む分野で他者の遅れを取るのは、政の遅れを取るより口惜しい。「さようでござるか」と笑いを堪える老将軍の含み笑いを耳にすると、耳たぶが急に熱くなった。
――ああああっ!
「!」
突然轟いた叫ぶノイズに、否が応でも記憶の書棚探しを止めさせられた。
(ミドリ?!)
無理矢理ねじ伏せていた内輪の不安が、堪え切れぬとばかりに噴き出した。
(タクト……まさか……?)
瞬時に浮かんだのは、疑念。幼い頃たった一度だけハイレンに零した彼の弱気なノイズが、他の村人に対するよりもタクトに疑いを持たせずこれまでをともに過ごさせて来た。
――こいつは俺から何もかも奪う。なのに、どうして俺はこいつを殺せないんだろう。
ハイレンの髪が深紅に染まり、紅玉の瞳が宿った日から数日後、タクトの母親はキュアの妻という座を失った。彼女はほどなく、それだけを悲願に生きて来た彼女の親に憎悪の《ノイズ》で殺された。その親――タクトにとっての祖父母に当たる彼らは、タクトの《ノイズ》に殺された。
彼は、元凶であるハイレンに一度も《ノイズ》を向けなかった。子供だった当時のふたりに《ノイズ》の制御を出来るはずがないことを互いに知っていた。だから伝えたのだ、彼に。
『タクトは僕がキュア候補になったから嫌いなのか。なら、僕はキュアになんかなりたくない。ならない』
自分が死ねば、キュアの座だけでもタクトに返せると思ったのだ。その時零したノイズが、あまりにもハイレンの胸を軋ませた。
(こいつは俺から何もかも奪う。本人でさえこう言ってるのに。なのに、どうして俺はこいつを殺せないんだろう)
その時の諦めたような彼の笑顔が、幼いハイレンの涙を誘った。
『やだね。母親を返せ。半分寄越せ、お前の母親を』
そんな言い方で、禁じられていた紅の館からの脱走に手を貸した。あの日から、タクトは異母兄弟ではなく、本当の兄弟だと思って生きて来た。時に疑いを抱くことはあっても、それはすべてパルディエスを安寧に導く為だと納得しようと思えば出来ることばかりだった。だが今回のこれは……完全なる我欲だ。
(でなければ、ミドリがあんなノイズを発するはずがない)
腹の底が、熱い。握る拳の爪先が、平に食い込み痛痒い。天井を見上げれば、空には透明の遮蔽物。すぐ変化して飛ぶこともままならない。奥歯がギリ、と嫌な音を立てて、口内の肉を噛み千切った。
同時に記憶の書棚が開く。思い出した、それは古文書ではなくミドリが教えてくれた、「カンジ」と呼ばれていた特殊文字。
「キュア殿、いかがされた」
我に返って声の主を見れば、身の内のどこに隠していたのか、小刀を構えてヘルト王子の前に立ちはだかり警戒のノイズを発する姿があった。そして自身の視界が、紅い。彼に声を掛けられるまで、自分が椅子から立ち上がったことも、オーラを溢れさせていることにも気づけなかった。
(何故、操れんのだ)
苛立ちと焦りが、ことの処理の順序を考えようと足掻くハイレンの邪魔をする。
「ほかの者が来る前に武器を納められよ。メサイアに何かあったようだ。すぐ戻る」
「何。貴殿、このシェリルの中、外のノイズを感知されたと申すか」
ロズウェルが食い入るように目で仔細を求めるが、いちいち説明する間も惜しい。メサイアのこととなるとヘルト王子もうろたえ、ノイズを探すかのように耳を澄ませる仕草を構えた。
「すぐメサイアを連れて戻る。シンじろ」
思い出した『信』のパスを声にすると、ハイレンは謁見の間を飛び出した。
シェルアイテムを一切纏わぬ状態でいる今ならば、ノイズを発しても不審に思う村人はいないだろう。
(ボラウ! シェリルの森へ馬を牽け! 先に行く。場所はメサイアのいた中区域だ)
彼が戸外にいてくれることを願いながら、ハイレンは変化しシェリルの森へ身を躍らせた。
二人の姿を認めた瞬間、燃えるように熱かった身体が急速に冷えた。急降下すると同時に龍の身が縮まっていく。先に能力を使い疲弊が限界に来た所為か。それとも、タクトの変化がミドリとの何かしらのやり取りに起因すると一瞬浮かんだ所為か。
(――痛っ)
シェリルの枝さえもがハイレンを敵視している気分になった。鱗は剥がれなかったが、溶けた身が人形をとり始めているところへ紛れ込む。柔らかな温もりが、不意にその痛みを抜き取った。
「タクト、何してるの?」
かすかにミドリの声が聞こえる。その音に怯えはない。それが少しだけタクトに対する疑念を和らげた。ほどなく荒っぽい衣擦れの音。雨の匂いが混じった湿るローブの粗い肌触りがハイレンを覆った。
「自称子供のミドリには」
――いつもと変わらぬ口調だ。
耳鳴りが彼のパスを途中で遮った。だが、充分だ。人形に馴染めば五感もすぐに戻るだろう。ミドリに大事がなかったと解ると、ハイレンの動悸も治まり楽になった。
二、三のやり取りのあとに、ノエルとの現状をタクトにも告げる。不安げに自分達を見上げて来るミドリに告げるタクトのパスが、ハイレンのノイズと重なった。
「俺達がメサイアを守る」
彼に零れ伝えてしまったのであろうノイズが、互いの視線を絡ませた。
(待ったはこれで本当に最後だからな。あとになってミドリを押しつけて来るんじゃないぞ。子守りはお前だけでたくさんだ)
わざとノイズを解放して伝えて来る。タクトの苦笑に、同じものしか返せない今の自分が口惜しかった。
自覚したことがある。
タクトに、一歩先んじられたこと。ゆとりを感じるオーラがハイレンに唇を噛ませた。初めて知った、タクトに対する自分の中にあった競争心。血に頼り甘えていた自分というものも自覚した。ロズウェルとヘルト王子が気づかせた無知に、タクトの先手というとどめが加わり、それがハイレンにひとつの決意をさせた。
――ディエルトの全貌を、この目で確かめよう。
書物を網羅しただけでディエルトの全てを掌握した気でいた愚かさに気がついた。星見、メサイアの帰還の術、まだまだ知らないことは山ほどある。紅の館に納められた書物蔵に拘る必要などないのだ。
ロズウェルやエインからの情報次第では、同行もやぶさかでないと考え至るほどまで、ハイレンは今後の指針を変えていた。
シェリルの森を抜けると、ボラウが二頭の馬を引き連れて待っていた。
「俺はボラウを乗せて先に謁見の間へ戻っておく。傷に障るだろうから、無理のない速さで追いつけ」
タクトは幾ばくかの時間失神していたミドリが目覚めたのを確認すると、自分の変化に目を白黒させているボラウから手綱を取り上げて彼を自分の前に座らせた。そのままハイレンの返事も待たず、二人を見捨てるように馬を駈らせて行ってしまった。
「……」
「……」
気まずい沈黙が二人の間に漂った。馬の草を踏む音だけが、妙に鮮やかに耳を打つ。先に根を上げたのは、ハイレンの方だった。
「……あの悲鳴は何なのだ」
前に座らせたミドリの頭上に問い掛ける。あの悲鳴とは、彼女が失神する直前に発した奇声を差している。
「だって……外だよ? 人前だよ? いきなりローブ外して着替え出すとかあり得ないしっ」
「キュアになってからそういう叱責を受けるのは初めてなんだが」
それはミドリが卒倒した直後にタクトからも受けた叱責だが、ハイレンにしてみればどうにも納得がいかない。何故ならここはパルディエスであって、異界ではないのだ。彼女にここの常識を押しつけないよう留意して来たつもりだ。なのに、彼女は異界の常識を押しつけて来る。そう受け取れるその物言いが、無性にハイレンを不機嫌にさせた。
「キュア相手にお説教なんて、ほかの人が出来る訳ないでしょう! この一廻ちょっと暮らして来たけど、そんな人ハイレンだけだよっ!」
「……まさか」
嫌な汗がこめかみを伝う。思い返してみれば、ハイレン自身、他者のそういう場に遭遇したことがなかった。ミドリと顔を合わせなくてよい馬上であったことがありがた過ぎて、馬を駆らせる手綱さばきが、ついゆっくり歩けと指示を出す。まだ居住区へ辿り着いて顔を突き合わせるのはいただけない。
「だからタクトがローブを掛けてくれたんじゃないの。もっと恥じらいってものを……って、何で私がひと周りも年上の人を相手に、こんなお説教しなきゃいけないのよ」
馬が、泣いた。たてがみを掴んでいたミドリの手が思い切りそれを引っ張った所為で、鳴き声が人間の泣き叫ぶ声になっていた。
「待……っ、うぁ!」
「きゃああああああ!」
馬は見事に二人を振り落とし、厩舎のある居住区を目指して駿足で走り去って行く。ハイレンはミドリを懐に納め、受身の姿勢で地上に落ちた。
「草原でよかった……」
「よくない。ノエルの要人を待たせているのに、キュアドームまで半刻は歩かねばならん」
腹立たしいことこの上ない。ハイレンは隠そうともせず、不快をあらわにした顔でミドリを見下ろした。
「……ぶっ」
「な、何」
怒りが、失せた。ミドリがまるで幼児のようで。
「顔が泥と草まみれだ」
「えっ! やだっ」
慌てて肩掛けの袂を手首に巻いて拭うミドリの仕草は、毛づくろいをする野うさぎのようで、癒される平和な光景だった。
「よくわからんが、まあ……以後自重する」
ハイレンなりの謝罪のパスだとミドリは理解出来るだろうか。うな垂れて顔を髪で隠したその隙間から彼女を盗み見ると、肩掛けに包まれた両の握り拳で口許を隠し、小さく「うん」と呟いた。彼女の頬を染める紅は、自分があまり好きではない、自分のオーラと少しだけ似た色だった。紅は好きじゃない。キュアであることを嫌でも自覚させられる色だからだ。だが、紅もそう毛嫌いする色ではないか、とハイレンはその時初めて思った。
シェリルの森から居住区へ向かう途中、西に地平線がよく見える場所に出る。
「あ。あんなとこに丘があったんだ。あの一本木立もシェリルなの?」
地平線の手前にこんもりと盛り上がった丘を指差しミドリがハイレンに問い掛けた。
「ああ。あれが元々パルディエスにあった、シェリルの聖樹だ」
「シェリルの森は、パルディエスの領土じゃなかったの?」
「先代が敵国から奪った地だ……母の身柄と引き換えに」
「……ごめんね。いやなこと、思い出させちゃった」
そう言って塞いだ顔になってしまったミドリを見て、何故彼女が落ち込むのかが解らなかった。過去を知らない彼女に悪意はなかったのに。とはいえ、それを言っても彼女の面が晴れることはなさそうな気がしたので、代わりに小さな約束をあげた。
「今度、あの場所へこっそり連れて行ってやろう。聖地なので本来立ち入ってはならないのだが、子供の頃、タクトとともに、よく秘密の通路を使ってあの樹で昼寝をしたり遊んだりしたものだ」
そう言ってミドリに投げた微笑は、まがい物の笑顔ではなかった。懐かしく優しい日々が、ハイレンに自然な笑みを零させていた。それはミドリにも移っていき、やっとハイレンの見たかった笑顔が零れ出た。
「意外。ハイレンもタクトも、結構やんちゃだったのね」
「どういう印象だったのだ」
「んー、タクトはイメージどおり、かな。ハイレンはユウトウセイかと思った」
「ユウトウセイ?」
「こう、人間のお手本! みたいな感じで、我慢ばっかしてる、みたいな?」
「嫌われていたからな、皆から。必死だったのは確かかも知れない」
嬉しい、とミドリが零した。
「ハイレンが自分のことを話してくれたことって、今まで一度もなかったから」
自分の言ったことに怒った顔をしたのも、特別な場所へ連れて行ってくれると言う約束も、すごく嬉しい。彼女が頬を染めてそう言った。
「もっと、思っていることを話してね」
縋る瞳でそう言われたら。
「……ひとつ、訊いていいか」
釣られて本音を零す自分にハイレン自身が驚いた。
「森で悲鳴を上げたのは、何があったからなんだ?」
拭えぬ不審を、まだ燻るそれを、早く消してしまいたかった。出来ればキュアドームへ戻るまでに。政に集中する為に。平常な心でタクトと並び、キュアとして客人と面する為に。
「……動こうとしたら、足が痺れてて……えと、そんなに大きいノイズになってたのかな、アレ」
更に彼女の頬に紅が差す。そこに色めいたものはなく、彼女の幼い照れ笑いが嘘をついていないと伝えていた。
「足が……痺れただけ、だと……?」
「ご、ごめんなさい……」
カクン、と膝が折れた。
「ハイレン?!」
「……そんなことの為に、私は要人を……」
激しい自己嫌悪が膝を折らせ、羞恥がハイレンを押し潰した。
居住区のシェルターが描く、弧の連なりが見え始めた。それは、個としての自分という時間の終わりを告げていた。
「ノエルの使者さん達と、私も会うんだよ、ね」
途切れ途切れに小さく問う彼女の横顔を覗けば、何か強い決意を秘めた厳しい眼差しで居住区を見据えていた。
「穏便に会談を進める為だ。協力願いたい」
誰よりもまず、彼女の意向を聞きたかった。
「私には、一度パルディエスを出てディエルトを見る必要があると思う。ノエルの使者と話して、自分が無知であると痛感した。ノエルにあるメサイア伝説の書や星見の話などから、帰還の方法が解れば赴きたいとも思っているが……ミドリは、どうする」
今ならパルディエスに残り、タクトの庇護の許メサイアとして帰還の時を待つという選択肢もあることを告げた。
「一緒に行く。村の人達のあり方を、メサイアに依存させちゃいけないから」
予想外というか予想どおりというべきか。彼女からは毅然とした答えがすぐ返って来た。
「では――戻ろうか。メサイア」
個から公人へと自身を切り替える為に、敢えてとおり名で彼女を呼んだ。
「はい、キュア」
凛と答えるミドリの声は、使命感と揺るがぬ意思と責務を負う覚悟をハイレンに強く訴えていた。