第四章 深緑を巡る戦禍の予兆
――ミドリには私から打診をしておく。
タクトは、ハイレンが零したそのパスを真に受けて、言われるまま彼に託すほど愚かではないと、ひとり胸の内で憤慨していた。元弟弟子が自分を見下したように感じられたのだ。
「誰が鵜呑みにするか。バカバカしい」
ミドリが言うところの『信頼』とやらに値するそういった概念は、未だに夢物語に過ぎないと思っている。ハイレンが村人のミドリに対する厚意の理由を解っていなかったことがよい例だ。
「あんな生ぬるい性格をした甘い考えの奴に、メサイアを守り切れる訳がない」
タクトは忌々しげに土を蹴ると、周辺警備に向かうべく厩舎へ足を向けた。
質より量のパルディエス。毎度のことながら召集した一隊を見ては、顔をしかめて密かにそうぼやく。いつの代だか知らないが、その時のキュアの考案でパルディエスを高い塀で囲んでから、村民の危機意識が薄れていった、とかつてエインが言っていた。先代までは兵役義務を課せられていた男どもだが、ハイレンがキュアになってから任意に変わってしまった。元々労働に従事することを大儀と感じ、自分の生命維持しか興味のないパルディエスの人々が、自ら死を賭して志願する訳がない、と異論を唱えたにも関わらず。
(その結果が、これだ)
隊と言いながら、編成はわずか十余名。無論、全ての軍人を警備へ回すことは出来ないので、カインを陣頭に据えた村内警備の方により多くの人員を配置してはいるのだが、絶対数が少なかった。
(まあ、モブよりは、マシか)
いつもの結論に達すると、タクトは各自の持ち場を伝達するパスを発した。
シェリルの森近辺に当たる外塀の周辺警備は、タクトかカインが担当する。最も野賊が出没しやすい場所であると同時に、ここまで辿り着けるだけの《ノイズ》を持つ危険人物に対応出来る軍人が彼らのほかにはいないからだ。ただし村人から『三名以上で警備に当たる』という絶対厳守の条件を課されている。警備と称して他国と密通する危険も考慮された為だ。ひとりを囮に、もう一名が村へ知らせに走るというのがその理由らしい。ハイレンはそれを告げた立案成立当時、「済まない」と頭を下げてタクトに詫びた。
彼の詫びる理由がタクトには解らなかった。村人の懸念は当然のことだし、自分が彼らの立場であれば、自分やカインの戦意を少しでも削る為に、警護に当たる日はカインの妻を軟禁しておくことや、自分であれば地位剥奪など、もっと厳しい措置を提案していただろうと思う。
シェリルの濃い成分がもうここまで漂って来ている。ゆるりと馬を歩かせるこの速さならば、まだ時として一刻は掛かりそうな距離なのに。それが個々のノイズに霞を掛ける。後ろに続く二人が何を考えているのか、タクトの『紅』の血を以てしても解らない。ならば紅の血をまったく宿していない彼らがタクトのノイズを感知するなど、それ以上にあり得ないことだろう。
(キュアがこの待遇について頭を下げたなんて知った日にゃ、俺まであいつと同類扱いされて人望を失くし兼ねないからな)
シェリルに最も近い道でありながら、タクトやカインにとってはある意味最も遠い神聖区。シェリル地区へ向かう道中、タクトはそんなことをぼんやりと考えていた。
ほどなく、タクトのそんなノイズ遊びも無理矢理中断させられた。どぉん、という異様に大きな音が辺りに響き、タクトは急ぎ馬を走らせた。
「遅れるな。どちらかは伝令に走れっ」
「レンタ、伝達に行きます!」
「キュアに直接だ、いいな」
事態の混乱化を避けれるものならばと考え直し、言っても無駄だという諦めを無理矢理切り捨て、タクトはレンタと名乗った男にそのひと言をつけ加えた。
駈ける馬にもシェリルの恩恵があるのだろうか。半刻を待たずして、音の源へ辿り着いた。
「な、んだと……?」
人工石で積み上げられた高い塀に、見事な大穴が開いている――賊の侵入だ。高価な鉱物をふんだんに混ぜて作られたこの塀に、人ひとり分の穴を空けるなど容易ではなかったはずだ。
タクトは身につけたシェルアイテムを全て外し、もうひとりのつき添いに手渡した。
「隠れて俺を偵察しておけば、お前が任務を怠慢したことにならないだろう。お前がいたら、却って邪魔だ――俺がもしやられた時には、キュアに報告を頼んだぞ」
そう告げるタクトの視界が黄味を帯びていく。目の前にいる味方であるはずの男が怯えた目をしてあとずさった。
「はは、は……はい……わかかかりま」
歯を鳴らして必死で返答をしようと足掻くその男さえ、タクトは目障りと感じ始めていた。情動から彼を処理してしまう前に身を翻す。背後に感じる恐怖にまみれたノイズと視線。
(な、なんで俺が大虎に喉笛を掻き切られなきゃなんねえんだよ。タクトの奴、何考えてるのかわかんねえ)
「ハイレンと比べれば自分の方がよっぽど俺と近いノイズの癖に。被害者面するな、馬鹿が」
忌々しげに小声で呟いた。袈裟懸けに背負っていた大槍を手に取る。初対面と思われるその人物達が漂わせるオーラを頼りに、シェリルの森へと踏み込んだ。
聞き慣れないノルデン地方独特の訛りが混じったパスを確認すると、賊と思しき人影も見えて来た。
(一、二……八、九人、か。ノイズは解らんが、ただの盗賊と見做していいだろう)
弱くて淡い、よく感じるありふれたノイズとオーラ。シェリルを盗む以外の動機があれば、もっと異なるオーラを感知出来るはずだ。禍根を残す存在であれば、生け捕りにして仔細を吐かせる必要がある。例えばパルディエスに対して恨みを抱く輩などは、調べ上げてから処理をしないと村に略奪の危機が訪れる。子々孫々にまで至る禍根を残さぬよう、キュアに賊達のノイズを洗いざらい読み尽くしてもらい、情報を搾取してからでなければ、例え元帥といえども勝手に処理は出来ない。
(あいつがキュアだと、いちいち相反する可能性を考えては結論を先に延ばすから、それはそれで厄介だがな)
その厄介ごとの必要がなさそうだと判断すると、少しばかり緊張も緩んでいった。
服装と訛りからして、ノエルの人間と思われる。彼らは北方でしか見られない熊の毛皮から作ったと思われる、厚手の上衣を被っていた。色素の薄い黄金の髪も、ノルデン地方に住まう人間の特徴だ。パルディエスの商人達が遥かノルデンまで辿り着く前に、野賊に襲われシェリルを奪われてしまうこの頃だった。今回の強行潜入は、シェリルに窮した末の所業、といったところか。
「シェリルが欲しければ、正門をくぐるのが礼儀だろう」
数分ならば、シェリルの力に抗うだけの力がある。タクトは卑怯な手を使う気がないと言わんばかりに、触れたシェリルの枝葉を手折る者達の背に向かい、声を掛けた。彼らの肩が、一斉にびくんと揺れた。
「……汝、ただの警備兵ではなさそうだな」
そう返して来た年長らしき男の双眸からは、高貴でありながら戦慣れしている光を放っていた。
(ちっ、野賊ではなく軍人……偵察か)
タクトはそっと、相手の器を見誤った自分に心の中でだけ毒を吐いた。
「農夫としてはど素人だが、剣術ならば、と言いたげだな。その身分で盗人とは。恥を知れ」
パスで自身の見解を見誤ったと晒す必要など感じない。むしろ誇大に見せる方が、心理戦で優位に立てる。武人の割にはあまりにも白い男の頬が、タクトの思惑どおり混じり気のない薄桃色にかっと染まった。
「某を盗人呼ばわりとは、無礼千万!」
男はそう激昂したかと思うと、タクトのひと瞬きの間に腰へ差した鞘から刀剣を抜き、両の手に握りしめ突進して来た。
「成敗!」
真正面から振り上げて来る剣を、くるりと回した大槍で受ける。男が腹の防御の為にと横に構えた刀が、タクトの脇を横切ろうと微かに真左へ動いた。
「利器頼みの戦法しか能がないのだな、愚者の子が」
過去の暗黒史になぞらえ、大振りな動きの男を嘲笑う。刹那に大虎の《ノイズ》がタクトを包み、大虎は一度天に向かって吼えると鋭い牙で刀を砕いた。
「く……っ、怠慢な種族の癖に、生意気な」
長い毒舌を零せるほどに見せつけられた彼の余裕が、過剰にタクトの自尊心から来る怒りと羞恥を煽った。
「口髭も剃らん貴様に怠慢などと言われる筋合いは、ないっ」
大槍を土に突き刺す。掴んだその手が溶けていく。溶ける身体が黄土に光り、黄金の大虎に混じっていった。咆哮がシェリルの葉を揺らし轟き亘る。《ノイズ》がみるみる膨らみ、シェリルの森を突き抜けた。
パルディエスの者達と同じ自分ではない。ハイレンのように、ことなかれ主義に逃げて何もしない自分でも――ない。
(二度とそんな口を叩けないようにしてくれる)
タクトは渦巻く黒雲に走る雷を、大虎と化した自身の口で吸い込み掻き集めた。男が怯むことなく、巨体を軽々と弾ませ一本のシェリルを頂上目指して跳ね上がる。巧みに剣をシェリルに突き立てては、それを足場に更なる上まで跳躍する。
「感情のままに《ノイズ》化させるパルディエスの者どもの、そういうところが猿だと某は言っておる!」
毛皮と衣を脱ぎ捨て、無防備を晒す。タクトはその一瞬を衝き、白い筋肉の詰まった身体のど真ん中へ雷の閃光を走らせた。感情に任せたとは言え、森から身を外しての《ノイズ》は、シェルアイテムで封じられている時以上に自在だったはずだ。
だが、相手が悪かった。男の変化を目の当たりにして、初めて彼が利器に頼る愚者の末裔ではなく、別の何者かであることを認識した。
タクトに勝るとも劣らぬ速さで、その身体がとろけていく。かたどった白い熊の《ノイズ》は、どこか戦友のカインを思わせた。白い爪が大虎の喉を狙い、鎌首をもたげるように振り上げられる。人形でいた時に彼のいた場所へ向かった閃光を、そのひと振りが森の四方へ一瞬にして舞い散らした。
(しまった、シェリルが燃える)
途端、大虎の《ノイズ》が収縮していく。自由を得た暗雲が散らばり空を黒く覆っていく。ぽつりと雨の雫が、ひと雫、ふた雫と舞い落ちる。見上げればそこから白い大熊の《ノイズ》も掻き消えていた。
「若っ! 何処におられる、ご無事ですかっ」
白い巨漢は上半身を無防備にしたまま、背後を容易に取らせていた。だが殺気はそれ以前と変わらない。「若」という存在が気にならないではないが、ほかの賊のノイズもオーラも閃光とともに消え去っている。最も強いと思われるこの男さえ処理すれば、あとで「若」なる者をくまなく探せばよいと判断した。
シェリルの幹で作られた大槍の柄が、濃密にしながらタクトの《ノイズ》を刃へ伝えていく。鉄の刃が黄土に鈍く輝くと、タクトは大槍で空に大きな丸い弧を描いた。
「人探しの暇はないだろう!」
妙に高飛車で古臭い物言いをする、この巨大熊を早く倒さなくては。貴重なシェリルが燃えてしまう。ハイレンの紅龍に恵みの雨を呼んでもらわない限り、この少雨では内に燻る火種までは消し切れない。
槍の柄を渾身の力で地面に向かって振り下ろす。垂直に立てたそれに足を掛けると、柔らかなシェリルの柄が、弓のようにしなった。反動に乗って跳躍する。躍り出た先でくるりと旋回すると、吸いつくようにつき従って来た大槍も、刃先を獲物に向き直った恰好でタクトの右手に納まった。どうせ彼の主君と思しき『若』は、雷に焦がされたことだろう。しっかと右手で握った大槍に、左手を添えて打ち込みを構えた。
「若とやらの許へ連れて行ってやろう!」
大男の脳天目掛けて槍を垂直に振り下ろす。両の脚は既に彼の肩へ着地する準備を整えていた。
(ロズ! 避けろっ!)
「!」
振り返った彼が即座に剣を構えた。それのめり込む感触を足裏が確かに受け取った。ほんの刹那遅れていれば、タクトの大槍は彼の脳天を貫いていたはずだ。だが、タクトは慌てて大槍の角度を変えた。目の前に躍り出た少年のノイズがそうさせた。
(ロズや兄上の言うとおりだった。パルディエス全部が敵ではない)
訛りの強いそのノイズは、子供としか思えない拙さだった。
「タクトっ、足が……、血が」
駆け寄るミドリのその声で、ノイズが鮮明になった理由を知った。それと同時に両足の痛みも。
「……痛……、軍靴じゃないことを忘れてた」
キリ、と軽く唇を噛む。傷の痛みの所為ではなく、侵入者の交わすやり取りが無意識にそうさせた。
「若、ご無事でしたか」
「ロズ、お前、肩が」
「何、これしき。もったいのうございます。して、王の申されましたとおり、とは」
見ればロズと呼ばれた大男の肩からも、鮮血が噴き出している。タクトの大槍の刃が、彼の肉を削り落としていた。それを介抱する少年の手には、シェリルリーフで作られたパルディエス特産の止血布が握られていた。タクトの足の裏に、今ミドリが施しているものと同じ、ハイレンが調合を考案したものだ。ミドリが手渡したことに疑う余地はなかった。
何故敵を庇う必要がある、と問う必要も、彼らの会話を聞けばなくなった。
「紅の族長が私を助けてくれたのだ。私のノイズが届いたらしい。メサイアの話だと、この場のことも解っていて、メサイアに薬品を持ってここへ来るよう伝えたそうだ」
「して、キュア殿は」
「あそこだ」
少年の指差す方へ視線を上げると、空高く紅の龍が雲を呼ぶ舞を踊るように、大きな輪を描きながら、更に昇っていく姿が小さく見えた。
紅龍には目もくれず、もう一方の足に処置を施すミドリに視線をふと戻す。
「どうしてメサイアがここへ?」
彼らの前で真名は呼べない。慣れない呼び名で彼女に問うと、ここまでの経緯を簡単に説明された。
「あの子、ノエルの第二王子さまなんだってことは、合流した時初めて知ったのだけど、キュアには野賊とは違うノイズだったことが解ったみたいなのね。それで私に薬を持って、ボラウに森まで運んでもらえ、って。森に入ったらぬかるんでいて馬より走る方が速いから、ボラウを置いて来ちゃったの」
「そう……か」
長い黒髪が邪魔をして、彼女の表情が解らない。もうシェリルに抗うノイズも残っていないので、彼女の浮かべる異界のノイズさえも読み取れなかった。
「将軍さまが、キュアが夜警に当たる日まで時を待とうと仰ったのに、彼が無茶しちゃったみたい。タクトが敵意を察したなら、しょうがないよ。誰がいいとか悪いって話じゃないから、あんまり気に病まないでね」
ロズ将軍に吐き捨てた自分のパスを思い出す。
『正門をくぐるのが礼儀だろう』
第二王子が直々に足を運ぶという誠意を見せた相手国に、パルディエスの方こそが正門から彼らを追い払ったのだと思い至る。族長が立案した現行の交易形態に則ったとは言え、門番の担当達は、キュアに報告する義務を怠り独断で門前払いをしたことになる。
(いや……俺が警備に集中していれば、無駄な争いは避けられた)
ミドリに、女なんかに同情され慰めのパスを受けるとは。自分の失態と情けなさに、掛かる前髪を掻きむしった。俯いたまま顔を上げられない。羞恥と屈辱がタクトの心を占めていた。
「……落ち込むなんて、タクトらしくないよ」
ミドリがそう呟いて、タクトの傷ついた素足にそっと触れた。小さな掻き傷がみるみる消えていくのとともに、ほんの少しだけ苛立ちも遠のいた気がした。
「ここの人って、本当に傷の治りが早いよね。何だか私がすごい人になったみたい」
相変わらず彼女は、自分のオーラやその力を認識していないようだった。
「本当にすごいのは、こんな傷を負っても文句ひとつ言わないで村を守ってるタクトだよ。自分でも自慢してたのに。らしくないよ」
「ああ。らしくないな」
お前の所為だ、とは言えなくて。
「珍しい。あっさり私のお説教を認めちゃうなんて」
いつも見ていたいと思わせる微笑に、少しずつ癒されていく。タクトがくしゃりとその頭を撫でれば、無防備な満面の笑みを零して来る。
「タクトって、結局お兄さん気質だよね。だからキュアもタクトには今いち強く言えないんだわ、きっと」
屈託のない顔をして、酷なパスを口にする。語り続けようとする彼女の肩に手を置き、ほんの少し、立ち上がる分だけの力を加えて身を持ち上げた。
「話はまたあとで聞いてやる。まずは彼らに非礼を詫びないとな」
ハイレンの前でだけは、それをしたくはない、と強く思った。それさえ洗い流そうとでも言うのだろうか。ハイレンの呼んだ雨雲が、シェリルの森に降り注いで来た。
「メサイアー、皆さん、ご無事ですかー」
馬を連れたボラウの声がようやくここまで聞こえて来た。ミドリが立ち上がって木陰から獣道へと踊り出た。
「ボラウ! ここよー! キュアは、大丈夫?」
元々火龍であるハイレンに雨を呼ばせることは、彼の体力をかなり消耗させる。それを気遣ってのことだろうと思うと、ノエルの武人と交わしていた興味深い武勇伝や談笑も、途端に色褪せたものへと変わっていった。
どこか抜けてしまうところがボラウらしいというか。普通に二頭の馬を引き連れて来ただけだった。彼は以前、その小心ゆえにほかの者にそそのかされるまま盗みをした際に、タクトから折檻を受けた過去がある。それ以来、過剰にタクトに対して怯えを示す傾向が強くなった。あらん限りのシェルアイテムで自分を覆い尽くしているのがそれを示している。保身に気が行き、冷静な判断が出来なかったのだろう。ハイレン以外の誰も彼を雇おうとしないのは、こういった面も原因になっている。
「ちょ、ボラウ。タクトは馬を駆れないよ」
「え……あ、しまった。荷台をつけて、ってキュアが言ってたんだっけ」
「もう、私はのんびり歩いて帰るからいいわよ。タクトをお願いね」
「え……あ、でもあの、自分が歩いて帰りますから」
「私、馬を駆れないもん。まさかタクトにそれをさせる気?」
「いえ、あのでも……すみません」
そんなやり取りを聞いてしまえば、ちろちろと揺れる小刻みな《ノイズ》の葉擦れに、ミドリの苛立ちを見てしまったら。
「二人で先に帰ればいい。俺はもう少しシェリルに傷を癒してもらってから帰る」
溜息混じりに指示を出し、疲れたとばかりシェリルの大樹に寄り掛かる。触れた背を介して、足の痛みまで吸い取り癒してくれるその感覚は、嘘から出た真のようだった。
「咄嗟のこととは言え、足裏を痛めさせたことは申し訳ござらぬ。某の肩がかようでなければ、貴殿を担ぎ運ぶことも出来ようが」
こちらから仕掛けたというのに、この武人も奇妙なことを言い出した。森の影響なのだろうか。
(いや、ミドリの影響なのだろうな)
森は以前から存在している。だが、人々にこんな奇妙な兆候が現れるのを見たことがない。だからこそ、キュアであるハイレンの考え方が奇妙だ、と皆が怯え気味悪がり警戒するのだから。
「こちらこそ、憶測で肩を損ね申し訳なかった」
どこか『不可解』としか思えない違和感を覚えながら、タクトもまたロズウェル将軍にそんなパスを返していた。
「じゃあ、私も残るわ。ボラウ、あとでまた馬を連れて来てくれる? ロズウェル将軍やヘルト王子との謁見が済んだあとで全然構わないから」
ことん、と心の臓が脈を打つ。他国との謁見の際には、相手の戦意や警戒心から来る不安を緩める目的というハイレンの提案のもと、常にミドリをハイレンの傍らに置くのが常になっていた。いつしかミドリは自身の役割を認識し、タクトの指示がなくとも自らの意思でハイレンの傍らに留まっていたのに。
「キュアが不安になるのではないか?」
と問えば、
「きっと、大丈夫。ヘルト王子のノイズを受け取ったみたいだから。それで血相を変えて飛び出して行っちゃったくらいなんだもの」
と柔らかな笑顔をまっすぐに向ける。
「それに、けが人をほったらかして帰れるほど冷たい人間じゃないつもりよ、私」
と言って患部をぴん、と指で弾いた。
「うぉあ! 何するんだっ」
「……ぷっ」
先ほどからずっと難しい顔をしていた第二王子が、タクトの情けない悲鳴を前に初めて相好を崩した。
「ね? ヘルト王子。タクトも悪い人ではないのよ。ただ、パルディエスを必死で守ってくれているだけ。形は違っても、キュアと同じ。そして黄金乃王やロズウェル将軍、そしてあなたとおんなじよ」
諭すように告げるミドリの声や機転の早さは、もうほかの成人女性と変わりない。異界では成人が遅いと聞いていたが、その根拠が理解出来ないと改めて思う。
「ヘルト殿下、このような姿勢でお許しを。ノエルにはキュアからの許可を得次第、改めてタクト自らが謝罪にうかがわせていただく所存です。シェリルもその際、当面ノエルが潤うに充分な量をあわせて持参させていただくことになろうかと思います」
タクトはもう一度謝罪し、キュアも恐らくそう判断するであろう謝罪の内訳を提示した。
「……私は返答せぬ。兄が黄金乃王であるからな」
ヘルト王子の口調が、途端王族のそれに変わった。タクトと対等、もしくはそれ以上であろうと必死な様がタクトの口許をほころばせた。
まどろみの中、ひたひたと深緑の雨が頬を打つ。タクトは夢うつつの心持で、感じるままに頬へ自身の手を当て拭う仕草をしたのだが。
(濡れて、ない……?)
閉じた瞼をうっすらと開けば、深緑の森が視界に広がる。その狭間から見える空は、眠りに就く前の暗雲が去り、見事な青空がシェリルの葉と絶妙な調和を見せていた。シェリルに寄り掛かって仮眠を摂っていたはずだが、うっかり身を崩してしまったのだろうか。楽な姿勢で身を横たえている自分を認識すると、幾分か頭の位置が上がり、柔らかな枕があてがわれていることにも気がついた。両手で目を擦りながらふと横を見れば、ミドリの投げ出された足の指先が、小さく閉じたり開いたりしていた。膝枕をされていたらしい。足が痺れを切らしたのかも知れない。慌てて起き上がろうと両手から瞳を解放した。途端、煽る恰好でミドリの上半身が目に入る。タクトは別の意味で動けなくなった。
深緑の雨は、夢うつつの中で感じたシェリルの癒しではなかった。彼女の心が流す涙。タクトを起こさぬよう気遣ったつもりなのだろう。零れる度に肩掛けの袂で目許を拭いながら、それでも泣くことを止められずにいる、そんな悲痛な面持ちだった。
「……何故泣いている?」
タクトのパスを耳にした途端、ミドリの全身が強張った。柔らかだったはずの枕が、刹那筋肉の収縮で硬くなる。
(ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ……)
延々と繰り返される、ミドリのノイズ。
「あの、えっと、何でもない……ごめんね、起こしちゃった?」
ノイズとパスが噛み合わない。無理な笑みは、らしくない。そんなミドリを見るのは初めてだった。
「ここに来るまで、ハイレンといたのだったな」
嫌な予感がした。身を起こした途端、ミドリが自分から距離を置こうとあとずさった。
「ああああっ! 痺れ……っ」
タクトは怯えを湛えた涙目で固まる彼女の足首を、構うことなく掴み取った。
「ハイレンから、何を言われた?」
「うぁ……やめ、タク……っ」
涙声と一緒に肌へじかに触れたミドリからイメージが溢れ、タクトに事実を突きつけた。
ミドリの視点で、執務室の机が見える。
『……ハイレン、どうしたの?』
入口に立ったミドリが目にしたのは、タクトにも驚きをもたらした。数時間前のミドリだけでなく、タクトも初めて見た。それは、涙。慕っていた母が消えた時さえ零さなかったそれを、ハイレンは椅子の上で膝を抱え、子供のように丸まった恰好で衣を湿らせ嗚咽を漏らしていた。
『……すまないが、独りにして欲しい』
くぐもる声が、一廻以前のそれに戻っていた。ミドリの言い知れぬ思いの混じった憤りが、イメージを読むタクトに同調を促す。自分の想いとミドリの想いを混同しないよう気を張りながら、極力心を無にしてイメージを辿った。
『やだ。じゃあ勝手にハイレンに触っちゃうから』
焦りを見せたハイレンが膝を解いて立ち上がるよりも早く、ミドリが彼の脇に立ち、半ば強引にハイレンの両頬を挟んで自分の方へ向けさせた。タクトは今まで、キュアがミドリに触れぬよう皆に警告して来た理由を「客人に粗忽な振る舞いをさせない為の先制防御」だとばかり思っていた。それが間違いであったことを、ハイレンの視点で漏れ伝わって来た自分とのやり取りの再現から痛感させられた。
掌から人肌の温もりが消え、凍えるような錯覚に陥る。それはミドリの受け取った感覚で、タクトのものではないはずなのに。自分の背筋にまで冷たい汗が走る、その感触が気持ち悪い。
『タクトの、奥さん、に……。私が?』
ハイレンの姿が離れていく。ハイレンではなく、ミドリが彼から身を退いた所為だと視界が告げた。ハイレンが机に肘を立て、その先に額を乗せてうな垂れる。諦めたように彼は語った。
『そう遠からずタクトから申し入れがあるだろう。政の見地からすれば、タクトの案は妥当で反論の余地はない』
済まない、と零す声が震えていた。その理由も初めて知った。
『いずれ異界へ帰るお前にディエルトの概念を押しつけ、巻き込む結果になってしまった。私がお前を拾いさえしなければ、あの場に留まっていれば、そのまますぐ異界の門が開いたかも知れないのに……本当に、済まない……』
机にぱたりと雫が落ちる。ミドリ自身が未だに気づいてない《ノイズ》――癒しと異なる緑の雨が、読み込むタクトの心までしめつけた。
『……バチが当たっただけ。ハイレンの所為じゃ、ないよ』
頬に濡れる感触が湧く。ハイレンの姿が徐々に上の視点へと移り、机しか見えなくなり、そして絨毯へと変わっていく。ミドリの膝が目に入ると、彼女が座り込んで泣きじゃくっていることが手に取るようにタクトへ伝わって来た。
『私、あっちのセカイで自分を大切にしてくれる人がいたのに、そのことを考えもしないで死のうとしたの。きっと、そのバチが当たったんだわ。ここのセカイに比べたら、私のセカイのいじめなんて、ほんの些細なことなのに。独りぼっちなんかじゃなかったのに……パパに、酷いことした、これは罰……』
皆の前では滑舌のよいミドリが、異界から来た当時と同じようにしゃくりあげながら語る。パスが地方によって異なるらしい異界で、ミドリの住まう土地のパスを彼女が巧く操れなかったこと。ニホン人にしか見えないのに、ドイツゴ訛りのエイゴやニホンゴの所為で、トモダチはおろかキョウシにまで謗られていたこと。大好きな「パパ」に心配を掛けたくなくて、独りで抱え込んでいたこと。限界を感じて父が不在の間に、刃物で手首を切ったこと――。
『私は触れないと、皆のノイズが見えない。だから、突然人が血を噴いて倒れたり、ぐしゃぐしゃに潰れてしまったり、いつ自分がそうなるのか、って、始めはすごく怖かった。初めて自分が本当は生きたいんだ、って解ったの。だけど帰り方が解らない。それも、ハイレンの所為なんかじゃない。エイン館長が言ってたの。私が答えを見つけない限り、帰り方は誰にも解らないんだ、って。私が自分の道を選べなければ、永遠にこのままなんだ、って……私は、いいの。自分のやったことを償うのは当たり前だもの。でも……パルディエスのみんなを巻き込んだのは、私の、方、なの……ゴメンな、さ……』
『もう、いい』
ハイレンの呟いた声に仄かな温もりを感じたのは、ミドリなのか、それとも自分なのか。ふと浮かんだそのノイズが、ミドリと同化し始めている危険をタクトに知らせていた。懐かしいその温もりは、子供の頃、ハイレンが寒がりのタクトに施してくれた暖とよく似ていながら、少しだけ違う。むず痒さを無理矢理掻き消し、心を無にさせ集中した。
『帰れないなら、今度こそちゃんと皆と仲よく暮らしていきたかったの。パスだって必死で覚えた。今度こそ、コトバなんかで独りぼっちになりたくなくて。ディエルトでは、気持ち悪いって思うのでしょう、異界の人の感覚を。だからちゃんと解って欲しくて。でも私、気づいたの。私から見たら、みんなの方がおかしい、って。ハイレン以外、皆誰のことも信じてないのに、信じたがってる。なのにそれを自分で解ってないから、自分をぶつけてばっかいる。この村の皆に、恩返しがしたかったの。本当は皆、種を持っているんだって知って欲しくて、だから私』
『もう、話さなくていい。解ったから、自分を責めるパスを吐くな』
『皆に好きでいて欲しいって思っていたのは最初だけだったの。ホントに今は、皆に信じ合うことで本当に願っている幸せが得られるんだってことを解って欲しくて接してただけで……私、自分が大人に見られてるなんて思ってなかったから、誘惑とか、そういうことなんか全然考えてなかった。タクトのことだって、ひっく……お兄さんみたい、って、ひく……風にしか思ったこと、なかったし……え……っ、全部、皆、私が……、ひっく、心から大人に、なれて……いない、所為で、え……っく……』
『ミドリ。話を聞け』
不意に頬へ伝わる温もりが、ハイレンのノイズを伝えて来た。
(……タクトを、信じよう)
『タクトは私の兄のようなものだ。村人の手前そういった形は取るが、ミドリに対し客人として変わらぬ扱いをしてくれるだろう。私に、ミドリへの宿しの儀は不要と明言した。それが何よりの証ではないか。迎えが来るまでの間だ。私は立場上、紅の子を生んだ女しか妻には出来ない。ミドリをタクトのようには守れない。……許せ』
ミドリを諭すハイレンの穏やかなパスと、それに同調する柔らかなミドリのオーラが、タクトをミドリのイメージから完全に分離させた。
「信じる、だと……?」
自分は正論を振りかざし、ミドリを傍へ置こうと企んだだけだ。そこにミドリの意思など少しも考えに入れてはいなかった。個の意思など関係ない。それがディエルトのあり方だから。ミドリはそれに気づきもせず、ハイレンもまた、タクトの欲を憂慮していながらミドリと同じノイズをイメージ越しにタクトへ伝えて来た。
ミドリの足首を掴む力が、否応なしに緩んでいった。自由を手に入れたミドリは、あとずさってタクトとの距離を取った。
「タクト……ごめんなさい……。しきたりには、従います、でも……」
――心はあげられない。
小競り合いの戦で、失神しそうな深手を負ったこともある自分なのに。初めて受ける目に見えない痛みが、それよりも遥かに沁みる。
「……心は、誰かにあげられるものじゃあない、から――ごめんなさい」
ミドリは途切れ途切れに呟いた。詫びるように胸元で組まれた右手は、左手の薬指に留めたものを守るかのように撫でている。何度彼女専用に作り直すからと言っても頑として聞かずはめ続けているシェルリング。ハイレンが彼女と逢った夜に与えたそれは、効果を受けられるディエルトの民にとっても、もう何の効果もなくなっている無意味なアイテム。
ミドリの心が手に入らないと、それら全てが語っていた。同時に、彼女のイメージを読む代償として、自分の胸の内も全て読まれたのを知った。かぁっと頬が熱くなる。ミドリを介してハイレンと彼女の二人から見せつけられたのは、己の器の小ささという、認めざるを得ない事実。
「結局」
くすりと自嘲が零れ出る。
「お前やハイレンから見れば」
ゆるりと気だるげに立ち上がる。傷はすっかり癒えており、それが逆に心の痛みを強調させた。
「俺が嘲笑い溜息をつき続けていた、下衆な村人達と同じようなものだった、ってことだ」
視界に蒼い霞が掛かる。語る声に、怒りや憤り、そういったものは含んでいない。証拠に大虎が暴れ出ない。解ったのだ。理屈ではなく、心が。そう思わせるほどの、妙に晴れ晴れとした感覚も否めなかった。それがミドリにも伝わったのだろうか。彼女はおずおずと近づき、タクトの零す涙をそっと素手のままで拭った。
「下衆だなんて自分を貶めない、で……あ」
彼女が呟き、タクトの遥か頭上を見上げた。タクトが彼女に見せた《ノイズ》は。
「……タクトの《ノイズ》は大きな猛虎だ、って皆が言っていたのに」
哀しいくらい綺麗で雄々しい――彼女はタクトに宿る新たな《ノイズ》をそう表現してくれた。彼女の視線に誘われ、タクトも頭上を見上げた。我が目を疑い瞳が大きく見開いた。
「……長老……」
見守るように身を横たえてタクトを見下ろす白い大虎。蒼のノイズの中に浮かぶ白虎は、瞬時に恩師の教えを連想させた。
――タクトよ。力は剛と柔で初めて力として成り立つことを心に留めよ。
――己が剛に偏り過ぎれば、ハイレンが柔に偏ってしまう。
――お前達は、我等と同じく、ふたりでひとりの長と心得ねばならぬぞ。
そして、師としてではなく、年長の個としてタクトのみに教えてくれたことを、今頃になって鮮明に思い出した。
『タクトよ、慈しむ心を知れ。見返りを求める村人の毒に、紅の血を受け継ぐお前まで侵されてはならぬ』
「何だ……俺は、知っていたのか」
自分の声とは思えないほどのか細い声が零れ落ちる。
「タクト?」
自分を見上げて来るミドリが、怯えのない瞳であれば、それでいい。心が欲しいと願ったのは、征服欲でも独占欲でも、ハイレンに対する優越感の保持の為でもなかったのだ。
「ミドリは俺を、兄のように、と言ったな」
傍らに立ったミドリの肩がびくんと大きく揺れて、また一歩身を退きタクトとの距離を取った。それがほんの一瞬だけ、タクトの眉間に寂しげな皺を刻ませたが。
「俺もお前を妹のように思っていただけだから、そう案じることはない。ハイレンが俺の弟みたいなものだからな」
誰かの心を痛めぬ為に嘘をつくのは初めてだった。自己防衛の言い訳が不要な嘘は、思っていたより幾分かは優しい痛みのような気がした。経験して初めて知る。言い訳の嘘は、罪の意識の裏返し。村人が互いについている嘘を、初めて心が理解した。彼らも本当は自責に囚われ、それゆえ互いに恐れを抱いたのだ、と。これからは、もう少し巧く村人を導くことが出来るかも知れない。
痛みはかなり塞いだ想いにさせはするが、ある意味で妙な爽快さを感じさせるものでもあった。次第にそれが馴染んで来ると、白虎も輪郭から徐々に解けていき、それはただ霧消するのではなく、タクトを抱くように身の内へ溶けていった。
「タクト、瞳……それに、髪も」
ミドリがそう言い掛けたのだが、一陣の風がそれを遮った。シェリルの森に、枝を折りかねない暴風が舞い降りる。紅い旋風は次第に威力を弱め、紅の小さな龍の姿を明瞭にさせた。それさえも次第に溶けていく。ひと目でそれと判る《ノイズ》に、タクトは思わず苦笑を漏らした。
「ミドリ、ハイレンの《ノイズ》も、肌に触れねば見えないのか」
ふと気になって問うてみると、予想どおりの答えが返って来た。
「ううん。紅の一族って、すごいね。私でも見えるくらい強いノイズなんだよね」
彼女はそう言い残し、ひと足先に風の主の許へ駈けていった。
「ハイレンの奴、ミドリには俺にも紅の血が入っていると話していなかったってことか」
淡い薄桃色の、むず痒いオーラの正体が判った気がした。ただ、それに対応するパスがディエルトに存在していない。血の濃さでも能力の優劣でも何でもない。始めから決められていた、言うなればそれは『運命』だったのだ。
巻き込んだシェリルの葉を振り落としながら苦しげに悶える紅龍が紅い光の玉になったかと思うと、次は人がうずくまるような形を取り始めた。
(まったく。今度こそボラウが機転を働かせてくれるとよいのだが)
一抹の不安をノイズだけにとどめ、タクトもまたミドリの傍へ歩を進めた。少々時化ているが止むを得まい。タクトは纏っていたローブを外して、ハイレンが元に戻る前に荒っぽく彼の身体を包んでやった。
「タクト、何してるの?」
「自称子供のミドリには、まだ男の裸体が目の毒だろう」
わざと下品な物言いで、何も知らないミドリに教授する。
「裸た……っ」
ミドリの頭上にシェリルの小枝が面白いように躍り出た。揺れてさざめき小さな小さな葉を落としては、まるでその頬の赤が発火源かと思うほど同じ色に葉が燃え、ぽんと弾けてまた消える。見様によっては、面白い。ミドリのノイズや《ノイズ》が駄々漏れになっているのは、永遠の秘密にしておこう。そんな意地悪がタクトの中でも密かに浮かんでは消えていた。
いつかこの痛みも癒えるだろう。
(いや、癒してくれるだろう……シェリルの大樹が)
これまでタクトが最も馬鹿にしていた『神頼み』とやらに縋っていた。
「タクト。ミドリの悲鳴のノイズが聞こえた。お前、彼女に一体何をした」
人形を取り戻したハイレンが、駆け寄ったミドリを庇うように背後へ押しやり、開口一番問い質して来た。だがいつものような縋る瞳ではなく、かと言って幼い頃によく見せた、負けん気の隠し切れない悔しさを滲ませる色でもなく。強い意思と、タクトには表しようのない類の決意と、そして有無を言わせぬ厳かなオーラを秘めた色を宿していた。
「ハイレン、違」
「ミドリのことは、俺に任せると言っていなかったか?」
これで、いじめ納めだ。燻る燃えかすを吐き出すように、タクトは自分を庇うミドリのパスを遮り、最後の皮肉をパスにした。
「済まん……今度こそ、最後の『待った』だ」
昔よく彼が口にしていたパスを使う辺りが、ハイレンの癖に卑怯だと思う。そんな瞳でそう言われると、何故か知らないがいつも「しょうがないな」と折れていた過去の自分。今のタクトは、それが「慈しむ心」から来るものだと心自体が解っている。だから敢えて返答をしなかった。これが最後の意地悪だから。そしてハイレンもきっと、すぐ自分の変化に気づくだろうから。
「お前さ、その前に言うことはないのか?」
言われるまで、よそごとに夢中で元兄弟子の変化に気づかなかったらしい。燃えるように細く縦に尖った紅の瞳孔がまん丸に開いた。
「あ……長老の証……。お前、師の教えを受け容れられたのか」
タクトの髪は、柿色の短髪から深い蒼に変わり、その背を守るように伸びていた。新たに宿った瞳の色も、髪と同じく穏やかな海を思わせる蒼で澄んだきらめきを湛えていた。
「らしい。だが、不在の席が埋まったことを喜んでばかりもいられない」
それは繰り返される歴史の予兆とも受け取れる。先代と長老も歩んだであろう、戦禍へと辿り往く足取りの第一歩。
「え? わかんない。教えて。長老って、年配だからなるとか、そういうことではない、っていうこと?」
「まあな。そりゃまたあとで幾らでもハイレンから聴けばいい」
時の歯車が回り始めた。恐らくノエルの使者が来訪したのも無関係ではなかろう。
「タクト。ノエルの王からの書簡の内容は、キュアとメサイアの招待だ」
――一廻前にパルディエス辺境にて惨殺されたノエル貴族達の行方について尋ねたい。
「それってまさか」
「ミドリを保護した夜に、私が賊と判断して処理した一団のことと思われる」
「野賊じゃなかった、ということか」
「ノエルがあそこまで困窮していると思わず、突然一方的に襲って来たので加減が出来なかった」
「なぜミドリまで?」
「こちらが妙な真似をせぬよう、客人のという名の人質という可能性も考えられる」
「……」
十四年前に起きた先代の戦の始まりと、この状況はあまりにもよく似ていた。
「……兆しが、見えたということ、なの?」
「案ずるな」
「俺達がメサイアを守る」
「……ミドリはそのままに、皆を癒し不安を軽くしてやって欲しい」
「……うん」
族長と副族長は例えメサイアの前でも、巧く笑うことが出来なかった。